「大久保や木戸にまかせておいて国が固まるか。西郷先生の遠大な志と鴻恩を忘却し、大久保の腰巾 着になって、時を得顔の川路を、貴様、ほめるのか」 「西郷先生は、川路が大久保に付こうが、木戸に付こうが、そんなことは気にもなさらぬ。常に日本 という国の護りを考えておられる」 と、野村をふりかえり、「おまえ、日当山に行ってきたそうだが、先生は何と言われた ? 」 野村忍介は答えた。 「私学校は反乱のための学校ではない、生徒の暴発は絶対に抑えろと桐野に伝えよ、と中された」 「そうであろうな」 「おれには、東京まで行って見てはどうか、山の麓から眺めるのと頂上から見おろすのでは景色がち がうかもしれん、と中された」 「なるほどな」 桐野が 「しかし、前原党が立ったことは、先生はまだ知らぬそ」 永山弥一郎は膝を立てて、 「よし、おれが日当山に行ってくる」 しす 「先生を鎮めに行くのか」 146
月下旬ころは日当山に入湯いたし居り候由」と結んで、筆をおいた。
第八章志士の心 熊本から始まって、たちまち野火のようにもえひろがった一連の反乱の報が鹿児島人の耳に入った くにざかい のは、東京よりもおそかった。電信線はまだ鹿児島までは達していなかったので、国境の山路をたど るか、船で天草灘を越えるよりほかはないので、郵便も使者も時間がかかった 神風連の乱は十月二十四日、秋月の乱は二十七日、東京の思案橋事件と萩の前原党の蹶起は同じ二 十八日で、一週間たたぬまの出来事であった。その風聞と報告は相次いでというよりも、ほとんど同 時に鹿児島に殺到した。これらの反乱は正確に言えば、西郷吉之助とも私学校とも関係はない。乱の 起る前に、各地からの密使はしきりに鹿児島に来たが、吉之助は彼らに会わず、桐野に代って応接さ せ、血気の私学校党の青年たちが反乱に巻きこまれることを抑えていたというのが事実である。 神風連蜂起の時には、吉之助は日当山温泉にいた。桐野利秋は同志の野村忍介を日当山に送って急 報させた。野村は三十五歳、近衛陸軍大尉であったが、今は鹿児島の警察署長を勤めて評判がよく、 私学校の青年たちからも信頼されている。 吉之助は野村の報告をうなずきながら聞いていたが、 「熊本の学校党も民権党も動かなかったとすれば、太田黒伴雄の一党たけでやったことだな。あの連 142
ゑの一な歩夋う / 内士 「ドイツの青年は興国の意気に燃えて、非常に元 気だと聞いている。あなたも決して彼らに負けぬ それ以上、教訓めいたことは言わなかった。 西郷が職を辞して東京をたった翌年の正月、菅 実秀は藩士酒井了恒他二名を鹿児島に送って、引 退の真意を問わせ、さらに同年十一月、赤沢経吉 と三矢藤太郎を送って、その後の安否をたずねさ せた。西郷は人を避けて日当山温泉にかくれてい 々 たが、菅の再度の使者だと知ると、喜んで会った。人 二人をつれて狩に行き、霧島山麓をさまよい、行 き暮れれば道ばたの百姓家に泊りながら、数日間 章 をすごした。 第 名もない温泉の民家に泊り一日の埃を洗いおと 8 をした夜は、特に機嫌がよく、
第六章炉辺放談 明治九年、残暑と訪問客を避けて、日当山温泉にこもっている西郷吉之助を、柚木良之助がだしぬ けに訪ねてきた。明治元年から六年まで、吉之助の書生として、すっと身のまわりの世話をしていた 少年である。参議をやめて帰国する時、吉之助はすすめて ( 本人もそれを希望したので ) 、福沢論吉の 慶応義に人学させた。その後も時折りの手紙を絶やさす、雑誌や新刊書などを送ってくれた。特に 俊敏な頭の持主ではないが、正直で誠実な少年であったので、吉之助は可愛がっていた。ほかの者な ら、熊吉に命じて追いかえさせるところであったが、 「おお、これは珍しい。まあ、上がれ。 : : : 福沢塾は卒業したのか」 「まだ籍はありますが、休暇をとって帰省いたしましたので : : : 」 「三年見ぬまに、おまえも大きくなったな」 もう少年とは呼べない。明治元年に北越戦争の軍艦の中で初めて会った時は、山本権兵衛などと同 じく十六歳を十八歳といつわって従軍した可憐な少年兵であったが、今はもう二十五歳か。いかにも 福沢塾の学生らしく、洋服の着こなしも香汕で固めた髪の分け方も身についた開化の書生である。 いやみ だが、別に厭味はない。昔ながらの礼儀正しさで、膝に両手をおき、 108
死体が発見されなかったので、行方知れずとも伝えられている。三十五歳。是枝生胤に平田派の国学 を学んで、和歌をよくし、辞世の歌も残っている。 君がため思い立田の薄紅葉 時雨れぬ先に散るもうれしき。 中島健彦警部は田中の密書を金庫におさめて、 「あの男なら、暴言と放言の名人だ。。 とこまで実行力があるかは怪しいが、一応警戒の必要はあろう」 部下の二等警部を呼んで、私学校幹部の身辺警護を強化することを命じて、 「西郷先生は、もう日当山にはおられぬと言ったな」 「はい、下男の熊吉と犬三匹をつれて小根占の平瀬十助の家に滞在して兎狩りをしておられるという 報告が人りました」 「いかにも先生らしいが、犬三匹だけでは心もとない。警護を頼む」 「はつ、さっそく手配いたします」 ちょうど同じころ、一等巡査加世田景国が自宅で静養中の警察署長野村忍介を訪ねた。加世田は野 村の実弟である。 「兄さん、重大な報告です。前之浜の船宿の情報ですが、今朝の第一便で密偵の一人が小根占に向っ たそうです。小根占出身者ですが、西郷先生の暗殺が目的に相違ありません」
う」と言「て助けてくれた。それ以来、勤務ぶりも改ま 0 たと言われ、西郷の恩義を深く感じている が、生来の慓悍勇猛の気はおさまらす、神風連につづく前原党の蹶起の報には、人の数倍も興奮して しっとしていることができなくなったようである。 「待てと言ったら、待つのだ」 永山弥一郎は声を高くして呼びとめた。 「河野、貴様、十郎太より年上じゃないか、休二もいい年をして、騒ぎまわることはない。 ともその芝草にすわれ。桐野に会っても無駄なわけを教えてやる」 河野主一郎は私学校幹部で三十歳の陸軍大尉、永山休二は弥一郎の弟で三十七歳の老砲兵少尉であ る。実は大尉であったのを、不勉強と粗暴の故で少尉に降等された変り者で暴れ者だが、重厚で聞え た兄の前では頭が上がらない。 まず永山休二が土手の枯れ草に腰をおろし、河野と十郎太がしぶしぶながらそれに習った。 八里の道を歩いて、永山弥一郎が日当山温泉に着いたのは翌日の夕刻であった。 吉之助は竜宝家の離れの部屋で読書していたが、炉ばたに席を移して、 「やあ、昨日は弟の休二が来たが、今日は兄貴の方か」 「あいつ、ここにも来たのですか。私には何も言わなかったが : 「ひとりで興奮していたので、どなりつけてやった。おれに叱られたとは兄貴の前では一一一口えなかった
鹿児島で別れた八字鬚の密偵藤本であった。なれなれしくそばに寄ってきて、 「おれは長崎から乗ったのだが、君は下関か。 「いや、阿蘇を越えて中津に出たので、おそくなっただけです」 「君は西郷先生に直接会えたそうで、大いにうらやましい。おれは誰に紹介を頼んでも駄目だった。 すっと日当山温泉と聞いたが、健康を害しておられるのではないか」 「いや、お元気だが、人に会いたくない病気だと笑っておられました」 「やつばり忍・目重か」 「さあ、先生の胸中は、僕にはよくわかりません」 柚木は藤本の正体を知らなかったが、桐野利秋の小屋で会った時から、なんとなく虫の好かぬ人物 だと感じていた。官員風の八字鬚も、いつも人をさぐるような目つきと話しぶりも気にくわない。青 しい加減にあしらっておいて、杣木は階段を下りた。 年の直感である。 曲 の 乱 船は翌日の午前中に神戸に入港し、石炭と水の補給のため一泊することになった。 船客の大部分は市内見物のため上陸したが、柚木は船室に残って、カーライルの「フランス革命史」 章 のつづきを読んだ。「自由論」の著者ミルの激励によって完成したというこの本は、柚木良之助の若い七 血を湧き立たせ、旅のつかれと時間を忘れさせた。 タぐれて船室が暗くなりはじめたころ藤本敬介がとびこんできた。ひどく興奮した口調で、 とうりゅう ・だいぶ長逗留だったな。萩の前原氏を訪ねたのか」
うどんだに 桐野利秋は吉田村の宇土谷の開墾地で暮していた。ときどき城下にも出るが、開墾本部の藁ぶきの 納屋にたてこもり、昼は農耕と兎狩り、夜は炉端に大あぐらをかいて、生徒と訪問客を相手に談論風 発することの方が多かった。篠原国幹、村田新八、野村忍介、西郷小兵衛、辺見十郎太、従弟の別府 晋助などもときどき連絡にやってくるが、それよりも東京、熊本、秋月、長州萩、土佐をはじめとす る全国各地の有志者がひっきりなしにやってくる。彼らは西郷に会いにくるのだが、西郷は山と温泉 にかくれて、客の応接は一切桐野にまかせている。 ある晩、私学校総監督の篠原国幹と二人きりになった時、 「おれは無給の外務卿というところかな。おまけに有志者と自称する連中のなかには政府の密偵もま ~ / しん じっているので、私設警視総監の役もやらなければならぬ。芯がっかれるそ」 と大声で笑った。 「桐野と会ったことがあるのなら、今度も桐野にまかせておけ」 「は↓の」 「おまえも二度とこんな話は持ってくるな。おれも福沢と同じく逃げまわっているのだ。この日当山 にも人がおしかけてきて、うるさくなった。もっと山の奥に逃げこみたいと思っている。 : 福沢の 話は面白かったな。おまえは温泉でもあびて、今夜は泊って行け。もっと慶応義塾の話を聞きたくな った」 113 第、章炉辺放談
これは松山信吾のことであった。松山の小根占行きが西郷暗殺のためではなかったことは、今は明 らかだが、暗殺の風説は早くからひろがり、当時の西郷派は私学校徒だけでなく警察官まで、密偵即 ち暗殺団と堅く信じていた。 加世田は兄の野村に、 「西郷先生の身に万一のことがあったら、それこそ取りかえしのつかぬことになります。私はすぐに 小根占に行き、ひそかに先生の身辺をお護りしたいと思います」 「よく言ってくれた。すぐに出発してくれ。手おくれにならぬように頼むそ」 弟を送り出すと、野村忍介は部下の一等巡査渋谷精一と二等巡査相良研一を呼んだ。二人とも示現 流の達人であった。事情を話して、 : しかし、西 「おれの弟だけでは間にあわぬかもしれぬ。君たちも小根占に急行してもらいたい。 郷先生に知られたらまた叱られるにきまっている。幸いおれの手もとに猟服が二人分あるから、それ子 東 を着て行け。もし山中で先生にめぐり会っても、休暇をとって遊猟に来たと言うがよい」 吉之助がまだ日当山にいた昨年の十一月ころにも、刺客潜入の流言があり、永山弥一郎、淵辺高照 十 などの私学校幹部が相談の上、西郷小兵衛を使者として身辺警戒の必要を告げたことがある。 第 吉之助は笑って、 「おれの首をとって、それで騒動がおさまればこんなありがたいことはない。つまらん心配はやめろ」