第五章潮がかり あわただしい出帆命令であった。年も押しつまった二十九日の朝、だしぬけに大目付から伝達があ って、即刻乗船せよという。 親類縁者に別れを告げるいとまもない。もちろん、同盟の同志の者と連絡する余裕もなかった。不 意を討たれた形である。心の準備は早くから出来ていたのであるから、あわてる気持は起らなかった ものの、藩庁が不意討ち同様の処置をとったことの裏に重大な事情が潜んでいるのではなかろうかと 心配になった。自分一身のことではない。同志の身の上である。何かの手違いから脱藩突出の計画が もれ、そのために、このだしぬけな乗船命令が下ったのだ、と考えられぬこともない。 吉之助は弟の信吾を呼び、下加治屋町まで一走りして来いと命じたが、信吾は玄関を出ない先に、 横目役の谷村に肩先をつかまれ、しおしおと引き返して来た。 「お気の毒だが、船に乗るまではいっさいわしの命令に従ってもらいたい。もし親族や友人に申し残 すことでもあったら、わしが聞いておこう。間違いなく伝えてあげる。わしに言いにくいことは手紙五 第 に書いて残してもいい」 と、谷村は言った。
谷村純孝は吉之助が海から上って以来、ずっと監視の役をつとめている横目役であるが、必ずしも 勤皇組の敵ではなかった。吉之助が無事であることを大久保に知らせてくれたのも彼である。同志や 友人たちが交替に看護にあたることを黙認してくれたのも彼である。 その谷村に、待て用事があると言われては、さすがの俊斎も押し切って立上るわけにはゆかなかっ 「何用です」 ふてくさ と、不貞腐れた顔つきでまた坐りこむ。 谷村は縁側から上って、座蒲団にどかりと坐り、 「今日は、少し藩庁の木っ葉役人のいうことを聞いてもらわねばならぬ」 皮肉はいったが、声の調子にはべつに悪意はこもっていなかった。「わしは今日まで、諸君のやり口 を、しごく大目に見て来たつもりじゃ。諸君はわしをおどかしてみたり、木っ葉役人とののしったり、 「ああ、お前は帰った方がよかろう」 と、大久保が言った。 「一一一口われなくとも、帰る」 侵斎が腰を浮かせかけた時、いつの間に庭先にまわったのか、谷村の声で、 「有村俊斎、待て。わしはお前と大久保に用事があるのだ」 鰊第四章別れ路
たいと、あとで口惜しがったが、沖には大きな黒船がひかえていたし、ごまめの歯ぎしり、棚の達磨 で、手も足も出ませんでした」 かわなみ 「せめて、汾陽さんの大砲でも出来ていたらなあ」 と、佐運は嘆く。 「汾陽の大砲というと ? 」 重野がたずねた。 「はあ、この村では大砲を造りかけたことがあります。イギリスが島を貸せと言って来たすぐ後でし たが、鹿児島から汾陽次郎右衛門様が隊長となり、二隻の大船に手勢を積み乗せ、この島にやって来 られました。その時、島の銅を採って、大砲を造ろうということになり、私たちもお手伝いをして、 笠利湾のまわりの山々を掘りました。 : 石は出たが、炉にかけてみると、銅の含み方がたらず、大 砲の鋳造はそのままお流れになってしまったのでありますが : : : 」 「その話はどこかで聞いたような気がする」 吉之助は言った。「しかし、大砲を造ろうとした場所が、この竜郷村だとは知らなかった」 「はあ、この村でしたよ。 ・ : あの大砲さえあったら、二度目に来た異人どもは追っぱらえたかもし れません」 「二度も来ましたか」 「まいりましたよ。すぐ翌る年の春の末ころ、またやって来ました」 佐運が答えた。「こんどの方が前年よりも傍若無人で、鉄砲を持って島に押上ると、二た手に分れ 115 第七章民謡
て行った。 子供までが と思うと、もう外に出る気がしなくなった。雨よ降れ。一年中でも降りつづけ。 かんしやく 吉之助の癇癪に調子を合せるかのように、雨は降りつづいた。昨日も今日も : : : 明日もまた雨であ ろう。 99 第六章榕樹の島
「五両 ? そんな金が : 吉之助は不審顔である。 大久保にしても俊斎にしても、五両はおろか、一両の金さえ余裕のある身分ではない。同志たちの 暮し向きの苦しさは、誰よりも吉之助がよく知っていた。 俊斎は答えた。 「また森山棠園に出してもらったのです」 「おお、そうだったか」 棠園森山新蔵は富裕な町人の出であるが、国学に養われて、その子の新五左衛門とともに、かねて から勤皇組の有力な同志である。 すおう 「僕と大久保が平野氏の追放を知ったのは、二十日の夕暮でした。烏帽子に素袍をつけた竈祓、の神 主みたいな男が、藩庁の護卒にまもられて城下を出て行ったという噂を聞いたので、てつきり平野氏 にちがいないと思った。何のつもりか平野氏は、城下を離れるまでの街中を、ひょうひょうと笛を火 きつづけていたそうです。これなら、人の耳にも目にもっく。おそらく自分の追放をわれわれに知ら せるつもりだったのかもしれぬ。なかなか人をくった頓智を働かせる男ですよ」 「なるほど」 「僕と大久保はすぐさま原田屋に駆けつけたが、果して平野氏はいない。後で聞いた話だが、その日 かまどはら、
忠義が大切か、薩摩一藩の忠誠が大事かなどと、右も左もわからずにくるくるまわりしてござる。そ れが : : : それが西郷を殺したのだぞ」 「伊地知 ! 」 大久保は立止って唸った。「君にはこの大久保が脱藩突出さえもできぬ卑怯者に見えるのか。右も 左もわからぬ鈍物に見えるのか」 「うん、そこだ。お前はさっき、西郷はまだ自殺の決心を捨てていないから警戒を要すると言った。 そのとおりだ。そして、西郷に自殺の決心を捨てさせる方法はただ一つ、お前たちが、いやわれわれ が、薩摩の誠忠組はまちがいもなく勤皇組であることを行動をもって示すことだ。わかったか、大久 勤皇が君や西郷や有馬の一手販売だったら、俺はこれほどまでに苦労はせぬ ! 」 言い捨てて大久保市蔵は朝日を背中に受け、下加治屋町の方向に駆け去って行った。
る。吉之助が城下にいるとわかったら、即刻引渡しを要求して来るにちがいない。 : ・藩庁としては なんとかして西郷吉之助を助けたいと考えたからこそ、一日も早く、島行きの船に乗りこませる処置 をとったのだ。しかも島送りといっても罪人扱いではない。ちゃんと在藩同様の資格をもって、特別 な手当も与えることになっている。 ・ : ただ、秘密を保っために、親類縁者にさえあわせなかったと いうだけだ。そのくらいの道理がわからぬお前じゃないはずだ。いったいお前は・ だが、大久保市蔵は谷村の言葉をみなまでは聞かず、板塀の蔭から身を離し、浜の方に駈け出して 行きそうにしこ。 「おい、こら、どこへ行くのだ」 五、六歩走って、大久保は立止った。谷村の方はふりかえらず、きっと沖の方をにらんだまま、 「どこへも行きません。あんたの話がわかったから、ここで西郷の船を見送らせてもらうのだ」 船はもう波止場からはるかに離れ、逆風に十二反帆をもまれながら、身をよじるようにして、斜め に斜めに沖の方へと難航していた。 それから一時間ほどの後、大久保と吉次郎は、甲突川の岸伝いに重い足をひきずりながら、帰途に ついていた。底冷えのするタ暮であった。吹きつける風の中で、枯葉の葉すれの音が高い。 「あんたのお父さんの島送りを見送りに行ったのは、いつでしたかな。秋たったか冬たったか。もう 十年以上も前のことになるが : ・
「かさねがさね、何事であるか」 「用向きの次第は、これなる書面にしたためてあると申しておりまする」 久光は中山の差出す白封の書状を受取ったが、開いて見ようとはせす、 「返事は今日でなくともよかろう。帰してしまえ」 「いっかな帰りそうにもございませぬ。何事かよほど決心の模様で : : : 」 「ふうむ、尚之介、お前も近ごろはすっかり大久保の一味になったな。帰せといっても、お前が帰す まし」 久光は苦笑して書状の封を切った。 『この節、関東表、大変の儀承知、お直に言上仕らずては叶わざる事件有之候間、なにとそお目通り 仰せつけ下され候よう願い奉り候。押して願い奉り候儀、不敬潜踰の罪、恐れ入り候えども、非常の 時節、大事の御場合と存じ奉り候間、重罪を恐れ奉らず、万願奉り候』 久光の予想した通りの文面であった。桜田事変の詳報はまだ久光の手許にとどいていない。有村雄 ぎもいり 助を護送して帰って来た足軽肝煎坂口吉兵衛のロ達書は読んだが、これは風聞の寄せ集めのようなも ので、大して要領を得なかった。だが、大久保の一党は最初から水戸藩士とふかい連携がある。彼ら の手許には特別な情報がとどいているかもしれぬ。一応聞いておくのは無駄でなかろう。 「あってやろう。よんでまいるがよい」 じき 8
木の間の深い夜空の底で、静かに星が移って行く。 間もなく真夜中であろう。霜を帯びた深山の冷気がひしひしと身にせまって来る。両手をうんとの ばして、吉之助は大きなあくびをした。 待ちくたびれたのである。最初の一刻あまりは楽しかった。鉄砲を抱いて、大樹の根元の土窪に身 をひそめ、全身を神経にして、じっと闇の中をにらんでいると、こっちも逞ましい野の獣になったよ うな気がして、精気が全身の毛穴から湧き出して来る。木の葉すれ、夜鳥の一鳴きにもさっと神経が よそ 緊張し、他所ごとを思う服もない楽しい何時間かであった。だが、狙っているネタのまわりの闇の中 には、猪の目の光どころか、狐火さえも現れて来なかった。星の光だけが、人間の無駄な努力を嘲り 顔である。 ( これじゃあ、腰から根が生えてしまいそうだそ ) まったくそんな気がした。夜が明けてみると、腰から根が生え、頭から葉が繁っていたら、それこの そケンモンやフウジャの仲間の化物だ、とひとり笑いした。 初 ( しかし、もう俺には根が生えてしまったのかもしれぬ。一生、島から出られない独活の大木に化け てしまったのではないかな。重野や佐民が相談して、愛加那を家によこしたわけは、つまり俺に根を汁 生やさせるつもりだったのだ。 : それと気がついた時には、もうおそかった。女の優しさと楽しさ か、軟かな土のように身のまわりを取り巻いて、自分は南島の植物に化けてしまったのだ )
て来る。今日の場合もそれであった。 「やい、島豚。ハブ根性の禄でなし。秤の目に間違いがあってたまるか。十斤半なら、米三升七合と 八勺 : : : さあ、持って行け。次は何だ。なに、綿が欲しい。贅沢な奴だ。芋を食うて、綿の蒲団に寝 るつもりか」 つむ 「いえ、蒲団ではござりませぬ。紡いで糸にいたします」 「何をぬかす。貴様の面に相談して物を言え。綿の要りそうな面じゃない」 「はい、綿の人用なわけは、昨年からお代官所にとどけてございます。どうそお願いします」 「つべこべ抜かすな。貴様の理屈を聞きに来たのじゃない。欲しければ持って行け。綿なら砂糖二十 : なんだ、二十五斤しかないそ。おい、そっちの樽からもう二斤出せ」 七斤だ。 「お役人様、それはあまりな : : : 私はたっぷり二十七斤だけ計ってございます」 「なにツ、もう一度申してみろ。貴様は俺が目方をごまかしたというのだな」 「いえ、そうは申しませぬが、たしかに二十七斤 : : : 」 「貴様、俺と対決するつもりか。よし、そのつもりなら、いつでも名瀬の役所に来い。白洲の上であ ってやる」 「いえ、それは : : はい、二斤、たりない分だけ差上げます」 : さあ、綿だ、持って行け。糸に紡いで貴様のその余計 「それみろ。ごまかしたのは貴様の方だ。 ・ : さあ、次た、お次は何だ」 な口を縫いつぶせ。 砂糖役人の非道さは、吉之助もしばしば耳にしていたが、目で見るのは今日がはじめてであった。 134