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検索対象: 西郷隆盛 第22巻
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1. 西郷隆盛 第22巻

「自白の調書があるとしても、自分の暗殺を理由の挙兵は私憤に類する。 べきことではない」 「しかし、挙兵上京は決定したのだろう」 「とても抑えきれなかった。東京までついて行ってやらねば、途中で何が起こるかも知れぬ」 「おぬしがついて行けば、戦争は起らぬというのか」 「江藤前原の二の舞だけはやらせたくない。 とにかく東京までたどりつけば、吉井、伊地知もいるこ とだし、必す大久保とも話がつく」 「なにを馬鹿な。一万の武装兵をひきいて行けば、県境を越えると同時に戦争だ」 「その戦争をやりたくないのだ。なにか名案はないか」 「ふふふ、ロではそんなことを言うが、おぬし、内心では伏見鳥羽から始まった討幕戦争のように、 行く先々で味方が増えて、万事うまく行くと思っているのだろう」 「桐野などはその考えのようだが。 : しかし、今度はちがう。一歩まかりまちがえば朝敵だ」 「遠慮は無用。おぬしは陸軍大将、桐野と篠原は陸軍少将だ。月給はまだ陸軍省があずかっているそ うだから、現役と見てよかろう。おぬしらの名で各鎮台と県庁に、政府尋問のために上京すると通達 出 を出したらどうだ。現役の陸軍大将、少将が兵を指揮しても朝敵とはいえまい」 「いかん、無用の小策だ」 「勝てば官軍 ! 」 「その言葉は嫌いだ」 ・ : 少なくとも男子のなす

2. 西郷隆盛 第22巻

「河野、その考えは甘い。我らは動くも賊、動かざるも賊の立場に追いつめられている。現政府には 大久保、吉井、伊地知その他大勢がいるが、決して薩摩人だけの政府ではない。木戸、伊藤、大隈、 山県がおり 、熊本鎮台には土佐の谷干城、広島鎮台には長州の三浦梧楼が配置されている。西郷先生 の一行が道中無事に東京までたどりつける保証はない」 そうだ、そうだという声がひとしきり高くなった。 「待て、おれの考えも聞いてくれ」 立上がったのは村田三介であった。彼は陸軍少佐で三十三歳。薩軍の小隊長として、熊本植木の激 戦では第十四連隊乃木軍の軍旗を奪い、後に鍋田で戦死した闘将である。 「西郷先生は大切なお方だ。今はまだ先生を陣頭におし立てるべき時ではない。永山さんのいうとお り大挙出兵すれば、県境を越えると同時に戦争になる。単身上京なされば、途中で食いとめられるこ とは、池上君の言うとおりだ。 : まず、おれに五百人の兵を借してくれ」 「五百人で何をする」 「突出して斬り死か」 と叫ぶ者があった。 村田三介は一座をにらみまわして、 「そんな馬鹿なまねはせぬ。五百名の兵で中原尚雄一味を東京まで護送し、その罪状をあげて正式の

3. 西郷隆盛 第22巻

煽動する大山綱良に吉之助は真顔で答えた。 「おれは大久保を君側の奸だとは思 0 ておらぬ。あれはあれで誠意をかたむけている。ただ、青年た ちを怒らせる多くの失政が現政府にあることだけは認める。その点を政府と大久保に尋問するために 上京するのだ」 大山は笑って、 「暗殺事件はどうだ。失政どころか、陰険きわまる陰謀た。大久保は昔からそんな奴だ 0 た。この一 件だけでも、大久保打倒の名分は立つ」 「そうはいかぬ。刺殺云々は中原某の酔余の放言だ。・ とう考えてみても、大久保がそんな命令を出す はずはない」 「動かぬ証拠があるじゃないか」 大山は西郷進発の後に捕えられ、東京に護送されて裁判所の訊問をうけ、長崎に転送されて斬首の 極刑に処せられた。彼が死を覚悟して西郷と私学校党を擁護し裁判官に抗論したからだと言われてい る。ただし、法廷における彼の供述書には、県庁は必ずしも西郷の上京と私学校党に協力したわけで はないことを弁明したかのように見える節も多い。これは、被逮捕者の気の弱りの故か、それとも裁 判官の作為か、必ずしも文字通りには信じがたい。私学校徒の挙兵については、むしろ煽動者であっ たと見る方が正しい

4. 西郷隆盛 第22巻

たら、鎮静の機は去った。刺客団云々の件は、おれの一身に関することだから、自分でその真否をた だすのはいささか穏当を欠くが、こうなったらやむを得ない。上京して大久保に会い、直接尋問しょ 、つと田学つ」 と語ったと、大山の東京裁判所における供述の中にある。この供述書には記億ちがいが多く、必ず しも真相の全部を語っているとは思えぬ。年表によれば、大山県令が、中原一党のロ述書を西郷に提 示したのは二月十一日である。その後さらに、密偵野村綱の自首事件があり、野村のロ述書が、私学 校教授今藤宏の手を通じて西郷に渡されたのは二月十三日であった。 ついでに付け加えれば、中原、高崎、安楽をはじめ密偵団のほとんど全部は、後に各県知事その他 の高官に任命されている。 " 拷問の報酬というべきか。 23 第一章流血の獄舎

5. 西郷隆盛 第22巻

が軽挙だ。今の政府は四年前の政府ではない。陸海軍と警視庁の整備は昔とくらべものにならぬ。軍 人も官員もよく勉励して知識を世界に求め、進歩の意気にも燃えている。おくれているのは、田舎に ひっこんだ我々のほうだ」 桐野が目をいからせて永山をにらみ、 「それはおぬしの持論たが、その説はもうひっこめたはずではないか。現政府は長所よりも欠点の多 い専の府に化してしまった。人民の福祉も興国の理想も忘れはてて腐敗と堕落のどん底にある。顯 覆以外に治療法はない」 永山は静かに切りかえした。 「今日は軍議の席だ。おれの意見を今一度、諸君に : : : 特に西郷先生にも聞いてもらいたいのだ」 桐野はいきり立って、 「おぬしは相変らず西郷先生の単身上京説だな」 「そうだ。おれは政府の味方をしているのではない。曲は大いに正さねばならぬが、挙兵上京はいか にも大袈裟だ。一万二千の兵をひきいて行けば、いやでも内乱となる。西郷先生の素志が内乱にある蛇 の とは、何としても考えられぬ」 中 と言って、永山は大講堂の床柱を背負って正座している吉之助をふりかえった。吉之助は両手を膝雪 において両眼をつぶっていた。永山はつづけた。 四 「征韓論のときにも、先生は一兵もひきいず渡韓されようとした。まして、今度のことは国内問題だ。 大久保と話合うのに兵隊はいらぬ。孤剣飄然、門弟の二、三人もつれてお行きなさるがよい。東京に

6. 西郷隆盛 第22巻

第四章雪中の蛇 一月八日には、篠原国幹が主任となって部隊の編成が開始された。桐野利秋と村田新八は顧間、松 永清之丞、河野主一郎、西郷小兵衛、堀新二郎が審査員となり、渋谷精一郎以下十数名の書記と共に 本営会議室にとじこもり、私学校名簿、警察官簿、志願者名簿をもとにして、人員を取捨選択し、七 個大隊、砲隊、輜重隊、大小荷駄隊、医療班等の組織を進めた。兵員は私学校徒だけでも一万を越え たが、軍資金と武器弾薬は乏しく、特に大砲と汽船軍艦が不足しているので、隊士の数が増え、志気 が上がるにつれて、幹部たちの頭は痛んだ。 その間に、軍議もたびたび開かれたが、回を重ねるたびに作戦方針が変った。 蛇 まず、西郷小兵衛が海路による東上を主張した。 「出兵が決定した以上、ぐずぐずしていては敗戦のもとだ。兵は遅巧よりも拙速を尊ぶ。陸路をのろ中 のろと歩いて行ってはまにあわぬ。幸い、前之浜には政府から奪った汽船が三隻ある。これを使って雪 長崎を衝き、停泊中の軍艦を奪取し、兵を二軍に分け、一軍は神戸と大阪に直行、一軍は横浜に上陸 して東京を衝くのが上策だ」 しかし、三隻の汽船は軍艦でなく、せいぜい運送船の役にしか立たぬので、長崎の軍艦奪取は不可

7. 西郷隆盛 第22巻

友房をつれて村田新八に会い、ひそかに蹶起のことを謀議した。 宮崎八郎は植木学校の宮崎、「評論新聞」の宮崎として名が聞えていた。植木学校は明治七年に創立 おきら され、ここに集った崎村常雄、平川惟一、有馬源内、高田露等は熊本民権党と呼ばれた。宮崎八郎は もともと洋学書生で、藩校卒業後、明治初年に藩命により上京して、尺振八の塾で英学を修め、西周 について万国公法を学んだが、生来の叛骨を抑えきれず、征韓論を支持する上中書を左院に提出し、 七年の岩倉具視襲撃事件では容疑者の一人として逮捕投獄された。江藤新平の乱に参加しようと帰国 したが間に合わず、征台の役では同志を語らって″勇義隊〃を組織し蛮地に遠征した。あわよくば台 湾を根拠として大陸経営に乗出そうと企てたのである。 ( この志は後に孫文の友として支那革命に先 駆した実弟宮崎滔天によってうけつがれた ) 。 帰国後は県令安岡正亮を説いて植木学校を起した。八郎が東京で手に入れた中江兆民訳ルソーの 、、ルの「自由論」と共に学校の経典となり、また八郎自身、海老原穆の「評論新聞」にし 「民約論」が、 ばしば投稿して激烈な政府攻撃の文章を発表したので、植木学校と熊本民権党の名は大いにあがった。 明治八、九年のころ再上京して「評論新聞」記者となり、筆禍を買って投獄された。出獄後は帰郷 して再び植木学校にこもり、 " もはや事を共にするは西郷党のほかになしれときめて、私学校幹部との中 連絡を絶やさなかった。 桐野と篠原は、これらの熊本の有志の動静をよく知っていた。豊前中津からは増田宋太郎が訪ねて四 第 くるし、その他、人吉、宮崎、延岡、高鍋、佐土原、福岡、佐賀、土佐、紀州等の有志からの情報も 手もとに集まっているので、軍議の席上では、両人とも、

8. 西郷隆盛 第22巻

「私学校は政府にとって一大腫物の如きものだ。自分の考えでは、別に盛大な学校を設立し、郷土の 青少年の学問の方向を定めて、私学校生徒の数を減らし、諸郷の分校においても同じ離間策を実行し て、次第に腫物を小さくするよりほかはない」 さらに正月二十九日に、野村を呼び、 「三十一日の飛脚船で出発せよ。鹿児島人の気性は熱しやすくさめやすいが、この情勢では、二三月 ごろが危険である。目下、陸軍省に命じて火薬銃器を撤去させているが、それが完了するまでは事を 荒だてたくない。鹿児島到着の上は、さほど重大でないことは郵便または電信で報告してくれればよ ろしいが、動揺甚だしい時は、御苦労ながら直ちに上京してくれ。暴発の節は郵便は止まり、電信は 切れる。陸海軍を動かすのには時間がかかる上に、確実な証拠なしに出動させては、人民の騒ぎにも なることだから、その節は東京まで駈けつけてもらいたい。すでに警視庁からも捜索係を差出してあ り、みな決死の覚悟で活動している」 と言って、密偵団の名簿をみせ、旅費通信費として当時としては高額すぎる金百円を手渡した。 野村綱は神戸から汽船迎陽丸に乗り換え、二月九日に鹿児島前之浜に着いた。この日の入港船は他断 に二隻あったが、私学校生徒による埠頭の検問が厳重を極めたので、野村は知人の印鑑を借りてやっと と上陸できたものの、中原一党の逮捕のことを知って、十一日の夜、県庁に自首し、第二分署で野村友 忍介署長の取調べを受け、何もかもしゃべってしまった。 第 「機敏なる野村は、策の施すべき余地なきを見て、むしろ逮捕拷問の惨酷なる取扱いにあわんよりは 自首するに若かずとして、右の如き措置をとったものであろう」 しゅもっ

9. 西郷隆盛 第22巻

3 ・大分県士族増田宋太郎ら、中津支庁などを襲う ( 4 ・ 1 大分県庁を襲撃し失敗。西郷軍に合流 ) ( この月、足尾銅山を古河に払いさげる ) 大分県宇佐下毛各郡五十余力村に一揆起る 4 ・ 8 熊本籠城軍と官軍の連絡なる 4 ・貶東京府士族板橋盛興らの挙兵計画発覚する 黒田清隆の率いる政府軍、熊本城に人る ・ % 内閣顧問木戸孝允没 ( 歳 ) 9 巡査一万千余人を募集し新選旅団を編成 ^ 0 ・ 1 山口県士族町田梅之進の挙兵計画発覚す 立志社代表片岡健吉、国会開設建白書を上呈、却下さる 西郷軍紙幣を製造、日向地方で使用 ( 西郷札 ) 天皇、関西巡幸から東京にご帰還 8 ・ 8 土佐立志社の林有造らの挙兵計画発覚し捕縛さる 9 ・ 2 徳川家茂夫人 ( 和宮 ) 没 ( 歳 ) 9 ・城山陥落。西郷隆盛 ( 歳 ) 、桐野利秋 (* 歳 ) ら自刃。 ( 西南戦争終る ) 9 ・鹿児島県令大山綱良、斬罪 ( 歳 ) 4 月露土戦争はじまる 246

10. 西郷隆盛 第22巻

これに対する岩倉の返電は、 「陛下の東京還幸は延期して、京都または大阪にとどまり、号令一途に出でて前進の勢を張ることが 肝要である」 と述べ、さらに追いかけて、つけ加えた。 「自分もまた勅使を派遣し、久光と西郷を京都に呼びだすのを良策と思う」 岩倉もまた、西郷が私学校党と行動を共にするとは思っていなかったのだ。 二月七日付けで、大久保が京都の伊藤博文あてに書いた長文の手紙は極めて興味深い 「 : : : 南海の近況いよいよ狂濤を発し候趣き、熊本県令の電報によれば、陸軍の弾薬も強奪の様子。 おそらく事実なりと想像致し候。この上は、現地に派遣した川村純義の報告によって実情がわかるこ とと思うが、いずれにしても、この度は破裂と見据えるほか御坐なく候」 川村純義海軍大輔と林友幸内務少輔の鹿児島派遣は京都の閣議で決定され、すでに二月七日、神戸 港から高雄丸で出発していた。この件はもちろん東京に報告されたが、大久保は川村に「ぜひ西郷に 直接面接せよ」と命じた。 「この度の暴挙は必ず桐野以下班々の輩において即決せしものと推察される。その証拠には、最近の 情報によれば、一月下旬ころは西郷は日当山へ入湯致しており、桐野宅に壮士輩昼夜をわかたずしき りに集まれり。 " 西郷の持論は、政府は必す外国と事をおこすに相違ないから、その時は断然突出する はんはん