しらぬ 第十一一章不知火 安政四年の正月は、吉之助にとって賑やかな正月であった。少し賑やかすぎたかもしれぬ。 篤姫御婚儀は年内にとどこおりなくすんで、斉彬はいうまでもなく、薩摩藩全体が肩の重荷をおろ した感じである。吉之助は、その秘密な目的と意義を斉彬から打ちあけられているだけに、なお一層 喜びも大きく、ほっとした気持も強かった。 さいしょあっし 大晦日の晩から在江戸の同志、伊地知正治、税所篤、樺山三円、有村俊斎の四人が押しかけて来 て、飲み、食い、論じ、まるで下加治屋町時代そのままに騒ぎとおして、初日も拝せすに元旦を迎え くさかべ そうじ やすつぐ りようざんばく た。そこへ、桜任蔵、日下部伊三次、重野安繹の面々まで現れて、吉之助の長屋は梁山泊そこのけの 火 盛況で、正月三日は寝る暇もないくらいであった。 知 三十而立と反省した昨年の正月にくらべれば、実に落着きのない正月であったが、それもまた楽し不 く、お須磨の方懐妊の喜びも手伝って、ついうかうかと松の内をすごしてしまった。 七日には俊斎を誘って、回向院の春場所に出かけた。相撲気狂いと仇名されている吉之助であるか十 しらぬ ら、新進気鋭の力士不知と東の大関雲竜との取組は見落すわけにはゆかなかった。不知火はまだ関 脇であるが、初日以来勝ちっ放し、不知火ならぬ燎原の火の如きこの勢いを、大関雲竜果してくいと
俊斎は肩を怒らせて息巻く。棧敷にも、俊斎に賛成するかのようなざわめきが起った。 「畜生、また仕切り直しだ」 吉之助は答えず、目を皿にして不知火の動きを見つめていたが、 「いやいや、慎重なのは不知火の方だ。あの目の色はただの闘志だけではない。何か考えている。た しかに考えている」 「あっ、立った ! 」 さっと引かれた軍配、どっとあがる満場の喚声。 立上ると見る間に、不知火は雲竜の頭を猛烈な勢いで張りつけた。同時に右脚で相手の足を蹴った。 蹴られて浮き足となったところへぐっと附け入り、突きのけようとする相手の右腕を巻きこんで、大 外掛け。 素早い勝負であった。あっ、張り手だと見物が気のついた次の瞬間には、雲竜の巨体は地ひびき打 って土俵の外に落ちていた。 火 場内を支配した緊張と沈黙がどっと破れ、湧きかえる喚声がそれにかわった。羽織がとぶ。財布が知 不 とぶ。座蒲団や土瓶までとんで、土俵のまわりに山をつくった。 章 「不知火」 十 「白縫大明神ッ ! 」 第 人気はかねて不知火の方に集っていたらしく、なかには癇高い声で雲竜を罵倒するものさえある。 俊斎が怒りだした。
め得るかどうか。 「俺は不知火だ」 俊斎は例によって、簡単にきめてしまった。「物には勢いというものがあるからな。いかに雲竜とい えども、不知火の勢いには抗し得ないよ」 「では、俺は雲竜と行こう」 自分のいいたいことを俊斎に先廻りされて、しぶしぶながら吉之助は答えた。「大関には大関の実力 がある。勢いだけでは勝てるものではない」 「勝てる」 「勝てない」 「とにかノ \ ( 打こ ) ) 」 「ああ、行くとも ! 」 吉之助は体重二十八貫、身長五尺九寸、相撲ならば三段目のはじめくらいは取ると藩邸出入りのカ 士から折紙をつけられている。本職の力士と間違えられそうな身体を回向院の棧敷にすえて、番組の 進行にかたずを呑むうちに、江戸の人気をこの一戦に集めて、雲竜と不知火は土俵に上った。不知火 は小柄ながら、よく緊った身体の力士であった。目に殺気に似た光をたたえて闘志満々たる四股を踏 む。これに対する雲竜は、さすがに大関、便々たる腹に動ぜぬ底力を見せ、皺のふかい額に百戦錬磨 の深慮をひそめ、気負い立っ不知火を軽く制して数回の仕切り直し。 「焦らすつもりだな、卑怯な ! 」
だが、こんども駄目であった。雲竜は右肩のあたりを不知火にひっ掻かれて顔をしかめただけで、 倒れなかった。 「おかしいな」 「はつはつは、どこで習った手かしらぬが、これじや不知火よりも壇の浦だな」 べた 壇の浦というのは身体ばかり大きく、相撲下手で通っている愛嬌者の力士である。 吉之助は口惜しがって、 「どこが壇の浦だ」 「不知火はたしかに足の先の方を蹴ったぜ。あんたはさっきから股のところばかり蹴っている。不意 を打たれて足先を蹴られたら、浮足も立とうが、充分構えているところを、股を蹴られても、なんで 動くものか」 「なるほど、そうか。ーーー喜平次、もういっぺん行司だ」 こんどは足先を蹴られてよろめくところを、右腕を巻き込まれ、俊斎はみごとに倒れた。 「ははあ、これだ、これだ。俊斎、もういっぺん」 「もう沢山だ、背中がひりひりする」 騒ぎを聞きつけたのであろう、階段を鳴らして、どてら姿の重野安繹が上って来た。 どうも俺が藩邸に泊ると、地震や火事に縁がありす 「なんだ、相撲か。また地震かと思ったぞ。 ぎる。はつはつは」 「重野、一番来い。今日の不知火の手を教えてやる」 188
「不知火にあって来たのだ」 吉之助はニコニコと笑って、「今日の相撲の手を習って来たそ」 「、はか。はかしい」 俊斎は怒ることも忘れたあきれた顔で、「あんな手を習うも習わぬもあるものか」 「いやいや、やつばり俺の想像どおり、ちゃんと前々から工夫した手だった。雲竜を倒すのには、あ あげく の手よりほかにないと考えぬいた挙句に使ったのだーーー俊斎、一発行こうか」 「何をいっている、こんな時刻に」 回向院から芝まで歩いて来たのだから、もう真夜中近い時刻であった。 かまわぬ。実地にためしておかないと忘れてしまう。喜平次、行司を頼むそ」 吉之助は大手をひろけて立上った。 「この相撲気狂いめ。よし、相手になってやる。倒せるなら倒して見ろ」 こんなときには、後にはひかぬ俊斎であった。 火 吉之助の不知火は飛びかかって、いきなり頤を張り、足を蹴ったが、俊斎の雲竜はうなと堪えて、知 不 ビクともしない。 章 不知火は首をかしけて、雲竜の腰を眺めながら、 十 「それじゃいかん。もう少し足が浮くはずだ」 第 「はずだといっても、浮かんのだから仕方がない」 では、もう一ペん」
しやも すね 「何が不知火だ。軍鶏の喧嘩じゃあるまいし、顎を張って向う臑を蹴るなんて、そんな相撲があって たまるか。 ・ : 雲竜、雲竜 ! 負けても恥じゃないそ。相手はシャモだ。シャモのシャモ野郎だあ ! 」 うしろの棧敷から、まるで俊斎を狙ったかのように半纏が飛んで来て、ふわりと頭にかぶさった。 俊斎はその半纏をビリビリ引裂いて立上り、 「何をするかっ 吉之助は笑いながら、俊斎を抱きとめた。 「怒る奴があるか、お前の贔屓が勝ったのじゃないか」 「いや、贔屓は今日かぎりやめた。卑怯きわまる」 「卑怯じゃない。ちゃんとした相撲だ。相手の強さを充分に認めた上で、あえて用いた奇手だ。よく 考えた相撲だ」 「ちがう。勝つも堂々、負けるも堂々でなければいかん」 「不知火は堂々と勝ったよ」 「あんたがそんなことをいうとは知らなかった。糞面白くもない。俺は帰る」 ひとりで怒って、俊斎はとび出してしまった。 藩邸の長屋の二階で、喜平次を相手に馬そばを食い、不知火を罵倒しながら待っていると、およそ 三時間もおくれて、吉之助が帰って来た。軽く酒気を帯びているところを見ると、どこか寄り道した にちがいない。 「何をしていたのだ、今ごろまで」 ひいき はんてん
第八章三十而ュ 第九章青葉時 * * * * 第十章千里駒 第十一章星条旗 * 第十ニ章不知火 第十三章旧山河 : : 第十四章白城 * CO 年表
『西郷隆盛』既刊 第一巻早春の巻 第二巻落花の巻 第三巻青葉の巻 第四巻而立の巻 第五巻月魄の巻 第六巻彗星の巻 第七巻不知火の巻 第八巻黒潮の巻 第九巻風の巻 第十巻雲の巻 第十一巻孤島の巻 第士一巻大鵬の巻 第十三巻飛竜の巻 第十四巻渦潮の巻 第十五巻丹楓の巻 第十六巻錦旗の巻 第十七巻猛虎の巻 第十八巻雪花の巻 第十九巻火輪の巻
たので、まっすぐに藩地に向った。 吉之助は大阪の藩邸では吉井幸輔にあい、筑前では亡命中の同志竹内伴右衛門、岩崎専吉、木村仲 わたなかもへ、 之丞、井上出雲守の消息をたずねた。四人はそれそれ葛木彦一、洋中藻羅、北条右門、工藤左門と変 名し、斉溥の庇護のもとに領内の寒村や孤島にかくれ住んでいたが、今は薩摩よりの逮捕令も解け、 おのおの国事に奔走しているということであった。 長い道中であったが、斉彬に閲してその胸中をたたく機会はなかった。吉之助は、それも急ぐには 及ばぬとあきらめ、熊本に着くと、水戸組の同志津田山三郎をたずねて一晩語りあかし、彼の紹介で ながおかけんもっ 家老長岡監物にあい、思いがけぬ傑物であることに驚いた。監物も吉之助の人物を深く認めた様子で あった。この旅行も、吉之助にとって、決して無駄ではなかったのである。 一行が鹿児島に帰着したのは五月二十四日、四年ぶりに眺める薩南の海と山はすでに激しい夏の色 であった。 201 第十二章不知火
「何をいっている。去年の正月は三十而立とかなんとかひどく大人ぶっていたが、三十一になってま た子供に還ったようだな。相撲の手などおぼえて何にするつもりだ」 じきでん 「国の土産にする。俺には何も江戸土産がないから、不知火直伝の手でも持って帰ったら、国の若い 連中が喜ぶだろうと思って、習って来たのだ」 「はつはつは、ますます子供だ」 重野は大人びた笑い声を立てて、「おい、喜平次、酒はないか。こんな時刻に起されたのでは、一杯 ひっかけねば眠れぬ」 「酒は正月三日間に、旦那方が飲んでしまいましたよ」 「お前の飲み料がかくしてあるだろう」 「かないませんね、学者先生には」 「そうだとも、学のあるものの目は、他人の徳利の中まで見とおしだ」 喜平次は酒をとりに階下に降りて行く。重野はその後姿を見送りながら、 火 「おい、西郷、そういえば、そろそろ御帰国の時期が近づいて来たな。予定は何月だ」 知 不 「桜のころだろうな」 「国・午でよ、。こ、。 ナしふお前の帰国に期待している様子だそ。江戸の有志家、殿の側近者としての令名は、章 十 もう国許まで聞えているらしい。お土産が相撲の手ばかりでは、若い者がおさまるまい」 第 「お前に説教されようとは思わなかった」 「俺は学者だ。説教はお家の芸だ」