不遜きわまる申入れでございます。 : : : それがために、おそれ多くも主上には、寝食も安からざるほ どの御悩みともれうけたまわりまする」 鷹司政通は無一一一口。小林良典はハラハラと涙を流して、 「うけたまわるだに、腸の寸断される思いがいたします。まして雲の上の御嘆き、いかばかりでござ ・ : しかも、この時にあたり、主上の御両翼とも中すべき太閤と関白、そのうち右の いましようか。 翼たる九条関白殿下には、堀田の黄金に目もくらんでか関東に同腹、二枚舌を用いてお上をあざむき ただひろ さねむつ 奉るのみか、主上の御信頼あっき青蓮院賞近衛忠熈、三条実萬の両卿を己れ一個の専断にて参内停 「あれはたしかに九条殿の専断であった。だが、その後、主上のおはからいによって、停止は解かれ たはず : : : 」 「畏れながら、殿下には、ひところ巷間にはやった次のような戯れ歌を御存しでございましようか。 世の中は慾と誠の堺町 東はあずま西は九重 : : : 」 : 聞いたこともない」 「知らぬ。 鷹司政通の声はふるえた。知らぬどころではない。九条関白を讃めて政通をけなしつけた落首であ る。下堺町御門内の東側は鷹司家、西側は九条家、その東側の鷹司政通が慾に目がくらんで、幕府と 結託し、禁裡の不和をはかるという意味である。 政通とても、世間の噂のように、堀田の賄賂一万両をふところに入れたわけでは決してないのだが、 さ
「それはちょうどよかった。ついさっき、春日潜庵に命じて御来駕を乞うための使者を出したところ です。 : : : 実は、ただ今、主上の御宸翰をいただいたのです。関白の勅答案は明日決定することにな っている。なんとかして、これを覆す方策はないかと、畏れ多い御下問であります」 おうぎまち 間もなく、中山忠能、正親町三条実愛、大原重徳の三人が駆けつけて来た。 協議の結果、今から川路、岩瀬の両人を刺しても間に合わぬ、かえって幕府側に有利な口実を与え ることになるから、直接九条関白にぶつかるよりほかはないということになった。 ぶつかるといっても、いやしくも関白の位にあり、主上さえもはばからせ給う九条尚忠に刃を加え るわけにはゆかぬ。もっとおだやかで、しかも効果のある方法はなかろうかと議論の後、岩倉具視が 提案した。 「数で行きましよう。衆をたのむのは、死士の行き方ではないが、明日にせまった決定をくいとめる のには、それが一番いいかもしれぬ」 : と中すと ? 」 「近ごろ、志ある公卿はほとんどすべて、関白の態度が曖昧で、聖慮にそむくと聞いて、ひそかな憤明 りをいだいています。この義憤を爆発させるのです。今晩中にそれそれ手配し : : : つまり、われわれ紫 が駆けまわって、誰でもいいから、人を選ばず、事情を知るも知らざるも、ことごとく狩り集めて、 明日、関白のもとに列参する」 第 「列参、なるほど ! 」 と、久我建通がうなずく。 くつがえ
「もちろん、それにちがいないが : 「いや、そのことでは、僕に一つの案がある。僕も九条関白と鷹司太閤には、さんざん手こずった。 ・ : 関白が紀州派とかたく手をにぎっていることは明白だが、関白を抑えることのできるのは太閤の よしすけ ほかにはない。然るに、太閤の態度は小林良典などの努力で、いくらか正論派に傾いたというものの ' うしろだて まだ天色だ。その原因は要するに有力な諸侯の後楯がないという一事に帰する。慶喜擁立に関しては ' わが藩公が全力をあげて太閤を支持することがわかったなら、太閤も自信を得て立上るにちがいない と考えた。それで、僕は小林良典と三国大学に相談して、わが藩公の御親書を太閤にとどけることに ・ : 紀州派の策動を一蹴して、慶喜擁立のことを頼むという手紙だ。多分、今日明日のうちに 江戸から到着することと思うが、それを読めば、太閤も近衛公も態度を決するにちがいない」 「だから、君も遠慮せずに、近衛公にあうがいい 。あって、御台所への御返事をいただくのだ。 紀州慶福のごとき少年にては、とても天慮には叶い申さず : : : 」 「きっと書いてくれる。一「三日待てば、間違いなく書いてくれる。それを持って、君はすぐに江戸 に帰ってくれ。僕は堀田正睦に対して、慶喜御指名の御内勅を下されるよう、極力努力する。必す成 功する自信もある」 「よし、あおう。近衛公にあおう」 「早すぎてよ、 。しカん。明麦日あたりがよカろう : ・ : ・ よしとみ もし伝手がなければ、僕の方から手をまわし 9 第九章雨
ど無力にされていた。 ・ : 現在の切迫した危機にのそんで、朝廷を中心に事を行おうとしても時すで におそい。朝廷の実力を養って、然る後に外夷に対しようと思っても間に合わぬ。だから、形式にお いては幕府が朝廷に従い、実質においては関東が京都の上に立って、国難打開の実際策を立てなけれ ばならない・ : というのが世の識者の意見ではなかったかと思う」 「ふうん、君もそう考えていたというのか」 「そこまで、はっきりと考えていたわけではない。だが、今になって思えば、僕もまたこの常識にひ きずられていたのではないかと思える節がある。京都に行ってみてそれに気がついた。 : 一橋慶喜 を擁立して、幕閣の大改造を行い、それによって公武の関係を一和し、内政をあらため、外交を整え るというのは、たしかに実際策だ。最も行われやすく、最も効果のある行き方に見える。だが、果し てそうであろうか。幕府の実力を基礎として内治外交の転換をはかろうという行き方は、かえって迂 遠な道ではなかったかと思われて来たのだ」 「ふうん」 「京都では、誰もそんなことを考えていない。し 、や、一人や二人は : ・ : たとえば九条関白などの考え 方は、その代表的なものかもしれぬ。しかし、京都の一般の空気はちがう。江戸では想像もできない 雨 くらいにちがう。京都人が考えることは、ます皇権の回復。公卿も学者も浪人も、 いっさいを皇権回 章 復という大原則から眺めている。 : : : 識者の目から見れば、これは物の実状を知らなすぎる迂遠な意九 見かもしれない。そんなことをやっているあいだに、日本は外国の勢力に押しつぶされてしまう、と 識者はいうかもしれない。 : だが、果してそうだろうか」
もない。あってはならぬ。挙国一致、皇国の人心の帰すところに従って処置しなければならないのだ。 承久のことは国内における公武の争い、こんどのことは皇夷の争いである。決して承久の再演などあ ろうはずがないから安心するがよい。それでも強いて、さような事を行うとなれば、その時には朕に も覚悟がある ) と仰せられた。 「この話をもれうけたまわったときには、ありがたさに涙がこぼれた」 ほ ) めいりゅうぎん 左内はいっこ。 「この御一一一一口、実に鳳鳴竜吟、わが神州の光である。よき御代に生れ合せた。わが命 など惜しむにたらぬ。いつでも死ねるそ、と心から思った。 : このありがたい大御心を知らず、無 責任な激語を吐き、いたずらに情勢を混乱せしめる志士攘夷家と自称する連中こそ、困りものだ」 「彼らに奸物といわれようと、刀を持って追いまわされようと、節を屈し、初志を変える気にはなら ぬ。 : まあ、しかし、二カ月間の苦労の甲斐があってか、青蓮院宮、近衛、三条両卿をはじめ、公 卿の有力者たちは、世界の大勢に目を開きはしめたようだ。岩瀬と川路も、だいたい僕の説に賛成し てくれた。条約の勅許を得るためには、外交のことはしばらく伏せて、内政を調整する。すなわち、 一橋慶喜を西城に入れ、公武のあいだに正常な関係を確立すれば、京都の輿論は、幕府のためにも有 雨 利に展開し、外交問題も自然に解決の方向に向う。 : ・公卿八十八人の列参は、当の九条関白よりも、 章 堀田正睦の方をひどく驚かせたようだ。これほどに公卿の結東が固く、士気もまた旺盛であろうとは九 誰も想像していなかった。 : 実は僕もあれには少々驚いている。事ここに至れば、外交のことは二 の次にして、まず慶喜を西城に人れることに全力を尽すべし、と今は考えている。つまり、島津斉彬
9 の普請方の一行がやって来た。その中には小金九 3 某という青年がいた。土木工事の下役にすぎなか ったが、 , 役柄に似合わず好学の精神に富み、目に 不思議な熱情をたたえた若者で、北条を由緒あり げな流人と見たのか、何かにつけて近づいて来よ うとするが、微役なりとはいえ藩の役人とあれば、 こちらの身分をあかすわけにはゆかず、なるべく 避けるようにしていると、ある日、薩摩の貿易船 が難破して大島に漂着した。薩摩の船と聞いては 懐しく」を 、ヒ条よ島役人にむりやりに頼んで乗組員 にあいに行った。そのとき、付添いの役を命ぜら れたのが小金丸某であった。 そのことから、北条右門が薩摩の脱藩者であり、起 国学者であることがわかると、小金丸は非常な興中 味と好意を示しはじめた。工事のことはそっちの けにして、北条のかくれ家に押しかけ、魚や野菜三 をくれたり、身のまわりの用をたしてくれたり、 用がすむと坐りこんで何やかやと質問責めにする。行
ち方も知らぬと思われているので、関東が増長するのだ」 「私は川路聖謨を引受けましよう。あなたは : : : 」 「余は堀田にぶつつかろう」 「いや、岩瀬忠震をお願いします。この二人が、こんどの問題の扇の要であり、推進者です。 : : : こ の二人をなんとかすれば、堀田はもちろん、九条関白も東坊城も、ひとりでに頭を下げます」 ・ : 相手にとって不足な気もするが、よろしい、たしかに引受けた」 「岩瀬か。 ひしゆいっ 「明朝早く、彼らの旅館に直接乗込み、もしも相手がその非をあらためようとしない場合は、匕首一 せん 閃、二度と文句の出せないようにする」 「心得ている。では、明日 : 大原三位と別れると、岩倉侍従はその足で久我建通の屋敷にまわった。建通は九条関白に辞表を突 きつけて以来、病気と称してずっと引籠り中である。 具視は重徳との協議の次第をくわしく語り、 ぼうこひょうが 「このたびの事は、ロと舌だけでは片づかぬところまで来ています。われわれ両人の一挙は暴虎馮河 の勇と笑われるかも知れませんが、そのそしりは甘んじて受けるつもりでおります。どうか、後々の ことは、よろしくお願い中上げます」 建通は不思議そうに具視の顔を見ていたが、 「では、あなたは、私の使者におあいにならなかったのか」 いえ、私は大原三位の屋敷からまっすぐにここにまいりました」 「あなたのお使者 ? かなめ 200
きと申せば、差障りなきやと存じ候』 御宸翰にもかかわらす、当の九条関白は、関東の黄金に心迷ってか、ついに主上の御信頼にそむい たが、公卿の大多数はこの宸翰を拝して振い立ち、その意気はすでに昔の長袖者流ではなかった。位 階の高くない議奏久我建通、万里小路正房ですら、幕府の老中首席堀田正睦をのんでかかった。 あるとき、堀田がアメリカの富強を説き、盛んに使節 ( リスの人物を讃めると、万里小路正房は冷 笑して答えた。 「日本にも、せめてハリスの半分くらい智恵と度胸のある人物があったなら、あなたもわざわざ京都 まで御足労の必要もなかったというものでしような」 またある時、議奏の一人が、堀田にたずねた。 「このたびの条約を許したならば、国防のことは十年くらいは安全ですか」 堀田は答えた。 「十年はおろか、私の一生くらいは大丈夫でござる」 すると徳大寺公純が進み出て、 「あなたはいつまでお生きになるつもりか。 ですよ」 堀田は手を頬にあてて、 「私はハリスには格別迷惑もしなかったが、お公卿方は実に手に負えませぬ」 公卿さえも、このとおりである。まして公卿の諸太夫、青侍ならびに在野の学者、志士、浪士の気 明 ・ : 明日の命という言葉もあるが、近ごろの京都は物騒紫 章 第
「どこかで目を光らせているかもしれぬ。 もいよいよあきらめた」 「あきらめた ? ・ : くわしい話は 「慶喜公を擁立することが、条約勅許のための早道だということがわかったのだ。 宿に行ってからしよう。ひどい風だ」 やしろ 左内のかくれ家は祇園の社に近い竹藪にかこまれた大きな屋敷の奥庭にあった。越前家出入りの豪 商の別荘だとかで、数寄をこらした庭の飛石づたい冫彳 こ一くと、庵室造りの離れがあって、その入口に ' さっき五条の橋ぎわで別れた若侍が待っていた。 雨に濡れて、白木蓮の花が咲いている。 しいところだな」 「花を眺める暇もなかったよ。 : これは横山猶蔵、お見知りおきを願う」 と、若侍を吉之助にひきあわせた。 池の見える座敷で、横山の汲んで出す茶をすすりながら、左内は上京以来の苦心談をいろいろと物 五ロっこ。 雨。 上京の当初は、条約勅許と慶喜擁立の二つのことは、何の矛盾もなく同時に達成できると楽観して 章 いたが、京都の情勢はとてもそんな生やさしいものではなかった。江戸のものが京都を知らないよう九 に、京都のものは全然江戸のことを知らぬ。まして、世界の情勢に通じている者などは公卿の中にも 学者の中にも一人もいないと言っていし リスが江戸に入ったという、ただそれだけのことが、京幻 : だが、もういいのだ。大勢はすでに決した。堀田正睦 むじゅん
「どうやらかたづいたようだ」 「どんなふうに ? 」 「まあ、一杯いただこう。 : 祝盃とまでは行かずとも、前祝いのできる程度にかたづいたようだ。 なしにろ、八十八人、それそれ相当に頑張ってくれたからね。誰の発案か知らぬが、若い連中はみな 宮中の煤払い用の草履をはき、大刀をひっさげ : : : はつはつは、関白邸の玄関を守る青侍ども、青く なってあわてたそうだ」 鮫島正助の酌で、潜庵はぐいぐいと飲む。「居常酒を愛し、斗酒乱れず」という自賛にそむかぬ飲み っぷりである。正助は安政二年以来、潜庵の門に出入りして、自らその門人と称している。吉之助を 潜庵に引合せたのも正助であった。 大楽源太郎が膝を乗り出して、 「公卿があばれたのですか、先生 ! 」 「ああ、玄関の燭台、火鉢、襖、だいぶ被害があったようだな。 : : : 関白がどうしても面会しようと そうもん せず、応答を取次の者にまかせて、勅答案はすでに奏聞を経たものであるから、改変はまかりならぬ と答えさせたものだから、玄関は大騒ぎだ。火鉢は割れるし、襖は裂けるし、九条尚忠は本日より九 条不忠と改名せよなどと、大声でどなるものもあり : : : 岩倉侍従と大原三位は土足のまま関白の居室 まで押込みかねない気勢を示した」 : ・明日は、京都中の膏薬を買いしめなければならないかな」 「ほほう、こりや大でき。 「はつはつは、君たちの影響で、お公卿もだんだん行儀が悪くなって来たよ。 : : : 玄関に坐りこんで、 すすはら 208