上申書 - みる会図書館


検索対象: 西郷隆盛 第3巻
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1. 西郷隆盛 第3巻

これが水の本性であり、人の心の常態だ。 ・ : 天下の 「淵にいたれば淀み、瀬に達すれば激す。 ことを思って憂い、藩の実状を考えて憤るのを、心の乱れとはいわぬ。それこそ心の常態だ。 の正常な動きを乱れと思うから、いつまでも心が静まらぬ。正しい政治を求めて動く姿は、心の正態 ・こ。乱れと思ってはならぬ」 「ただ、私心があってはならぬ。私慾があっては、心は淀むべからざるところに淀み、激すべからざ るところに激する。 : わしがお前に加えた鞭は、政治のことを考えるなという鞭ではない。私心と 慾心をたたき出せという鞭だ。 : おのれのために求めるところなく、おのれをむなしうして、新政 お前はもう斉彬公に上申書を書いたか ? 」 を願う心は、俗気でもなく、世俗心でもない。 「まだ書きません」 「なぜ書かぬ。ーー襲封早々、いろいろと心づかぬ点も多いだろうから遠慮なく意見を申しのべよ、 上は家老から末は下役人にいたるまで、我意と私心を排し、正を踏み、上下の意志を疏通させて新政治 ・ : 坐っているだけが禅ではない。 を行いたいと、斉彬公ははっきりと布告されているではないか。 早く帰って上申書を書け」 「上申書など書くのは、すなわち上に求むる心の現れではないでしようか ? 」 「形にとらわれるな。石の上に坐っているつもりで、無私無慾、思ったままの意見を書けばいいのだ」 しゅもく 和尚の目は鋭く、そして言葉は優しかった。「殿様を大きな鐘だと思え。お前は撞木だ。どんな名鐘も 撞木がなければ鳴りひびかぬ。思いきりぶつかってみろ。鐘と撞木の間が鳴って、新しい政治の音が そっう

2. 西郷隆盛 第3巻

ことのように嬉しげに、「国を富ませるためには、百姓を富ませるよりほかに道はない。藩の倉庫にい 2 くら金穀を積んでも、国が富んだことにはならぬ、というのが、殿様の御持論だと聞いた。それを着 着と御実行になっているのだから、もう安心だよ」 「さあ : : : 果して御実行になっているかどうか ? 」 兄さんは農政のことについて、何度も上申書を書いてい 「変だね、何かまだ不平があるのかい。 たようだったが、その意見なども、ぼつぼつおとり上げになっているのではないのかい。たとえば常 平倉のことにしても、あれは兄さんの日ごろからの持論だったろう」 「いや、常平倉のことは、僕も考えていたが、上申書には書かなかった。殿様の方から進んで御実行 になったのだ」 「では、なおさらありがたいじゃないか」 事実、斉彬の藩政改革は、まだ吉之助たちを満足させる程度ではなかったが、着々と進んでいた。 改革の中で、もっとも目立ったものは、十月十日に施行された常平倉制度であった。 これは藩庁直轄の倉庫を各地に設け、武士と百姓の年収の中から一定の割合で米を買上げ、凶年で 米価が騰貴したときに、廉価にその米を払い下げるという制度で、凶年を救うことと、米価を安定さ せることを同時に狙ったものである。 十一月には、質素節倹の令が発せられた。各自、分を守り、諸事簡略を旨とし、無益の酒会、賭け

3. 西郷隆盛 第3巻

「それで安心した。 今、そんなことを上申しては大変なことになる」 「何が大変だ ? 」俊斎は真っ赤になって、「現にあんたの父上も遠島中、あんた自身も謹慎中だ。その 赦免こそ新政の第一歩ではないか ! 」 「そうは行かぬ。新政にもおのずから順序がある」 「大久保 ! 」吉之助が叫んだ。「僕も上申書を書いたそ」 「えつ、君もか ! 」 「昨夜書き上げて、今朝提出して来た」 「まさか、君は : 「僕も俊斎と同じことを考えているが、今はその点にはふれなかった。もつばら農政に関する意見を 中上げた」 「それならいいのだ」 「上申書を書くことに、君は反対ではないのだな ? 」 「もちろん、反対ではない」 「それならいい。僕は君たち三人に、みな上申書を書いてもらいたいのだ。君公に対して求める心な すなわちおのれの出世や栄達を望むことなく、ただ善き政治を願って、意見を上申すること は、ぜひ必要だと思う」そういって、俊斎の方を向き、「お前が、思っているままのことを書いたのは、 決して悪くない。ただ、奸党誅伐のことは、今しばらく時期を待っ方がいいのではないか ? 」 「な・せです ? 」

4. 西郷隆盛 第3巻

「すぐに俊斎に宛てて斬奸中止の手紙を書き、殿様には謹慎の旨を上申したらいいと思う」 「それだけでいいのか ? 」 という・と ? 」 「僕はまだ生きていていいのか ? 」 才蔵は吉之助の血走った目を見つめていたが、その目の中の妖しい光に気がつくと、あわてて両手 をあげて押しとどめた。 : たとえ 「いかん、いかん、死んではいかん。殿様は決して君に切腹せよとは仰せられなかった。・ はきちがえても忠義は忠義、このたびのことは深く余の胸中に収めて、誰にも知らせぬ、もし碇山将 曹や島津豊後より処分をせまるようなことがあっても、余は事実無根と答えるつもり、事の成行きは 自然にまかせよ、余の叱責によってお前や吉之助が早まった行動をなすなら、これも軽挙の延長と思 え、というお言葉であった」 せぎ 吉之助の目から涙が堰を切ったようにあふれはじめた。 : 」どもりながらいったが、すぐに涙をはら 「殿様が : : : 自分のようなものを : : : それほどまでに : って、「よし、書こう。しばらく待っていてくれ」 机に向って謹慎の上申書と俊斎に宛てた斬奸中止の手紙とを書きはじめた。 「これでいいだろうか ? 」 才蔵は受取って、上申書は懐におさめ、手紙の方を読みかえしながら、 「巨盃のこと大敗せり : : : 遺憾 : : : 筆紙につくしがたし : : : これでは少し簡単すぎはしないか」 ふところ あや 215 第十二章青嵐

5. 西郷隆盛 第3巻

俊斎は不平そうに、 「何を笑うのだ ? 」 なるほど、われわれは孔子でも孟子でもない」長沼嘉 「いや、あまり本当のことをいうからさ。 いかりやましょ ) そう 平は皮肉な口調で、「だから、われわれも暮夜こっそりと碇山将曹と島津豊後の門をたたいて、どう ぞお願いしますと、大いに自己推薦をやってもいいわけだな」 「あんたはすぐにそんなふうにいうからけしからん ! 」俊斎はいらいらと膝をゆすって、「今日の薩摩 はすでに昔の薩摩ではない。ちゃんと斉彬公が上におられる。胸にたまっていることがあったら、何 げんろとうかい でも上申せよと、言路洞開の御布告も出ているではないか ! 」 「俊斎、お前も上申書を書いたな」 「ああ、書いたよ」 「なんと書いた ? 」 「思ったままのことを書いた。一つ、忠邪を明らかにして、人心を一新すること。二つ、奸党の族類 を一掃すること。三つ、正義党の志士を顕彰し、遠島謹慎中の志士を赦免すること : ・ 市蔵は顔色を変えて、 「えつ、本当にそんなことを書いたのか ? 」 「書いたよ」俊斎は得意げに答えた。「当然の要求じゃないですか」 「もう藩庁に提出したのか ? 」 「いや、今朝書き上げたばかりで、提出はまだだ」 ぶんご 21 第一章鉄鞭

6. 西郷隆盛 第3巻

「というと、つまり ? 「殿様のお供に加わりたいと考えているのです」 「まわりくどい話だ。今のところ、薩摩の侍はみな堪忍組か。 に、我慢ができなくなって、とび出して来る連中もあるでしよう」 「じゃあ、私は帰りますぜ」 立上りかけたが、「おっと、お土産を忘れた」と、荷物の中から筆を二本取出して、吉之助の前にお いた。「奈良の鹿毛です。これでせっせと下手な上申書でも書いてもらいましようか」 : だが、まあ仕方がない。そのうち

7. 西郷隆盛 第3巻

も知れぬが とにかくそのような血筋の者に位を譲ることに賛成せよとは、なんとしても聞えぬ。 われわれに息がある限りは、この御内命は奉ずることはできぬ。われわれにロがある限りは、あくま で殿の御決心を諫止しなければならぬ ! 」 「そのとおりです」新納嘉藤次は俊斎の方に向きなお 0 て、「い 0 たい西郷は江戸で何をしているの だ。お庭方とあらば、殿の御決心を前も 0 て知らぬはずはない。殿の御信頼を暗に誇るような手紙を たびたびわれわれに向って書いておりながら、諫止の言葉は一言も吐けなかったのか。 : こんな御 内訓をのめのめと持って帰るとは、俊斎、お前もお前だそ ! 」 いつもなら顔色を変えて怒鳴るところであるが、俊斎は珍しく怒らず、 「では、諸君の考えはきま 0 たわけですね。あくまで諫止、御内命は遵奉する能わず : ・ : こ 「もちろんだ ! 」 「それなら、西郷も僕も全然賛成です。江戸にいる同志はすべて、伊東才蔵も大山正円も樺山三円も 同意見です。 : : : 伊東は殿に直接に申上げたし、西郷は何度も諫止の上申書を書いています。江戸の 同志たちも、決して怠けていたわけではなく、分をつくさなかったわけでもありません。にもかかわ らず、殿様の御決心は変らない 。というのも、理由は明白で、お由良と結んだ奸党の勢力が依然とし て殿の側近を取巻いているからです。この勢力を一掃しないかぎり、ただの諫止や上申書くらいで、 殿のお心を動かすことはできない」 「そんなことはわかりきっている」と、米良助右衛門がしった 「ほう、わかっていますか。では、さっそく実行してもらいましよう」 202

8. 西郷隆盛 第3巻

吉之助は一間ほどはなれて、青苔のむした石の そばにうずくまった。もっと近こうとさしまねか れたのであるが、それ以上近づくことはどうして ~ 」もできなかった。 「お前のことは関勇助からたびたび聞いている。 上申書も読んた。農政に関する意見は一々もっと 、もと思う」 「はつ、おそれいります」 「ただし、藩政の運用、中央政局への対策などの 点になると、まだまだ思慮が浅い。誠忠の志はわ かるが、これを実行すれば、思わぬ危険を導き出 「まっ」 「もっとこっちに寄れ。離れていては声が高くな る。 こんなところで大声を出して、木の間の 小鳥をおどろかすことも要るまい」 吉之助がにじり寄るのを待って、斉彬は静かに 続けた。 139 第八章お庭方

9. 西郷隆盛 第3巻

二人の間には気まずい沈黙がつづく。 きせる 正助はしきりに煙管を鳴らし、いろいろと煙を吹きあげていたが、 「いったいあんた方は、本気であんな上申書を書いたのですかね。 ・計画が粗漏だったなどと今さ ららしくいうが、水戸を通じて幕府に訴えるなど、そんなことを殿様が許すはずのないことは、はじ めからわかっているではありませんか。 : できないと知りつつ、願い出れば殿様もいくらか考えな おすだろう : ・ : というつもりではなかったのですかい ? 」 「いや、僕はできると信じていた」 「西郷さん、あんたは幾歳です ? 」 吉之助はキラリと目を光らせて正助をにらんだが、思いなおして、静かに答えた。 「二十七です」 「それにしては考えが若すぎる」正助は煙草の煙の中で、唇をゆがめ、「天下を動かそうと思ったら、 もっと考えを大きく持つのですな。殿様に叱られて、小さくなるだけが男の芸ではありませんぜ。時 には、逆に殿様をおどかすくらいの策略と胆っ玉がなければ天下の志士とはいえません」 「策略では、人を動かせぬ」 「相変らず坊主臭いことをいう。策略がいやなら、胆っ玉で行きましよう。ど、、 ナししち、殿様をただこ わがっているその精神がいけない。殿様だって、将軍様だって、もっと高いところから見れば武士の

10. 西郷隆盛 第3巻

壁の中で、こおろぎが鳴いている。すきま風が膝小僧に冷たい。夜も更けたようだ。 妻のお俊がそっとふすまをあけて、奥の間をうかがうと、吉之助はまだ書きつづけていた。古びた わきめ 机の前に、膝をくずさず端座して、ゆらぐ燈芯の灯をたよりに、脇目もふらず筆を運んでいる。これ で三晩目である。役所から帰ると、食事の時間も惜しんで机の前に坐り、夜明け近い時刻まで書いて は消し、書いては消す。 何を書いているのか、お俊は知らぬ。知りたいとも思わぬ。たずねたら、大きな目でにらまれるば かりであろう。日ごろは優しい良人であるが、役目のことや交友のことについてたずねると、急に無 口になる吉之助であった。 その癖を知っているので、そっとふすまをしめようとすると、「お俊 ! 」ふりかえらずに、吉之助は鞭 いった。「茶をいれてもらおう」 ほごがみ お俊は茶の用意をして部屋にかえって来た。吉之助は筆をおいて、反古紙の端でこよりをつくって 章 第 「もう、おすみでございますか」 「ああ、すんだ。やっとすんだ」心から嬉しそうに笑って、お俊の問わぬ先に、「殿様に差し出す意見 ひびくだろう。 : さあ、行け。もう陽もの・ほった。行って机の前に坐るのだ。上申書ができあがる までは、わしのところに来なくともいいそ」