岩下方平は新納駿河の甥であるが、伊地知正治などの影響を受けて国学に親しみ、正義党の同志に ますみつ なっている。江戸の藩邸にいた頃には、有村次左衛門、益満休之助、高崎猪太郎などの元気な年少組 に伍して、吉之助の教えを受けたこともある。家柄が高く、藩の重役連と連絡に便利なただ一人の同 志であるから、大久保はかねてから目をかけ、いろいろと策を授けては働かせている。こんども月照 和尚のことに関して、もしも和尚を幕吏に渡したら、近衛家と島津家の従来の関係がいっさい暴露し てしまうから、幕府の手はたちまち島津家に延びる、是が非でも月照は藩の全力をあげてかくまわね 、ばならぬと新納駿河に入説させた。駿河がどんなふうに答えたか、その返事はまだ岩下から聞いてい よい。吉之助がちょっとあいたいと言ったのは、早くその返事を聞きたいという意味であることはす ぐにわかったが、事が事であるだけに、こんな場所ではよろしくなかろうと大久保市蔵は引きとめた のである。 「では、われわれはそろそろ引上げるとしようか」 市蔵の心を察して吉之助は言った。「俊斎、お前ももうジャンポ餅は、食いあきたろう」 「食いあきたよ。喉まで食って、動くのが大儀た。腹ごなしに一つ向う座敷に、喧嘩を売ってやろう茶 の : よいしょッ ・と思っているのだが : 俊斎はむくっと起上って、「どうだ、大久保さん、あんたも手伝わんか」 章 七 「はつはつは、餅に酔っぱらった喧嘩などにつきあうのは御免たよ」 第 向う座敷で詩吟の声が起った。 「渭城の朝雨軽塵をうるおす
ろに行って、長州との連絡をかためろ。それから藩邸の若侍を一人、至急大阪に走らせて吉井にあい 土佐と土浦を動かす。この人選は、伊地知、君に頼む」 「よし、それは引受けた。 : で、君はどうする ? 」 「俺はここに坐っている。一人だけは動かずに坐っている奴がなければ、手順がぐらっくからな」 同志たちにそれぞれの任務を授けて、吉之助はひとり鍵屋の奥座敷に残り、江戸の堀次郎と日下部 そうじ 伊三次にあてた手紙を書いた。当地の準備は充分にととのったから、関東もいつにても立上るべし、 間部、酒井の兵は柔弱なれば、彦根城攻略は容易なり、関東雷発の場合は至急御報知を乞うという激 しい内容の手紙であった。 手紙は江戸に帰る同志杉浦彦之丞に托して、すぐに出発させた。 正午をすぎた頃、伊地知正治が藩邸から帰って来た。大阪にいるはずの吉井幸輔が一緒であった。 「なんとも、おかしなことになったそ」 吉井は言った。 「斉興御老公は、手兵を全部ひきいて出発してしまった。大阪の藩邸には五十人の兵も残っていない」 「なにつ、それは約東がちがう」 「俺もそう思うが、御老公の命令だから、俺ひとりのカでは、。 とうにもならなかったのだ」 手違いは、それだけではなかった。吉井の話では、兵庫に到着するはずの交替兵も何かの都合で延 くさかべ 29 第二章秋
ました。泣き言はやめますが、今こうしてあなたと向い合っていると、よくまあ無事にたどりつけた ものだと夢のような気がします」 平野国臣は芋焼耐の盃を下においた。感じやすい心を持った青年であるから、芋焼酎の匂いも強く 目にしむ様子であった。 月照は旅疲れのいたいたしい姿であったが、愚痴らしいものはこぼさず、言葉少く道中のことなど を語り、その後の同志の動きや薩摩の藩状についてたずねたが、それに対する吉之助の返事がからり とせず、言葉にも態度にも日ごろに似合わぬ憂愁の調子が深すぎるのを見て取ると、ニコリと笑って 「西郷さん、お互いに気を落すのはやめましよう」 と言った。吉之助は心を見抜かれた気がして、頬をこわばらせながら、 「そう申されると、言葉もありません。どうも近ごろ、われながら元気の抜けた感じで : : : 」 「そこはお互いですよ。平野さんも言われたが、野間原の関所では、私ももうあかんと思った。もう 駄目だと口に出しました。 : だが、平野さんに慰められ、カづけられ、危ない瀬戸を乗り切って、 どうやら鹿児島の城下までたどりついて、久しぶりにあなたの顔を見ると、また元気がわき起ってき た。薩摩の藩状がどうであろうと、私とあなたが無事にこうして向い合っているということが嬉しい ・ : あなたも、それを喜んで下さい」 「野間の原で気弱く絶望したのも私だし、ここで気の強そうな顔をして、あなたに説法めいたことを 述べているのも私だ。お互いに生き身の人間です。心の弱まるときはお互いにあります。 : : : だがし 167 第九章海人小舟
第三章一葉舟 大阪土佐堀の薩摩蔵屋敷。 薄い西陽のさすお長屋の縁側で、吉井幸輔は爪を切っていた。不精者で通っている彼が爪を切るの は珍しい。国午にいるときには「汚れ」という香しからぬ仇名をもらっていた。大阪に来てからも、 装り振りにかまわず、ほうけた髪に破れ袴で、どこへでも出かけて行く。欲も色気もないとぼけたよ うな顔が、小倉船の船頭や荷揚げ仲仕のあいだに人気があった。 「吉井の旦那 ! 」 葉の黄ばんだ植込みの向うから声がした。上仲仕の幸助であった。「おう、こりゃあ : : : 明日は雨で すな」 吉井は鋏の手を止めて、空をあおぎ、 「雨かな。そういえば、雲が出て来た」 「ふうつ ! 舌気な旦那だ。旦那が爪を切るのは珍しいと言っているのですよ」 「ふうん、そうかね」 さつばり感じないふうに鋏を鳴らしながら、「幸助、和尚はお元気か」
助にあいたいというから至急来邸を乞うという伝言である。 吉之助は旅姿のまま、すぐにかけつけた。市来が玄関まで出迎えていて、そのまま病間に通された。 ぎようが 部屋には熱病の臭気がこめていた。鎌田出雲は枯木のような姿で、吊り蒲団の中に仰臥していた。 市来が吉之助の名をつげると、かすかに目を開き、そのまままた目をつぶった。うなすく力もない様 子であった。 「伏見から帰られる途中で発病されて、帰国以来、ずっと寝たままでおられる」 市来が小声で説明した。「例の近衛公の御内旨の実行に手をつけることさえできす、京都出兵のこと は、そのままになっている。御病床でも、そのことばかりを気にされて、西郷はまだか、有村はまだ ・ : 今日、君が帰って来たと申上げると、すぐに呼べ、聞きたいこ 帰らぬかと繰り返して中される。 とがあると言われるので : : : 」 鎌田出雲の唇がかすかに動いた。遠い風の音のような声がもれる。 吉之助は、きっとなって聞き耳を立てた。 「京都は : : : 京都はどうした」 鎌田出雲のつぶやきは、そう聞きとれた。 「おい」 市来正之丞が吉之助に合図する。うなすいて、吉之助は、その後の情勢の変化をかいつまんで説明四 した。鎌田は目をつぶったまま、じっと聞き入っている様子であった。 「右のような次第で、わが藩の出兵のほかには、形勢挽回の方法はないのでございます」
翻えるであろうが、果してそれを生きて自分の目で仰ぎみることができるかどうか、と意気沈の態 でした」 「しかし、平野さん」 竹内五百都が言った。「あんたは、近いうちに錦の御旗が翻えると信じておりますかな」 「信じております。早ければ二年、おそくとも五年後には・ : 「三年だとか五年だとか、そう期限をきられると、私などは木原氏の歌の方に賛成したくなりますな。 私や北条が国を出てからでさえ、もう十年になった。高山彦九郎先生が久留米で憤死した時から数え れば、六十年になる。 : : : 徳川幕府は三百年、頼朝の覇業にまでさかのぼれば、六百数十年になる。 時勢の推移は早いようでおそい。天業恢宏の道は長い。長い苦しい道です」 「だからと言って、ただ世の中に身をまかせているわけには行かないじゃありませんか」 「そこだ、そこです。 : : : ただ、私はあんたがあまり元気のいい歌を作るので、ちょっと羨ましくな っただけのことだよ。はつはつは」 酒はまだ残っていたが、壺の底でむなしく冷えて、酔っているものは一人もなかった。 北条右門は明朝止場でおあいしましようと言って先に引取り、平野国臣は話題が尽きると、ひど く考えこんで、隣の部屋に寝に行った。月照と竹内だけが、火の気のとぼしい火桶をかこんでおそく まで話しこんでいた。 埋火の しようちん 124
いこうと言っただけです。風流はつらいです」 「では、まいろう、酒でまいろう」 と、吉之助はつぐ。国臣は受けて、 ・存院という奴は妙な奴ですなあ。西郷さん、あんたと別 「うまい。存竜院より確かにうまい れて存竜院に行ったら、奴さん、大いに喜びましてね、よくおいで下さった、当国には須磨、明石に も劣らぬ名所も多く、都人の目には珍しい景色もあるから、どうそごゆっくり滞在願いたいなどと言 御師僧がうかつに っておきながら、夜が明けると庭の落葉のようにわれわれを掃き出してしまった。 , あんたの名前を出したのが悪かったらしい。西郷さん、あんたはそんなに怖がられているのですか」 「ふうん」 「そうそう、忘れていました」 月照は床の間の包みの中から二通の手紙を取出して吉之助に渡し、「京都で存竜院に預けて置いた 例の手紙です。存竜院は藩庁に伝達すると言っておきながら、そのまま握りつぶしていたのです」 「誰の手紙ですか」 と、国臣がたずねた。 「近衛公と老女村岡殿のお手紙です」 「ほほう、それがあれば、藩庁だって考えなおすでしよう」 と、国臣は言ったが、月照は苦がそうに盃を含んで、 「さあ、どうでしようか。とにかく西郷さん、処置はあんたにお願いします」 みやこびと 190
地を張るのはやめた。張ろうにも張る意地がなくなった。西郷、あらためて頼む。どうぞ薩摩に帰っ てくれ。月照和尚と一緒に帰ってくれ、頼む」 「伊地知 ! 」 「お ) っ ! 」 「幀まれるまでもない。俺は薩摩に帰る」 : もう俺には策も略もっき果てた」 「帰ってくれるか。ありがたい。 いかにもカつきたといいたげな伊地知の姿に、一座は暗然となった。 「この分では、江戸も無事ではあるまい」 北条右門がつぶやく 「有馬さんはどうしたろう」 俊斎がいう。 「有馬も堀も、それからお前の弟の次左衛門も : : : 」 と、吉井幸輔が言いかけると、俊斎は急に肩を怒らせて、 「なに、そんなことはない。みな生きているよ。生きていなければ死んでいる。どれものめのめと幕三 吏に捕えられる男ではない」 「江戸のことも気にかかるが、議論しても始まらぬ。それよりも早く、われわれの態度を決すること
と、矢つぎばやな訊問であった。 浜崎屋庄兵衛はちょっと驚いた様子であったが、やがて大声で笑いだした。 「あっはつは、そいつはどうも : : : 和尚と山伏に一杯くわされましたな。何か日くありげな御連中だ とにらんだが、それほどの大物だとは夢にも思いませんでしたよ、あっはつは」 「笑いごとではない」 「しかし、おかしいですな。久留米藩の目明しともあろうものが、それほどの大物と一日中舟に乗り 1 もうろく 合せ、夜は夜で一緒に酒を飲んで、何も気がっかなかったとは、私も耄碌しましたかなあ」 おい、それは、こっちの申すことだ」 筑前の盗賊方はあきれ顔で、「全然気がっかなかったと申すのか」 ふれ 「気がっきませんでしたな。お役所のお布告がまわっているわけでもなし、京都の方で、そんな騒ぎ : 起っていることを、私も知っているはずもないし : : : こいつあ、お釈迦さまでも、と言いたいとこ ろで」 「それもそうだが、折角の玉を惜しいことをしたなあ。聞けば、お前さんも御赦免を受けた当日だと いうではないか。早速の大手柄で、まず御褒美ものだったのになあ」 「もう十日前にそれを知らせて下さればよかった。小保浦から舟で出ると言っていたから、今ごろは もう薩摩でしよう」 さつばり感じない浜崎屋の様子に、京都の捕つ手は向っ腹気味で、 「おいおい、浜崎屋さんとやら、お前さんはひどく呑気そうに言われるが、われわれはお公儀の命令 106
吉之助が言葉をきると、また鎌田の唇が、かすかに動いた。 「京都は : : : 京都はどうした」 うわごと 繰りかえしているのは、前と同じ言葉であった。譫言であったのか。もう人の言葉を解する力もな いのか 吉之助は思わす市来と顔を見合せた。市来は暗然と顔をそむける。大粒の涙が吉之助の頬を ( ラハ ラと伝わって落ちた。 市来正之丞も目に涙をためて、 「西郷、今日は引きとってもらいたい。君の話は、御気分のいい時に僕からよく申上げておく」 「これほどだと思わなかった。いつも、こうなのか」 「いや、さっきまでは気もたしかでおられたのだが。もっとも、医者はここ二、三日が峠だと言って いる」 「かけがえのないお方だ。よろしく御看病を頼なそ」 鎌田家の門を出ると、疲れが二倍になっていた。進まぬ足を無理に引きずるようにして家に帰って みると、タ闇のこめた玄関に破れた草鞋がぬぎ捨ててあった。 庭先で遊んでいる小兵衛に、 「誰か来たのか」 返事のかわりに、奥から聞きなれた大きな声がした。 「僕ですよ」