別府晋介、兵站監には桂久武を任命した。総勢約四千五百であった。 そのほかに、高鍋隊 ( 隊長秋月種事 ) 、飫肥隊 ( 小倉処平 ) 、佐土原隊 ( 島津啓二郎 ) 、福島隊 ( 坂田 諸潔 ) 、都城隊 ( 東正胤 ) 、中津隊 ( 増田宋太郎 ) 、熊本隊 ( 池辺吉十郎、佐々友房 ) 、協同隊 ( 有馬源内。 元隊長の平川惟一、宮崎八郎は共に戦死 ) 、竜ロ隊等合わせ約二千五百名も脱落することなく人吉城下 に入った。 182
は吉井さんも伊地知さんもいる。大山巌も川村純義も先生の話なら聞く。三条、岩倉両公も韓国の大 院君ではない。陛下の御信頼の厚い西郷先生を殺すなどということは絶対にしない」 吉之助は目をつぶったまま、何も言わなかった。 桐野が引きとって、 「甘すぎるそ、永山。現政府には木戸孝允とその一党がいることを忘れるな。木戸は大村益次郎の生 きているころから、薩摩を仇敵視していた。奇兵隊を弾圧し、江藤を梟首し、同郷の前原一党を無残 ・ : 木戸一派が私学校党のみな殺しの計画を進めていること に殺戮した残酷非情ぶりを見るがよい。 は、久光公でさえ見抜いた。起っても賊、起たざるもまた賊。 : : : 南洲先生の単身上京など夢の夢、 無謀も甚たしい」 「無謀かな」 「ます熊本まで出ることだ。池辺吉十郎、佐々友房の党が待っている。民権党の宮崎八郎、平川惟一 : 熊本の町はもはや我が手中にあると言っても過言ではない」 とも連絡がついている。 池辺吉十郎はつい一月ほど前に鹿児島を訪れている。彼は熊本郊外の樺島村に家塾を開き、青年を 集めていた。年はちょうど四十歳たが、維新前は京都の志士のあいだで活躍し、やがて帰国して細川 藩少参事となったが、すぐに辞職して、鹿児島に遊び、今藤宏の塾に籍をおいて、桐野、篠原、村田 などと交友した。神風連の乱の際には動かなかったが、西郷党に望みをかけ、十年正月には門弟佐々
″馬鹿なことを言うな〃とどなりつけたにちがいない。五十一歳の西郷吉之助は、権力の虚しさを知 り、政治という俗事はそれに適した適材に委せるべきものと達観していた。だが四十歳の池辺と二十 三歳の佐々友房は、それそれおのれの心で西郷の心を推し、西郷内閣首相という村田新八の造語を西 郷自身の抱負として受取った。 池辺吉十郎は村田の発言に興奮して、 「まさに同感である。もし西郷先生がその志を達して全権力を手中にしたら、敵し得る者はなかろう。 たたし天皇陛下に対し奉っていかなる態度をとるか、それをおうかがいしたい」 「何を心配なさる。西郷先生の尊皇の精神は終始変ることはない。正成となっても絶対に尊氏にはな らぬ人物だ」 「よくわかりました。しかし、いよいよ戦争となって、わが方が勝利したら、狡猾なる在朝の奸臣ど もは天皇を擁し奉って海外に逃げるということも考えられます」 村田新八は驚いたようであったが、さりげなく答えた。 「だからこそ、西郷先生は今日まで自重して立たす、苦心して対策を練っておられるのだ。すでに成 算は胸中に熟していることであろう。われわれは安心して、すべてを先生にお委せしている」 この返事は村田の逃げ口上であろう。同時に西郷への一途な信頼の現れでもある。いずれにせよ池 辺を喜ばせるのに十分な言葉であった。 佐々友房の「戦袍日記」は記している。 かたち 「池辺氏、容を改めて曰く、君にしてこの言を出す。吾れ豈に信を置かざるを得んやと。ここにおい むな 5 第七章戦袍日記
て手を握り、歓をつくして去る」 帰りの道で、佐々は " 村田の話だけでは安心できません。南洲翁に会いに行きましよう″と言った が、池辺は首をふって、 「その必要はない。おれは前にも村田に会ったことがあるが、あの男はほとんどしゃべらず、数時間 対座して、ついに要領を得ずに別れた。だが、今日はよくしゃべった。腹の底までうちあけてくれた。 西郷翁に会っても、これ以上の話をひき出すことはできまい」 西郷の蹶起を信じ、その時期も近いと見た池辺は、帰郷の後、門弟の松崎迪を今藤宏に頼んで鹿児 」島県庁に勤めさせた。三月の初め、松崎はとんで帰ってきて、私学校徒の弾薬略奪事件と " 西郷暗殺 団〃捕縛のことを報告した。吉十郎は爆発は必至と見て、学校党の同志を集め、武器の準備と弾薬の 製造を命じた。時の熊本県令富岡敬明は佐賀の産で、旧藩時代に脱藩突出を企てて捕えられ、独房に あること十数年、維新後釈放されると健在を証明するために高下駄をはいて市中を濶歩したという豪 快男子である。政府は神風連に殺された安岡県令の二の舞をくりかえさぬために、この奇傑を県令の 椅子に据えた。彼を補佐指導するため、大久保利通は内務大書記官品川弥二郎を派遣しておいた。品 川は人も知る松下村最年少の門人で、若年ながら長州の密使として京都の薩摩藩邸にひそみ、西郷 にも愛せられて、縦横の活躍をした。維新後はドイツに留学、帰朝して内務省に入り、前原一誠反乱 の際には現地におもむきよく鎮定の功を立てた。 この品川と富岡を首脳とする熊本県庁が池辺吉十郎一派の不穏な動きを見のがすはずはない ます県令の名で池辺吉十郎、桜田総四郎、佐々友房以下七名の「学校党」幹部を呼び出し、人民鎮 かん 126
ま、よよ、つこ。 、カ . ( 子 / 1 刀ュ / これで県庁とは縁が切れた。池辺吉十郎はその日のうちに檄をとばして、江津小学校に同志を集め た。集まるものは千人を越えた。予想以上の数であった。 池辺吉十郎は会衆に向って演説した。 はないき 「現今の時局は、奸曲の徒が政府の大官となって、私権をもてあそび、外国人の鼻息をうかがって 国体を汚し、庶民に重税を課して、不急の事業を営んでいる。文明開化の美名のもとに忠孝の道をお ろそかにし、人智開発に托して廉恥の美風をやぶる。祖宗の法度、皇国の正気、今いずこにあるか。 実に草莽の志士たる者の憂憤措く能わざるところであるが、今日まで隠忍してきたのは、正邪分ちが たく、玉石共に焼くことを恐れたからである。然るにこのたび西郷翁暗殺事件の発覚によって政府の 奸曲は白日の下に曝露された。 そもそも国家には法典がある。細民の小事件もよく反覆審理してその刑罰の公正を期する。西郷翁 のわが帝国に対する勲功は千歳に並ぶべきものがなく、罰せらるべき行動は全くない。しかるに、政 くそ 府の老賊巨盗連は西郷翁がおれば私利私曲を営むのに不便なので、狗鼠のごとき密偵を放って、この 忠良の人を殺害せんとはかった。天人共にゆるさざる卑劣事である。度量海の如き君子人も勘忍袋の 緒を切らして、政府問責のため上京の途に就かれたのである。 我らはもとより乱を好んで天朝に抗するものでない。願うこころは君側の奸を除き、蒼生を安んじ '
「もちろんのこと。あと三日ももったら、その方が不思議です」 吉十郎の答えは確信的であった。微笑しながら、兵士たちがあわただしく動きまわっている庭先を ながめて、 「それにしても、この家はすこし狭すぎますな。本営の警備隊は何名ですか」 「二百人ほど」 「春日村の北岡神社にお移りになったらいかがでしよう。拝殿も社務所も広いし、神主の光永大膳は 私の親友で同志ですから、いくらかおくつろぎになれると思います」 「それはありがたい。喜んでお言葉にあまえましよう」 133 第七章戦袍日記
田原坂上の高地を占領し、旅団本部に大勝利の戦報を送り、主力部隊の出動を求めたが、三好少将は 乃木軍の前進をさしとめ、退いて休養せよと厳命した。旅団本部には、各部隊の損害がおびただしく、 決して″大勝利れとは呼べないことが判明していたのだ。この日もまた乃木軍の戦死者は四十九名、 負傷者五十五名。 これにおとらぬ打撃をうけたのが「熊本隊」であった。池辺吉十郎は隊士約五百名をひきいて吉次 峠を越え、菊池川に向って進む途中、先発の熊本隊が寺田村付近で苦戦中という報告をうけた。池辺 は寺田村に駈けつけたが、戦闘はすでに終り、敵は高瀬川を渡り、堤のかげに休息していた。池辺は これを攻撃するために部隊を散開させて前進した。ふと見ると、行く手の雑木林の中に小部隊がいて、 薩軍の用いる赤い小旗をふって合図をしている。味方と思って近づくと、たちまち、伏兵が起ってス ナイドル銃の猛射をあびせかけてきた。銃撃戦になれぬ熊本隊は応戦のひまもなく、撃ち散らされて ばらばらになってしまった。 気がつくと、池辺吉十郎は三十名ほどの隊士とともに十字火の中に孤立していた。池辺は村の神社 の境内に退避し、部下には射撃を禁じて石垣のかげに身を伏せさせ、自分だけは鳥居の台石に腰をお ろしてタ、、ハコをふかしていた。 官兵は村の民家を焼きはらいながら、じりじりと接近してくる。我慢しきれなくなった小隊長と兵 士三人が白刃を抜きつれてとび出して行ったが、たちまち乱射をあびて斃れてしまった。 それでも池辺は動かず、敵が数十歩の距離に近づくのを待って、 「撃てつ、今だ ! 」 139 第八章樹ドに死す
池辺吉十郎は長く細川藩京都詰公用人をつとめ、明治二年熊本藩少参事に任命された。当時の熊本 士族は横井小楠系の「実学党」と国粋派の「学校党」とに別れ、ことごとに反目対立していたが、「学 校党」の領袖である池辺は、県庁の実権をにぎる「実学党」の目の仇にされて辞職した。その後、鹿 児島に赴き、今藤宏の塾に入って勉学のやりなおしをした。師の今藤は「当世の若者で功名を求むる 者はみな東京に行くのに、君が寂莫の郷と化した鹿児島にきて、寒燈の下で読書し、道を求めるのは まことに珍しい」と喜んだ。西郷とは会う機会はなかったが、桐野篠原等とは親しく交友した。明治 四年藩命により呼びかえされたが、いくらすすめられても公職に就かず、熊本を去る六里の玉名郡横 島村に馬小屋のような小さな私塾を開いて門弟を養った。神風連蜂起の際には、門弟佐々干城、友房 兄弟と協議して同志をいましめ、敢て動かなかった。鹿児島の西郷党が動かない限り、天下のことは ならぬと信じて、ひそかにその時期を待ったのた。 十年正月の初め、吉十郎は佐々友房をつれて鹿児島に行き旧師今藤宏を訪ね、まず島津久光の家令 内田政風と時事を談じ、さらに桐野と篠原に会おうとしたが、いすれも不在、やっと村田新八を探し せんにう あてて意見をたたくことができた。若い佐々友房はその「戦袍日記」の中に、この時の村田の印象を 次のように記している。 らんらん とうはん よわい 「齢四十ばかり、容貌魁梧、眼光爛々、頭上に刀搬あり、挙止沈重、気烙おのすから人を圧す」 まず池辺が口を切った。 「時勢はすこぶるはかどったようですな」 村田は天井を仰いで徴笑しただけであった。 かい・こ じゃくまく ちんちょう 122
ず、給仕の者に茶を所望して、しばらく肩で息をついていた。 吉之助は二人の姿を眺めて、 「飯もまたらしいな。食うか」 「飯どころじゃない」 小兵衛は答えた。「強襲はすべて失敗です。熊本城の攻略はただちに中止し、迂回北上することを進 言に来たのです」 吉之助は茶碗をおいて、 「それは、おまえと野村の最初からの持論だったな」 「そうです」 「この調子では、熊本城は十日待っても落ちないでしよう。全軍もそろわず、砲兵 野村は答えた。 隊も到着しない先にとび出して行ったのだから、味方の死傷者の多いのは当然です。桐野さんは青竹 の杖をふりまわして、このひとふりで熊本城は落してみせると豪語したが、強襲はすべて失敗しまし : 別府晋介に至っては、熊本隊の池辺吉十郎が攻城の戦法をたずねた時、これしきの城に戦法 も戦術もいるものか、一気に押しきるだけだと答えたので、池辺氏はあきれかえったそうです。池上 隊は坪井川を越えることができず、桐野隊も別府隊も城壁にさえ取りつけずに、敵の逆襲をうけて散 々な目にあっております」 吉之助は眉をよせて、 「まるで敗戦のように聞えるが : ⅱ 6
日は暮れはてていた。友房は隊士たちに命じて砦の要所要所に篝火を焚かせた。 ・ : それから、食事の用意だ。おれは高島君、 「もっと焚け。百人が五百人千人に見えるように焚け。 古閑君と砦をひとまわりしてくる」 火は峰をつらねて燃えつづけた。 夜は史けて、山頂の夜気が肌を刺しはじめたころ、池辺吉十郎が部下三名をつれて、ゆっくりと峠 道をのぼって来た。 哨兵の叫び声を聞いて、佐々友房は若い猪のようにとび出して行った。 「先生、案じていました。敵に包囲されて孤立したと聞きましたので : : : 」 「ふふ、今日は手ひどくやられたよ」 「しかし、御無事で何より。こんなうれしいことはありません。ます、焚火におあたりください」 ・ : 敵も相当やりおった」 「まだ敗けたとは思わぬが、 、 - とこかに傷でもうけたらしい。上体をゆっ 池辺の声は元気だったが、動作はのろのろとしてした。・ くりと曲げて焚火にあたり、寺田村付近の苦戦を笑い話のように物語って、 「本隊は死傷六七十人も出したかな。特に遠坂と田原の二小隊がひどかったようだ。おれも左腹を敵 弾にかすられた」 「敵愾隊、悉く此の樹下に死す」 142