平野国臣 - みる会図書館


検索対象: 西郷隆盛 第7巻
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1. 西郷隆盛 第7巻

「まだいたのか、まだ」 吉之助は人間に話しかけるように言 り残っている行燈の灯からまぶしそうに顔をそらした。 「なに、西郷殿が」 先に目をさましたのは平野国臣であったが、それとほとんど同時に、月照も夜着をはねのけた。 「おう、来て下さったか。それはそれは、すぐに御案内して : : : ああ、いや、ちょっと待っていただ こうか。こんな姿では : 寝巻姿を気にする月照を、平野国臣は押しとどめて、 「こんな時刻に来られるのは、よほど火急の用事でございましよう。次の間に炭火が埋めてあります。 : ああ、すぐに御案内してくれ」 と、障子越しに廊下の足軽に命じた。 身仕舞いもそこそこに、二人が次の間の火鉢のそばに坐ったとき、障子の向うで吉之助の声がした。 御免下さい」 「お寝みのところを失礼致しました。 , 小腰をかがめて障子を開けた吉之助の姿を見て、平野国臣は思わす身ぶるいした。何の故の身ぶる十 いか、自分にもわからなかった。吉之助の態度にべつに変ったところがあったわけではない。静かに 入って来て、静かに坐っただけである。にもかかわらず、背筋にしみわたる冷気に似たものを国臣は い、「聞きわけのない奴だなあ、お前も」と人のいない帳場にと

2. 西郷隆盛 第7巻

追い風に舟脚も早く、月の美しさに、酒のまわりも早かった。 一番先に酔ったのは、若い平野国臣であった。罪人の檻送かと疑った上荷船の中に、十分な酒肴が 用意されており、護送役の坂口吉兵衛も案外にさばけた老人で、酒のすすめ方も巧みであったことが摩 若い国臣の心の紐をといたのである。 はじめの間は、月照と西郷の態度がさすがに気にかかって、国臣は落ちつけず、乾す酒も身の外に章 こぼれ、盃の底に宿る月影の青さに目もいたむ思いがした。だが、屋形の下に泰然と坐って、余念も十 なげに盃を傾け、月にかすむ両岸の景色を、あれは何、これはどこと月照に説明している吉之助の姿 を見ているうちに、国臣は安心して酔った。 「藩庁の好意でしような」 と、月照が取りなした。 「好意ですか。お寒い好意ですな」 国臣は身ぶるいしてみせて、「月は好いが、風は寒い」 「平野さん」 吉之助が言った。「もう事は決したのだから、今夜は気のつまる話はよして愉快に飲みましよう」 「ああ、そう : 飲みましよう」 月の光の中に、船頭が六反帆を巻き上げる音がカラカラとひびき渡った。

3. 西郷隆盛 第7巻

浜の岩蔭に碇をおろしていた。もうタ暮であった。船はここの浜辺で夜明けを待つつもりなのであろ 船がまだいたことと、間もなく夜だということが、とっさに平野国臣に一つの決心を与えた。月照 も国臣の意見に賛成した。 一行はふたたび船に乗りこみ、いやがる船頭を無理に強いてともづなをとかせた。船頭は客は天草 に引きかえすのだと思いこみ、船首を北に向けたが、沖に出てみると、強い北風で帆は逆風にはため くばかりであった。 ( よし、仕方がない。南に走れ。薩摩の阿久根の港に着けろ ) と、国臣は命じた。 阿久根と聞くと船頭はおじ毛をふるった。阿久根に行くのには黒の瀬戸を通らねばならぬ。これは 「一に玄海、二に平戸、三に薩摩の黒の瀬戸」と歌われた難所である。特にその中の黒の瀬戸は阿波の 鳴戸もかくやとばかり渦巻きたぎる険所である。寒風と夜陰を冒してこの瀬戸を過ぎるのは無謀もは なはだしい。 そんな事情を知らぬ平野国臣は、船賃欲しさの言いがかりだと思いこみ、 ( そんなに金が欲しいのなら、よし、これをやるそ ! ) と、腰の刀を船頭の鼻先に突きつけた。 船は南に向って帆を張り、薩摩の領海に人った。 「手荒なことはしたくなかったのですが、その場合、それよりほかに仕方もありませんでした」 164

4. 西郷隆盛 第7巻

二人は火桶を中に、おだやかな顔つきで向い合っていた。どちらも笑顔をつくっているわけではな かったが、心おきない談笑の後と言いたげななごやかな姿であった。 国臣は茶を注ぎわけながら、だまされたような気持がした。ついさっきまでの西郷吉之助は、鬼気 とは言えないまでも、少くとも殺気に似たものを全身から発散していた。だが、今は殺気は和気に変 あいあい って、曖々と火桶のまわりに漂っている。 拍子抜けのした物たりなさはあったが、安心が国臣の胸の底から湧き上って来た。 国臣がもっと齢をとっていたら、この和気の底に、底冷えのする冷気を感じ得たかもしれぬ。それ からっ は人間の諦観というものの持っ透明な冷気である。形は和気に似ているが、それは内心の苛辣で残酷 ふっしよく な苦悩と闘争の後に生れる和気以上のものである。強いてたとえれば、練り鍛えて殺気を払拭し得た 名刀の冴えに似ている。 だが、平野国臣はそこまでは気がっかず、敬愛し、心酔している二人の先輩が和やかに対座してい る姿に安心して、いそいそと茶をすすめた。 二人ともうまそうに茶碗を乾したが、やがてそれを畳の上に置くと、吉之助が幅のある声で言った。 ひゅうが 「平野さん、実はこれから日向の方に行かねばならん」 「えつ、日向 ? 」 「仔細は船で話します。お手数だが、重助を起して、さっそく出発の用意をしてもらいましよう」 気軽そうな言葉であったが、底に重い力がこもっていた。どきりとして国臣は吉之助の目を見返え したが、その目の奥が白刃のように輝いているのに気がついて、 230

5. 西郷隆盛 第7巻

たというわけ」 「先生、北条先生 ! 」 平野国臣が目を怒らせて吽んだ。 「幕府が九州に軍艦をまわしたというのは、ただの巡航ではありますまい。井伊の赤鬼の差金にちが いありません。陸の兵力をもって京都を抑え、軍艦をもって、九州を威嚇する」 「うん、それもあるかもしれぬ」 平野国臣はキリキリと奥歯をかみ、 「筥崎の浜に碇を入れましたか、和蘭人を上陸させましたか ? 」 「そのとおり ! 」 「ば、幕吏め、ところもあろうに筥崎宮とは ! 」 平野は元寇のことを思い出しているのであろう。筥崎宮に掲げられた「敵国降伏」の御宸筆を思い 浮べているのかもしれぬ。 元軍、日本本土を覗うこと前後二回。壱岐を奪い、対馬を略した第二回の遠征軍は、玄海灘を蔽っ たんかめ て総勢十万と称せられた。されど、相模太郎胆甕のごとく、元使を鎌倉に斬り、博多に斬って、決然 たる戦意を示した。亀山上皇は身をもって国難にかわらんと祈り給い、 将士は寡兵よく筑紫の浜辺を 守って、彼をして一歩も上陸せしめなかった。上下一体の鉄のごとき戦意は、ついに伊勢の神風を呼 び、十万の元軍は玄海の藻屑と消えたのであるが、それにくらべて、今の幕府の弱腰は何たる態か。 挙国一致どころか、米夷の威嚇に屈して和親をはかり、おそれ多くも主上を強い奉り、主上の御嘆 114

6. 西郷隆盛 第7巻

った。坂口吉兵衛も鋭く目をその方に働かせた様子であった。 二人は屋形の下をくぐって舳先に出た。月照が磯の浜の方を手で指して何かいう。吉之助がそれに 答えて、 「はあ、昼間なら桜の並木が見えます。花の頃はこのあたりの海上に花見舟が出さかって、祭のよう という声が風に乗って聞えて来た。 景色の話だとわかると、国臣は安心して、また笛を吹きつづけた。 やや長い間、月照と吉之助は舳先に立って何事か語り合 0 ていたが、国臣の笛の曲が終ると、元の 座にかえって来て、再び酒宴に加わった。 「平野さん、笛というものは、なかなか好いものですな」 吉之助が言った。「あんたの笛はかねて評判に聞いていたが、聞くのは今夜がはじめてだ」 「なかなか粋なものじやございませんか」 だいぶ酒のまわった坂口吉兵衛が脱け上った額をたたいて、「三味に合せてみたいですな」 「粋だと言われては困ります。いま吹いた曲はみな古曲です」 国臣が不平顔で答えるのを、月照が笑顔で引取って、 「いやいや平野さん、古曲というものは、もともと粋なものですよ。まして王朝時代の横笛は、 ほら、枕草紙にもある、笛は横笛、いみじゅうおかし : : : などに忘れて枕のもとにありたるを見つ けたるもなおおかし」 236

7. 西郷隆盛 第7巻

御楯となりて鬼だにも もののふ とりひしぎけな武士あわれ 楠や 名和とも人の言わば言え 先いさほしは菊池なるべき はにか 先日、肥後の菊池に遊んだとき、菊池武時の純忠をしのんで作った歌ですと平野国臣は羞みながら 説明した。 「なるほど、なるほど」 月照はうなずきながら、国臣の歌日記をひるがえしていたが、ふとその中の一首に目をとめて、「ほ ほう、この歌は ? 」 と、首をかしげた。 月照が目をとめたのは、 ささらがた 122

8. 西郷隆盛 第7巻

感じた。 「だいぶ冷えますな。外は寒かったでしよう」 自分に対する言いわけのように国臣は言い、火桶を吉之助の方にずらせながら、「十二日におあいし て以来、すっとお顔を拝しなかったので、和尚も私も待ちかねていたところです。さあ、どうそどう ぞ : : : まず手でもあぶって、おや、お茶もありませんな」 吉之助はかすかにうなずいたが、火桶には手も差し出さず、両手を膝の上で固く握りしめ、大きな 目で月照の顔を見つめたままであった。思いなしか、のはしが小刻みにふるえ、目に熱つぼい光が あった。 「その後はいろいろとお骨折りの模様、真乗院からうけたまわりました。何とお礼を申上げてよろし いやら・ : : ・」 月照は取りなすように言って頭を下げたが、それにも吉之助はただ苦しげに顔を伏せただけで、ロ を開こうとはしなかった。 月照の顔からも笑いの影が消えた。彼ははじめて吉之助の道中袴に気がついた様子であった。きっ となって、唇を結び、吉之助の顔を正面から見返し、何か言い出しそうにしたが、そばに平野国臣が いることに気がつくと、またさりげない口調になって、 ・ : 平野さん、中しか 「まあまあ、お茶でもいれて、お話はそれからゆっくりとうかがいましよう。 ねますが、重助を起して : : : 」 「ああいや、茶なら、私が入れてまいりましよう。重助を起すまでもありません」 226

9. 西郷隆盛 第7巻

月照も竹内も国臣の歌を讃めた。が、北条右門は、 「思いは一筋だが、一一一一口葉の練りはまだたりぬ。だが、この草莽の悲しみは、地下の高山先生にもまっ すぐに通することであろう」 と、批評した。 国臣は頬を染めてうなずいた。話はそれから詩や歌のことになった。 今日までは かえり見てけり玉敷の 都につづく大和島根を これは伊地知正治が下関海峡を渡ったときの感懐の歌であるといって、北条右門が披露した。下関 きんけっ の瀬戸を渡れば、京都なる皇居も海をへだった彼方になってしまう。大君を慕い奉り、禁鬮を恋い奉 る者のこの悲しみを今の世の人はわかろうともしない、 と北条は嘆いた。 平野国臣がその言葉をうけて、 捨てし命は大君のため そう・もう 119 第六章歌間答

10. 西郷隆盛 第7巻

よせし昔を今もなお 忘れはせじな筥崎の神 行末は いかになるらん不知火の 筑紫の海によする白波 筥崎宮での作であった。 平野国臣は、やはり御師僧の歌では、京都で近衛忠熈公に答えられたというあの歌が一番好きです と言い、山伏の笈の中から旅日記を取出して、それに月照の次の一首を書きつけてもらった。 国のため 君のためには露のいのち 今この時そ捨てどころなる 国臣の日記帳には元気のいい歌がいろいろと書きつけてあった。 大君の 121 第六章歌問答