充分に確めた上で斬奸の事をきめてもおそくはない」 「一身を捨てるのは易い。だが、その後に来るものについて、西郷にも君にも果して成算があるのか」 というような、昻奮した俊斎の耳には度し難い因循姑息としか聞えぬ議論ばかりであった。はじめ の間は、一々丹念に答えていたが、とうとう俊斎はしびれを切らしてしまった。 「とにかく、大久保市蔵が帰って来るのを待とう。そのうちに江戸の西郷からも何かの報告があるに ちがいない」 関勇助までがもっともらしい顔でそんな言葉を吐くのを聞くと、もう我慢ができなくなった。 「奈良原、行こう ! 」喜左衛門を振りかえって立上り、「もうわかった。あとは聞く必要はない。 にいる諸君に実行の意志のないことは十二分にわかった。薩摩の正義党も衰えたものだ ! 」 りふ 捨て科白を残して、廊下にとび出した。喜左衛門も足音を荒立ててついて来た。 二人で月のある露地を歩きながら、俊斎はいった。 「いよいよ楠正成だ」 盃 「孤忠天命を奉ずか」 「うむ、一族勤王だ。有村一一一兄弟は剣を執って立つ。雄助も治左衛門も俺のいうことは一言でわかっ巨 てくれた。雄助は二十三、治左衛門はやっと十八だが、大義と忠誠を解する点では、今夜集った老人章 十 や若年寄どもに負けないぞ ! 」 第 「よし、俺も弟の繁を仲間に入れよう。俺の一家も一族勤王だ」 翌日から俊斎は関勇助らと離れて、活漫な活動を開始した。大久保次右衛門のところに行き、市蔵
その夜集ったのは、関勇助、有川十右衛門、新納嘉藤次、椎原与三次、米良助右衛門 場所は 有川十右衛門の屋敷であった。 俊斎は少しおくれてやって来たが、大久保市蔵のいないことはべっとして、一座の顔触れには満足 したようであった。吉之助が名指した人物はほとんど集っていたからである。 「関先生にちょっとおうかがいしますが : : : 」一別以米の挨拶が終ると、俊斎は気。せわしくたずねた。 「昨夜到着の江戸よりの急使、あれは何でございましたか ? 」 「べつに急使が着いたという話は聞かぬ。月例の飛脚なら着いたかもしれないが」 「藩庁が大騒ぎをしている様子は見えませんか」 「そんな様子もない」 関勇助は、まだ表向きではないが、今は斉彬の信頼厚い学者として、ときどき藩庁にも顔を出し、 藩の上層部の動静にも通している。その人の言葉であるから疑うわけにはゆかぬ。 「では、僕の思いちがいでした」 「江戸で起った一大事というのを聞かせてもらおう」 「いえ、一大事はまだ起っていないようです。これから起るのです」俊斎は椎原与三次に預けておい 僕の命もないものと覚悟しなければなりません。家に帰り、よそながら母や弟たちに別れを告げて、 出なおして来ます」
「鼠色 ? 」 「忠邪のほどかはっきりしない連中のことだ。たとえば故虎寿丸君の抱役中山次右衛門 「おあいになりましたか」 御老公の名代で、斉彬公に弔詞を申上げに行った時だ」 「先日あった。 , 「え、先生がいらっしやったのですか。水戸屋敷から御使者が来たとは聞きましたが、先生だとは知 らなかった。殿 : : : 殿様の御様子はどんなふうでございましたか ? 」 「まだお目にかからないのか。 : : : 僕の御弔問申上げた日は、まだお床の上におられたが、もう充分 に御恢復の御様子であった。 ( すべては天命、致し方もない。今日はわざわざ御遠路、水戸中納言殿に よろしく伝えてくれ ) と、ただそれだけのお言葉であったが、御心中は察するにあまりがある」 「その後で、僕は抱役中山次右衛門の屋敷で御馳走になったが、まことに結構な料理と酒であった。 : 中山は僕に腹でもこわし だが、僕はそれに一箸もつけることができなかった。できるものかー たのかとたずねる。・ : : ・腹はこわさぬが、胸が破れた。答える言葉がなか 0 たので、筆を借りて歌を冷 書いてやった。 章 十 つかへにし 第 君ははかなくなりぬとも 忠てふ道の二筋ゃある たきやく
「よこせツ、その貝を ! 」 俊斎は朱房の法螺貝を奪い取り、頬をふくらませて吹き始めた。 大きな破れるような音が高々とひびいた。 長屋の方向から、次第に人数が集りはじめた。 いくさしようそく 汗ぐっしよりになって、俊斎が貝を投げ出した頃には、中庭は物々しい戦装東の侍でいつばいに なっていた。 アムビールの先込銃をかついだ足軽の一隊、青銅の日砲を引きずっている大砲方、白鉢巻に抜身の 槍をかまえた小隊長、いななく馬、背中の大刀が地にとどく少年兵ーーーどれも洋式訓練を一度や二度 は受けたはずの守備隊であるが、これでアメリカ艦隊の砲門の前に立つのかと思えば、心もとない雑 軍であった。 だが、さすがは薩摩隼人、さしのぼる朝日を全身にあびて、意気は昻然たるものがあった。 「来たか、ペロリめ ! 」 「どこからでも撃って来い」 「元軍十万、生きて還す、ただ三人 ! 」 「それでも懲りずに来るならばーーー煙硝肴に団子会釈 : : : 首に刀の引出物」 緋の陣羽織の腰に白縮緬を巻き、朱鞘の大刀をぶちこんだ兵具方奉行新納四郎右衛門が、詰所の正三 面の白木の台の上にすっくりと立上り 「皆々、そろったか。 : ・それそれの組に分れて集れ、集れ ! 」 こ にいろ 音律にはかなっていないが、 43 第章朱房の員
ことになる」 「迫田殿がどうしたというのだ ? 」 思わず膝を乗り出して、吉之助はたずねた。 迫田太次右衛門は吉之助の心の師である。吉之助が郡方の役所に勤めはじめたころの最初の奉行で、 くんと ) その薫陶は今もなお身にしみている。郡方役人の腐敗を憤って、「虫よ虫よ、五節草の根を絶っな」と へいぎよ いう歌を壁に書き残して職を辞し、その後は雨のもる陋屋に屏居して、詩と酒を友としているそうで あるが、近ごろはその噂も聞かぬ。 俊斎は答えた。 「今はまったく廃人と同様です」 「えつ、御病気か ? 」 かたぎぬ 「いや、酒です。朝から晩まで酒びたりです。時には城中にも顔を出したらどうかと、友人が肩衣を 贈ったら、一日だけはそれを着て役所に出たが、翌日はもう質に入れて酒にかえてしまった。 事、その調子です。今年の春でしたか、僕の父が忠告するつもりで出かけたら、迫田翁はもう先客を鞭 : 父が迫田翁 相手に飲んでいて、よく来た、まあ一杯、忠告はまず飲んでから聞くことにしよう。 に別室に来てもらって、諄々と酒の害を説くと、翁はうなずいて、ああわかったわかった、よく胆に しみた、なるほど良薬というものはロに苦い、ロなおしに一杯いこう、とまた飲みはじめたそうです。一 第 : こうなれば、おしまいです。清廉おのれを持して、野に下り、悠々自適するのも考えものです」 吉之助は腕組みをして考えこんでいる。俊斎はつづけて、
「よしよし、大体よろしい」嘉平がいった「先に進もう」 「ええと、そのつぎは : ・ : ・」俊斎は懐中から書抜きを取り出して、それと読みくらべながら、「この文章 は、中庸の : : : 君子は易きに居りて命をまち、小人は険を行きて幸を求む、という章句と関係がある。 んえと : : : 君 ということを述べてあるのだ。 : つまり、君子は出処進退においてあわてない、 子たるものは、静かにおのれを持して、時のいたるのを待っているものだ。志はいうまでもなく廟堂 に立って道を行うことであるが、しかし、たとえ一生用いられずに終っても、あわてるようなことは しない。世に進み出るときが来ないうちに、志が動くのは、恒心がない証拠である。 : : : 僕はこの意 見には反対だな。こんな気の長いことをいっていては、生きている間に天下の志を行うことはできや しない」 「おいおい、もう議論か ? 」嘉平が笑いながら、「その先は下調べして来なかったのだろう」 「ああ、して来なかったよ」俊斎は平気な顔で、「これだけ調べて来れば充分だよ。書物は書物だ。昔 の支那の先生たちのいったことを一々鵜呑みにすることはない。書物を材料にして、大いに論ずるの が、この会の目的だろう」と、書抜きをふところにねじこんだ。 「よかろう。今夜は俊斎の意見に従おう」吉之助も書物を閉じて、「まず俊斎の反対論を聞こう。どの 点に異議があるのだ ? 」 「僕は机上の空論はいやだ。古人の説といえども、一々わが国の現状に照し合せて考える。そうしな せこた 迫田太次右衛門殿や亡くなった僕の父などは、この説を鵜 ければ、論の正否はわからんと思う。 呑みにして悠々と陋巷に朽ちはてた組だが、僕ら若いものがその真似をしては、薩藩の前途は困った ろうこう
ずに、ぜひ出席してくれ」 「場所は谷山の脇田だ。米一合、銭五十文の持寄り。銭があまったら、君の餞別にする。 : : : 伊藤茂 右衛門先生は米焼酎二升、森山新蔵は豚一匹を寄贈してくれた」 「久しぶりに豚追いがやれると、みんな楽しみにしている。君も犬をつれて来い」 口々にすすめられて、吉之助は断りかねた。だが、なんだか気がさして、答えを渋っていると、そ ばから吉次郎もすすめた。 「兄さん、お受けしたらどうだ。僕も餅をかついで出かけるよ」 「うん、しかし : : : 」 「何がしかしだ」吉井幸輔が吉之助の肩をたたいて、「ただの出府なら、僕らもこんな騒ぎはやらない ぜ。君としても、ずいぶん無理をした出府だ。旅費の都合がっきかねた事情もよく知っている。ただ の出世のための出府ではないから、俺たちも無理して送別会をやるのだ。つまらぬ遠慮はやめにして 出て来い、出て来い」 「よし、行こう。いろいろありがとう ! 」 「明朝八時、大久保の家に集る。同勢は少年たちも加えて二十人あまりだ」 翌日は美しく晴れ渡ったが、北風が冷たく、道には霜柱が立った。 だが、青年と少年の一行は、谷山まで三里の海沿いの道を、頬を真っ赤にして元気よく歩いた。 列の先頭には、富裕な町人出身の同志森山新蔵が寄贈してくれた大豚を、青竹で追い立てながら、 少年たちが走った。日ごろ吉之助の家へ習字と素読を習いに来る黒木、大山、東郷などの少年であっ咽
家老の島津豊後は気をきかせて、せめて藩邸警備の人数だけは繰り出してはと再三すすめたが、斉 興は頑固に首を振って、 「もしも黒船が大砲を打ちはじめたら、砲声を太鼓と聞き、羯鼓舞いでも舞わせるがいい」 薩南の大守の豪放と一徹な血は、隠居によって、かえって激しく体内で荒れはじめたようである。 そこへ、軍装もものものしい兵具方奉行新納四郎右衛門があわただしく駆け込んで来たことは、奉 行の不幸であった。 斉興は不興の色を満面に現して座を立ち、新納を別室に引見して、頭ごなしに叱りつけた。 「何にあわてた戦装東 ! いやしくも薩藩の兵具方奉行ともあろうものが、アメリカ船におどかされ て、緋の衣を着たか。とんだ猿楽じゃ」 「おそれながら、わが藩邸は海に近く、敵の砲撃がはじまりますれば、真っ先に兵火の厄にあうは必 定と心得 : : : 」 「そのくらいの覚悟と兵備は日ごろからできているはず。 : : : この場におよんで騒ぎまわるのは、無 準備と臆病ぶりを敵に示すだけだ」 「お言葉をかえすようで、おそれいりますが、敵の機先を制して、芝浦海岸に布陣いたし、醜虜をし て一歩たりとも江戸の土を踏ませぬ覚悟 : : : 。つきましては、当高輪邸におかれましても、ただちに 隊士を召集し、万一に備えられてはいかがと存じ : : : 」 うちぶところ 「高輪のことは高輪でやる。敵に内懐を見透されるようなことは、この斉興はいたさぬ。まして、里 、ロよ : : 」と、島津豊後を振りかえり、「どこまでまいっているのじゃ ? 」 かっこ
有川家の生垣から突き出した松の小枝がばさりと落ちた。俊斎は鍔を鳴らして刀を鞘におさめ、肩 を怒らせて、露地の薄暗の中に消えこんだが、間もなく、彼はほど遠くない奈良原喜左衛門の家に姿 を現した。 弟の繁が玄関に出て来て、手燭の光でおそい訪問者の顔をすかして見て、 「おつ、有村さんか。いっ帰られた ? 」 「今日帰った。兄上は御在宅か」 「おりますよ。もう寝たかもしれませんが、起して来ましよう」 奈良原喜左衛門は俊斎の幼な友達である。同じ武士小路に生れて仲よく育ったが、俊斎が中途から 郷中の規約を無視し、他の郷中の西郷や大久保と交際しはじめたので、喜左衛門が怒って、俊斎をな ぐると大騒ぎをしたことがあり、そんなことから二人の間は疎遠になっていた。 だが今、先輩と頼み、同志と信じた者たちから裏切られたと感じて、俊斎が真っ先に思い出したの は幼な友達の喜左衛門であった。鮒釣りに行って川口の泥の中を転げまわった思い出も、最後の喧嘩 別れの思い出さえも懐しかった。郷中の義理を忘れた奴ははり倒すと真っ先に乗り出して来た硬骨ぶ りも頼もしく思い出された。 旧友の久々ぶりの訪問を受けて、喜左衛門も同じ思いであるらしかった。まだ寝床には入らず、行 燈の灯をかき立てながら、「日本外史」を読みふけっているところであったが、夜中あわただしい訪問 者が俊斎であることがわかると、玄関に飛び出して来て手をとらんばかりに居間に招じ入れた。 「やあ、しばらく見ない間に大きくなったな。大きな坊主になりやがった」 208
翌る日、日の暮れるのを待って、俊斎と喜左衛門は有川の屋敷に出かけた。 昨夜の顔ぶれは洩れなく集っていたが、その顔色は前夜にも増して暗かった。俊斎は喜左衛門を新 しい同志として一同に紹介し、決心はっきましたかとたずねた。返事は昨夜のとおりであった。誰も 彼も申し合せたように黙りこみ、たまに口を開くものがあれば、 ぎゅうじん 「事は重大だ。よく考えなければならぬ。急ぎすぎては九仭の功を一簣に欠く」 「西郷や君の考え方は、どうも水戸流だ。薩摩には薩摩の考え方がなければならぬ。殿様の御意志を 勤王とは何か、そのくらいのことはわかっている。お前のいう藤田東湖先生の本はまだ読んだことは ないが、神州の正気なるものも、要するに文天祥のいう浩然たる天地の正気と相去ること遠からざる ものにちがいなかろう」 「うん、まずそんなところだ。支那人の正気を更に拡大して万世にわたりて変ぜざるものとなしたの が日本の正気だと東湖先生はいっている」 「理窟はどうでもいい。お前があくまで神州の正気を貫ぬいて、斬奸を決行するというのなら、よか ろう、俺も同盟に加えてもらう」 「ありがたいー では、今夜はこれで帰る。これから帰って俺は弟の雄助と治左衛門を説きつけ て来る」 「一族勤王か。よかろう、行け ! 」