「西郷は板垣君の民選議院にも政党組織にも全く無関心で、署名を拒絶した。板垣君は、これを西郷 の慢心と独善の現われだと見て、立腹したという」 「その話なら、よく知っています。あの問題で使者に立ったのは、実は私なので : 「板垣先生はたしかに気を悪くなされたようですが、私には拒絶した西郷翁の真意がわかるような気 がしております。西郷さんは久光老公のような頑固党とはちがい、封建制の復活は望んでおらぬ。多 数の同志志士の血によってあがなわれた新制度をたたきこわして昔にかえそうなどとは夢にも考えて 日本の前進を願っている点では、大久保や木戸に勝ること数等です」 「その西郷がなぜ民選議院開設に反対するのだ」 林は江藤に酒をすすめて、 かりら・ど 「まあお聞きください。西郷という人は薩摩にひっこんで、百姓や狩人のまねをしながら、のんきに船 やっているように見えますが、実は日本という国の将来が心配でならぬ」 反 「誰でも同じことだ。僕には将来のことよりも現状がすでに我慢できぬ」 章 四 「西郷さんは現状は大久保にまかせておけば、何とか切りぬけるだろうと思っているようです」 第 「僕はそうは思わぬ。我々が退いた後の政府はただの薩長幕府にすぎぬ」 「その傾向、大いにありと私も見ていますがね。しかし、西郷さんはまだそれほどではないと思って まさ
西郷従道は盃をおいて、 「兄は何よりも近衛の兵隊の動揺を心配していた。薩摩出身の近衛兵が動けば、警保寮の巡査隊が立 ち、土佐、佐賀出身の者も呼応して、いかに長州派の軍人たけががんばっても、東京は内乱状態とな 、政府は一日にして崩壊する。兄は維新政府は絶対に倒してはならぬと考えていた。もしこのまま 自分が東京にとどまっていたら、反乱軍の頭首にかつぎ上げられ、板垣、江藤の野望に利用されるば かりだ。だから、吉井、伊地知、黒田やこの従道に後事を託し、単身帰国してしまった。おれは、か ねてから兄の心事と真意を解していたつもりだったから、海軍は川村純義に頼み、陸軍はおれがひき うけて百方手をつくしたが、野津兄弟その他を引きとめることができただけで、桐野も別府も逸見十 郎太も、新帰朝の村田新八まで帰国してしまった。まさかと思った篠原国幹が帰った時には、おれは 主ロ井さんとただ茫然と顔を見合せた。 : まるで雪崩のような勢いだった。人力では防ぎようがなか った。おれは結局、大久保政府のもとに残り、兄を見殺しにした形になったが、その大久保もあのよ うな死に方をして : : : 往事すべて夢の如しだ」 山本権兵衛はさらに追いつめた。 「しかし、台湾事件の際に、あなたは : まわってきたほどでした。 : しかし、私がおうかがいしたいのは、なぜあなたが大西郷と行動を共 にしなかったかという点であります」 230
大山綱良は電文をテーブルの上に投げて、ちょうどその場に来合せていた別府晋介に命じた。「とに かく武村の先生に報告だけはしておけ」 吉之助は晋介の持参した電文の写しを見て、ひどく驚いたようであったが、何も言わなかった。 若い晋介は不服そうに、 「先生、まさに天下の痛快事ではありませんか。今に木戸も大久保も : : : 」 「黙れ、晋介 ! 」 「はあ。しかし、佐賀の征韓党と憂国党はすでに動きはじめたようです。われわれとても : 「内訌と内乱を喜べるか。常々言いきかせたとおり、日本の将来を思うなら、清国とロシアのことを 考えろ。政府は大久保にまかせたのだ。東京では、吉井、伊地知、黒田、陸軍の野津兄弟、海軍の川 村、井上をはじめ数千の薩摩人が政府を守っている。彼らの無事を祈るがよい。 : 桐野によく伝え ておけ。絶対に軽挙盲動すべき時ではないと」 「はい。中しおくれましたが、林有造氏の一行が桐野の家にまいりました。海老原穆、会津の永岡久 茂などが同行して、先生にお目にかかりたいと中しております」 「ふむ、土佐の林がまた来たか。岩倉事件の使者としては早すぎるな」 「何か板垣氏の伝言を持って来たようです。 ・ : 途中まで江藤新平氏と同船したとかで、江藤門下の 山中一郎という青年をつれています」 西郷はしばらく考えて、 「おれは誰にも会いたくないが、板垣の伝言なら聞かねばなるまい。林君だけに会おう。江藤の使者 ないこ、つ 111 第五章人間虎豹の群
「その木戸と手をにぎったのだから、油断ができません。政府部内の腰抜けどもが全部まわりに集ま ります」 吉之助はそれに答えず、別府晋介に、 「やはり、板垣の言ったとおりかな。とにかく、信吾にはまかせておけん。野津鎮雄も人の説を聞い て太鼓をたたいてまわるばかりのお調子者だ。おれは黒田清隆に手紙を書く。黒田なら陸海軍部内の 意見をまとめてくれるだろう」 その黒田も怪しいのではないのですかと言いたかったが、別府晋介は言えなかった。 吉之助は桐野をふりかえって、 「よくおぼえておけ。戦争を恐れて大使派遣に反対する連中は腰抜けだが、やたらに戦争を起したが る奴はただの間抜けだ」 「おれのことですか」 「そうかもしれん。桐野、間抜けの猪武者にはなるなよ。 た三条卿に活を入れておかねばならぬ」 九月もやがて終る二十八日の朝、三条実美は内幸町の自宅に伊藤博文を呼んで懇談した。 「木戸の病気はどうだ。まだ辞表を撤回しないようだが、いま木戸に参議をやめられたら、たいへん なことになる」 ・ : さて、おれは日本橋に帰る。腑の抜け 17 第一章流れ雲
茶と菓子がはこばれ、一別以来のあいさつがすむと、西郷は笑いながら、 「今日は絶好の狩日和だ。犬どもも勇み立っているが、あんたに足止めをくって残念だ。板垣君の伝 言をうけたまわりましよう」 「愛国公党の件であります」 「それは前回もおことわりした」 予期したとおりの返事であったから林は微笑して、 「私としては、板垣先生のお言葉だけをお伝えします。五参議下野の後の現政府はますます有司専制 に傾き、天皇と人民のあいだに立ちふさがる第二幕府ーー敢て申せば薩長幕府に化し去りました」 西郷は苦しそうにうなずく。林はつづけて、 「この悪弊を除去し、公議輿論による公明正大の政治を行うためには、憲法制定による国会開設の外 に道はありません」 「憲法と国会に反対だとは私は申さなかった。ただ、その実行は板垣君の党におまかせする、とこの 前も中上げたはすだ」 「わかりました。板垣にはお言葉のとおりに伝えます」 林は坐りなおして、「さて、これからは私自身の考えを述べ、先生の御意見をうかがいたいと思いま すが、このたびの岩倉卿襲撃事件につきましては・ 「岩倉卿にはまことにお気のどくであった。軽傷ですんだのは、何よりのことだ」 「は亠め ? 」 113 第五章人間虎豹の群
方だ。陛下の御信頼をふりまわして閣議の決定をふみにじるのは、天皇を支那や西洋流の専制君主に 変えてしまうことで、維新の大理想にそむく。維新の同志は、幕府の専制に代えて、一君万民の新政 ・地下の同志が泣いています。その声が聞え 治を打ちたてることを理想として命を捨てたのです。 ませぬか ! 」 岩倉は江藤を冷たく見かえしただけで何も言わなかった。 板垣が 「岩倉卿、あなたはどうしても : 「言うべきことは言った。何も中したくない」 最後の返事であった。岩倉は岩のように黙りこんだ。 西郷が腰を上げて、 「もうよい。わたしはこれで御免こうむる」 そのまま廊下に出て行った。江藤がそれにつづいた。板垣と副島は引きとめようとしたが、まにあ わず、二人のあと追って退出するよりほかはなかった。岩倉は見送ろうともしなかった。完全な破裂転 であり決裂であった。 逆 岩倉邸を出る時、西郷は副島をふりかえって言った。 章 「右大臣はよくもふんばった」 第 敵ながらあつばれという意味であろう。 いかにも西郷らしい冗談だと思ったが、副島は笑えなかっ た。これで西郷は政府を去る。江藤も去る。結局、板垣も自分も辞めることになるだろうが、辞職す
「それもそうですな」 「西郷は辞表を書いた。岩倉卿の手もとにとどいている」 いよいよ五参議総辞職ですか」 「いや、一通だけだ。連名ではない。西郷は自分一人の辞表を書いたのだ。五人の参議が連名して反 撃に出たら、政府は明日にもつぶれる。西郷は政府をつぶそうなどとは決して考えていないのだ」 「果してそうでしようか。五人の名を連らねなくとも、自分ひとりで政府はぶつつぶせると自信して いるのではないですかな」 「西郷はそんな男じゃない。 : もしかすると、あいつは、もう東京にいないかもしれぬ」 「えつ、ほんとですか。取逃したら、警視庁の面目間題です。わたくし、必ず責任をもって : : : 」 「馬鹿者、おれは西郷を逮捕せよとは言わなかったそ。鹿児島に帰りたいのなら、無事に帰してさし 上げるのが、おまえの役目だ」 「は亠め ? ・」 ・ : 辞表を出したのは、本気で職を辞転 「西郷は同じ参議でも江藤新平や後藤象二郎などとはちがう。 するためだ。辞表を脅迫の手段に使うような男ではない」 逆 「そうですかな」 「明日にな 0 たら、ほかの参議をはじめ、近衛の将校、諸省の官吏の辞表が殺到すると覚悟しておけ。 第 薩摩も土佐もまっ二つに割れる。政府は四分五裂するそ」 「は , あ」
いよいよ十四日の朝になった。 岩倉具視は会議の前に西郷の自宅に行くつもりで、手紙を書き、話合いたいことがあるから、御在 章 宅を願うと申込んだ。 馬車の用意をさせているところへ、西郷自身が別府晋介をしたがえて、玄関に乗りこんで来た。 「お手紙は拝見したが、日本橋まで御足労願うよりも、わしが参上した方が早い。御用件をうけたま引 こまでも公明正大でまいりましよう」 岩倉は三条をふりかえって、 「どう致しましようか」 「どうも自信がない。 ここのところは右大臣におまかせしたいものです」 「今夜はもうおそい。明朝早く、わたしが西郷に会いにまいりましよう」 岩倉の決断は早かった。「西郷は怒ると恐しい男だが、決して解らず屋ではない。会って話せば、午 前中の会議を欠席することぐらいは喜んで承知してくれるだろう」 話はそれで終った。あとはまた酒になり、副島の北京の土産話や岩倉の世界見聞談で賑やかな宴席 こよっこ。 多少の意見の相違はあっても、国を思う気持はみな同じである。明日の会議が思いがけぬ展開を示 して政府の大分裂をひきおこし、″維新史上最悪の日〃になろうとは誰も予想していなかった。
ら、 船員がラン。フに灯を入れて行った。林はゆれるランプの下で、土佐の冷酒をコツ。フにつぎわけなが 「あなたが佐賀にお帰りになるのは」 「それを聞く前に、君たちの旅行の目的を打ちあけるのが礼儀ではないか」 「私は海老原君と共に鹿児島まで行きます」 林は冷酒のコツ。フを江藤の前におしやり、自分のコップは一息に飲みほし、しばらく間をおいて、 すばりと答えた。「西郷南洲翁に挙兵の意思ありや否や、それを打診するのが目的であります」 江藤は顔色を動かし、椅子に片膝を立てて、 「挙兵と申されたな」 「左様、兵を挙げることです。土佐の板垣、後藤両先輩は民選議院開設と愛国公党の組識に夢中にな うえん っておられる。 : 私の見るところでは、これは迂遠な廻り道です。イギリス流の議会や政党がこの 日本に五年や十年でできるはずはない。そのあいだ、大久保、木戸、岩倉の徒に政府をまかせておい たら日本はどうなることやら」 江藤は鋭い目つきで林をにらみ、コツ。フの酒を一口だけふくんで、 「西郷が動けば、土佐も挙兵にふみきると申されるか」 「はあ、おそらく : 「しかし、西郷は後藤象二郎の商売気を嫌っているし、板垣君とも東京出発前に仲違いしたと聞いた」 「それは初耳です」
転 第三章逆 十六日は政府の休日で、閣議はなかった。西郷隆盛は午前中にホフマン博士の往診を受け、午後は ずっと自宅にひきこもっていた。 陸軍少佐の武市熊吉が板垣退助の代理であいさつに来た。 「廟議一決してまことにおめでとうございます。これも先生の御奮闘の賜物と深く感謝し、板垣自身、 お礼に参上するところでありますが、かえって御迷惑と思い 遠慮申上げるとのことでございます」 「お礼はこちらからです。板垣さんはよくやって下さった。よろしくと中して下さい」 言葉少なく答えて、吉之助は二階の書斎に上がってしまった。 母屋の方はひっそりとしていたが、若い軍人と書生たちが寄宿している塾舎の方は、お祭のような転 賑やかさであった。別府晋介大尉と逸見十郎太大尉を取巻いて、近衛の士官、塾の教師、太政官の若 逆 手官吏たちが熱つ。ほい議論をしている。ときどき喚声と笑声がおこる。明日にも韓国に乗出しそうな 勢いであった。 第 中庭をへだてた離れの部屋に、和服姿の陸軍少将篠原国幹が小机に頬杖をついて考えこんでいる。 机の上には部厚な洋書がひろげてあるが、それを読んでいるわけでもなかった。