「ところが、その大久保が芝の売茶亭あたりに、吉井、伊地知、松方から黒田、野津、西郷従道まで 集めて何事かこそこそやってござるのだ」 「なに、従道 ? あの茶坊主も : : : 」 「おれも従道という奴が気にくわん。同じ陸軍少将でも、あんたや篠原さんとは品物がちがう。図体 ばかり大きいが、大西郷とは似もっかぬ小西郷だ。しかし、先生は従道のことになると、大きな目を 細くして、まるで目くらだ。 / 従道が黒田や伊藤に同調して策謀しているなそと言ったら、頭からどな りつけられる」 「よし、おれは黒田と従道に会いに行く」 「待て。それよりも大久保に会ってくれ」 桐野利秋は上げかけた腰を落して、 むしす 「大久保は苦が手だ。あいつの仏頂面を見ると、身がちちむ。いや、虫唾が走る」 「向うもそう言っているかもしれんそ。桐野の鍾鬼面を見ると : 「こいつ、どっちの味方をしているのだ」 とうも困った詩だと思った。 「おれはこの前、青山の別荘で、先生の詩を見せてもらった。。 酷吏去来秋気清し 鶏林城畔涼を逐うて行く というのだが」 「おれには漢詩は大久保よりも苦が手だ。酷吏というのは誰のことだ。岩倉や黒田なら、なるほど酷
「行っても無駄でしよう」 「なぜだ」 「わたしは木戸とは何度も話合いました。木戸は 大久保さんが出てくれないかぎり、これ以上政府 にとどまっていてもどうにもならぬと一一一口いました。 放れ馬になってしまった西郷を鎮めることのでき るのは大久保さん以外にないという意味です」 「その大久保がさつばり動いてくれぬ。いくら説 いったいどう いても、参議就任はいやだと言う。 すればいいのだ」 「木戸に会いに行くより先に、もう一度、大久保 さんに会うべきでしよう。 大久保さんが参議をひ きうけてくれさえすれば、もちろん木戸は辞める雲 などとは中しません。その点は、わたしが保証いれ たします」 「大久保は、いちどいやだと言ったら、梃でも動、一 かぬ男だ」 「そうでもないでしよう」 てこ
「そうか、あんたがそう言ったと知れば、大久保もよろこぶ。 苦労していることだろう」 「そうかな」 「そうだよ。征台の役が評判のわるいことくらいは、おれもよく知っている。木戸は辞職したし、長 州派は全部反対側にまわり、東京ではこんな歌まではやっているそうだ。 ″君の仰せをよそにして、帆かけた船は出ずるそえ、 あれ民が泣く、民の声、都に名所 ( 名将 ) はないかいな〃 ふふん、つまりおれが勅命を無視して出兵したと皮肉っているのだが、大久保はこの責任はすべて 自分でひきうけると言っている。 : 兄さん、あんたはまだ現職の陸軍大将だ。日本中の人気と期待 を集めている。東京に出て大久保を助けてやる気はないか」 弟 吉之助はしばらく従道の顔を見つめていたが、 AJ 「信吾、もっと大久保を信用してやったらどうだ」 「えつ、何のことですか」 「大山巌も三条公の内命だといっておれをひつばり出しにきた。おれは出る気がないので、ことわっ九 たが、こんどはおまえがやってきた。 : ばかな話だ」 「・はかを一はひい J い」 : 大久保はもう東京に帰っているが、
村田新八が横から、 「吉井さんの外遊は、ベルリンの息子に会いに行き、ついでにおまえと娘の沢子の縁談をまとめるた めだと聞いていたが、さてはそういう魂胆があったのか」 「縁談は、わざわざジュネーブまで来なくとも、もうきまっている。 : つまり、三条、岩倉両公が あまりに心配なさるので、吉井のおやじは伊地知さんと相談の上、アルプスの山までのぼってござっ たのだ。 ・ : 大久保さんとは関係ない。もし大久保の命令だったらおれは帰って来ないよ」 村田はうなすいて、 「そうだろうな。おれは、この春、ロンドンでおまえと別れて、東京にとんで帰り、すぐに大久保に 会った。征韓論の破裂は薩摩出身の両大関の衝突だから、まず東の大関の考えを聞いてみようと思っ たのだ。大久保は上機嫌で歓迎してくれた。この際、洋行帰りの新知識を政府に迎えることは百万の 援軍にもまさる、などとお世辞にもならぬことをならべ、非はすべて世界の大勢を知らぬ西郷先生の 方にあると言わんばかりであった」 「そこまで言ったのか」 「いや、あの男はおれと西郷先生が切っても切れぬ縁でつながっていることを知っているので、それ と名ざして攻撃はしなかった。内治の必要を強調して、非はすべて征韓派参議の側にあるとくりかえ した。だから、悪いのは西郷とそれに従って帰国した者どもだということになる。 ・ : おれは東の大 関の御意見はよくわかりましたから、これから西の大関の話を聞いてまいりますと言って、ひきさが った。大久保はおれが必ず東京に帰ってくると思っていたようだが、どっこい、そうはいかぬ。ごら 8
桂久武は心配そうに、 「おぬし、まだ気づいておらぬようだな」 吉之助は首をふって、 「篠原はもともと重厚の質だ。桐野も昔の人斬り半次郎ではない。地位がの。ほるにつれて、それにふ さわしい読書にもはげんだので、もう無学を笑いものにされることもない。昨日も、ヨーロッ 帰った村田新八を同道して、ここに来てくれたが : 「桐野利秋が好漢であることは、おれもよく知っている。ただし、三つ子の魂百まで。生来の荒武者 振りはなかなか抜けぬ。おぬしが山野にかくれて人に会わず、全国各地からの有志者の応対を桐野に まかせておくのは・ 「おれが会えば、西郷党ができるおそれがある。徒党は国の禍いのもとだ」 「桐野はおぬしほどには唐ってはいない。あいつの話はいつも景気がよすぎる。明日にも大軍をひき いて、都に攻めのぼりそうな話し方をする。それがそのまま各地にったわって、西郷はいまにも大乱 人 を起こしそうな風説になる」 愛 天 「風説がどうでも、おれ自身が動かねばよかろう」 「そうはいかぬ。今回も、おぬしは林有造には会ったが、江藤の門弟山中一郎には会わなかった。山 章 中は桐野に会って、西郷は立つものと信じて佐賀に帰った。それが江藤の性急な挙兵の一因をなした ~ ( と一一一一口うものもいる」 「それは :
「外患 ? 」 「清国が先にくるか、ロシアが先に来るかわからぬが、その時まで、おのれの志と精神を養いつつ静 かに待つ。国内で争うべき時ではない。権勢を求めて乱をはかるのは、虎豹の心をもった者のやるこ とだ。人間の道とはいえぬ」 「桐野、篠原級の人物は待てるかもしれませぬが、血気の青年たちが待っかどうか。一万の子弟が中 央に出る道をふさがれては、不満は薩南で爆発するでしよう」 「わたしは学校をつくろうと考えている。東京におとらぬ学校をつくり、根本の教育を行い、優秀な 者は専門の学問のために上京もさせ、外国にも留学させてやる」 「あなたはそこまで : ・・ : 」 「再び朝に立たぬと決心した上は、郷党の子弟のためには、そうするのが当然のことではないかな。 くれぐれも申上げておくが、わたしは乱をはかるために帰国したのではない」 林は沈黙した。庭に目をやると、いつのまに風が出たのか、松の梢が鳴り、桜島の噴煙が東に流れ はじめていた。 吉之助は言った。 「あんたは、まっすぐに土佐に帰られるのか」 しいえ、長崎あたりで、もう一度江藤氏に会うことになっております」 「わたしが江藤君に望みたいのは、くれぐれも軽挙をつつしんでもらいたいことた」 「伝えます」 118
岩倉右大臣の上席にいるが、絶対に椅子を用いず、閣議の席では衣冠束帯で絨氈の上におすわりなさ る。侍従どもは大弱りで、特別に畳つきの台座をつくり、椅子と同じ高さにすわれるようにしたそう だ。あっはつは、おもしろい話じゃないか」 吉之助が言った。 「桐野、おまえは本気でおもしろがっているのか」 「いやあ」 桐野は頭をかいてみせて、「御老公のことなど、。 とうでもいいのです。 : ただ、この際、西郷先 生、あんたが出馬されて、内閣の主班にならぬかぎり事態は収拾できません。お国のためです。それ が救国の道です。このままでは、 いかに大久保や大隈が術策を用いようとも、ここ半年たたぬうちに、 中央も地方もめちやめちゃになってしまう。ぜひ西郷内閣をつくって根本手術を試みてもらわねばな らぬと、実は篠原とも、ここにいる村田新八とも話合った。 : おい、村田、おまえはまだそのこと を先生に中上げなかったのか」 村田は頬を赤らめて、 「そうあわてるな。今日は大山の歓迎会だ」 「逃げ口上は許さぬそ。早く西郷内閣をつくらねば、日本の危急は救えぬと言いだしたのは、おまえ
「今日も板垣が来て話してくれたが、・ とうも岩倉と木戸の動きがおかしい」 吉之助は熊吉がはこんできた渋茶をいかにも渋そうに飲みながら、「おれはまさかと思っているが、 大久保も怪しいと板垣は言うのだ」 晋介が、 「先生は芝の売茶亭の会合のことを御存知ですか」 「知らぬ」 「もう何度も集まったそうです。大久保さんが招待して、吉井、伊地知、黒田さんなどが : 「みんな薩摩の仲間じゃよ、 オしか。おれのことを心配して集まってくれたのだろう」 「うるさい奴だな。まあ上がれ。熊吉、荷造りはあとにして、こいつらに渋茶でも出してやれ」 西郷は二人の弟子が縁側の荷物のあいだに腰をおろすのを待って、自分もあぐらをかき、 「ぐずぐずしていると、九月も終ってしまう。おれはもう今ごろは韓国に行っているつもりだった」 「そうでしたな」 別府晋介が答えた。「早く行かないと、京城の紅葉にまにあいません」 吉之助のつくった詩には ″胡天の紅葉凋零の日〃 という一句があった。紅葉の散るころには、京城に行けるものと思っていたのだ。 15 第一章流れ雲
「しかしな、男心と秋の空ともいうし」 「馬鹿め、色事の話じゃないそ」 「おれは、どうも、先生が安心しすぎて油断しているように思えてならぬ。ここで大久保が岩倉方に まわるようなことになったら、先生の大志も大策も水の泡だ」 「ふうん、西郷先生が油断してござるか」 桐野は首をかしげる。心配顔の別府晋介は答えた。 「先日、おれにピストルを一挺都合してくれと言われた。ドイツ製の八連発を手に入れてとどけたら、 とても喜んだ手紙をくださった」 争 / し、カ」 「韓国に行くための護身用なら、油断していない証拠じゃよ、 「いや、いつでも行けるときめてしまっているところがあぶない」 「閣議は通ったし、陛下の御裁可も下った。いかに権謀術数にたけた連中でも、もう手が出せまい」 「先生もそう思って安心している。そこがあぶない。大久保は岩倉に何度も会っている。木戸も病気れ 流 : おれがその話をしても、 を押してその席に出たという。何事かが三人のあいだで進んでいるのだ。 章 先生は気にとめられぬ。ほおっておけと言わぬばかりだ」 うどめ 第 「そこが大目玉先生の大目玉たる所以だ。先生は大久保をとことんまで信頼している。大久保もこの 信頼を裏切ることはできぬ」 ゆえん
大山綱良は電文をテーブルの上に投げて、ちょうどその場に来合せていた別府晋介に命じた。「とに かく武村の先生に報告だけはしておけ」 吉之助は晋介の持参した電文の写しを見て、ひどく驚いたようであったが、何も言わなかった。 若い晋介は不服そうに、 「先生、まさに天下の痛快事ではありませんか。今に木戸も大久保も : : : 」 「黙れ、晋介 ! 」 「はあ。しかし、佐賀の征韓党と憂国党はすでに動きはじめたようです。われわれとても : 「内訌と内乱を喜べるか。常々言いきかせたとおり、日本の将来を思うなら、清国とロシアのことを 考えろ。政府は大久保にまかせたのだ。東京では、吉井、伊地知、黒田、陸軍の野津兄弟、海軍の川 村、井上をはじめ数千の薩摩人が政府を守っている。彼らの無事を祈るがよい。 : 桐野によく伝え ておけ。絶対に軽挙盲動すべき時ではないと」 「はい。中しおくれましたが、林有造氏の一行が桐野の家にまいりました。海老原穆、会津の永岡久 茂などが同行して、先生にお目にかかりたいと中しております」 「ふむ、土佐の林がまた来たか。岩倉事件の使者としては早すぎるな」 「何か板垣氏の伝言を持って来たようです。 ・ : 途中まで江藤新平氏と同船したとかで、江藤門下の 山中一郎という青年をつれています」 西郷はしばらく考えて、 「おれは誰にも会いたくないが、板垣の伝言なら聞かねばなるまい。林君だけに会おう。江藤の使者 ないこ、つ 111 第五章人間虎豹の群