第十五章城山の残月 九月一日の午前、辺見十郎太の前軍は吉野街道を進み、城山裏手の岩崎谷に入った。官兵の反撃は なかった。沿道の住民は喜んで迎え、疲労した兵士を茶菓や握り飯でねぎらい、進んで官兵の動静に ついての情報を提供してくれる者もあった。山県有朋の本隊はまた到着せす、市中を守る兵力はせい ぜい三千、その一部が旧城内の私学校跡と米倉 ( 糧食庫 ) に屯集しているという。 山野田一輔が斥候兵十名ほどをひきいて先駆し、私学校の東門から中をうかがうと、官兵一個大隊 約千名ほどが隊伍を解き、銃を組んで休息していた。山野田は意外な大兵に驚いたが、この油断を衝 くのもおもしろいと考え、物陰にかくれながら兵を前進させ、銃声一発を合図に斬りこんだ。全くの かいらん 不意を討たれた官兵はたちまち潰乱して西門から逃走しようとしたが、門は半分しか開かなかった。 の 一丈あまりの石垣をとびおりて足を折る者もあり、全軍あわてふためいて米倉に逃げこんた。山野田城 隊は官兵二十四名を斬り、わずか十名の斥候兵で私学校を占領することができた。時に午前十一時。章 米倉を守っていたのは伊東祐麿海軍司令官、仁礼中佐、綿貫小警視の部隊であったが、薩軍の兵力 + を見きわめることができず、出撃をためらっているうちに、城山方面で銃声がおこり、ここでも官兵 が破れて米倉に逃げて来たので、反撃どころではなくなった。このすきに辺見十郎太の本隊が私学校 こめくら
召集兵および後備軍を解く 0 . ワ 1 1 壮兵および旧近衛兵を解散 Ⅱ・太政官に征討費総理事務局設置 0 1 月ロシアでナロード ニキに対する〈人裁 判〉始まる 247
の機先を制して、城兵の士気をさらに高めることが目的であったようである。 別府晋介の先鋒隊が八代を経て川尻の町に入ったのは、二十日午後二時であった。県境を越えると 雪はやんだが、南西の烈風が吹きすさみ、寒気は肌を刺した。とりあえず、本営を安養寺という寺に 設けて疲労した兵士を休養させ、若い元気な兵を選んで斥候とし熊本市内に派遣した。 帰って来た斥候は報告した。 「鎮台兵は自ら民家に放火して城外を清掃し、要所に砲台と木柵を増築し、地雷を埋め、迎撃の戦備 を備えている。火災はまだつづき、城下は避難民の大群で鼎のようにわいているが、鎮台兵の戦意は 堅いようです」 別府晋介は部将を集めて、 「兵は疲労している上に、本隊はまだ到着せぬ。敵が十分の戦備を備えているとなれば、軽々しく進 むことはできない。本隊を待っことにしよう」 部将たちは賛成し、川尻宿営が決定した。 その日の深夜、というよりも、翌日の夜明け前の午前四時ころ、薩軍の哨兵線で一発の銃声がひび いた。これは熊本城を午前一時に出発した夜襲隊の兵士の一人が薩軍の哨兵の姿を見てあわてて発砲 ~ したものであった。薩軍は応射を禁止されていたので、抜刀して進み、闇中の白兵戦となった。斬り まくられて鎮台兵は十数名の死者と負傷者を出し、武器弾薬を捨て、捕虜一名を残して退却した。 かなえ 103 第ハ章熊本城攻防
て、ポートと銃器弾薬を奪って引きあげてきた。 おそらくこれは上陸軍の斥候隊であって、これを全減したからといって何ほどのこともないのであ るが、別府隊の将士には緒戦の大勝利に見えた。隊長の別府晋介も鎮台兵と近衛兵の弱体ぶりを強調 して、 「すでに熊本城は援軍到着せす、食糧弾薬共に不足、士気は最低で、落日の孤城にひとしい。わが全 軍をあげて強襲すれば二日とは保つまい。 いたずらに軍議に時を費すよりも、一挙にやつつけるべき 時である」 西郷小兵衛はかねての持論をくりかえした。 「敵は籠城策に出ている。野戦には勝てても、守城の兵は容易に破れぬ。まして、熊本城は加藤清正 の築いた無類の堅城だ。強襲策は快挙に見えて、実は猪突盲進にすぎぬ。この城にこだわって我が兵 を損傷するのは良策ではない」 「迂回して豊前に出ろというのだな。小兵衛、おぬしと野村忍介は鹿児島出発の際にも同じ説を吐い た。勝利を目前にして、またそれをむしかえすのか」 「政府軍は博多に陸兵を止陸させ、長崎と八代海に海軍をまわしたと聞く。救援軍はすでに南下しつ つある」 いや全国を制圧できる。 「だから、早く熊本城を落せと言っているのだ。この城さえ落せば、全九州 南海のみならず、北陸の同志はいっせいに蜂起する」 「熊本城を落すためにも、小倉に出て関門海峡を制圧する必要があるのた。補給路と援軍を絶てば、 106
さんで散兵線をしいた。時に午後六時、冬の日は早くも落ちて、村も山々も闇に包まれ、聞えるもの は大の遠吠えばかり。降りつづいた雪と氷雨はやんでいたが、二月の寒気は肌を裂いた。 やがて満月に近い月が雲を破り、あたりは白昼のようになった。七時をすぎたころ、薩軍は大窪村 方面から姿を現わした。中隊指揮官吉松少佐は一斉射撃を命じてこれを撃退したが、薩軍はすぐに陣 形を立てなおし、白刃を月光にきらめかせ、喚声をあげて突撃してきた。吉松隊は将校も戦死者の銃 をとって射撃し、力をつくして防戦したが、九時すぎには散兵線を突破されて白兵戦となった。吉松 隊は植木町の連隊本部まで後退したが、薩軍は町を半月形に包囲して猛攻をつづける。 十字火にさらされた乃木連隊長は退却を命じたが、吉松少佐は聞かず、部下二十数名と共に敵陣に 突入して再び帰らなかった。 乃木少佐は連隊旗手河原林少尉に兵十数名をつけて先発させ、負傷者と食糧弾薬の移送が終るのを 待って、町に放火し、郊外の千本松に残兵を結集した。部下を点呼すると旗手の河原林少尉がいない 負傷兵の一人が、少尉殿は植木町脱出の直後、連隊旗を肌につけたまま敵弾に倒れましたと言った。 乃木少佐は敗戦と軍旗を失ったことを恥じて自決しようとしたが、部下にひきとめられた。その時、 津村大尉の第三中隊が高瀬町から到着したので、少佐はようやく気をとりなおし、大尉に殿軍の役目 をたのみ、疲労した残兵をひきいて木葉町にたどりつき、ここに宿営した。 きようどう この日、乃木連隊を撃破した薩軍は五番大隊の村田三介小隊で、その嚮導役をつとめたのは植木付
短気な黒田清隆は、この返事を受取る前に、すでに黒川旅団をひきいて行動を開始していた。 衝背軍の接近を知った籠城軍は、奥中佐に一個大隊の兵をつけて囲みを突いて突出させ、黒田軍の・ 本営に連絡することができた。 「城中の兵は一日粟飯二回、粥一回、文官は二食だけでがんばっている。本月二十日ころまでは支え ることができるが、薬品は全く欠乏し、傷病兵の困苦は言葉につくしがたし」 という報告をうけると、黒田清隆は杖にした青竹で大地をたたき、 「山県、鳥尾如きが何を言おうと、もはや猶予はならぬ」 と叫び、十二日、全軍を進発させて録川を押し渡り、十三日には御船町に進人して、大いに薩軍を 破った。 御船町の守将は、薩軍第五番隊長永山弥一郎であった。彼は熊本城外を巡視中、あやまって佩刀で 足を傷つけ、入院中であったが、御船危うしと聞くと、諸将のひきとめるのをふりきって、人力車で 舸線に向った。永山隊は高島旅団と川路旅団に挾撃されて苦戦中であったが、永山はよく兵をはげま 軍・ して激闘五時間、街道のまん中に酒樽を伏せて腰をおろし、飛来する銃弾を物ともせず、戦局を見守攻 っていた 背 章 味方の苦戦を報告に来る兵士があると、 「わかっている。ここで死ねばいいのだ。わざわざ敗戦を報告にくる必要はない」 と追いかえした。 熊本協同隊の隊士宗像景雄が街道に近い止にのぼって見わたすと、味方の兵はすでに潰走して、目
に事のり」 山県は諸将の城山突入論を抑えて、まず要所々々に胸壁、塹壕を築き、谷の入口には鹿砦を立て、 三重四重の竹の柵をつらね、落し穴を掘った上に、道路に五寸釘を打った板切れをばらまき、柵と堡 塁の内側に哨所を新築して看視兵をおいた。 夜になると、空屋に火を放って照明に代え、海軍砲を揚陸して、破裂弾と榴弾の雨を降らせた。 しかし、城山の実状は山県の恐れていたようなものではなかった。米倉襲撃が最後の反撃であり、 突出の余力はすでに尽きた。残兵は負傷者をもふくめて、わすかに三百五十余名。 正面の第一線は岩崎谷本道。隊長河野主一郎、兵三十二名。 第二線は私学校より角矢倉まで。隊長佐藤三二、兵二十六名。 第三線は二の丸から照国神社まで。隊長山野田一輔、兵三十二名。 以下十一小隊にわけて、それそれの持場を固めたが、このうち銃器を有する者は約百五十名にすぎ なかった。銃弾は桂久武、新納軍八、島津啓二郎らが岩崎谷に製造所を設け、民家の錫器、活字など を集めて鋳したが、その量には限りがあ 0 た。大砲は川尻から運んたもの六門、私学校で奪「た五 門があったが、砲弾が足らず、ほとんど用をなさなかった。 西郷吉之助は九月六日から十日まで岩崎谷野村家の土窟におり、十日から十三日までは旧城内の馬 場に米俵を積み、その上に杉の葉を葺いて雨露をしのいた。十三日には再び岩崎谷にかえり、新しく おさ 220
プロシア軍のメッツ城攻略も豊臣氏の薩摩攻撃も、まず大軍をもって敵を包囲した後、徐々に確実 に慚進して戦果をあげた。 下官 ( 黒田 ) は背面攻撃の大任を奉じ、わずか三大隊半の兵によって上陸作戦を行う。速かに功を 奏したいと思ってはいるが、爬本城背後の地形は特に広く戦線は延びるから、少なくとも六個大隊の 兵が必要である。もはや関東にも関西にも心配の種はない。すみやかに各鎮台の兵をあげてこの戦闘 もし東京府下その他治安に兵を必要とすることがあれば、一時巡査を募ってこれに に投入されたい。 当てればよろしかろう。伏して御裁可を乞う」 大本営は山田顕義少将、川路利良少将に別働旅団を組織させて、援兵として送ることを約東して来 た。黒田は喜んで作戦に乗出した。 三月十九日、まず高島旅団黒木中佐の部隊が日奈久付近に上陸し、薩軍の海岸警備隊と衝突し、こ れを撃退した。 黒田清隆は二十一日午後、日奈久に上陸、高島旅団と合流して八代町に進撃した。ここまでは薩軍 の抵抗は少なかったが、反撃は次第にはげしくなり、一気に熊本城に迫ることは、黒田の想どおり 不可能であったので、戦線を縮小して援軍の到着を待った。 三月二十五日に、山田、川路両少将が東京、名古屋、広島の各鎮台兵二千余名と巡査隊約千名をひ きいて八代に到着した。 山田顕義は長州出身で、大村益次郎直系の軍人であり、小ナポレオンと呼ばれた戦略家であった。 彼の起用の事情は、木戸孝允が京都から岩倉具視に送った手紙がよく説明している。 172
魚 の 戦闘は日没と共に一応終った。 退却した薩軍は長井と俵野の部落に残兵を集結した。西郷吉之助は俵野部落の児玉熊四郎の屋敷に湖 入ったが、軍議は諸将にまかせた。 「皆よく戦ってくれたが、敗戦だな。官兵もなかなかよくやった。もう悪あがきはやめよう。おれは十 先に寝せてもらう」 と言って、奥の部屋に入ってしまった。 生命は終る。しつかり指揮を頼むそ」 樫山の本営から見おろす延岡北方の平地は両軍の兵士で埋まり、混戦状態になった。砲声がとどろ き、銃弾が交錯する下で、白刃と銃剣による白兵戦がつづいた。やがて無鹿山と和田峠の薩軍も山を おりて乱戦に加ったので、山田旅団は一時は押され気味に見えたが、続々と到着する援軍に力を得て もの 隊形を立てなおし、豊富な武器に物を言わせはじめたので、正午に近いころ、まず長尾山の陣地が占 こあずさ 領され、つづいて和田峠、堂坂、小梓峠の薩軍も総崩れとなって、長井村方面に壊走した。 山田顕義はこの機を逸せす、全軍に北川渓谷への進撃を命じ、可愛岳山頂にも増兵して、徐々に完 全包囲の鉄環を縮めて行った。 豊後ロから南下する熊本鎮台兵と別働第一旅団の兵を合せると、実に六個師団。いかなる猛魚も猪 もこの鉄網を破ることは不可能と思われた。
ら、こんな小塁は一日で落ちる」 これを聞いていた警視庁巡査隊の上田警部は仲間の警部と共に、十一日、山県中将に抜刀隊組織の ことを願い出た。山県は「よく考えよう」と答え、翌日の午前、上田を呼出し、抜刀隊組織を許した。 集まる者三百余名。「官軍抜刀隊」の名はこれより高まり、唱歌にまでなって二十年ごろまで愛唱され 東京日日新聞主筆福地源一郎桜痴は山県の軍に従軍して戦報を書いたが、その中で、 「徴兵の勇壮なるは実に想像の外に出でたり。それ見よ。日本人民の勇壮は必しも士族の固有とは言 うべからざるを」 と絶讃しているが、これは政府のための宣伝臭が強い。徴兵もよく戦ったが、福地の従軍記事を引 用して、西南の役は百姓町人出身の″人民の軍隊〃が士族兵を破った戦闘たと結論するのは軽率であ る。巡査隊はすべて士族出身者であり、よく戦ったのは彼我の士族同士であって″鎮台の百姓兵〃で よュなかった。 三月十三日の山県有朋の論告がある。 「およそ戦闘線に列したる兵卒にして、戦に臨んで退却し、または頽れ立ち、全軍の兵機をやぶり、 の そうくす 軍機を誤らしむる者は、将校ら用捨なくこれを打殺し斬殺して総崩れの患を防ぐべし」 徴兵制が徹底し成熟して文字通りの強兵となるのには日清、日露戦争を待たなければならなかった。九 少なくとも西南戦争における平民軍は、「またも敗けたか八連隊、それで勲章九連隊」と歌われたほど、 0 常に督戦を必要とし、武器を捨てて敵前逃亡も敢てする弱兵であった。 うれい