俊斎は月照を送る途中、もし幕吏に襲われたら、全力をつくして斬り抜け、伏見奉行内藤豊後守の屋 敷に斬入り、あわよくば豊後守を刺して斬死する。幸い無事に月照を奈良まで送りとどけることがで きたならば、そのまま薩摩に下り、鎌田出雲と謀って出兵を実行する。もしも藩庁の反対を受け、出 兵が不可能ならば、関勇助、大久保市蔵を中心とする同志の士三、四百人をかり集め、脱藩突出して 京都にのぼる。 有馬の旅費は伊地知正治が出した。正治は日ごろから倹約屋で通っていた。家格は小番三百石、仲 間のうちではとびぬけて豊かな身分でありながら、京大阪のあいだを往来するのにも、かならず握り 飯と塩を持って行き、茶屋にも腰をおろさず、道ばたで食うといった倹約ぶりであったが、有馬に旅 費がないと知ると、汚れた財布の中から、光もあざやかな小判を五、六枚つかみ出し、さあと言って 有馬に渡した。 かまたいずも 吉之助と俊斎も旅費欠乏に悩んでいたが、これは鎌田出雲が月照に献呈した金二千匹の中から用立 てようと月照の方から申出ているので、まずその点は安心であった。 鐘が鳴りはじめた。誓願寺の鐘か。つづいてやや遠く、本能寺、妙満寺の鐘らしいのが聞えて来た。 吉之助は盃をおいて、有馬新七の方を向き、 「では : 十 と、一一一口った。 「おお」 新七は答えたが、一枚だけ開け放した雨戸の隙間から射しこむ月影を眺めて、動こうとしなかった。 日
庭石伝いに縁側に姿をあらわしたのは、有馬新七と桜任蔵であった。 「なんだ、まだ誰もあつまっていないのか」 有馬新七は庭先から暗い座敷をのぞきこんで、「まだ、そんな時刻かな」 「いえ、もう揃ってもいい時刻なのです。 有村次左衛門は座布団をさし出した。 「いや、上っちゃおれない」 有馬新七は桜任蔵の方をふりかえり、「二人で田宮如雲と橋本左内のところをまわって来る。日下部 : おそくなって 伊三次にもあわなければならぬから、こっちに帰るのはおそくなるだろうと思う。 も、必ず待っているようにと、西郷が来たら伝えておいてくれ」 「なに、待っていろと言わなくとも待っているさ」 任蔵は笑いながら、「どうせ今夜は夜明しだろう」 「なるべく早く帰って来いよ」 でも井伊大老を斬ると断言しています。僕は信じています。彼らはきっとその言葉を実行します」 「そんなに怖い顔をするなよ。俺はみんなの来方がおそいと言っただけだ」 「はぐらかさないで下さい。僕は水戸の同志を信じたいのです」 「怒るな怒るな。失言だったら、いつでも取消すよ。 : おや、来たようだな」 : どうそ、お上り下さい」 131 第六章秋風抄
「たしかに江戸で実験して効験があった。桜任蔵は近く版にして出すと言っている」 「そうですか、それなら安心だ。じゃあ、行って来ます」 「おいおい、どこへ行くのだ」 「善は急げ、薬屋 ! 」 俊斎はとびだして行った。 吉之助は見送って苦笑しながら、 「有馬さん、あんたには一つ看板を書いていただこうか」 「よろしい、書きましよう」 「伊地知は口上の文句を書いてくれ」 「舌代か。よし、都大路にかかけるのなら、王朝風の雅文で行くかな」 看板と舌代ができあがると、吉之助はそれを自分の手で、鍵屋の表の板塀にはりつけた。はってい るあいだに、通行人が立ちどまって、やがて人の黒山ができた。 有馬と伊地知も出て来て、目を見張った。 「みんな喜んでいるな。できれば、薬を施してやるといいのだが : おももち 有馬新七は感慨深い面持で、「その昔、皇威さかんなる頃には、朝廷に施薬院というものがあった。 ・ : 政権が武門に移って以来、その院も減びた。皇都は疫病に荒されて、一片の処方書の前にさえ、 これだけの民草があつまる。 : 幕府だ、すべて幕府のせいだ。その日の供御にも御不自由あらせら と。 ) い ふさ れる状態に主上をおき奉って、仁慈の大御心が民草の上にふりそそぐ道を塞ぐ ! ・ : 東夷、あすま がぶん
「その点は私にもよくわからない」 月照は憂わしげに首をふ 0 て、「私もそう思 0 て自分を慰めてみたのだが、この三日には、飛脚源右 衛門が町奉行の手に捕えられ、五日には山本茂左衛門がやられている。それと梅田のことは何かつな がりがありそうな気がする。しかも、梅田の逮捕が伏見町奉行の手で行われたところを見ると、われ われの知らぬ大きな蔭の力が動きはじめた証拠ではないかと心配になり、お恥ずかしいことだが、昨 夜はほとんど一睡もできなかった」 「よし、やるそ ! 」 有馬新七がうなるように叫んで、大きな手で吉之助の肩をたたいた。「こうな 0 たら、もう一刻も猶 予はならぬ ! 」 一時間ほどの後、下男の重助につきそわれた月照の駕籠は鍵屋を出て、あわただしく都大路を北〈 急いだ。行く先はたぶん近衛邸であろう。間もなく、そのあとを追うように、有馬新七と有村俊斎が 出て来たが、これはべつに急ぐ様子もなく、遊山客のような足どりでぶらりぶらりと御所の方向に歩 いて行った。 「ちェッ、また葬式か。これで今日は三つ目だ」 俊斎は道の行く手をすかして立ちどまり、「有馬さん、道をかえよう。縁起でもない」 「コロリだな。まあ仕方がない。まっすぐに行こう。京都では日に何人くらい死ぬかな」 193 第十章都日記
「お送りしろ。御所のあたりまで : 「ああ、わかっているよ」 北条右門も刀をもって立上り、 「私も送らせてもらいましよう」 三十分ほどして、俊斎は帰って来たが、いかにもげつそりしたと言いたげな顔つきで、 どう、もいかん ! 」 「どうした ! 」 「上人に何か : ・・ : 」 有馬新七と吉之助が同時にたずねた。 俊斎は顎に手をあて、唇をゆがめ、 「和尚は無事だが、コロリだ、コロリの話だ。また二つ葬式にあった。 はに行き倒れがあって : : : 」 ラロ : いかん、それはいかん ! 」 「御所の前に : 日 吉之助は叫んで、新七と正治をふりかえり、「何とか方法はないか。コロリで御所を汚させてはい 都 かん」 章 「おお、西郷 ! 」 第 有馬新七はだしぬけに吉之助の手を握って、「君もそう思うか。そう思ってくれるか ! 京都たけは ・ : 御所だけは、この疫病からお護り中上げねばならぬ。何とか方法はないか。俺は加茂神社に参籠 ・ : 。なるべく駕籠から離れて・ : ・ : 」 ・ : おまけに御所の御門のそ
第十章都日記 九月七日の午後七時ごろ、背の高い、顔に薄菊石のある旅姿の武士が柳の馬場の鍵屋に来て、江戸 と一「ロった。 の中根伊之助という者だが、薩摩の西郷吉之助殿がお泊りならちょっとお目にかかりたい、 奥座敷では、吉之助、正治、俊斎の三人がタ飯の膳を中に、しきりに密談をこらしているところで あった。番頭が取次ぐと、吉之助は俊斎をふりかえって、 「お前、出てみろ。たぶん誰かの変名だろう。知らない男だったら追いかえしてしまえ」 「幕吏の臭いがしたら斬ってしまえか」 俊斎は刀をつかんで勢いよく立って行ったが、やがて大声で笑いながら、客を案内して帰って来た。 「あっはつは、源三位頼政殿の御到着だ」 吉之助は客の顔を見ると、 「ああ、これは : : : 有馬君か」 腰を浮かせて座をしざり、座布団をすすめながら、「お疲れだったろう。さあ、どうそ」 かつば 有馬新七は荷物と合羽を部屋の隅において、儿帳面な挨拶をし、やがてすすめられるままに上座に 坐った。 うすあばた 188
門か武市半平太、長州では桂小五郎か山県半蔵にあえばわかる。この探索を有馬新七と桜任蔵が自ら 買って出たのであるから、二人が帰 0 て来るまでは、義理にも酔っぱらうわけには行かなかった。し かし、かさねる盃の酔は次第に深くなって行った。 オし気を張っておられるようだが、もうよろしいでしよう」 「西郷殿、ど、 : 一 吉之助の気持を察してか、鮎沢伊太夫が盃をつきつけ、「有馬君には近日中にあうことになっていま す。飲みましよう。あとは僕が引受けます」 「はあ、まことに : 若い声が叫んだ。 あとは僕が : : : 僕が引受けます ! 」 「西郷先生、飲みましよう ! 「誰だ、お前は ? 」 瞳をこらすと、若い有村次左衛門であった。 「貴様か。さっきから刀ばかりふりまわしていて、芸がなさすぎるそ ! 」 いっぞやは失礼しました」 「芸のないのは先生の方です。 「なんだ ? 」 「私は先生を死ねない人だと思っていました。策士だと思っていました。だが、今度こそは見なおし ました」 「生意気を : : : 」 「先生、私は昨夜、故郷の母に手紙を書きました。ながくて今年中 : : : 」 t41 第六章秋風抄
の与カどもがたいぶ歩きまわっていた。所司代の手の者も動いている様子だ」 「なに、奴らなら昨日も一昨日も駆けまわっていましたよ」 「とにか 2 、、 ( 打こ ) つ」 と、吉之助は立って衣服をあらため、大刀を差そうとして、ふと気がついたように、さっと抜き放 ち、裏と表をあらため、壁に向って一振り二振り、静かに鞘におさめて、 「俊斎、万一のことがあったら、あとは頼むそ。有馬新七はただちに出発、京都は伊地知、大阪は吉 井に頼み、お前はすぐに国許と連絡をとれ、わかったな」 「ちょ : : : ちょっと待って下さい」 「いや、万一の場合を言っているのだ。たぶん、すぐに帰れることと思うが、とにかく、俺が帰るま では、お前は外出をひかえ、有馬にも気をつけるように言っておいてくれ。伊地知と北条が帰ったら、 これも外に出すな。頼んだそ」 待たせてあった使者の青侍に案内させて、陽明殿の方に急ぎながら、 「だいぶ町が騒がしいようだが、御殿にも何事かありましたかな」 「いえ、べつに・ ・ : 私は何も存じませぬ。御老女村岡様のお言いつけで、書状を持参しただけでござ います」 と、青侍はロをつぐむ。 「さよ、つか」 吉之助もそれ以上たずねようとはしなかった。 よりき 218
雲浜は立派でした。立派です。 : : : それにくらべると、池内陶所の方は芯の弱い男でした。同志を そしるつもりはないが、雲浜ほどの覚悟と用意はおそらくなかったろうと私は思う。 ・ : 彼を責める のではありませぬ。これから後、犠牲者の数が増すとともに、同志たちの、いやわれわれ自身の心の 弱さ、覚悟のたりなさの故に、証拠は続々と敵の手に握られることでありましよう。現に、今朝も、 私の駕籠のうしろを、たしかに町奉行の手の者らしい人影がつけて来たが : 「御上人 ! あなたは何をいおうとなされているのです。町奉行の同心や目明しのたぐいなら、この 鍵屋のまわりをも絶えずうろついております。それが : : : それが今さらどうしたというのです。雲浜 いや、私がお聞きしたいの 先生の覚悟なら、とうの昔にわれわれも持っております。われわれが : は、昨日の私の報告書に対する近衛公の御返事です。あなたは、その返事を持っておいでになったの ではないのですか」 燃えてふるえる有馬新七の声であった。 記 「返事は持ってまいりました。しかし : : : 」 月照は浮かぬ顔色で、「勅書の再降下ということはとてもむずかしかろうという近衛公の御返事なの 章 です」 第 「再降下ではありませぬ。水戸へ下された内勅の御写しで充分なのです」 有馬新七は膝を乗り出して、「水戸は幕府に妨げられて、内勅を諸藩にまわすことができない状態に
夜は更けわたった。 晩秋にしては珍しく生あたたかい夜で、外には月光の中に薄い霧が流れていた。 鍵屋の奥座敷では、ひそやかな酒宴がつづいていた。くつろいだふうをしているのは、伊地知正治と 北条右門だけで、あとの三人、新七も、吉之助と俊斎も旅仕度をととのえたあわただしい姿であった。 謀議はすでに決したのである。 夜半の鐘の音を合図に有馬新七は江戸に向って出発する。吉之助と俊斎は闇にまぎれて近衛家から 月照主従を連れ出す。伊地知と北条はしばらく京都にとどまって形勢をうかがう。 : 月照がいなく なった後の近衛、三条両公との連絡は阿野在中将に頼む。有馬新七は勅書伝達の任務を無事に果した ならば、在江戸の同志の結束を固め、東西同時蹶起の手はずを定めて、ふたたび京都に馳せのぼって 来る。それまでに、伊地知正治は北野あたりに家を借り、それを同志の潜伏所にする。 ・ : 吉之助と 「ど、どうした、近衛公の御用は ? 」 俊斎が叫ぶ、吉之助は煙草の煙の中で、しばらく目をつぶっていたが、 」「俊斎、またお前に一働き頼まねばならぬ」 「ああ、よろし い、引受けました」 「おいおい、話も聞かぬ先に引受けたはなかろう」 伊地知は俊斎の肩をおさえ、自分も坐りながら、「西郷、何事だな。また誰か捕まったとでもいうのか」 226