江戸 - みる会図書館


検索対象: 西郷隆盛 第3巻
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1. 西郷隆盛 第3巻

上野も芝も花の盛りである。だが、若い西郷吉之助を迎えた江戸は、決して「花のお江戸」ではな っこ 0 ベルリ騒ぎは、神奈川条約の調印によって一段落ついたようなものの、黒船艦隊はまだ野島沖に、 る。幕府の内部のごたごたは、調印の後にかえって激しくなったという。 水戸斉昭は開国派と衝突し としあきら て癇癪を起し、登営をやめてしまった。ロシア応接掛りの筒井肥前守、川路聖謨の一派は、アメリカ 応接掛りの林大学頭、井戸対馬守の一派と喧嘩をはじめ、間に立った阿部正弘は進退に窮し、これも その 引退を決意したそうだ。黒船は去っても、あとでどんな大騒動が持ちあがるかもしれない。 ような不吉な噂が乱れ飛び、薩摩屋敷の内外は物情騒然たるありさまであった。塀の外には、花に浮 かれる行楽の人の波が今日もつづいているのだが、彼らの放歌と喧騒の中にも、どこか気狂いじみた しょ ) そ ) 焦躁と不安が感ぜられた。 さいしょあっし 樺山三円、大山正円、有村俊斎、税所篤などの先発組は吉之助の到着を心から喜んで歓迎したが、 まず江戸見物、上野の花でも見ようとは誘わなかった。 彼らが合宿している表長屋の一棟に、吉之助が草鞋をとくと、 「どうも困ったことになった ! 」 これが彼らの最初の挨拶であった。 「何もかも減茶苦茶だ。天下の大乱これより始まるとは今の時勢のことだ。まったく手のほどこしょ うもない」 「水戸の御老公が癇癪を起したのも無理はない。井伊だとか堀田だとか、あんな開国派の腰抜け意見

2. 西郷隆盛 第3巻

から、お前は駄目だというのです。茶坊主なら若い方がかわいくていいはずだと頑張ったが、いや、 定員は三名で、三名とももうきまっているから手遅れだと突っ放されました。 : だが、僕はどんな ことがあっても江戸に出るつもりだったから、定員が三人きまっているなら、その中の一人を斬って もいいと思いました」 「おいおい、そんな無茶な : : : 」 「ええ、無論、斬りには行きませんでした。大山と樺山は同志だから、この二人をはねのけるわけに は行かぬ。そこでもう一人の奴に見当をつけて、膝詰め談判をやりました。お前は金もあるし、家柄 も悪くないから、江戸にはいつでも行ける、だが、僕はこの機会を逸したら絶対に行けない、お前が 身をひいてくれなければ俺はこの場で腹を切るといったら、気の弱い奴で、ではかわってあげようと いうことになったのです。あっはつは いかにも俊斎らしいやり方である。吉之助が苦笑していると、俊斎は不平そうに、 「僕は何も権謀術策を用いたわけではありません。もしも相手が聞かなければ、本当に腹を切るつも りだったのです。 : : : だって、あんな男を江戸にやっても、僕の半分の役にもたちません。江戸に行弟 って茶をたてるだけなら、誰が行ってもいいわけだが、ひろく天下の名士と交り、また同志の先遣隊 兄 として江戸と薩摩の連絡にあたるためには、僕が行かなくては絶対に駄目です」 章 「その自信と意気は頼もしいな。 とにかくおめでとう ! 」 第 「とにかくは余計です」 「江戸に行ったら、手紙をたのむ」

3. 西郷隆盛 第3巻

「ずいぶん広いのですね、外国は ! 」 「」広 . いと田一つか ? 」 「思いますよ、この地図を見ては」 「もっと早く見せればよかったな。あわて者のお前にはいい薬になったかもしれぬ。 : 世界はこの とおり広いのだ。俊斎のように条虫の尻尾の上であわてふためいているのでは、いつまでも埓はあか ぬ。どうだ、江戸に出る決心はついたか ? 」 「え、江戸に ? 」吉之助が叫んだ。「俊斎は江戸に行くのですか ? 」 「俊斎だけではない。わしは君たちみんなに江戸に出てもらいたいと思っている。 : 江戸には六十 余州の人間が集っている。馬鹿も多かろうが、大人物もいる。人物に接すれば、おのずから天下の志 かぎゅ ) というものもわかって来る。 ・ : 江戸から薩摩を眺めかえしてみろ。小さなことに肚を立てて、蝸牛 角上の争いをつづけておる場合でないこともわかろう。国内のことばかりではない。世界的に見て、 今は大変な時勢だ」 有馬翁は床の間の地図を指しながら、諄々と世界の形勢を説き、東洋の実情を述べ、 こしたんたん 「英米仏露蘭、すべて虎視眈々としてわが神州を狙っている。まごまごしていては、印度や支那の二 の舞いだ。 : : : 斉彬公もその点を充分お考えになって、富国強兵の根本策を練っておられるのであろ う。そのために、藩政の改革も、外から見る目には、あまりに慎重すぎ、のろのろしすぎているよう に思えるのだ。 : ・君たちは、だいぶ新政に不満なようだが、そんなことに肚を立てるひまがあった ら、いま一度、東洋と世界の形勢を考えなおすがいい」 らち

4. 西郷隆盛 第3巻

第七章薩摩屋敷 なりあきら 斉彬の行列が大阪の藩邸に達したとき、江戸よりの急使がアメリカ艦隊の再航を報告した。 ふたたびベルリである。しかも今回は九隻の大艦隊だという。 予期したことであったが、すこし時 期が早すぎた。斉彬の予想によれば、ベルリ再航の時期は早くて四月か五月、おそければ夏をすぎる。 だから、江戸到着の後に、阿部正弘とゆっくり対策をたてればいいと考えていた。だが、急使の報告 によれば、ベルリの艦隊はすでに月の十日ごろに伊豆沖を通過し、十六日には江戸湾頭に姿を現した のだという。斉彬の鹿児島出発よりも十日も早くべルリは江戸を襲っている。 旅程は急に切りつめられることにな 0 た。京都の滞在も予定の半分に繰り上げた。いつもなら二カ 月はたっぷりかかる旅程を、四十五日間で急行して、三月の六日に江戸高輪の藩邸に入 0 た。 だが、それでも間に合わなかった。ベルリの強圧は幕府を紙の城のようにゆり動かし、斉彬到着の ていけっ 三日前、即ち安政元年三月三日に神奈川条約は締結されていた。 後に判明したところによると、ベルリは前年の夏、再航を約して浦賀を発した後、那に赴き、琉 球をおびやかして貯炭所を設置し、香港に退いて年を越し、三、四月の頃にふたたび日本に来るつも りであ 0 たところへ、澳門に碇泊中のフランス軍艦が本国の秘密命令を受けて突如として錨、行衛 マカオ 114

5. 西郷隆盛 第3巻

「吉之助、お前はそんな気持で行くのか」 「もちろんです ! 」 「出世のためではないのか ? 」 吉之助は口惜しそうに唇をかんで、 「先生は、まだ私をそんな男だと思っておられるのですか。先生は私に出世の機会を与えるために江 戸に出ることを世話して下さったのですか。 そんなことなら、私は前言を取り消します。江戸行 きは止めます。お断りします ! 」 「よかろう」 「えっ ? 」 「行って来い。私も鮫島のいうことはもっともだと思った。彼の自由な立場をうらやましいと思った のは、お前だけではない。 ・ : 殿様の御親論書も一々ごもっともだが、家来にはまた家来の道がある。 殿様のお言葉にただ従うだけが忠義ではない」 「先生もそうお思いになるのですか」 できれば、私自身江戸にのぼって、天下の実状を眺め、その上で殿様の御訓戒を実地に 生かしたいのだが、江戸まで出かけるのには少し齢を取りすぎた。 : : : 私のかわりに行ってもらいた 。お前が行ってくれれば安心だ。江戸にいる先発隊は、有村俊斎をはじめ、だいぶ昻奮しているよ ~ , うだが、お前のカでよろしくまとめてもらいたいものだ。国許の方は、私と大久保がおれば、まあ抑 えがつく」 101 第、章水上坂

6. 西郷隆盛 第3巻

に灯を入れると、夜具を片隅にかきよせて、ゆらぐ燈影の中に小さくすわって、上目づかいに吉之助 を見上げた。 「何かまた心配ごとでも ? 」 「お俊、お前も痩せたな」 「まあ、そんな : ・ と、片頬に手をあてる。赤くひび割れた右手であった。吉之助はいたいたしそうに、若妻のやつれ た姿を眺めながら、 「この上、お前に苦労はかけたくないのだが、一つだけお願いがある。聞いてもらえるだろうか」 お俊は無言のまま吉之助を見つめている。 : 行きたいとは、前々から思っていた。だが、今日までは 「俺は近いうちに江戸へ行こうと思う。 決心がっかなかった。お前も知るとおり、俺の家には一銭一厘の蓄えもない。あるものは借金ばかり ・ : 吉次郎が身を粉にして働いてくれるし、お前も自分を忘れてつくしてくれるので、どうやら 今日まで持ちこたえて来たものの、もし俺がいま家を捨てたら : : : 」といいかけて、吉之助はあわて て取り消した。「いや、捨てるのではない。家を捨てるようなことは決してしないが、もし強いて江戸 へ出ることを望んだら、家を捨てるも同然、お前たちの苦労はもっとひどくなるだろう。それはわか っているのだが、しかし、おれはどうしても江戸に出なければならぬ」 「おひとりで江戸にお行きなさるのでしようか」 おずおずとお俊はたずねる。

7. 西郷隆盛 第3巻

「ははツ、本牧沖あたりに、到着の様子にござりまする」 「新納、聞いたか。本牧沖より芝浦にとどく大砲の話は、余もまだ聞かぬ。 : : : 早々立ちかえって、 隊士を解散いたせ」 「お言葉ではござりまするが : 「まだ申すか ! 余を隠居とあなどって、命令に従わぬつもりか。ぐずぐずしていると、貴様に烏天 狗の面をかぶせ、猿楽の舞台に追い上げてしまうぞ ! 」 叱られた奉行は芝浦の薩摩屋敷に引きかえして斉興の命令を伝えたが、 はたしてそれは隊士の間に 不満と激昻の波をまき起した。 藩主は斉彬公のみと叫ぶもの、斉興を優柔と罵倒するもの いずれも解散に反対し、即時進発を 主張して、鎮めようもない有様であったが、そのうちに、本牧沖の夷船はべつに挑戦の模様もなく、 ふたたび浦賀の方向に引返しはじめたという情報が入ったので、カ抜けの形で、騒ぎは自然とおさま ってしまった。 この日ー嘉永六年六月六日に、ベルリが艦隊の一部を江戸湾の奥深く侵入させたことには、二つ の目的があった。一つは再度の来航にそなえて、江戸近海の測量を行うこと、二つは江戸進攻の気勢三 を示して、幕府を威嚇すること。 特に、第二の目的は、予想以上の効果をもって達成された。江戸の町民が半鐘を鳴らして火事場騒 51 第章朱房の具

8. 西郷隆盛 第3巻

備わっていない」 「ふふん ! 」 俊斎は鼻を鳴らしたが、市蔵は構わずにつづけた。 「江戸においては西郷が失敗し、国許においては関勇助先生をはじめとする同志たちがこぞって反対 する。即ち、天の時も熟さず、人の和も欠けている証拠だ。地の利においても、われわれは全然不利の 立場にいる。大奸は江戸にいる。国許の小奸のみを斬っても、根を絶たずして枝葉のみを切るような ものだ。江戸の大奸物どもは御老公斉興様を擁し、殿様を強制し奉って、ただちに逆襲に移るにちが いない。そうなれば、国許の同志はもろくも全減だ。犠牲は効果に比べて幾十倍大きいかもしれぬ」 「ふふん、腰抜けどもが : 「かならずしも腰抜けの議論ではない。 ところかまわず刀を振りまわす者が、真の勇士だとはかぎら : 国許の同志たちも義挙のことを一日たりとも忘れていなかった。そのことは、誰よりも僕が 一番よく知っている」 「どいつもこいつも、全減が怖いのだ。斬死の覚悟ができていないのだ。 : : : 身を殺して仁をなす、 これが志士だ。義を見てはかならず起っ、これが勇者だ。身は亡びても魂が残り、この魂がさらに新 しい同志を呼び醒ます、この信念をどいつもこいつも忘れ果てている。 ・ : われわれはただ死ねばい 。われわれの死によって、薩摩は目を醒ます。江戸の殿様もこんどこそは立上って、奸党に断乎た る鉄槌をお下しになるにちがいない」 「そんな甘いことを考えるな。奸党はどこまでもわれわれの手でかたづけるのだ。人に頼ってはなら ぬ。 てつつい 226

9. 西郷隆盛 第3巻

俊斎は米良をにらむ。関勇助が引き取って、 「奸党一掃のことは、われらの宿願だ。それについては何人も異議はないはず。その実行方法につい て江戸の同志たちが何か名案を考えついたというのなら、聞かせてもらおう」 「方法は簡単です。江戸では西郷が碇山将曹を斬る。国許においては、われわれが吉利仲、二階堂志 津馬、伊集院平、海老原宗之丞および最近帰国することになっている島津豊後を斬る。ただ、それだ けです。 : : : たたそれだけのことを、今日まで実行する者がいなかったから、殿様にこのような苦し い御決心を強いるようなことになってしまったのです」 「おいおい、今になって、そんなことをいい出しては困るじゃないか」椎原与三次がなだめ顔に、「奸 党を斬ることなら、昨年殿様御出府の前に、われわれが計画したことだ。だが殿様の御懇切な御内諭 によって思いとどまった。高崎崩れの流血をふたたび繰返してはいけないというお言葉に従って、 : よ っさいを殿様にお委せした。その事情は西郷も君もよく知っているはずだ。もう忘れたのか。 るばる江戸から帰って来て、何をいうかと思ったら、そんな陳腐なことをいい出す」 俊斎の額にさっと青筋が浮び上った。 「陳腐とは何事だ。僕も西郷も江戸でつくすべきことはつくして来た。その上で考えた実行方法だ。巨・ それを陳腐だというあなたは : 「言葉尻をとるな」 「そうですか。言葉の問題ではありませんね。要するに諸君に実行の勇気があるかないかという問題 です。西郷はもう実行しました。今ごろは、碇山将曹の死骸の上に折りかさなって倒れているかもし ちんぶ

10. 西郷隆盛 第3巻

美貌の若侍であった。 すれちがいかけて、若侍は軽いおどろきの声をあげて立止った・ 「おう、お前は ! 」 あぎんど 「へい、筆の商人でございます」 ・高輪の藩邸・ : : こ 「いや、たしかに、どこかであった。江戸かな ? ・ : : 「はい、江戸にもまいったことがございます。どうそごひいきに : : : 今日は関先生のところへ品物を い、ごめんください」 持ってうかがうところでございます。先生は御在宅でございましような。へ 面を伏せたまま、さっさと駆け出してしまった。若侍はその後姿をしばらく見送っていたが、 ・ : それとも京都だったか ? 」 「怪しい奴だ。どこであったかな。江戸か ? 行商人は後もふりかえらず、坂道をのぼって関勇助の裏庭の柴折戸を開け、のそのそと入りこんで 行った。 「へい、今日は」 の 主の勇助は縁側近く持ち出した机によって、書類らしいものを開いているところであった。きっと尺 なって顔をあげ、 「何者だ ! 」 章 「へい、長崎の筆屋でござい」 五 第 「おう、お前は鮫島 ! 」 「なあに、筆屋の正助でございますよ」 おもて さめじま