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検索対象: 西郷隆盛 第7巻
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1. 西郷隆盛 第7巻

す。 冬枯れはじめた山路をいそぎながら、吉之助は心も枯れるほどの思いであった。老公斉興に面謁を 。故斉彬の 拒絶され、島津豊後にかるく翻弄されて、望みの綱はほとんど切れはてたと言ってもいい 遺命を実現するための努力と計画と手段のすべてが挫折し、齟齬し、破綻したのである。 島津豊後は国許において沙汰を待てと言ったが、だが、それがどこまで誠意のある言葉か、これま での彼の言行から推せば、およそ想像がつく。斉彬在世中の政策にことごとく、しかも陰険きわまる 方法で反対したのも彼である。老公の御命令だと称して大阪駐兵の約束を反古にしたのも彼にちがい 残された唯一の道は、国許の同志を糾合して脱藩突出することである。だが、この捨て身の手段に 対する自信も、今となってはゆらぎはじめた。京都にいる時には脱藩突出についての確信はほとんど 絶対であった。この確信があったが故に、あらゆる悪条件を無視して、所期の目的に邁進することが できたのである。井伊の攻勢がいかに強かろうが、公卿と諸侯が日和見の態度をとろうが、いざとな ったら血盟の同志と共に、一発して敵陣に斬りこめばよい。わが命はその場に絶えても、道はおのず から開けるであろう。 だが、同志の血盟も実にもろかった。井伊の攻撃が開始されると、それは鉄棒の一撃を受けた素焼 の壺のようにくだけ散った。 梅田雲浜も鵜飼親子も小林良典も頼三樹三郎も、たちまち捕えられて、手も足も出なかった。有馬 新七、日下部伊三次、堀次郎、橋本左内、金子孫二郎をはじめとする江戸同志たちは消息さえもわから 69 第四章櫨紅葉

2. 西郷隆盛 第7巻

には、いろいろと思いなやんで暗い思いにつかれたが、今は暗さの中に身を沈めて、かえって物の光 明面が見えるようになった。 : 君も暗さの中に身を沈めることを学ぶがよい。君を取りまく情勢は たしかに不利だが、強いてそこから逃れようとすると、瑣末なことばかり目について、本当の出口が わからなくなる。闇がきたら、闇の中に坐れ。闇に目が馴れれば、やがて光も見えて来る」 「あせってはならぬそ。大切な身体だ。天下の望みを背負った身体だ。天が見殺しにするはすはない。 くれぐれも早まったことはしないでくれ」 「薩摩藩とても、むざむざ君を幕吏の手に渡すようなことはすまい : まさかの時には、隣藩に長 岡監物がいることを思い出してもらおう。病み呆けた老人だが、何かの役には立とう」 「ありがとうございます」 「くどいようだが、くれぐれも短気はつつしんでくれ。 : : : 時勢というものは、待てばかならず転す るものだ」 「しかし・ : ・ : 」 と言いかけて、思いかえしたように口をつぐみ、吉之助はじっと下を向く。 「しかし、どうした ? 」 「いえ、なんでもありませぬ。 ・ : 御教訓、胆に銘じました。ただ一つ : 「何事だ」 さまっ

3. 西郷隆盛 第7巻

と、矢つぎばやな訊問であった。 浜崎屋庄兵衛はちょっと驚いた様子であったが、やがて大声で笑いだした。 「あっはつは、そいつはどうも : : : 和尚と山伏に一杯くわされましたな。何か日くありげな御連中だ とにらんだが、それほどの大物だとは夢にも思いませんでしたよ、あっはつは」 「笑いごとではない」 「しかし、おかしいですな。久留米藩の目明しともあろうものが、それほどの大物と一日中舟に乗り 1 もうろく 合せ、夜は夜で一緒に酒を飲んで、何も気がっかなかったとは、私も耄碌しましたかなあ」 おい、それは、こっちの申すことだ」 筑前の盗賊方はあきれ顔で、「全然気がっかなかったと申すのか」 ふれ 「気がっきませんでしたな。お役所のお布告がまわっているわけでもなし、京都の方で、そんな騒ぎ : 起っていることを、私も知っているはずもないし : : : こいつあ、お釈迦さまでも、と言いたいとこ ろで」 「それもそうだが、折角の玉を惜しいことをしたなあ。聞けば、お前さんも御赦免を受けた当日だと いうではないか。早速の大手柄で、まず御褒美ものだったのになあ」 「もう十日前にそれを知らせて下さればよかった。小保浦から舟で出ると言っていたから、今ごろは もう薩摩でしよう」 さつばり感じない浜崎屋の様子に、京都の捕つ手は向っ腹気味で、 「おいおい、浜崎屋さんとやら、お前さんはひどく呑気そうに言われるが、われわれはお公儀の命令 106

4. 西郷隆盛 第7巻

「ひどく気を落したものだな。君がそんな弱音を吐くのははじめて聞いたぞ」 市蔵は吉之助の肩をたたいて、 「おい、元気を出せ ! 」 吉之助は思わず笑って、 「弱音を吐いたかな」 「吐いたよ。 ・ : 和尚のことはたぶん大丈夫だと俺は思う。ひとっ家老の新納駿河をおどかしてやろ うじゃないか。岩下方平はわれわれの同志で、駿河の甥だ。岩下に駿河を説かせよう。月照和尚を幕 吏に渡したら、近衛家と薩摩に大危難が降りかかるとおどかしてやればいい。嘘ではないのだから、 : さあ、今日は大いに飲もう。久しぶり この薬は効くだろう。まあ、そこは俺にまかせておいて、 に君の相撲甚句でも聞かせてもらおうじゃないか」 斉興の一行は、十月の十三日に鹿児島に到着した。その翌日の午後、有村俊斎に藩庁から呼出状が 来た。 ( さては ! ) と思ったが、何くわぬ顔でのこのこと出かけて行くと、長いあいだ待たされたあげ く、訴問所に呼び出され、同朋頭、数寄屋頭、茶道頭が列席の上、取調べが開かれた。 「お前は先に母の病を見舞うと称して、江戸を出発しておきながら、途中で京都に足をとどめ、その ままになってしまった。どういう わけか、理由を申せ」 「はあ、それは大阪まで来たら、母の病気はもうなおったとわかったからであります」

5. 西郷隆盛 第7巻

もうき 相勤むべしという有難い御沙汰。地獄で仏、盲亀に浮木、こりや一刻も早く家内の者に知らせてやり たいと、便船をさがして河岸の上をうろうろしているところを、思わぬお情を受けて、この舟に乗せ ていただいたというわけでございます。何ともはや、お礼の申しようもありません」 : こんな時勢になりますると、私 べらべらとしゃべって、得意げに付け加えた。「やつばり、その : のような者でも、まあどこかに使い道があろうという思召しなんですかなあ」 「いや、なるほど」 武士はもう顔色も動かさなかった。仮面のような静かな顔つきで、さりとて相手に冷たい印象を与 えるでもなく、世馴れた口調で、目明しとよもやまの世間話をはじめた。 たいがくいんうんがいぼう じようけいいんそうすい 中年の僧は三宝院の修験僧静溪院鑁水、その弟子の惣髪の山伏は胎岳院雲外坊と名乗ったが、鑁水 は最初から全然会話に加わらす、高貴な感じのする横顔を川風にさらして、あたりの風景を賞でてい る様子であったし、弟子の雲外坊は時おり話に口を入れては、目明しに突きかかって行きそうな気配 を示し、そのたびに武士に目で抑えられ、やがて、疲れた、眠いと、肱を枕に寝ころんでしまった。 目明しが小用のために舳先の方に立って行くと、雲外坊はパッと目を開いて、鎌首をもたげ、 「竹内殿、大丈夫ですか。片付けるなら今のうちです」 と、小声で言った。「そこらの川原に船を着けて、羽犬塚の方に出れば、何とか逃れ道もあるでしよう」 「まあ、私にまかせておいてもらおう」 竹内と呼ばれた武士は答えた。「案外、言葉通りの男かもしれぬ。われわれと知って乗り込んで来た のではなさそうな節がある。敵を欺こうと思ったら、ます欺かれるのも一つの方法た」 95 第五章筑後川

6. 西郷隆盛 第7巻

明徳太陽に侔し 東湖の長詩「正気の歌」を歌いつくすつもりか、声は亮々として絶えない。 だしぬけに赤毛の犬が吠えはじめた。川上の橋を渡って、岸伝いにこっちの方に近づいて来る人影 が見えた。旅姿の三人連れであった。はじめは、べつに気にとめなかったが、近づくにつれて、その 中の一人が雲水笠を傾けた僧形であることに気がついて、吉之助の歌声は水の吸われるように消えた。 虫の知らせか、胸が騒いだ。思わす駆け出しそうになった足を踏みしめ、じっと立ちどまって、粉 雪のあいだをすかしてうかがった 先に立った山伏姿の若者は誰とも見当がっかないが、それにつづく痩せた肩に墨染の衣も痛々しげ な僧はたしかに月照である。後に従う従僕は重助にちがいない。 おおと叫んだのと、小石を蹴って駆け出したのが同時であった。大もつづいた。 その時には、もう先方も気がついていた。月照は右手で雲水笠をはねあげるようにして、 「おお、やはり : : : あなただった」 「私です。 : : : どうしてまた、あなたはここに : 「さて、それが・ 月照は若い山伏の方を振りかえって、「何から話してよかろうものやら」 「おつ、あんたは平野さん。これはまた : 変った姿と言いかけて、吉之助はなにか胸のせまる思いでロをつぐんだ。平野国臣は兜巾の当った ひと ときん 161 第九章海人小舟

7. 西郷隆盛 第7巻

あいかた 「そんなに気にしなくともいいですよ。どうしても一人で寝るのだと敵娼さんを廊下に押し出したの で、たいへん初心なお客さまだ、なんならもう一晩泊まって行ってもらいたいと、下でも評判がよろ しうござんすよ」 「えつ、本当か」 「そんなに心配なら、その赤い枕をかいでごらんなさい。枕紙に女の髪のにおいがするかどうか」 「そうか、ありがたい」 急に生きかえったように立上り、両手でばたばたと身体を払い、「では、安心して師の御坊にお目に かかれる。お部屋はどこだ、案内してもらおう」 「まあ、あきれた、まだ寝ぼけていらっしやるの。お連れ様は、昨夜のうちにお発ちですよ」 「ユはにツ 「置き去りを承知の上で、お残りになったのじゃありませんか。橋の袂まで、御自分でお見送りした ~ 、せに」 「ふうん」 雲外坊はまたべたりと坐りこんでしまった。 ふつかよい 宿酔の頭をひねってみると、なるほどかすかに思い出した。昨夜の酒宴の終りがけに、鑁水、竹内 はどうしても小保浦まで行くと言い出し、雲外坊もそれに賛成し、鑁水、竹内、小さい娘、従僕重助 の四人を川岸まで送って行った記憶がある。無理にひきとめる浜崎屋庄兵衛の厚意にこたえるために、 ふかざけ 若い雲外坊と従僕正作が居残ることになり、落合う先は小保浦の薩摩問屋と約東したことも、深酒の うぶ 104

8. 西郷隆盛 第7巻

京都出兵も大老斬除も、小茶飯事であゑ朝飯前である。 相手は清国、いな英仏であり、米露である。この決戦のためには、急速なる国内の統一と軍備の充 実が必要である。国内の統一のためには、皇権を恢宏し、天皇御親政の古えに還ることのみが唯一の 道であり、軍備の充実のためには幕府をはじめ諸藩の上層にわだかまる保守退嬰の旧勢力を一掃しな ければならぬ。 ( この大見地よりすれば、攘夷だ開国だと派を立てて争っているのは、まるで子供の喧嘩にすぎない ) そこまで考えて来ると、大久保市蔵は西郷吉之助の姿がふたたび大きな山のように目の前にそびえ 立つのを感ぜざるを得なかった。 ( 西郷はこの大見地をわが身につけている。斉彬公の遺策を信じ、信ずることによって、わが血肉と なし得ている ) ちよくじようけいこう 西郷が諸藩の有志、尊攘派の浪士の間に不思議な信頼と人気をかち得ているのは、彼の直情径行 だとか、猪突猛進だとか、そのような理由によるのではなく、斉彬の大雄図をわが物としていること、 だいけいりん すなわち彼の腹中の大経綸の、おのずからなる結果かもしれない。 ( 西郷という男には、やはり何か底の知れないものがある。彼の現在の心境を自分は簡単に見抜いた つもりでいたが、しかし、小慧しい智恵では及ばぬ深い湖のようなものが、彼の腹中には洋として淀 んでいるのかもしれぬ ) しかし、そうとのみ思いきれないものも確かにある。鹿児島に帰って以来の吉之助は、あまりにも しようすい 気落し、いら立ち、憔悴と絶望の色が挙動の端にまで現れて、大器というよりも、むしろ小器の相を 、 1 一けんじ 156

9. 西郷隆盛 第7巻

「その一。 今や清国は長髪賊のために、その版図の大半を占領され、国運ほとんど減亡に瀕す。 想うに支那の将来は、外国の属領となるに非ざれば、禍乱ついに止む時なかるべし。 たいえい この時にあたり、わが日本にして、孤立退嬰、旧習に安んするにおいては、その前途はなはだ寒心 に堪えざるものあり。故に、この機に乗じ、全国の諸侯、各々その方向を定め、中国諸侯は新荷蘭を、 九州諸侯は咬留巴、印度を、陸奥諸侯は山丹、満洲等を併略し、われより進みて外に当るときは、人 心おのずから奮起して、国威おのずから発揚するに至らん。 これは今日の惰眠を醒し、内政を整治するの策なり。 その二。 英仏等の諸外国、清国に志を得たる上は、日本に及ぼさんとするは疑いなし。よろし く鑑みて準備をなし、清国のごとき醜耻を世界に曝さざらんことを欲するなり。 すべて戦いは、われより出でて敵を制するの勢いなくば、守ることもまた難し、今日よりは、われ より出でて制するの目的を立てて、充分の準備をなし、時到らばかならず出撃して、清国の一省にて もわが手に収むることあらば、その勢い万国に影響し、国内の人心もますます奮い、外国もみだりに われに干渉すること能わざるべし。 すなわち福州、台湾を収むることは、日本の国力を強うするものにして実に海防第一の良策なり。 彼英仏は数万里の海上を渡りて、なおかっこれを略せんと欲す。われ、何そこの望みを絶たん。 先んぜらるるときは、日本の憂い、これより大なるは無けん。われよりまず福州に向って手を入る るを以って第一とする所以なり。 とは申せ、清国の亡減せんことを望むにあらず。清国、一日も早く政治を改革し、軍備を整え、日 154

10. 西郷隆盛 第7巻

に京都の朝延の中におればよい。征夷の大権を主上御自らの手に帰し奉ってこそ、はじめて攘夷減賊 の事は実行されるのだ。 わが西郷家の祖先、菊地一族の志もここにあった。足利高氏は征夷大将軍であるから、足利方につ けば本領安堵、一族の繁栄は目に見えていた。今の徳川幕府に媚びる奴らの心はみなこれと同じた。 だが、菊池武時とその子武重、武敏、武光の兄弟は決して足利幕府に媚びなかった。 武敏は多々良ケ浜に破れると、菊池の城に退き、菊池の城が陥ると、残った手兵を率いて山中に籠 った。九州の諸将ことごとく逆賊と化した時、菊池武敏ただ一人、森の奥深く立てこもって勤皇の義 旗を護り通したのだ。 足利高氏は、やがて九州、中国の諸将をひきい、水陸の両道より、ふたたび京都をさして攻め上っ た。直義の陸軍のみにても総勢五十万と号し、満廷の公卿は色を失った。楠正成、ただ一人、毅然と して、これを迎え討っ奇策を献じたが、長袖者流の妨げるところとなり、ついに死を決して、湊川に 出陣することとなった。新田義貞の手勢三万余騎、正成の手兵は僅かに五百。敵は五十万と号し、百 万と称する大軍である。 楠正成が桜井の駅で、わが子正行をさとして、故郷に帰したのはこの時の話た。お前たちもよく知 っている話であるが、念のために、ここに書抜いておいた。読んであげよう」 吉之助はまた書抜きを取上げて、 「正成、これを最後の合戦と思いければ、嫡子正行が今年十一歳にて供したりけるを、思う様ありと て、桜井宿より河内へ返しつかわすとて、庭訓を残しけるは、獅子仔を生んで三日を経るとき数千丈 220