れる点では、任蔵も三樹三郎にひけをとらなかったからである。 しそう もとより三樹三郎としても、ただの酔漢ではない。頼山陽の第四子に生れて、学殖において詞藻に おいて、父に及ばざるまでも決して父を恥ずかしめない俊秀である。熊沢蕃山を学んで、経済の学に もくわしく、足跡は全国にわたり、遠く蝦夷地にまで及んで、見聞も広い。その無私直情の性格は同 志に愛せられ、まだ三十四歳の若年ながら、梁川星巌の片腕として、京都勤皇党の一中心をなしてい る。 近ごろはだいぶおとなしくなったといわれているが、それも酒の入っていないときの話で、酔えば 必ずといっていいくらい世を罵り、人を罵って乱に及ぶ。つい最近も、円山の書画会で仲間の池内陶 かんゅ 所と韓愈の詩について論じ、相手の顔に唾をはきかけた。陶所は怒って三樹三郎を投げ倒す。三樹三 郎は剣をぬき、陶所もそれに立向って大騒ぎになったことがある。 もっとも、三樹三郎の剣は人を斬らぬことで有名である。抜くのは抜くが、ほおっておけばひとり でに鞘におさまってしまう剣である。仲間はそれを「猫の尻尾」と呼んでいる。三樹三郎の顔が猫に 似ており、その振りまわす剣は猫の尻尾ほどにも役に立たないという意味か。 今日も三樹三郎が取出した短銃を見て、大楽源太郎は、 「先生、それも猫の尻尾じゃありませんか」 と、危く口に出すところであった。だが、三樹三郎の異様な目の色に気がっき、唾をのんで源太郎 はたずねた。 「三人と申しますと、誰と誰でしよう ? 」 えぞち
脱藩の暴れ者、大楽源太郎などが深夜の行動隊であったのかも知れぬ。 勅答の決定は今日明日のうちにせまっている。主上の御悩みと公卿の発奮にもかかわらず、幕府方 の強圧は依然として強く、形勢はなお禁裏方に楽観を許さぬ。頼三樹三郎が酔って短銃をもてあそぶ のも、必すしもいつもの「猫の尻尾」ではないかもしれぬ。 「聞かせて下さい。先生が鉛の玉を食わせたいという三人は : : : ます堀田正睦、それはわかりますが、 あとの二人は誰と誰です」 大楽源太郎はもう一度すわりなおした。 かなめ 「俺が狙っているのは扇の要た」 かなめ 三樹三郎は拳銃を手玉にとってみせて、「風を起すのは扇だが、その扇には要というものがある。小 さくて黒くて陰にかくれていて、人目に立たないが、そいつを射抜けば、扇はパラバラになる。 おい、大神楽、お前は長野主膳という男を知っているか」 「さあ ? 」 源太郎は首をかしげて、「聞きませんな。どこの野郎です」 三樹三郎はゴロリと横になって煙草盆の方に手をのばしながら、 「彦根の手先だ」 : べつに珍しくもありませんや」 「彦根の手先なら、そこいらにいくらもいる。 194
を現さなかった。 空前の壮挙ともいうべき列参の噂は、かねて春日潜庵を通じ、田中河内介を通じて、在京有志のあ がりゆ ) くっ いだにひろがっていた。梁川星巌の老竜庵に集まるもの、田中河内介の臥竜窟に集まるもの、すべて 結果やいかにとその成行きを注視している。 吉之助は顔を知られていないのを幸い、鮫島正助と一緒に御所の近くまで行き、情勢を見ていたの だが、列参の一行が九条関白邸に押寄せるのを見とどけて、頼三樹三郎の待っている料亭まで引上げ て来たのであった。 夜が更けると、川の音が高くなった。遠い座敷では、絃歌の声が聞えはじめた。 「もう、そろそろ五つ半じゃないか」 盃をおいて、頼三樹三郎がつぶやく。「何をぐずぐずしているのだ」 九条邸の消息が気にかかるのである。 水 「やつばり、お公卿様ばかりじゃ、埓があかないんでしようよ」 山 大楽源太郎が答える。待っているあいだにかさねた盃で、彼も頼三樹三郎に負けぬくらい酔ってい た。吉之助の方をジロリとにらんで、「なんといっても、武臣が乗り出して行かなけりや、問題は解決 第 せん。武力、武力 ! 武力のほかはない。。 とうです、薩摩の先生、同感でしよう。八十八人がたった 一人の関白の屋敷に押しかけて行きながら、いまだに話がっかんとは、はつはつは、あきれて物がい
「そ、そんなものじゃない」 大楽源太郎は何か思いあたったふうに、ややあわてた目の色で部屋の中を見まわしたが、三樹三郎 の坐っていた座布団の上に黒光りに光っている不気味な武器を発見して、顔色をかえて叫んだ。 「先生 ! 」 「ああ、あったか。ここにあったか」 座布団の上から頼三樹三郎が拾いあげたのは、金具の色もまだ新しい西洋式の連発短銃であった。 「これだ、これだ ! 鮫島正助の長崎土産だ。 ハリスはコルトの五連発か六連発を持っているそう だが、俺は三連発で沢山だ。 : 一発一殺、これで殺してやりたい野郎が三人だけある」 しようへいこう 頼三樹三郎は、酔うとかならず人を斬るとか刺すとか言いたがる人物である。江戸の昌平黌の学生 であった頃から、剣を振りまわす癖があった。 上野寛永寺の石燈籠を蹴倒し、「徳川氏朝廷を軽侮し、人民の膏血をしぼって驕奢をきわむ。例証か とうてん くのごとし。実に国家の奸賊にして、滔天の罪悪なり」と怒号して葵の紋章を踏みつけ、友人がとめ紫 ようとすると剣を抜いてあばれた。それが幕吏の耳に入り、危く逮捕されるところであったが、泥酔 章 の結果と友人たちが陳弁してくれたので、昌平黌の退学処分だけでやっと免れた。 第 退学の後は、親族の幕臣ながら勤皇家として聞えている勝野豊作の家にいたが、ここでも持てあま されたかたちで、やがて根岸の桜任蔵の家に転げこんだ。この二人はよくうまが合った。飲んであば あおい
ラリと見ました。齢は若いが、なかなかの人物だそうではありませんか。潜庵先生は木村長門守のよ うな若武者だと口をきわめて讃めておられましたよ」 「ああ、潜庵先生も讃めるし、薩摩の西郷吉之助も讃めている。当代の人傑、救国の識見家とな。 : やはり同 : ・ところで、幕府方の連中に聞いてみろ、川路や岩瀬が橋本左内について何というか。 じ言葉で讃めあけている。救国の大識見家にして、当代の神童 ! 」 「敵と味方の双方に評判のいい人物とは、いったい何者だ。灰色の奸物にきまっている。 : : : 幕府方 にあえば通商開国を説き、禁裏方にあっては攘夷必戦を説き : : : ふふん、御本人は奇謀百出の天下の 策略家をもって任じているかもしれぬが、俺の目から見れば、 : : : 笑わせやがる、ただの白鼠だ」 、さ。橋本と聞いて、お 三樹三郎はまた懐から短銃をつかみ出し、手の中で弄びながら、「まあ、いし 前が二の足を踏むなら、いずれこの鉛の玉で、右か左か、橋本の態度を決めさせてやる」 廊下づたいに足音が近づいた。頼三樹三郎は短銃を懐にしまい、きっとなって居ずまいを正す。 明 「やあ、この部屋ですか」 女中に案内されて来たのは、鮫島正助と西郷吉之助であ 0 た。二人ともひどく昻奮した顔つきであ紫 った。真っ赤な顔をして、部屋に入ると同時に、言い合せたように手拭いを取り出して首筋の汗を拭 第 ・ : 女中、酒がないそ」 「やあ、待ちかねたよ。だいぶ手間どったようだな。まあ、一杯行こう。 三樹三郎は吉之助に盃を突きつける。
さても艶なる酒仙かな よっはつよ、 しい気持だ」 「先生、もう御用はおすみになったようですな」 「そうか」と、前をおろし、「この部屋が二階で、下の部屋に堀田正睦でもいるというのなら、天下の : なんだ、つまらぬ。下は水だ」 形勢もいくらか面白かろうというものだが、 「先生、もしも下に堀田がいたらどうなさいます」 生真面目な問いである。大神楽というおかしな名前でよばれる弟子の本名は大楽源太郎。長州の郷 士の息子で、早くより藩を脱し、処々を放浪の末、今は頼三樹三郎の家の学僕として寄寓している。 せいかん 齢はまだ二十代、いかにも野暮くさい田舎侍だが、骨格たくましく、精悍の気眉宇にあふれた頼もし げな好青年である。 「なに、堀田がいるか」 「もしいたら、と申しているのであります」 「うむ、もしいたら、水の玉ではすまされぬ。鉛の玉を降らせてみせる」 「鉛の玉 ? 」 「そうだ、鉛の玉だ。見せてやろうか、大神楽」 三樹三郎は右手を内懐にいれて何か探っている様子であったが、 : ないそ、ないぞ ! 」 「おやっー 「黄金の玉なら、もっと下の方でしよう、先生」 お」いカ′、 182
: しないな、こらー : よろしい。返事をしなけりや、今日かぎり破門だ。 「返事をしないか。 帰れ、帰れ。長州に帰れ。 : : : 俺は寝るそ」 やす 一 3 第ノルい・ 「先生、鴨厓先生、まだ早いでしよう。お寝みになるのは」 「誰が寝るといった ? 」 「そうでございましようとも ! このくらいな酒で、先生がお倒れになるはずではございません。 : おっと、倒れた。困りましたな、先生」 「倒れはせぬ。手をついただけだ」 鴨厓先生の菊石面には、赤紫の網の目ができている。酒間に弟子を前にして、杜甫や李白を語ると ころは、まずひとかどの学者らしく見えるが、怒り肩の菊石面、ずんぐりと肥った身体つき、赤紫色 かまど の丸顔で、目は糸ほどに細く、くしやくしやと寸のつまった顔つきは、ます竈の下からはい出して来 た野良猫というところ。「醜怪武人の如し」と、藤森弘庵は評したそうだが、その言葉さえお世辞に聞 える御面相である。 : と、こうして立上るために手をついただけだ。これが酒客の作法」 よろよろと立上って、「 : 鴨厓頼三樹三郎は窓の柱につかまり、袴の前をまくると見るあいだに、さっと銀色の一線を加茂川 の水に向って放出した。 頼三樹三郎の小便は、未と申の刻のあいだの斜めな春の陽ざしの中で、七色の玉になり、燦々然と して川水の上に散った。 あばたづら ひつじさる
月照が弁護の口調をもらすと、三樹三郎は拳をあげて机をたたき、 「御僧は何も知らぬ。幕府はかねて彦根遷座の大悪謀を決定し、主上は畏れ多くも大和蒙塵の御決意 を固められたともれうけたまわる。幕府によって遷さるるよりも、御自ら吉野に朝を遷して、楠氏七 生の裔の出現を待たんとの悲壮なる御決心だ。 : : : 御民われら、また何をかいわんや。堀田正陸もし 信長を気どらば、われらは明智光秀となって本能寺を襲い、彼の白髪首を頂戴いたそう」 ゃながわせいがん よしすけ 頼三樹三郎だけではない。 この庵をひそかに訪れる梁川星巌も、梅田雲浜も、小林良典も、三国大 学も、浮田一恵もみな同じ慷慨の語調をもらす。それがいっとはなしに、重助の素朴な頭にうつり伝 わって、この寄妙な歌になったのか。 窓の外の歌声と鉈の音がふと止んだ。誰かが重助と話しているらしい気配である。われにかえった 月照が聞き耳を立てると、重助の声で、 「お上人様、御来客でございますが」 「ほう、どなたかな」 「筆屋の鮫島さんと、それから : : : あんたは、どなたでしたかな」 「薩摩の西郷吉之助とお伝え下さい」 月照は立上り、障子を開けて、静かに縁側に姿を現した・ もうじん 162
返答がいただけなければ夜があけても帰らぬというのだから、こりやまるで、何かの芝居にでもあり そうな行き方ではないかね。・ : : ・関白もついに折れたよ。明日中に宮中において、然るべく沙汰をい たす。これが返事だ。日の暮から亥の刻まで、五時間も頑張ったのだから、出かしたと讃めてやって よかろ、 ) 。 ・ : 岩倉具視という男、こいつ、思ったよりも曲者だな。貧乏くさい、しみったれた男だ : 公卿の貧乏も、彼 と思っていたら、いつの間にか覚悟ができ、肚ができ、策略もできたようだ。 らをこれまで鍛えなおしたということになれば、嬉しい苦労であったかもしれぬ」 斜めな月影である。賀茂の川霧が花と若葉の清香をのせて、一座の酔顔をなでる。この調子では、 酒宴は夜明けまでつづくかもしれぬ。 「そろそろわれわれはお暇しようか」 吉之助が鮫島正助を振りかえると、 「お待ちなさい、西郷君」 春日潜庵が引きとめた。「これからが、あんたの舞台だ。薩摩と越前の舞台だ。君と橋本 : : : いや桃 井伊織か。 ・ : 星巌先生も心配されていた。その後の経過はどんなふうですかな」 「いかん、いかん ! 」 話の途中から座布団を枕に眠っていたように見えた三樹三郎がむつくりと起上って、 「薩摩と越前を働かせてはいかん。あえて働くと申すなら、頼三樹三郎には覚悟がある」 と、右手を懐に入れた。にぶい音をたてて、短銃が畳の上にころげ落ちた。 一座は色をなしたが、春日潜庵は顔色も変えず、 209 第八章山紫水明
に打ち入る。 いや、長州兵にかぎらぬ。いつでも武器を取って立上る諸藩の精鋭は、京都の街の 至るところに待機しているのだ。薩摩もぼつぼっ動き出したらどうだ。他藩におくれをとったとあっ ては、西南の雄藩の名がすたろう」 ぜんぜん根拠のなさそうな言葉っきでもない。京都の情勢の緊迫が予想以上であることは、上京以 来、吉之助も感じている。ぐずぐずしていては、薩摩はたしかに立ちおくれる。もっと真相を聞きた いと、吉之助が言葉をつづけようとすると、そこへ新しい客が入って来た。 「やあ、これは、潜庵先生」 三樹三郎が叫ぶ。 春日潜庵であった。見上げるほど背が高く、肉づきもまた豊かな偉丈夫である。齢の頃は四十二、 三。梁川星巌はかってこの人を評して、「京都第一の人のみにあらず、海内の真儒と存じ候」といった いつもな が、まことに学者らしい学者で、挙動も服装も端然としていて、威容おのずからそなわり、 ら彼が入って来ると一座のものは思わず膝を正すのであるが、今夜は潜庵もさすがに昻奮してか、畳 を踏む足音も荒々しかった。 「やあ、だいぶおそろいだな」 どかりと坐って一座を見まわし、「星巌先生はどうなされた ? ここにおられると聞いてかけつけて 来たのだが : ・ それよりも、潜庵先生、関白邸の様子は : : : 」 「いずれ、そのうちに現れるでしよう。・ : : ・ 頼三樹三郎が気ぜわしくたずねた。 207 第八章山紫水明