第三章道中記 十一月一日に鹿児島をたって、十二月六日に江戸についた。 途中いろいろと事件の多い旅であった。 まず、大久保市蔵が国境を越えて、肥後の熊本まで見送ってくれた。江戸に出る目的は、かぎられ た少数の者にしか打ちあけなかったが、同志や弟子たちは早くもそれと察して、思い思いに餞別を集 め、送別の会を開いて行を盛んにしてくれた。ただ大っぴらに見送ることだけは吉之助がことわった ので、市蔵が同志を代表して、野間原の関所を越えたのである。 もっとも熊本まで一緒に来たのは、ほかにも目的があった。道中の時間を利用して留守中のことを 打合せるのもその一つだが、この機会に細川藩の同志に大久保を引合せ、今後の連絡をつけておきた記 中 カノ かねて通知しておいたので、津田山三郎が山形典次郎をはじめ、肥後勤皇派の若い同志数名をつれ 章 て川尻の町まで出迎えてくれた。 第 津田は吉之助と同じころの藤田東湖門下で、江戸でも大いに活動し、帰国後は肥後における水戸派 の中心をなしていたが、そのために藩庁ににらまれ、今は家にこも 0 て私塾のようなものを開き、ひ
武蔵野の あなたこなたに道はあれど わが行く道はますら男の道 次左衛門の声は美しくふるえて澄みわたっていた。有村兄弟の母蓮子刀自は八田知紀門下の一人で、 歌道のたしなみも深いといわれ、次左衛門もその教養をうけているにちがいないが、今日の歌いぶり の美しさはそのせいのみではないようだ。ますら男の道はただ一つと思いさだめた若者の激情に高鳴 「あなたは : : : やつばり知っておられたのですね ? 」 「何を ? 」 「蓮田東蔵の辞世です。伝馬町の獄中で作った : : ・こ 「知らぬ。蓮田氏はいっ亡くなられた ? 」 「正月の四日だということになっています。 : : : だが、果していつのことやら。いずれ乾し殺された か、毒殺されたか。それが幕吏のやり方です。 : : : 日下部伊三次先生のところへ、水戸の同志が辞世 の歌をとどけてくれたのですが、ほんとにあなたは御存じないのですか」 「知らぬ」 「今、あなたのいわれたことと、まるで同じ歌なのです」 とじ 112
熱に浮かされたように目をかがやかせ、声をふるわせて語る左内の顔を見ていると、吉之助は目頭 が熱くなった。 せんこう 同志たる自分を偽って京都に潜行し、その後も自分の上京を知りながら、あおうとしなかった左内 の態度を、一度は責めてやりたいと思っていたのであるが、今はその気もなくなった。 「まったく大変だったな。しかし、よくまあ、そこまで漕ぎつけてくれた。君の努力にくらべると、 僕など、何をしていたのかわからない。御台所のお手紙を持参しながら、まだ近衛公のお返事をいた だけない。われながら無能たと思うよ」 「近衛公に直接おあいしたのか」 「いや、それがまだなのだ」 「早くあわなければいけない。 ・ : 僕の耳にした噂では、島津斉彬公の御内書は鷹司太閤の手元にと どまっていて、まだ主上の叡覧に供せられていないのだという。 近衛公もまた御台所の御内書をにぎ ったままだと聞いたが、何か思いあたることはないか」 「ああ、そのことだ。月照和尚から聞いたが、僕が持参した手紙とまったく正反対の手紙が、同じ御 台所名で近衛公のお手元にとどいているのだそうだ。それで、近衛公も迷って、内奏をひかえ : 「紀州派の邪魔だな」 公の方針と完全に一致したわけだ」 218
半次郎が口を入れる。「大山格之助先生もかなわんといっていました。江戸に出ると、薩摩隼人も意 気地がなくなるのですかね」 「はつはつは、いずれお前も江戸に出ることだろう。その折、自分で試してみるがいい。井の中の蛙 「なんだ、大山先生と同じことを言っている」 「そうか、お前らは蛙の面に水の方だな。まあ、今のうちはそれもよかろう。元気だけは買ってやる。 ・ : 俺は桃井先生のことは知らぬが、斎藤弥九郎先生のことなら、いくらか知っている。水戸の藤田 東湖先生の同志で : : : 」 と、吉之助が話しはじめようとしたとき、大山格之助が下駄の音をひびかせて庭に現れた。 ひゅうが 「おい、亠冂蛙ども、ここにいたカ ・ : 明日、上田右馬之助の試合があるぞ。日向の吉田早太が立合 いを申込んだ。鏡心明智流と天自然流だ」 桐野半次郎がたずねた。 子 「どっちが勝ちますか」 「馬鹿者、勝っか負けるかやってみなければ : いや、やってみなくとも俺にはわかっているが、おの ~ 間らにはわかるまい。 ・ : 試合の場所は下加治屋町だ。後学のために見物に来るがいい」 第 上田右馬之助の試合は、下加治屋町の大山彦八の庭で行われることになった。
せんさく : こんど 「橋本左内の上京の目的を、君が本当に知らないというのなら、これ以上詮索はしまい の問題では、俺もいろいろと陰の役者の役割をやったが、俺に関するかぎりは全部失敗だったよ。そ ろそろ陰の役者は辞職しようと思っている。 : : : 俺も男だ。こそこそと裏道ばかり歩きたくはない。 裏も表もない生き方をしている時が、一番はりあいがあるよ」 皮肉かと思ったが、そうでもないらしい。桜任蔵はチビチビと盃をなめながら、変に考えこんで、 政治向きの話はそれつきりやめてしまった。 吉之助も浮かぬ気持で、酔う気も起らず、間もなく別れ別れに橋和屋を出た。 余寒はまだ厳しかった。羅紗羽織をとおして、夜の風が身にしみる。先日の有村次左衛門の言葉と ともに友情と厚意から発したものにちがいないが、吉之助の最近 今日の桜任蔵の態度といい、 の行動に対する激しい非難であることは否定できない。 術策と陰謀、それは必すしも自分の意志から出たものではなく、斉彬の命令と仕事の性質によって やむを得す行っていることであるが、男らしくないといわれれば、なるほどそのとおりだ。 羽 もっとも親しい同志にさえもかくして、幕府の大奥に対する工作に専心しているのが今の自分であ紗 ささい るが、一をかくせば、二をかくさねばならす、やがては五を十を、些細な行動の末々をまでかくすこ 章 とになって、仲間から、いつも仮面とかくれ簑を用意した陰険な男だと思われるようになる。 第 陰険といえば、橋本左内のこんどの行動など、まさに陰険だ。『同志中には何事もかくし立て申さず 候』と書いた手紙そのものが、すでに嘘なのだ。同志たる自分をあざむく手段であった。
そかに青年を養っている。薩摩、肥後、肥前、豊後、筑前を貫ぬく九州連合の主張者であったから、 8 吉之助が大久保市蔵を連れて来たのを見ると、手を打って喜んだ。 川に近い料亭の一室に二人を招じて、昼間ながら酒を呼び、たちまち談論風発した。料亭を出て、 熊本に急ぐ道の上でも議論はつづき、その日は津田の家に泊ってほとんど夜を徹した。 「現在のところ、わが党にとって、形勢はあまり香ばしくないが、一橋慶喜擁立のことが成功すれば、 天下の形勢は大いに変るだろう。それまでの我慢だ。われわれとしては各地において同志を集め、弟 ・ : 江戸における西郷の 子を養い、各藩の連絡をますます固くし、九州を縦に連ねて時機を待とう。 活動は全力を挙げて後援する。直接の後援ができないまでも、少くとも後顧の憂いをなからしむるた めに、肥後は固く薩摩と結び、さらに筑前の同志とも連絡をつける」 これがその夜の結論であった。 会がはてて、若い同志たちが霜を踏んで帰って行った後、大久保市蔵は消え残った埋れ火をかきた てながら、津田山三郎に言った。 「私はこれまでずっと鹿児島にとじこもっていて、足一歩も藩地を出でず、隣藩の情勢さえ暗かった が、今夜で非常に安心しました。なかなか元気な仲間が集まっていますね。これで、はるばる熊本ま でやって来た甲斐があったというものです」 「はるばる諸君がやって来て下さったから、若い連中の元気も出たのですよ」 津田山三郎がちょっとさびしそうに笑い、「いつも今晩のような調子なら、熊本もまんざら捨てたも がんめい のではないのですがね、藩庁の頑迷さに押されて、手も足も出ず、ちちみあがっているというのが、
だが、それに対して自分は怒れるか。 任蔵から、左内は京都にいると聞いたときには、裏切られた気持で、思わずか 0 となった。だが、 その怒りはすぐに消えた。怒れないのはなぜか ? 自分もいろいろな点で同志をあざむいているとい うひけ目のせいか。いや、それだけではない。そんなことではない。 左内とても、何も好んで同志をあざむいたのではない。仕事の性質がそれをさせたのだ。あの策略 に満ちた手紙を自分に宛てて書いたときの左内の苦しい心中が自分にはよくわかる。わが身の栄達や 午されようとも思わぬ。 一覚一派の利益のために、友をあざむいたのだったら、許すことはできない。言 だが、慶喜擁立のことは、救国の大策である。しかも、四面皆敵の中において、決行し、実現しなけ れ。はならぬ秘中の秘策である。 ( 自分は左内を許す。自分をも許してもらいたい。人は許さすとも、天の名において許してもらいた : 左内に対すると同様の非難がいま自分に集中しているが、それは甘んじて受けよう。世間の 非難や賞讃に左右されない男子の不動心を養うときだ。修業 ! そうだ、今こそ修業の時だ ) そう考えることによって、一つの安心には到達したが、事はそれで解決したわけではなかった。 左内の留守中は、自分が責任者だという意気ごみで、諸方面を奔走してみるが、集 0 て来る情報は、 決して香ばしいものではなかった。 島津斉彬がいよいよ正面に乗り出して来たという事実が、逆に形勢を悪化させたような傾きさえ見 150
く必要があるのだと工藤は説明した。 京都との連絡は次のようにしてできたという。昨年の春、梅田雲浜が長州を漫遊し、ついで博多に 来て、北条右門を訪ねた。梅田の父百助は京都の薩摩屋敷に勤めて、その頃の京都留守居役山田一郎 左衛門に仕えていた。雲浜もその縁故で若いころから薩摩人とは交渉があった。北条右門は山田一郎 左衛門の弟子であるので、梅田も彼の名を知っており、わざわざそのかくれ家を訪ねたのである。 北条は、工藤左門、原三信、平野国臣などの同志とともに梅田雲浜を迎えて小宴を開き、いろいろ きごう と打合せるところがあった。そして、今年の春、和魂漢才の揮毫を五条為定に乞うことを表面の理由 にして京都にのぼり、梅田雲浜、春日潜庵、梁川星巌などを歴訪し、つぶさに上国の形勢を視察して 帰って来た。 「われわれの最近の動きは、まずこの程度のものです。もしも京都に事が起れば、筑前の同志は脱藩 しても上京する決心です。薩摩にも帰りたいが、京都にも上りたい、 というのがわれわれ四人の本音 でしような」 工藤左門はそんな打ちあけ話もした。 平野国臣という変り者の青年志士が福岡にいるという話も工藤から聞いた。 最初にこの青年を発見したのは北条右門であるという。嘉永四年の春であったか、北条が薩摩の捕 つ手を逃れて、玄海の孤島大島に潜居していると、その島に鎮座する中津宮神社の修理のために、藩
吉之助は自分が責任を問われたように赤くなって、「そのことにつきましては、私も : : : いや、わが 藩公も充分お考えになっております。私の見るところでは、ここ一年以内に召還の運びになるのでは ~ ないかと思われます。 : : : 国許からの伝言も託されておりますから、四人のうち誰かにあわせていた だけないでしようか」 博多大浜にいる北条右門になら明日にでもあえるが、あと一両日待てばほかの三人も呼び集めるこ とができるという返事であった。 吉之助は翌日の朝早く北条右門のかくれ家を訪ねた。折よくエ藤左門も来合せて、前の晩から泊っ ているところであった。 二人とも吉之助の顔を見忘れていた。一昔前に二、三度あっただけで、しかも、その頃は赤山靱負 の家に出入りして、同志のあいだの走り使いをする若者の一人にすぎなかったのだから、それも当然 であろう。だが、名前を名乗ると、二人は手をとらんばかりにして座敷に招じ入れた。西郷吉之助と記【 いう名前は、同志の中心人物として、斉彬の信頼厚い愛臣として、また藤田東湖の弟子として、一一人中 道 の耳にも親しかったのである。鮫島正助などを通じて、間接ながら文通もあった。 座敷の床の間には、誰の書か「天照皇大神」の懸軸があった。そのほかには飾りもなく、家財家具三 第・ らしいものもない寒々とした部屋である。工藤の額には皺が深く、北条の小鬢には白髪が目立った。 工藤は四十、北条はまだ三十五、六のはずであるが、実際の齢よりはひとまわりも老けて見えた。
吉之助は昨年の冬、斉彬の命を受けて江戸に出た事情からはじめて、松平慶永のこと、橋本左内の こと、幕閣および大奥の動向、紀州派の暗躍、ついに斉彬をして内勅奏請を決意せしめた最近の情勢 に至るまで、知っていることを全部、かくすところなく物語った。重助の運んで来た茶が冷えるのも 忘れた熱心な話ぶりであった。 月照はときどき鋭い質問をさしはさむ。吉之助は目を輝かせて、一々それに答える。長い応答のあ いだに、陽は西にまわり、部屋の障子に桜の老樹の影が映りはじめた。 「では、最後にお聞き致したい。私を近衛公への使者としてお選びになった理由は ? 」 「私は江戸を出るときには、もっと事情を簡単に考えていました。京都に来さえすれば伝手はいくら でもあると思っていました。ところが、幕府の警戒は実に厳重、しかも堀田の撒き散らした黄金は公 卿をも腐らせ、畏れ多くも主上のまわりに醜類の人垣をつくり、正論の天聴に達することをふせぎと めている有様 : ・・ : 」 「それで : : : 誰から私の名をお聞きになった ? 」 「かねてお名前はうけたまわっておりました。水戸の同志からも聞き、福岡に亡命中の同志からも聞 いておりました。桜任蔵、鮫島正助、有馬新七などからも一度ならずあなたのことを聞きました。こ おひととなり のたびはさらに京都において、梅田雲浜先生より御為人をくわしくうけたまわり、おすがり申すのは この人よりないと心に決めたのであります」 「なるほど。 : このお手紙、月照、たしかにおあずかり致しました」 「ありがとう存じます。・ : ・ : もしも、この使命を果すことができなかったならば、死んでお詫びする なりあぎら 168