庭石に荒つぼい靴音をひびかせて、金飾りの軍刀をさげた派手な軍装の桐野利秋が現れた。 ~ いたか。おまえ、もう出発の用意はできたのか。和服など着込んでのんびりし 「おお、篠原、こここ ているが : 「おれは先生に叱られて来たところだ。出発どころじゃない」 「なぜじゃ」 「どいつもこいつも征韓じや朝鮮征伐じゃと騒ぎまわっているが、おれは一度もそんな言葉は使った 、やしくも陸軍少将たるおまえや桐野利秋が : : : 」 ことはないそ、と叱られた。若い者ならともかく、し 「なにつ、それでおとなしくひき下がったのか。征韓は即ち朝鮮征伐じゃ。問罪のための大使という が、問罪と征伐とどこがちがう。どっちも海外に兵を用いることに変りはない」 「おれもそう思っているが、先生の考えはちがうらしい。韓国侵略の心を持ってはならぬ、いずれ兵 を用いる相手はロシアだから、ロシアのことでも勉強しておけと説教されて、これを読んでいたとこ ろだ」 と、机の上の洋書をたたいてみせた。 「横文字か。何かわかったか」 「ふふふ、さつばりわからん」 「おれには、もっとわからんことがある。大久保の奴、辞表を出しておきながら、まだ岩倉や木戸と 何か策動しちよるというそ」 「大久保とは、そんな男だ」
桂久武は心配そうに、 「おぬし、まだ気づいておらぬようだな」 吉之助は首をふって、 「篠原はもともと重厚の質だ。桐野も昔の人斬り半次郎ではない。地位がの。ほるにつれて、それにふ さわしい読書にもはげんだので、もう無学を笑いものにされることもない。昨日も、ヨーロッ 帰った村田新八を同道して、ここに来てくれたが : 「桐野利秋が好漢であることは、おれもよく知っている。ただし、三つ子の魂百まで。生来の荒武者 振りはなかなか抜けぬ。おぬしが山野にかくれて人に会わず、全国各地からの有志者の応対を桐野に まかせておくのは・ 「おれが会えば、西郷党ができるおそれがある。徒党は国の禍いのもとだ」 「桐野はおぬしほどには唐ってはいない。あいつの話はいつも景気がよすぎる。明日にも大軍をひき いて、都に攻めのぼりそうな話し方をする。それがそのまま各地にったわって、西郷はいまにも大乱 人 を起こしそうな風説になる」 愛 天 「風説がどうでも、おれ自身が動かねばよかろう」 「そうはいかぬ。今回も、おぬしは林有造には会ったが、江藤の門弟山中一郎には会わなかった。山 章 中は桐野に会って、西郷は立つものと信じて佐賀に帰った。それが江藤の性急な挙兵の一因をなした ~ ( と一一一一口うものもいる」 「それは :
れ官職についたが、やがて征韓党の幹部として、江藤の反乱に加った。 西郷はこの二人にも会わなかったが、桐野利秋が代って保護をひきうけた。佐賀残党の追求はきび しく、捕史と密偵は薩摩中を馳けまわっている。彼らの手に渡せば、山中、香月同様の極刑はまぬが うどたに れぬ。桐野は両人を自分の生地吉野村宇都谷の奥にかくして捕吏を近づけなかった。 うわさは西郷の耳にもとどいた。ある日、桐野を呼んで、 「おまえは佐賀の亡命者をかくまっているそうだが、成算はあるのか。見つかったら、郷党の迷惑に なりかねないそ」 桐野は切りかえした。 「先生は江藤、島一党の極刑に同意なさっているのですか」 : し 「とんでもない。梟首とはもってのほか。あれは大久保の行きすぎだ。きっと報いがあろう。 かし、乱を起した者には責任をとらせなければならぬ。大久保としても、これ以上殺すつもりはある まい。自首させた方が本人たちの身のためだ」 ・ : 人助けは私の持って 「いや、大久保は執念深い男です。佐賀に送りかえせば、必ず殺されます。 生れた病気だと思って見のがして下さい」 「おまえは人斬り半次郎ではなかったのか」 「いや、斬ったのより助けた人数の方が多い。ちょうど二十八人助けたかな。あの二人で三十人にな る。この道楽たけはゆるして下さい」 西郷は笑って、 162
第七章敗者と勝者 江藤新平は夜の闇にまぎれて、佐賀を脱出し、丸目という漁港から船を雇い、薩摩の米津港に向っ た。従う者は山中一郎、香月経五郎、山田平蔵、中島鼎蔵、生田源八のほかに、家僕の船田次郎など であった。 「まるで源九郎義経の七騎落ちのようだな」 船中では、そのような冗談を言う余裕を示した。脱出が早かったので、まだ敗北の実感が薄かった のかもしれぬ。 鹿児島では、新町の旅館京屋に投宿し、山中一郎を使者にして桐野利秋に連絡した。 「西郷は三日ほど前にまた鰻池温泉に出かけた。西郷は人に会いたがらないし、おまけに密偵どもが勝 うようよしているから、訪問は少人数の方がよかろう。自分はできるだけのことはするつもりだが、者 大久保の追求はきびしい。慎重に行動してもらいたい」 七 という桐野の返事であった。 江藤はその夜のうちに、家僕の船田次郎だけをつれて出発し、指宿までの長い海沿いの道を歩いて、 翌三月二日の夕刻、鰻池にたどりつくことができた。 やみ
第一章流れ雲 「なにやら怪しい雲行きになって来たな。いまにきっと嵐になる」 池の端の桐野邸の奥座敷で、陸軍大尉別府晋介は心配顔である。従兄の陸軍少将桐野利秋は肩をゆ すって笑い 「またおまえの取越苦労がはじまったな。昨日も今日も日本睛れだ。東京の秋も捨てたものじゃない」 「いや、黒田清隆の動きが怪しい。近ごろは岩倉邸の裏口をうろちょろしている。岩倉の旨をうけて 伊藤博文あたりと手を組み、うちの先生と大久保さんの仲を裂こうと、なにやら目論んでいるという 噂を聞いた」 「まさか、あいつが。 ・ : 黒田は西郷先生の門弟だ。順位からいえば、おれより一格上の直弟子だ」雲 「いやいや、あいつも出世しすぎた。大臣参議の位が目先にちらついて、近ごろは門弟だとも後輩だれ とも思っていないようだ。遣韓大使は自分が引受けようと言ったり、朝鮮よりも樺太の方が先だなど流 言い出す。板垣参議は黒田は奸物だと怒っていた」 「ふふふ、あの大酒食らいが奸物や策士という柄か。あいつはあいつなりにうちの先生の身を案じて第 いるのだ」
桐野利秋が岩倉邸に乗込んだかどうかは不明であったが、別に傷害事件も起らずに十七日になった。 西郷隆盛は朝早くから太政官に出て、閣議の始まるのを待った。板垣、江藤、副島、後藤は顔をそ ろえたが、岩倉派の参議は一人も姿を見せない。 江藤が板垣にたずねた。 「三条卿もおそいな、まさか欠席ではあるまい」 「いや、来る途中に内幸町をのそいて見たが、いろいろと人の出人りがはげしい様子だった。大隈と転 伊藤の馬車もあったし、大木の顔も見えた」 逆 「ふふふ、大久保参議の辞表が、よほどこたえたな。太政大臣のきんたまも上がったきりか」 「しかし、三条卿は必ず出席されるとのことだった。もうお見えになるだろう」 第 三条の手もとには、大久保だけではなく、木戸の辞表もとどけられていた。つづいて岩倉からも病 気欠席の使者が来た。岩倉派は総欠甯の戦術に出たようだ。 「大久保だけじゃない。黒田と従道の二人が岩倉屋敷でこそこそやっている。こいつらは許せぬ。畜 生どもめ ! 」 「待て、桐野、どこへ行く」 「知れたこと、岩倉屋敷だ。黒田と従道を見つけたら叩き斬る。奴らの死骸が出て来たら、下手人は おれだと先生に言っておけ」
「ところが、その大久保が芝の売茶亭あたりに、吉井、伊地知、松方から黒田、野津、西郷従道まで 集めて何事かこそこそやってござるのだ」 「なに、従道 ? あの茶坊主も : : : 」 「おれも従道という奴が気にくわん。同じ陸軍少将でも、あんたや篠原さんとは品物がちがう。図体 ばかり大きいが、大西郷とは似もっかぬ小西郷だ。しかし、先生は従道のことになると、大きな目を 細くして、まるで目くらだ。 / 従道が黒田や伊藤に同調して策謀しているなそと言ったら、頭からどな りつけられる」 「よし、おれは黒田と従道に会いに行く」 「待て。それよりも大久保に会ってくれ」 桐野利秋は上げかけた腰を落して、 むしす 「大久保は苦が手だ。あいつの仏頂面を見ると、身がちちむ。いや、虫唾が走る」 「向うもそう言っているかもしれんそ。桐野の鍾鬼面を見ると : 「こいつ、どっちの味方をしているのだ」 とうも困った詩だと思った。 「おれはこの前、青山の別荘で、先生の詩を見せてもらった。。 酷吏去来秋気清し 鶏林城畔涼を逐うて行く というのだが」 「おれには漢詩は大久保よりも苦が手だ。酷吏というのは誰のことだ。岩倉や黒田なら、なるほど酷
「てんで問題にもしていません。日本という国があることさえ知らぬ者が多い。相当の知識人でも、 朝鮮の東にある支那の属国だと思っています。支那領土の中の島と島の野蛮人の内輪喧嘩だと : 「そりゃあ、ひどい」 「パリでもスイスでも、日本のことが新聞に出るのは、一年に一度か二度で、それも見当ちがいの記 事ばかりです。 : : : 帰国の船で香港まで来て見ると、さすがに漢字新聞も英字新聞もさわいでいまし たが、日本が勝ったなどと書いているのは一つもない。いまに清国の北洋艦隊が出動したら、台湾、 沖縄ばかりか、日本本土まで攻略されるそ、と言いかねぬ論調でした」 沈黙がつづ く。三本のライン・ワインは空になったが、だれも酔っていない。酔った気持になるの には重大すぎる世界状勢であった。 ぞくさん 「やつばり東海粟散の国か。おれも洋行中、いやというほど思い知らされたが、奴らは日本を粟粒ほ どにも思っていない」 村田新八がひとりごとのようにつぶやいたが、吉之助も巌も何も言わなかった。 庭先から、芋焼酎の徳利をぶらさげた野良着姿の桐野利秋が現れた。この家には玄関らしいものが ないので、勝手知った者は庭をまわってくる。 「やあ、おそろいだな。おれも仲間に入れてもらおう。 : 西郷先生、失礼させていただきます」 桐野は縁側から座敷にあがってきて大山巌の横に割りこんだ。空になったライン・ワインのびんを
「狩に出かけて不在だったとでも門前ばらいをくったとでも言えばよかろう」 「まるで子供の使いですな」 「板垣さんとは、東京で別れた時、人にはそれそれ信ずる道がある、今後は各自の道を進むことにし ようと約東した」 「板垣はあなたに、たとえ何事があっても、善悪ともに事を共にしようと提議したと聞きましたが : 「しかし、わたしはことわった。西郷のことは忘れてくれ、捨てたと思ってくれと答えた」 「板垣はそのことでだいぶ気をわるくしたようです。しかし、内心では、決してあなたのことをあき らめてはいません。だから、僕を使者に立てて : : : 」 「会わなかったことにしていただこう」 苦しそうに答えて、吉之助は沈黙してしまった。 石 の その翌々日の午前、吉之助が芝生に大を放して遊ばせていると、桐野利秋が庭先からとびこんでき白 「昨日、県庁の大山綱良のところへ行ったら、土佐の林有造が来ておりました。先生には会えなかっ十 たと言っていますが、ほんとですか」 吉之助はふりかえらずに、
吉之助はここに来るたびに、村名主の家の一室を借りて泊まる。万事粗末で不便だが、浮世ばなれ という点では日当山温泉より一段上だ。狩ができ、釣ができ、雨の日には読書もできる。何よりも訪 間客がないのがありがたい。 山老もと帝京にとどまりがたし 絃声車響夢魂驚く 垢塵耐えず衣裳の汗 村舎に避け来って身世清し 高官富豪の遊興の絃声も馬車の鉄輪の響きも聞こえぬ。山歩きで汗をかいても、その汗さえも清く、 都の垢や塵とは無縁である。 ある日の午後、犬をつれた山歩きから帰ってくると、宿の門口に、海軍士官の制服を着た二人の青 年が待っていた。青年は靴のかかとを合わせてイギリス風の敬礼をし、兵学寮生徒山本権兵衛、同じ さこすけ く左近允隼太と名乗り、桐野利秋の紹介状をさし出した。 吉之助は不快そうに眉をよせて、二人の顔をにらむように見つめていたが、彼らの眼底に燃える炎 を読みとると、大きくうなずいて、 「よし、上がれ」 家僕の熊吉に命じて奥に案内させ、自分は井戸端で手と顔を洗って、座敷に上がって来たが、厚い 135 第六章敬天愛ノト