二人の水戸藩士は下座にさがって、白木の文箱に黙檮をささげ、再び向い合った。 「いかが致したものか」 安島帯刀は腕を組む。 「勅諚でございます」 鵜飼幸吉の答えは、ただ一一一 = ロ。 「その件なら薩摩の西郷吉之助を通じて、一応拝辞申上げたはすだが : ・ 「存じませぬ。 : : : 西郷殿の江戸行きは八月の二日か三日のころかと思います。勅諚は八月七日、深更 に決定、八日早朝に仰せ出されたものであります。 : : : 不肖幸吉、命にかえて捧持してまいりました」 「幸吉、水戸藩士の一人と致しまして、主上の水戸藩への深き御信頼にそむき奉ることはできませぬ」 「いかにも ! 」 、や、水戸 安島帯刀は組んだ両手をほどいて膝に置き、腹の底から吐息をついた。「致し方もない。し ・ : 早速、御主君にお伝え致そう。さあ、御殿にまいろう」 藩士の一人として、光栄の至り。 と、立上った。 「この時刻に ? 」 こんどは幸吉の方が目を見張った。もう四ッ刻も過ぎて、まさに深更であった。 「わが藩の浮沈にかかわる一大事、時刻を問うことはできまい。急ぐに越したことはない。明朝にの 114
「待っているぜ、今晩」 と言って、ひとりで真っ赤になり、「冗談、もちろん、冗談 ! 」 「なんだか、こわいわ」 馴れた手つきで、ヒネリ金を帯のあいだにおさめ、膝を斜めにくずした姿勢で銚子をとりあげ、「冗 談でない方が嬉しいんだけど : : : 聞いたんでしよう、さっきの話。おやおや、親分 : : : 」 「そう、どこの親分だ」 「京都丸太町 : : : というのは嘘。どこの親分だか、よくは知らないけれども、とても腕利き。今年の 春も、街道一の護摩の灰を、この宿場で挙げて : : : 一杯いただくわ : : : 挙げられた方がすっといい男 で : : : なんだ、あんな猿 ! 」 くずれた膝頭に赤い色がのそいている。吉之助はまぶしそうに目をそらして、 「保か ! 」 「ええ、猿よ : いやらしい」 「押小路の猿か」 「ええ、その押小路」 「文吉という : 「ええ、その文吉 : : : お一つ、いかが」 「御存じ ? 」
吉之助は押入れの荷物のあいだを探って、半紙の綴りを取出し、皺をのばして俊斎に渡した。 まつやにしようのう 「ほほう、これか。光明丹、野むらさき、松脂、樟脳、桑の根、髪毛 : : : へえ、髪の毛がコロリに効 くのかな」 俊斎は髪のない頭をなでながら、「なんだ・ : ・ : はじめ、桑、野むらさき、髪毛を入れ、油を加えて煎 ずること久しく、髪の毛形やわらぎて後、桑と野むらさきの根を引上げ、次に光明丹を入れ、赤さな くなりて後、 : だいぶ面倒くさいな : : : しばらく鍋を下して、松脂を入れてねり、またしばらくし て樟脳を入れる。 : 松脂を入れる頃より、火をやわらかくして煎ずるなりか、ふうん」 「それが第一法」 「へえ、まだあるのか。ああ、そう、ここに書いてあるな。流行コロリ病治法。なるほど。 一牡蛎一銭 一鴉片一厘 一阿膠一銭 一片脳三分 けんまっ 右一同に研末して三つに分ち、瀉泄するや否や、二時のあいだに三度用うべし。 ・ : あっ、待てよ。 こいつはどっかで見たような気がするそ。そうそう、桜任蔵が江戸の僕の長屋の壁に落書きして行っ 「うん、虎の絵のそばに書いてあったようだな」 でたらめ 「ありゃあ、桜さんの出鱈目じゃなかったんですか」 しやせつ 207 第十章都日記
「いかん、いかん、協力するもしないも、普門院はもう内勅を持っていないよ。俺が近衛公にお願し して、普門院の手から取上げてもらった」 伊地知はあきれ顔で、 「へえ、そりやまた早い手まわしだな」 「早いに越したことはないではないか」 「いや、内勅を返上することよりも、それを生かすことを俺は考えたかった。だが、もう間に合わな すんだことはすんだことだ」 残念そうに、伊地知はロをつぐむ。 「よかろ ) っ ! 」 吉之助がはじめて口を切った。「平野君、お気の毒だが、あんたはすぐに九州に帰ってもらいたい」 「は亠め ? 」 「今の話でおわかりのように、機は熟している」 「と申しますと ? 」 平野次郎の質問に、吉之助は答えた。 「近衛公の焦慮も普門院の大芝居も、勤皇諸藩の出兵によって禁裏を守護することが今日唯一の緊急 対策であるという事情から出ている。この事情は動かせない。われわれが手をこまねいていては、お そらく第二、第三の普門院が出て来て、事態はますます混乱し、意外な破局を導き出すかもしれない。 : そうなっては困る。もし万一累を主上に及ぼし奉るようなことがあっては臣子の分が立たぬ。 182
姿をくらますという便宜もある」 「へえ、そこまで考えていたのですか」 「はつはつは、誰もそこまで考えはしなかった。だが、結果においては、そんなことになると、 俺が考えついただけだ。徳は孤ならず、皇居の地をコロリから護り、四民を病苦から救おうとした俺 たちの誠意が天に通じて、逆に俺たち自身が群集の垣によって守られる結果になった、という次第だ」 「ふうん」 俊斎は感心したふりをして立上り、また障子をあけた。だが、目は門前の群衆を眺めす、遠いタ焼 け雲の下の道路の方を見つめている。伊地知はその肩をたたいて、 お前が待ちかねているのは西郷だ。そのくらいのことは俺にはわかって 「俊斎、照れなくともいし しる」 「もう五時だ」 「六時まで待て。それまで待って帰って来なかったら、俺が陽明殿まで迎えに行ってやる」 「伊地知さん、有村さん」 下から女中の声がした。「ちょっと離れまで来て下さい。西郷さんがお呼びです」 「よこッ 「帰っていたのか ! 」 あんどん 二人は階段をとび下りて、離れの部屋に走った。灯を入れたばかりの行燈の蔭で、吉之助は有馬新 七と向合い、銀の煙管に煙草をつめているところであった。 225 第十一章落 日
ころ、その暇もなかった。幸いあんたが出て来てくれたから、ひとつお委せしましよう」 「もっとも、強いて集めなくとも、ひとりでに集まって来ていることは事実です。全国の各地各藩か ら相当物凄い連中が続々と京都に馳せの・ほりつつあります。現に今日も、北条右門殿のところへ、そ れらしい奴が筑前からはるばるやって来ましたよ」 「筑前から ? 」 「平野 : : : なんとか言ったが、名前は忘れた」 「平野次郎国臣」 「そうそう、そんな名前だった。知っているのですか」 「いや、名前だけだ。まだあったことはない」 ほう、き 「箒みたいな太刀などぶらさげて、おかしな奴でしたよ。北条右門殿の弟子だとか・ 「そうか、あとでゆっくりあおう」 「つまり、これを要するにですね、水戸へ密勅を下されたことは、水戸が受ける受けないにかかわら しようどう ず、非常な成功だったと思う。全国の各藩に異常な衝動を与えたことだけは確実だ。九州方面も相当 動きはじめています。筑前から工藤左門殿が馳けつけ、つづいて平野とかいう男がやって来たのもそ の証拠だが、肥後からも薩摩からも、続々ととび出して来つつあります」 「 ~ 隆厚から , も ? 」 さいしょ 「ええ、現に税所普門院と日高竜存院が出京しています。どっちも修験坊主だが : ・ 152
「そうだ、最後の手段だ。敵をして承久の故事を再演させないために、建武中興の先例を学ぶのだ。 ほうれん すなわちわれらは鳳輦を奉じて吉野に遷る。 ・ : 主上には、楠氏一族敢闘の天険にしばらく難を避け すえ ていただき、われらは大楠公七生の裔たる自覚をもって鳳輦を守護し奉り、諸国勤皇百万の軍の蹶起 うえん を待つ。 : これは迂遠に見えて、実は唯一の実際策であろうと考える。すでに同志春日潜庵は、月 ケ瀬、吉野、笠置の宮のあたりを跋渉し、親しく地理を探って来た。時到らば、この七十翁も弓をと り、鉾をとって、鳳輦のしりえに従い奉る覚悟でいる」 「星巌先生 ! 」 吉之助は膝を乗り出して、「私は江戸に行くことを中止いたします。このまま京都にとどまることに します」 「おお、いて下さるか」 「もう江戸にはまいりませぬ。京都をわが死場所と、覚悟をきめました」 もんじゅや 吉之助は吉井幸輔とともに、その日のうちに伏見まで引きかえした。伏見の船宿文珠屋に供地知正 赤 治が待っていた。 三人で相談の結果、吉之助は斉彬にあてて長い報告書を書いた。大阪と京都における見聞をこまご二 第 まと書き記し、京都にとどまらざるを得なくなった事情を述べて、 『右の如き情勢の急変により、第一策と第二策はすでに実行不可能と存じ候。この上は第三策のほか ばっしよう