斉彬 - みる会図書館


検索対象: 西郷隆盛 第3巻
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1. 西郷隆盛 第3巻

「つまり、幕府を倒すのでございますか」 「必ずしも倒せとはいわぬ。ただ、天皇御自ら政治をとりたまい、将軍家を指揮命令すること手足の ごとく、将軍家の皇室に対するや子の父におけるがごとき時代が到来しないかぎり、この難局は打開 できず、日本は永遠に救われないのだ。これは俺の思いっきではない。義公以来、水戸藩の国是だ。 一君万民、忠孝無一一、文武不岐、尊王賤覇ーこの大理想を実現するためには知行一致、理論と行動 しんずい とを一致せしめるというのが水戸精神の真髄だ」 「では、なぜ水戸藩が率先して王政復古の実行者とならないのですか。水戸中納言斉昭公は英明果断 の名君と聞いております」 「いかにも、うちの殿様も偉い。家臣にもまた必ずしも人材がないとはいわぬ。ただ残念ながら、国 ないこう 力がたらぬ。多年、内訌に悩み、幕府の圧迫をうけて、この大計を実現するためには、藩の実力が不 足している。 : だから、斉彬公に立ってもらわなければならぬ。天来の英資と無双の達識と雄藩の 実力ーこの三つを兼ねそなえた人物は斉彬公をほかにしてない。英主のもとには賢臣も多いことで あろう。現在の薩藩において斉彬公を助け、天下の大計を行い得る人物は誰々か。その名前を聞かせ てもらいたい」 俊斎は腕組みをして考えこんでしまった。東湖はその顔をのそきこんで、 「何を考えている ? 」 、残念ながら、現在の薩摩には、そんな人物はおりません」 「それはおかしい。勇将の下に弱卒なし、名君のもとに賢臣がいないはずはない」

2. 西郷隆盛 第3巻

若侍は斉彬がふり向いたのに気がつくと、はっとしたように目を伏せ、身を固くして土の上を見つ めた。思いなしか、肩も膝もかすかにふるえているようである。 斉彬はしばらくじっと若侍の姿を見つめていたが、何を思ったのかふりかえって静かに呼んだ。 「才蔵」 お側小姓の伊東才蔵が小腰をかがめていざり寄った。 「お呼びでございますか ? 」 斉彬はすぐには答えず、煙草の煙の間から、空に浮いた綿雲を眺めていたが、 「当分、天気もつづきそうだの。このぶんでは、九州路の旅は楽であろう」 「御意にございます」 「少し歩く。ついてまいれ」 斉彬は何気ないふうに床几をはなれ、茶屋の横手の崖のはずれに出て、遠い谷間の景色を眺めてい る様子であった。才蔵がおそるおそる近づくのを待って、あたりをはばかるような低い声で、斉彬は たずねた。 「伊東、今日の供廻りの中に、西郷吉之助というものが加わっているはす : : : 」 「御意にございます」 「どれだ。近くにいるか」 「はい、すぐ向うの岩陰に : ・・ : 」 「才蔵、見てはいけない。そのままで答えろ。 中小姓の中にいる目の大きい男か」 112

3. 西郷隆盛 第3巻

船を千里に打ちはらへ あけく 御世安かれと思う朝暮れ しょ ) にゆ ) せき せきじゅん そのような日がかさなるうちに、人に知られぬ洞窟のなかで鐘乳石が結品し、石筍が成長する ように、吉之助の胸の中にも、新しい何物かが結晶し、成長した。 新しい意見と新しい感情。意見の方は斉彬の意見の小さな雛型であろう。鐘乳石は絶えず上から水 弓い地質であったら、上か をたらしかけることによって、自分の真下に自分によく似た石筍を生む。 ら降りそそぐ水のためにみじめに凹んでぶざまな穴をあけられてしまったかもしれぬ。だが、吉之助 には、それを受けとめるだけの強い性格の芯があった。薩南のきびしい士風と残酷な政争に鍛えられ た精神か、それとも遠い祖先からうけついだ血液の不思議な作用か ? 感情の方は斉彬への傾倒と信頼、ほとんど絶対的な献身の情であった。斉彬が暗黒な薩摩の藩政を 照す希望の星として、青年たちの頭上に輝いていた期間は実にながい。吉之助が人生と政治への目覚 めを感じたのが仮りに十八歳の頃だとすれば、それから二十八歳の今日まで実に十年間である。その方 間に、星はいくどか雲にかくれたが、ついに夜明けが来て、星は新しい太陽にかわった。 だが、夜明けの空にも雲は残っていた。輝き出たと思った瞬間に太陽はふたたび雲に包まれてしま 章・ なりおき った。先代斉興以来の重臣、碇山将曹、島津豊後の一派は斉彬のまわりをすきまなく取り巻いて、こ れを青年たちの目のとどかぬ場所に隔離してしまった。 期待した藩政の改革はまったく行われず、斉彬自身もこの現状に安住してしまったかのように見え

4. 西郷隆盛 第3巻

正月二十三日の早朝。 島津左近衛少将斉彬は鹿児島城を発し、東上の途についた。 襲封後、最初の江戸出府である。供廻り四百人、西南雄藩の太守の名に恥じぬ豪華な行列であった。 さんきんこうたい 最初の休憩地は水上坂であった。坂は城下の離れロで、遠く江戸につづく往還。参覲交代の際には、 しようぎ ここから正式に行列が立つ。駕籠を降りた斉彬は、峠の見晴し茶屋の床几によって、近侍のささげる 煙草道具を受取った。 煙は紫色にゆらいで、晴れた朝空に舞いのぼる。一「三日吹きつづいた北風も忘れたように止んで、 若草をはらんだ山肌には早春のかげろうがもえていた。谷間の陽だまりには、梅の花が満開であった。 斉彬は路の上に休んでいる供廻りの列に目をやった。列は長蛇のように山道をうずめていた。供先 しんがり はすでに峠を越えているが、殿はまだ坂の下であろう。 斉彬は、ふと片頬に激しい視線を感じた。思わず、その方に振りむくと、茶屋から五、六間はなれ た大岩の根元に十人あまりの中小姓の服装をした侍が腰をおろしており、その中の一人が、燃えるよ うな瞳で斉彬の方を見つめていた。 大きな若侍であった。土の上にうずくまった肩が、並んでいた仲間より五、六寸も高い。特に大き いのはその目であった。顔中が目ばかりと いいたい異相である。 「一度だけの約東だ。さあ、これは君にあずけておくそ」 111 第六章水上坂

5. 西郷隆盛 第3巻

おそるおそる顔をあげる吉之助の目の上に、若葉の照りかえしを受けて、斉彬の端麗な横顔が新し い仏像のように輝いていた。吉之助はまた顔を伏せる。そこへ砲声がまた一発。 「吉之助、あの音がわかるか ? 」 「よっ 答えが出ない。わかるかとは、なんの意味であろうか。大砲の音でございます、と答えればいいの か。それとも日本の目覚める音だとか、幕府の苦悶の悲鳴だとか、理をふくませた答え方をすればい いのか。わが心の神とも思っている斉彬の最初の言葉は、解きがたく複雑な試問に思われて脇の下に 一が愑く。 「わかるかな。どれが、十二斤砲、どれが三十五斤砲 : : : どの音が野砲か加農砲か ? 」 ( ああ、その意味だったのか ) 吉之助は真っ赤になった。大砲を見たことはあっても、さわったことはない自分である。砲にそれ ほど多くの種類のあることもまだ知らぬ。音の大小はわかっても、聞いただけで砲の種類を判定でき ようとは夢にも思わなかった。殿様には、それができるのであろうか。 おそるおそる見上ける吉之助の目の色を読んだのか、斉彬は微笑して、 「今のは先込めの二十斤砲。その前のは : いやいや、なにもそう赤い顔をしなくともいい。砲声を 聞きわけるくらいのことは、馴れさえすれば子供にもできる」わが子に教えるようにそういって、高 い陽ざしをふりあおぎ、「暑くなったな。日蔭に行こう。 ついてまいれ」 斉彬は木立の奥の小亭に入って、竹の縁に腰をおろした。 138

6. 西郷隆盛 第3巻

第七章薩摩屋敷 なりあきら 斉彬の行列が大阪の藩邸に達したとき、江戸よりの急使がアメリカ艦隊の再航を報告した。 ふたたびベルリである。しかも今回は九隻の大艦隊だという。 予期したことであったが、すこし時 期が早すぎた。斉彬の予想によれば、ベルリ再航の時期は早くて四月か五月、おそければ夏をすぎる。 だから、江戸到着の後に、阿部正弘とゆっくり対策をたてればいいと考えていた。だが、急使の報告 によれば、ベルリの艦隊はすでに月の十日ごろに伊豆沖を通過し、十六日には江戸湾頭に姿を現した のだという。斉彬の鹿児島出発よりも十日も早くべルリは江戸を襲っている。 旅程は急に切りつめられることにな 0 た。京都の滞在も予定の半分に繰り上げた。いつもなら二カ 月はたっぷりかかる旅程を、四十五日間で急行して、三月の六日に江戸高輪の藩邸に入 0 た。 だが、それでも間に合わなかった。ベルリの強圧は幕府を紙の城のようにゆり動かし、斉彬到着の ていけっ 三日前、即ち安政元年三月三日に神奈川条約は締結されていた。 後に判明したところによると、ベルリは前年の夏、再航を約して浦賀を発した後、那に赴き、琉 球をおびやかして貯炭所を設置し、香港に退いて年を越し、三、四月の頃にふたたび日本に来るつも りであ 0 たところへ、澳門に碇泊中のフランス軍艦が本国の秘密命令を受けて突如として錨、行衛 マカオ 114

7. 西郷隆盛 第3巻

第十一章巨盃 タ陽をうけた円窓の障子がさらさらと鳴る。小雨よりもかすかな音である。立って窓をあけると、 庭から泉水の面にかけて、雪かとまがう落花の色であった。 桜の花びらは円窓を抜けて斉彬の肩にもふりそそいだ。斉彬はその一片を左手の指先にのせて、し ばらく見つめていたが、軽くはじいて窓の外に捨て、控えの間の方に向って手を鳴らした。 「伊東 : : : 才蔵はいないか ? 」 才蔵が襖の向うにかしこまると、 「庭を歩く。先に行って亭で待っておれ。ー今日は西郷吉之助は出仕していないようだな」 盃 「はつ、非番でござります。呼びに行ってまいりましようか ? 」 巨 「いや、それにはおよばぬ。お前だけに話がある」 章 伊東才蔵が築山のかげの亭で待っていると、間もなく庭下駄の音がして、斉彬が現れた。 「才蔵、近う寄れ。話というのは、世嗣のことだ。先日も申したとおり、余はもはや、い 0 さいをあ汁 きらめた。望みをわが子に絶った。いかなる事情あるにせよ、五男と二女を失って、なおわが子を世 嗣にと望むのは、天命を知るものの態度ではない」

8. 西郷隆盛 第3巻

ならお前も一人前だ。みごと、夷船の砲弾を胸板にうけて、討死してもらおう」 父の気陷には馴れているのか、健二郎はニコニコと笑っている。だが、東湖はあくまで真顔で、 「水戸が起たねば、薩摩が起っ。薩摩が起たねば、われわれだけでも起たねばならぬ : : : 赤穂浪士は 四十七人。だが、い っさいを捨てて浪士となれば、わずか四十七人でも、天下を動かせないことはな 。われわれとしては、いつでも裸一貫となってとび出せるだけの覚悟を日ごろからつけておくこと が肝要 ! 」 「もっとも、僕の見るところでは、薩摩の殿様も、そろそろ動き出しそうな気配を見せている。近ご ろ、一度ならず水戸屋敷に御微行、斉昭御老公と会見なされているが、お話の中心はいつも攘夷鎖港 の問題だ。僕もたびたびその席に侍して御意見をうけたまわったが、もともと慎重な殿様であるから、 開港には絶対反対ではあるが、積極的に攘夷という言葉はロにされなかった。これを動かして、公然 たる攘夷論にまで引っぱって来るのが君たちの役割だ。水戸の方は僕が引き受けるから、薩摩の方は 君たちで大いに頑張ってもらわねばならぬ」 「しかし、先生 : : : 」 俊斎が何かいおうとするのを、東湖は押しとどめて、 「まてまて、お前のいうことはわかっている、微役微役だろう。 だが、斉彬公は西郷吉之助とい う名をよく御存知であった。微役を嘆くことはいらぬ。近いうちに、どんな機会が恵まれぬともかぎ らぬ。攘夷一戦の肚さえきまったならば、静かに機のいたるのを待っているがよい」 134

9. 西郷隆盛 第3巻

「どこで ? 」 「関先生のところで駄々をこねていたら、これでも読んで気を静めろと読まされたのですがね。あま り面白い説教とはいえませんな。わが党の献策は一つとして用いられず、片つばしから押しつぶされ てしまった形ではありませんか」 「そういえば、そんな形です」 「それで、よく落着いておられますな」 「落着いているわけではないが、殿様のお言葉にはそむくわけには行きません。しかも、お言葉の一 つ一つが条理をつくし、的に当っているので、われわれとしても考えなおさざるを得ないのです」 「そんなもんですかね」 正助は横を向いて、煙草の煙を吹く。吉之助はさすがにむっとした様子で、 「鮫島さん、あなたが御親論書を本当に読んだのなら、そんないい方はでぎないはずです。 そろ ) われの計画にも、今から思えば、非常に疎漏な点がありました」 の 尺 斉彬の親論書は、関勇助のもとに集る青年たちに対して下されたものである。 青年たちは、藩政の改革ーーー奸党の一掃と嘉永二年の志士たちの赦免と顕彰をのそんでたびたび上 書を書いたが、その効果がまるであがらないのに我慢ができなくなり、最後の手段として、水戸藩に 頼ることを考えた。これは江戸にいて、藤田東湖や戸田忠太夫の門に出入りしている連中から出た案五 第 であって、すなわち薩摩内訌の実状を藤田東湖と戸田忠太夫にくわしく打ち明け、徳川斉昭を通じて 幕府を動かし、碇山将曹と島津豊後を失脚させようという計画である。 ー・われ

10. 西郷隆盛 第3巻

「世界は広い。薩摩の藩状にのみこだわっていては、天下の大計は立たぬ。お前も幸い江戸に出た。 江戸において眺める天下の形勢と薩摩から眺めたそれとは、おのずから異なるものがあるだろう」 まだ、よくはわかりませぬが」 「そのうちにわかって来る。お前にやってもらわねばならぬ仕事は多いのだ」 「そうだ、お前にだ。庭方にまわしたのも、そのため。 : : : 仕事は山ほどある。だが、それも急がぬ。 これからは、毎日でもあえるのだ」 「わからぬことがあったらたずねるがいい。余もお蔔こ、こ、 月冫尸しオしことがある : まあ、ここしばら くは、静かに中央の政局を眺め、また余自身の動き方を眺めている気持でおるがよかろう。 斉彬はじっと吉之助の顔を見た。吉之助は息をつめて斉彬を見つめている。六尺の身体が一葉の耳 に化し去ったかのように。 吉之助の全身に現れた献身と信頼の念をたしかめると、斉彬は静かにうなずいて、 「今後、この庭で余がお前に語ること、お前に余が答えること、 っさいほかにもらしてはならぬ。 ただ二人の間だけのことだ。お庭方とはそのようなものだ。心得ておけ、よいか」 吉之助は声が出なかった。殿様から、このような言葉を受ける資格が自分のどこにあるのたろうか。 また、どんな理由と目的で殿様はこのようなお言葉をくださるのだろうか。 : だが、そんな疑間な 140