さて、西郷、菅両先生、相対されて、まず以って久濶の情を叙べ、健康を祝され、たがいに喜ばれ しさま、旧来いかに交情の厚かりしかを想像せらる。それより、征韓論にて政府を引き退かれし御話 にうつる。みな、その座に侍して敬聴せり」 西郷吉之助と菅実秀の縁は、明治元年庄内藩降伏の時から始まる。 庄内軍は勇将酒井吉之丞と松平甚三郎にひきいられて秋田領にまで進出し、勇戦して大山綱良の薩 摩軍と桂太郎の長州軍に大打撃を与えた。 島津の一族島津新八郎は捕虜となって斬られ、隊長島津登は夜襲をうけて隊士を全減され、わずか に身をもってのがれたほどの惨敗であった。庄内藩主の降伏と鶴岡城の開城にあたっては、手きびし い報復をうけるものと、城中の将士は覚悟していた。 鶴岡城受取りの薩軍の参謀は黒田清隆。勇猛苛烈の猛将として聞えていたので、まず十六歳の藩主 々 酒井忠篤を郊外の寺に移し、菅実秀、酒井吉之丞、松平甚三郎以下の重臣は斬首の刑も辞せぬ決意で人 開城の日を待 0 た。だが、城中に乗りこんできた黒田の態度は予想を裏切 0 て、寛大公正で、礼儀正藩 しかった。年少の藩主を呼び出せとも言わず、降伏の儀式らしいものはすべて省略し、兵器は一応占 検したが、大砲数門だけをおさめて、残りは重役預けにし、家臣たちの帯刀をゆるして、それぞれ自一二 宅に帰した。しかも、その翌日、黒田は薩軍をひきいて新発田方面に撤退してしまった。城中の将士 は、意外な寛大さにおどろき、中には感涙にむせぶ者もあった。
明治四年の春、西郷吉之助は大久保の要請によって、中央政府強化のため、常備兵四大隊をひきい 8 て上京した。酒井忠篤の一行も留学を打ちきり、東京に帰った。 菅実秀は、この時はじめて吉之助に会った。一見して旧知のごとく、心おきなく話合うことができ た。吉之助は廃藩置県の大策を胸中に蔵していたが、その一端を菅にもらして、 「命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものだ。この始末に困る人ならでは、艱 難を共にして、国家の大業は成し得られぬ」 と言った。また、 「おのれを愛することは善からぬことの第一である。修業のできぬのも、事の成らぬのも、過ちを改 めることのできぬのも、功におごって驕慢に流れるのも、すべておのれを愛する心から発する。わた しは忠篤公にも、くりかえしそのことをお教え中上げた。お役に立てば幸いである」 菅は藩邸に帰って側近に語った。 「まことに聞きしにまさる大人物であった。王佐の大器とはこの人のことであろう。史上の英雄が権 謀術数をもって一世を圧服したのとは全くちがう。この人を信じて、その言葉に耳をかたむければ、 堯舜孔子の道が何ものであるかをうかがい知ることができよう」 吉之助も菅の誠実と識見を高く評価して、交友は日々に深まった。 ある日、吉之助は深川の旗亭に、菅をはじめ庄内藩士の重だった者を招待した。薩摩側からは黒田 清隆、西郷従道、川村純義などが出席し、にぎやかな宴会になった。席上、吉之助は乞われるままに - ′こう 揮毫した。 おうさ こ
の人に代り得るや。特に正気あるべし。彼の正気、憤然発して斃る。子それ正気を維持して行け。正 気の存するところは一のみ」 吉之助の心底には常に″地下の同志″が生きていた。彼 ″正気″が何物であったかを察する ことがでよう。 この送別の辞を書いた数ヶ月前、明治七年の十一月、僧月照の忠僕重助が武村の屋敷にやってきて、 吉之助を驚かした。 月照と相抱いて真冬の薩摩潟に身を役じた時から数えて十七年目であった。当時まだ若かった吉之 よみがえ 助は蘇ったが、年長の月照は死んだ。重助は捕えられて、筑前藩の捕吏の手にわたされ、京都所司代 に転送されたことまではわかっていたが、吉之助は大島に送られ、沖永良部島に流され、赦免の後は 戦陣に明け暮れて、重助の消息は全く解らなかった。おそらくこの世にいないものと思っていた重助 がだしぬけに現れたのだ。冥土からの使者を見たかのように、吉之助は驚いた。 「今年は御上人さまの十七回忌であります。私は丹波の綾部で細々と生きながらえておりましたが、 じっとしていることができず、無理を重ねてやってまいりました」 ぎとく 「奇篤なことだ」 吉之助はただ涙を流した。「おれも毎年の回向と供養を怠っていたわけではないが、三百里の道を遠 オしよく来てくれたな、よくも : しとせず訪ねて来てくれたおまえの志には及ばよ、。 僧月照は吉之助の胸に生きている″地下の同志″たちの中の最大の一人である。重助とともに月照 ていちょう おこな の暮に詣でて鄭重に十七回忌を執り行った。 たお
第六章炉辺放談 明治九年、残暑と訪問客を避けて、日当山温泉にこもっている西郷吉之助を、柚木良之助がだしぬ けに訪ねてきた。明治元年から六年まで、吉之助の書生として、すっと身のまわりの世話をしていた 少年である。参議をやめて帰国する時、吉之助はすすめて ( 本人もそれを希望したので ) 、福沢論吉の 慶応義に人学させた。その後も時折りの手紙を絶やさす、雑誌や新刊書などを送ってくれた。特に 俊敏な頭の持主ではないが、正直で誠実な少年であったので、吉之助は可愛がっていた。ほかの者な ら、熊吉に命じて追いかえさせるところであったが、 「おお、これは珍しい。まあ、上がれ。 : : : 福沢塾は卒業したのか」 「まだ籍はありますが、休暇をとって帰省いたしましたので : : : 」 「三年見ぬまに、おまえも大きくなったな」 もう少年とは呼べない。明治元年に北越戦争の軍艦の中で初めて会った時は、山本権兵衛などと同 じく十六歳を十八歳といつわって従軍した可憐な少年兵であったが、今はもう二十五歳か。いかにも 福沢塾の学生らしく、洋服の着こなしも香汕で固めた髪の分け方も身についた開化の書生である。 いやみ だが、別に厭味はない。昔ながらの礼儀正しさで、膝に両手をおき、 108
第八章志士の心 熊本から始まって、たちまち野火のようにもえひろがった一連の反乱の報が鹿児島人の耳に入った くにざかい のは、東京よりもおそかった。電信線はまだ鹿児島までは達していなかったので、国境の山路をたど るか、船で天草灘を越えるよりほかはないので、郵便も使者も時間がかかった 神風連の乱は十月二十四日、秋月の乱は二十七日、東京の思案橋事件と萩の前原党の蹶起は同じ二 十八日で、一週間たたぬまの出来事であった。その風聞と報告は相次いでというよりも、ほとんど同 時に鹿児島に殺到した。これらの反乱は正確に言えば、西郷吉之助とも私学校とも関係はない。乱の 起る前に、各地からの密使はしきりに鹿児島に来たが、吉之助は彼らに会わず、桐野に代って応接さ せ、血気の私学校党の青年たちが反乱に巻きこまれることを抑えていたというのが事実である。 神風連蜂起の時には、吉之助は日当山温泉にいた。桐野利秋は同志の野村忍介を日当山に送って急 報させた。野村は三十五歳、近衛陸軍大尉であったが、今は鹿児島の警察署長を勤めて評判がよく、 私学校の青年たちからも信頼されている。 吉之助は野村の報告をうなずきながら聞いていたが、 「熊本の学校党も民権党も動かなかったとすれば、太田黒伴雄の一党たけでやったことだな。あの連 142
若い使者たちの前で本心を吐露し、ついに涙を見せたほど、西郷吉之助と庄内藩士との交流は深か った。その交流の源ともいうべき心友の菅実秀が久方ぶりに七名の青年をつれて鹿児島まで訪ねてき てくれたのだ。 山狩から帰った吉之助は、取るものも取りあえず、一行の旅館に駈けつけたのである。 「勝手に狩などに出て、長らくお待たせし、まことに相すまぬ」 「いえ、狩に出られた事情は砲隊学校の児玉先生から承りました。お帰りになるまで待つつもりでし 「うるさい政府の役人は追い帰しました。あなた方とならいくらでもおっきあいします。 : : : 菅さん、 あなたは以前よりもずっとお元気にみえる」 「先生もすっかり健康をとりもどされたようで : : : 」 々 人 「はつはつはつ、田舎住いが何よりの薬。ホフマン先生の下剤よりもきいたようです」 の 挨をかわしているあいだに酒肴の用意も整 0 た。盃を取りかわした後に、菅実秀はくつろいたロ 調で切り出した。 さか 章 「私学校もますますお盛んなようで : : : 」 第 吉之助は真顔で、 「生徒の数だけは増えたが、それだけ頭痛の種も増えました」
第酉章武村の家 その三日後の午後、菅秀実の一行は吉之助の自宅に招待された。 宿を出る前に、菅は七人の青年に訓戒した。 「よいか、先生の教えを受ける時は、心を白紙にして、子供の手習いのように、いろはのいの字から 習うつもりになれ。両手を膝においてお言葉の一つ一つを敬聴し、一句も忘れることなく心に銘じて 一生これを守るのだ」 武村の屋敷は青年たちの想像した以上に簡素なものだった。石川静正の日記によれば、部屋数も少 ない平家を低い柴垣でかこって、小さな門の小さな木札に西郷吉之助と書かれてあった。門の右側に は物置小屋があり十匹ほどの大がつながれていた。左側はすぐに母屋の入口になっていたが、これは 百姓家風の土間で、玄関と呼べるものではなかった。吉之助は門まで出迎え、庭をまわって裏座敷に 一行を案内した。 はげた芝生の向うは野菜畑になっていた。敷 庭先には大きな松が四五本あるだけで、踏石もなく、 地の外は広い田圃で、遠く桜島を見晴し、風景だけは佳絶であった。座敷の四方の壁に銅版画のワシ / トン、ナポレオン、ビョ ートル大帝、ネルソン提督の肖像がかけられているのは珍しかった。床の たん・ほ かぜっ
第二章私学校 西南戦争は〃私学校党″の反乱と見ることもできる。西郷吉之助が最初から中央政府打倒を目的と して私学校をつくったと考えることはできない。しかし、明治十年、私学校生徒の火薬庫襲撃によっ て反乱のロ火が切られ、 " 新政厚徳″の旗をひるがえした健児一万の鹿児島進発によって″西南の役″ と呼ばれる悲劇の幕が切って落された。 まず私学校の歴史から調べてみることにしよう。 明治四年、参議として東京日本橋小網町に住んでいたころ、西郷はここに集まる若い兵士と書生た ちのために″集義塾″という小さな私塾をつくった。 吉之助の仮住居は、長く空き家になっていた越前藩の下屋敷を下賜されたもので、敷地は三千坪ほ校 どあったが、彼は他の大官なみの大邸宅を構えるかわりに、十軒たらずの急造の粗末な長屋を建てて 私 青年を住まわせ、自分もその一棟で暮していた。ある日、岩倉具視が訪ねて来て、 「これはひどすぎる。そなたも新政府の参議だ。屋敷くらい宏壮にしても、とがめる者はないそ」 第 「鹿児島の自宅は、もっと狭くて、もっと粗末なものです」 と吉之助が答えたので、岩倉は二の句がっげなかったという話がのこっている。
猪の肉の煮付、錦江湾の小鯛の塩焼をはじめ、心づくしのお国風の料理の数々、西郷家としては精一 杯の御地走であった。 さかすき 菅実秀を正座に据えて、吉之助は七人の客の前にかわるがわる進み出て、鄭重に″盃をちょうだい″ してまわった。 「大きいからだを小さくして」と石川静正は日記にしるしている。返盃の時には、鉢の肴を箸ではさ んで、一人一人にすすめた。 ひとわたり盃がまわった時には、吉之助の顔は首筋までまっ赤になっていた。 吉之助は末席にかえって、首筋をなでながら、 「わたしは若い時には少しは飲めましたが、近ごろはまるで駄目で、ごらんのとおりゆでダコのよう になり、もう自分の手足が八本に見えます」 と言って一座を笑わせ、 「だが、あなた方は若い。下戸のわたしにはおかまいなく大いにやってください」 一同、くつろいで、にぎやかな酒宴になった。詩吟からはじまって、庄内のお国ぶりの歌も出た。 酒興もたけなわになったときに、石川静正が、 「そう一言えば、桐野先生もあまりお飲みにならなかったようです。やはり私学校の規律がきびしいせ いでありますか」 いもじようちゅう 「いやいや、桐野はもともと下戸だったのが、近ごろいくらか芋焼酎も飲めるようになった。篠原、 おしすけ 村田、別府晋介、野村忍介、大山綱良、みな相当にやります。酒の上での第一等の豪傑には辺見十郎 さかな
「と申しても、節を変ずる名の数が多いというわけではありません。ただ私どもは同志の意気悄沈ぶ りが目立ってきたのが心配なのであります」 吉之助はたずねた。 「それでどうしようというのだ」 若い深見が答えた。 「私は幸いに賞典学校に入学を許されておりますので、不満はないのでありますが、生徒の数が限ら れておりますし、この際、別に連絡と会議の場所のようなものでもっくって : : : 」 淵辺がつづけて、 「同志の中の志の堅い者が毎月数回会合し、団結を強め、初心をつらぬきたいと考えたのであります」 吉之助はうなずき、しばらく考えた後に、 「よかろう。一部の者だけが固まったのでは、かえって同志を四散させるもとになるが、君たちの志 はよくわかった。桐野、篠原、村田と相談の上、できるだけ早く返事をしよう」 おうまや 吉之助は実行した。城山のふもとの旧御厩が空いていたのに、すこし手を入れて、彼らのために集 会と連絡の場所をつくってやった。明治七年四月のことであった。 さらに、ある日、渋谷精一、林七郎、川崎兵十郎、木谷胤澄、肝付兼一がうちつれて乗りこんでき た。この連中は「近衛の五人軍曹」と呼ばれた暴れ者そろいだ。東京にいたころもそうであったが、 国に帰ってからも、よく集っては大酒を飲み、しばしば羽目をはずして、手を焼かせた連中であるが ' 今日は酒気もおびず、まるで別人のような神妙な顔であった。