浜崎 - みる会図書館


検索対象: 西郷隆盛 第7巻
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1. 西郷隆盛 第7巻

ただの驚きにしては大きすぎる声であったが、女中はそれには気がっかず、両手で竹内をあおぎな がら、 ・ : あら、そんな白っぱくれた顔をなさって、 「百都様ではござりませぬか。まあ、おなっかしい。 ほんとにお人の悪い」 浜崎は目つきにちょっと険を見せて、 「お前、存じ上げているのか」 「へえ、福岡の高橋屋でたびたびお目にかかりました」 「ほほ、つ」 と、竹内の方を振りかえったが、竹内の動揺の色はもう消えていた。 「なるほど、高橋屋平右衛門のところだったな。お前はまた、こんなに小さかったではないか」 : でも、もう若津に来て三年になりました」 「おほほほ、今でも若いつもりでおりますのに。 「そうか、思い出したわい」 「竹内の旦那、高橋屋とは御懇意でございますか」 と、浜崎屋がたずねる。 「ああ、懇意に致しておる」 僧と山伏は息をつめ、二人の会話を聞きのがすまいと身構えていた。 これはまた御縁ですなあ」 「そうですかい 浜崎屋は両手を打って、「高橋屋と私とは奇妙にうまが合います」 101 第五章筑後川

2. 西郷隆盛 第7巻

ますな、と言いたげな顔色であった。 そこへ番頭風の男が二、三人の下男を従えて駆けつけて来た。 「お帰りなさいませ。たいへん早いお着きで」 「おお、御苦労、御苦労。この旦那方のお蔭でな、思いがけす、早く帰ることができたよ。ぜひ、お 茶をひとっ差上げたい。さあ、お荷物をお運びしろ。わしは後からお供して行くから、お前は先に行 って、お部屋の用意をしておけ」 浜崎屋は、よく気のまわる主人ぶりを示しながら、得意気であった。 案内された本町下通りは、格子の暗い二階建が両側に立ちならび、軒燈の下のたたきの上には、盛 り塩などのしてある奇妙な通りであった。 「や、これは ! 」 のれんのかげからチラリとのそいた女の首筋の濃い白粉を見て、雲外坊ははじめてそれと気がっき、 「これは : : : おどろきましたなあ」 「いや、まったくたいへんなことになったな」 小さな娘の手を引いていた武士も足をとめて、当惑顔である。若い従僕の重助と正作は肱を突きあ って、くすくすと笑っている。 浜崎屋だけが大はしゃぎで、 「さあさあ、どうそ、どうそ。これが私の宅で。なに、御遠慮はいりませぬ」 まだ灯の入らぬ薄暗い玄関の拭きこんだ板の間に、ずらりと並んで出迎えた女たちの中には、浜崎

3. 西郷隆盛 第7巻

と、矢つぎばやな訊問であった。 浜崎屋庄兵衛はちょっと驚いた様子であったが、やがて大声で笑いだした。 「あっはつは、そいつはどうも : : : 和尚と山伏に一杯くわされましたな。何か日くありげな御連中だ とにらんだが、それほどの大物だとは夢にも思いませんでしたよ、あっはつは」 「笑いごとではない」 「しかし、おかしいですな。久留米藩の目明しともあろうものが、それほどの大物と一日中舟に乗り 1 もうろく 合せ、夜は夜で一緒に酒を飲んで、何も気がっかなかったとは、私も耄碌しましたかなあ」 おい、それは、こっちの申すことだ」 筑前の盗賊方はあきれ顔で、「全然気がっかなかったと申すのか」 ふれ 「気がっきませんでしたな。お役所のお布告がまわっているわけでもなし、京都の方で、そんな騒ぎ : 起っていることを、私も知っているはずもないし : : : こいつあ、お釈迦さまでも、と言いたいとこ ろで」 「それもそうだが、折角の玉を惜しいことをしたなあ。聞けば、お前さんも御赦免を受けた当日だと いうではないか。早速の大手柄で、まず御褒美ものだったのになあ」 「もう十日前にそれを知らせて下さればよかった。小保浦から舟で出ると言っていたから、今ごろは もう薩摩でしよう」 さつばり感じない浜崎屋の様子に、京都の捕つ手は向っ腹気味で、 「おいおい、浜崎屋さんとやら、お前さんはひどく呑気そうに言われるが、われわれはお公儀の命令 106

4. 西郷隆盛 第7巻

霧の中から、次第に浮び上って来た。 女中にそれから後の行動をくわしく説明してもらって、乱酔ながら、どうやら身の潔白だけは保ち 得たとわかると、雲外坊は急に元気になり、いそいそと出発の用意をはじめた。 従僕の正作は、これは文字通りの前後不覚のありさまで、階下の女部屋に寝はだかっていた。目が さめたら、不用な荷物を持たせて、筑前の大庭村まで帰してくれという主人竹内の言い残しだと聞き、 雲外坊は、これも宿酔でまだ寝床の中にいる浜崎屋に襖越しの挨拶もそこそこに、娼家の門を立ち去 って行った。 腰に朱房の法螺貝をさげた、どこかまだ板につかぬ山伏姿に、朝の光が白々と、またチカチカとま ぶしかった。 それから十日ほどたったある日、浜崎屋に意外な客があった。 筑前黒田家の盗賊方白石潤太と松尾平太に案内された京都町奉行配下の捕つ手徳蔵、甚助と名乗る 後 両名であった。 筑 主人の浜崎屋庄兵衛を座敷に呼びつけ、 「聞くところによると、ここ数日前、久留米の城下から、公儀のお尋ね者、京都清水寺成就院の僧月 くにおみ 照、同じく薩摩脱藩竹内伴右衛門、筑前の浪士平野次郎国臣なる者が当家に来りて一泊なせし由。 かなる縁故、また同人らのその後の行動は ? 」

5. 西郷隆盛 第7巻

を受けているのだぜ。月照という悪僧を追っかけて、中国、九州と歩いて来たが、行く先々で裏をか かれる。それというのも、下関でも福岡でも太宰府でも、町人や浪人、神主や坊主や宿の亭主や渡し 舟の船頭にまで、一味がかくれていて、何かと奴らをかばうからだ。こんどの竹内や平野という浪人 も、京都からついて来たわけではなく、太宰府あたりから、急に姿を現したので : : : つまり、この地 方にかくれていた一味なのだ。久留米までの川舟では、村の女どもを乗せて、水天宮詣でと見せかけ て、人目をくらました。竹内が小娘を連れていたのも、つまりその同じ手だ。目明しまで連れていた とすれば、これほど巧みな芝居はないということになるが、浜崎屋さん、われわれは鬼界ヶ島の果て まで追いつめても、いすれは月照を手に入れるが、その暁には、道中奴らを庇護した一味はもれなく お縄を受けることになろう。どうだね、その時の申し開きは今から用意できているかね」 「用意がいりますかね」 「お前さんは学問すきだと聞いたが : 「ヘッヘッへ、鎌をかけちゃあいけません。平田流の国学ですかい。そんな洒落れた芸当があるのな ら、蛇の道はヘびで、あの三人連れの正体は、いち早く見破っていたかもしれませんがね」 「だが、結局、お前は、その三人を助けたことになる」 「なるかもしれませんなあ。世間は私を馬鹿というでしようよ」 浜崎屋の返事には、何かふてぶてしいものがあった。 107 第五章筑後川

6. 西郷隆盛 第7巻

昼飯の時刻になると、目明しは弁当の包みの中から酒を取出して、三人にすすめた。鑁水はことわ ったが、竹内と雲外坊は快よく盃を受けた。 目明しは三杯の酒で上機嫌になり、 : 旦那様方がこう打 「実は、舟に乗り込んだ時から、一杯やりたくてうすうずしていたのですが、 ちとけて下されば、もう遠慮いたしません。ヘッヘッへ、世の中というものは、何もかも、運とめぐ こうして旦那方にめぐり合い、御親切に舟に乗せていただくという り合せで : : : 御赦免の出た日に、 のも何かの縁で、これが私の運の開け初めかもしれません」 などと筋の通らないことをひとりでしゃべり立てた。 若津の船着場に着いたのは、七ッすぎであった。秋の陽はすでに斜めであったが、まだ旅を続けら れぬ時刻ではない。 とにかく、柳川の小保浦まで漕ぎつけようと、三人が別れを告げようとすると、 目明しは両手をひろげて押しとどめた。 「そいつは、何とも : : このままお帰ししたのでは、私の男が立ちません。小保浦までなら、日が暮 れても、行き着けます。まあ、私の家でお茶を一杯。 : : : おお、小僧さん、小さい船頭さん、わしは ・ : 頼んだよ」 本町通りの浜崎屋だ。主人が久留米から帰ったと、ちょいと一走り 武士と山伏は、先をいそぐからと口をそろえてことわったが、浜崎屋庄兵衛は何と言っても聞かな

7. 西郷隆盛 第7巻

この程度の迷惑ですめばありがたいことです」 「たぶん大丈夫だと考えます。もし万一のことがありましたならば、私が : そこへ、浜崎屋が上 0 て来た。小粋な着物に着かえて、板についた遊女屋の亭主ぶりであった。う しろに従った眉の青い女房を振りかえって、 「家内でございます。さあ、お前からも、よくお礼を申上げろ」 夫婦そろって礼を言われたのでは、もう腰を上げるわけにもいかない。若い山伏は、どうでもなれ と言いたげに、べたりと坐り、 「だいぶ商売御繁盛の模様 : : : 」 などと、お世辞とも皮肉ともっかぬことを言ってお茶をにごす。 : しかし、商売の方は、ここしばらく休みであります。 「何ともお恥ずかしい商売でございまして。 今夜は家中の者と心祝いをいたし、明日は親族一統を招き、明後日は町内一同を呼ぶつもりでありま すが、ぜひとも今夜は、内輪の祝い酒を一献差上げたいと存じまして : : : 」 「これは弱った」 : おいおい、何をしている。早くお茶でも持って来う」 「なに、御遠慮には及びませぬ。 女中の一人がお茶と菓子を捧げて入って来たが、茶をすすめながら、武士の顔を見ると、大袈裟な 頓狂声で、 「おや、まあ、これは竹内さま ! 」 「何ッ 100

8. 西郷隆盛 第7巻

あいかた 「そんなに気にしなくともいいですよ。どうしても一人で寝るのだと敵娼さんを廊下に押し出したの で、たいへん初心なお客さまだ、なんならもう一晩泊まって行ってもらいたいと、下でも評判がよろ しうござんすよ」 「えつ、本当か」 「そんなに心配なら、その赤い枕をかいでごらんなさい。枕紙に女の髪のにおいがするかどうか」 「そうか、ありがたい」 急に生きかえったように立上り、両手でばたばたと身体を払い、「では、安心して師の御坊にお目に かかれる。お部屋はどこだ、案内してもらおう」 「まあ、あきれた、まだ寝ぼけていらっしやるの。お連れ様は、昨夜のうちにお発ちですよ」 「ユはにツ 「置き去りを承知の上で、お残りになったのじゃありませんか。橋の袂まで、御自分でお見送りした ~ 、せに」 「ふうん」 雲外坊はまたべたりと坐りこんでしまった。 ふつかよい 宿酔の頭をひねってみると、なるほどかすかに思い出した。昨夜の酒宴の終りがけに、鑁水、竹内 はどうしても小保浦まで行くと言い出し、雲外坊もそれに賛成し、鑁水、竹内、小さい娘、従僕重助 の四人を川岸まで送って行った記憶がある。無理にひきとめる浜崎屋庄兵衛の厚意にこたえるために、 ふかざけ 若い雲外坊と従僕正作が居残ることになり、落合う先は小保浦の薩摩問屋と約東したことも、深酒の うぶ 104

9. 西郷隆盛 第7巻

「お知り合いか」 「へえ、同じ商売仲間で : : : 福岡に行けば、かならす立ち寄ります。あれも商売がらに似合わず、曲 づたことのきらいな男で、それに、そうそう、学問好きでしてな、平田流の国学だとか : 「ほほう、あなたも何かそのような : 竹内五百都の目がキラリと光った。 え、とんでもない、私はとんと学問の方は。だが、高橋屋の人柄には、なんとなく惣れた : なににしても、これも御縁、袖の触れ合いどころではありませんな。世の中は広 ・と申しますか。 いようで、まったくせまい。これじゃ、いやでも今夜はゆっくりしていただかなけりゃなりません。 : さあ、早く酒の用意だ。いや、その前にお風呂を。さあ皆さまも、どうそ、どうそ」 話は思いがけない方向に発展して、一座をとざした緊張も、さらりと解けた。 日暮がたから酒宴が始まり、夜更けとともに座も乱れた。はじめは階下に遠慮していた妓どもも呼 び上げられ、三味の鳴り歌が出て、ます主人の浜崎屋が大いに酔った。客の方も、鑁水和尚は三杯の かたち 酒に頬を染めて、終始、貌を崩さなかったが、竹内五百都は薩摩武士らしい酒豪ぶりを発揮し、若い ・胎岳院雲外坊にいたっては、やや乱酔の形であった。歌を所望されると、古風の今様を歌うと言い出 し、竹内に目で制せられて、博多節に変えたが、その歌の調子も千鳥足で、かえって大いに妓どもの 鳴采を博した。 翌る朝、おそい時刻に、雲外坊は障子の古びた畳に黴の臭いのする小部屋で目をさましたが、枕の そばに塗りの赤い女枕が転がっているのを見て、びつくりした。 かび おんな 102