伊地知正治が低い声で読みあげた。 「もう一度」 有村俊斎が催促した。三度読みかえされると、一座はしんとなった。 、「筆蹟は ? 」 と、大久保市蔵がたずねた。 ・「月照和尚だ」 伊地知が答えた。「西郷の歌もあるかもしれぬ。月照和尚の衣類をしらべたら出て来るかもしれぬ」 「西郷に歌が出来るかな、不器用な奴じゃが」 と、魯水先生が言った。 , 「本人に聞いてみればわかるでしよう」 伊地知は怒ったように答えて、病人の方を見た。病人はまた昏々と眠っていた。ふたたび意識を失 ったかのような深い眠りであった。 「魯水先生、伊地知君もちょっと」 大久保市蔵が目でうながして、次の間に立って行った。 三人は次の間で、吉次郎を加え、何事か相談していたが、やがて打ちそろって帰って来ると、伊地 知正治が相談の結果を報告するように一座に向って、 「みんな御苦労でした。時間もおそくなったので、今夜はこれで引き上げてもらいたい。魯水先生の 診断によれば、西郷の容態はます一安心ということであるから、諸君も安心してお帰りを願う。 21 第一章夜見がえり
喪した責任回避か。馬鹿な : : : そんな馬鹿げた理由からではないぞ。お前は高山彦九郎先生の自殺を 何と思っている ? 」 大久保は伊地知の顔をじろりと見たが、すぐに横を向いた。今さらそんな説教は聞きたくもないと 言いたげな顔つきであった。久留米の高山彦九郎の墓前に燈籠を献じたのは薩摩人としては伊地知正 治が最初であった。だが、何かといえば、国学者ぶり、勤皇家ぶり、高山彦九郎を振りまわす伊地知 へんきよう の褊狭な癖は大久保の肌には合わなかった。 「高山彦九郎先生は憤死したのだ」 伊地知は大久保を無視してつづけた。「世間は高山先生は気が狂ったのだと思っていゑ奇人の狂 死だと思っている。狂死ではない、憤死だ」 「わかっているよ」 「西郷も憤死したのだ」 「よこッ ? 「高山先生はその当時の薩摩人の因循姑息に怒って、薩摩人いかにやいかに : : と歌って憤死した。 西郷も薩摩の現状を怒ったのだ。藩庁の因循姑息に怒り、正義党と自称する連中の優柔不断に怒った のだ」 「そんなはずではない。藩庁は何とかして西郷を助けたいと思っていたし、われわれ同志も幕吏の手
第三章敗軍の兵 森山家の奥座敷に集まったのは江戸から帰って来た堀次郎を中心に、伊地知正治、吉井幸輔、税所 篤、大久保市蔵の五人であった。 出席するはずの有村俊斎は、どこにまわったのか定刻になっても顔を見せなかった。主人の新蔵は 息子の新五左衛門と二人で接待役を引受け、いそがしく立ちまわったが、身分をはばかって会議の席 には加わらなかった。 座敷には憂色が漂っていた。ただひとり昻然として論じているのは堀次郎であったが、その語調に も、どこか附け元気に似たひびきがあった。 「西郷ともあろうものが、なんという軽率なことをしたのだ。実に無責任きわまるじゃないか。己れを 清くするのよ、 、後に残ったわれわれはいったいどうすればいいのだ。この重大な時期に : 伊地知と吉井はさすがにむっとした気配を顔色に現わしたが、何も答えなかった。 大久保市蔵が静かに、 「西郷には西郷の事情があったのだ。僕にしても、西郷が投身したと聞いた時には、何という軽率な : と実は思った。それを伊地知君の前でロに出して、叱られたこともある」 41 第三章敗軍の兵
に注意して、刃物やそれに類するものはくれぐれも病人の身のまわりから遠ざけるようにと言い残し て外に出た。 霜の強い朝であった。わずかに明るみはじめた空の下に、家々の炊煙が凍った雲のように棚びいて 「軽はすみなことをしてくれたものだ」 大久保は伊地知をふりかえって言った。「助かったからいいようなものの、もしもあのまま死んだ ら、かえって薩摩の名を傷つける結果になる。薩摩の奴らは猪だ、進むことを知って止まることを知 らぬ、死にさえすれば何でも片付くと思っている、という天下の定評を裏書きするようなものだ」 夜を徹して看護している間に胸にたまった感想であった。病人の枕元では言えなかったが、夜明け の冷徹な空気の中では、もうロにしても差支えなかろう、おそらく伊地知も同感にちがいない、と大 久保は看護疲れの後のややくつろいだ気持でそう言ったのである。 伊地知正治は隻眼を光らせて、にらむように大久保の顔を見た。だが、すぐには答えず、不自由な 片足の下駄を霜柱の上に鳴らして大久保と肩をならべ、 「それはちがうそ ! 」 と一 = ロった。 背の高い大久保を下から見上げて、叱りつけるような口調であった。 「ど一」、がち。か、つ ? 」 大久保もきっとなって言葉をはげました。 ? 3 第一章夜見がえり
( 貴様は学者だ。立派な政略家でもある。だが、よくおぼえておけ。学と才だけでは天下のことは行 そしんちょうぎりゅう おれぬそ。要路の大官や有力者の間を蘇秦張儀流に駆けまわるばかりが能ではない。われわれは薩摩 藩の禄を受けているが、勤皇のことに関しては、常に浪士の覚悟でなければならぬ。勤皇のためにい っさいを捨て、藩も捨て、家も捨て、欲も捨て、名も捨て、命さえも捨てている浪士の捨て身の態度 を学ぶべきだ。 : 小智恵のみに頼って、小ざかしく振舞う奴の顔は猿だ ! ) と、どなりつけられたことがある。同志として行動しながらも、気質においても、政策の点でも、 背中合せのことが多いのである。 大久保は一本釘をさしておいて、またおだやかにつづけた。 「もっとも、白状すれば、僕自身も西郷のこんどの行動はすぐには理解できなかった。軽はすみなこ とをしてくれたものだと思った。 : その気持をつい口に出して : : : 」 ・ : 西郷はお と、伊地知正治の方を振りかえり、「ここにいる伊地知さんにひどく叱りつけられた。 ・前にくらべれば感情的な男だ。お前の目から見れば粗暴粗大に見え、猪突軽率に見えるところもあろ : 西郷は、小策は大義を減すことを知っ う。だが西郷はお前にくらべれば純粋だそ、と叱られた。 の ている男だ。大義の示す道をまっすぐに歩き通して倒れれば、身は亡びても、大義は生きる。それが軍 彼の投身の原因です。 : : : 伊地知さんに叱られて、僕もよくわかった。われわれもこの道を歩きまし 章 第 一「わが薩摩藩の現状はあんたの御覧の通りだ。挙藩一致して斉彬公の御遺策を奉し、京都に出兵する
このえただひろ 堀の任務は、・まず京都において、近衛忠熈公に内謁し、義挙の詳細を上申すること、同時に近く出 くろだなりひろ 府する筑前藩主黒田斉溥に勅命を下し、伏見、大阪の間に滞留せしめて越前の軍に義応せしめること、 これに成功したら、ただちに薩摩に帰り、出兵の手はずを整えることであった。 一方、有馬新七と桜任蔵は、京都にひそむ諸藩の有志と浪士を激励し、連合せしめ、かつ大久保要 うねめのしよう を通じて、大阪城代土屋采女正を動かし、関東下向を中止せしめて、大阪に待機させゑさらに長州 および因州におもむいて、出兵をうながし、ふたたび京都に馳せ帰って、松平慶永の上京を待つ。 しかし、有馬と堀が京都に着いたときには、西郷も伊地知もいなかった。幕吏を恐れて国に逃け帰 ったのだ。無責任きわまると堀は言いたいのである。 だが、吉井や伊地知にも言い分はあった。 「堀、お前がくり返している大策というのは、何もお前だけの案ではないじゃないか。西郷が有馬と、 いや俺と吉井と月照和尚、有村俊斎、北条右門と一緒に、京都の鍵屋で立てた案なのだ。その案が破 れたからこそ、俺も吉井も有村も北条も京都を逃け出し、月照和尚と西郷は海に飛びこんだのだ」 伊地知正治が反駁したが、堀次郎は薄い唇をゆがめて、 「ちがう。西郷、有馬が京都で相談した時には、越前藩の出兵は決定していなかった」 「越前の出兵は、橋本左内とその門弟たちが勝手に決め、勝手にそう信じこんだだけの話ではないの 「なにツ、誰がそんなことを言った ? 」 かなめ
「何を ! 縁起でもない」 いぶすき 伊地知は大声で笑って、「島送りはお前一人で沢山だ。俺は : : : ちょいと指宿まで所用があったので、 ついでにお前の顔を見に来たのだ、間に合ってよかった」 「何か、急な用でも : ・・ : 」 「用事なんかない。顔を見に来ただけだ。ついでに餞別を持って来たがね」 と、左手にさげた風呂敷包みをポンポンとたたいてみせた。 無理につくった快活さであった。明らかにそばの役人をはばかっている気配が見える。言い方も矛 盾している。偶然の所用でやって来た者が、餞別の品まで用意しているはすはない。 ( 同志を代表して追っかけて来たのだな ) 吉之助は直感して、こっちもさりげない態度を装い 「それは何ともかたじけない。 どうそ奥へと言いたいところだが、奥は米俵の穴倉だ。 : : : 餞別とい うのは酒かな。酒なら、早速お茶のかわりにここでいただこうじゃないか」 と、おどけてみせた。 伊地知正治は船具の上に腰をおろし、 「残念ながら酒ではない。長旅のことだから長持ちのするように、本を持って来た」 「ほ ) つ、・不か」
望みは現在のところ全然ない。 よりほかに道はない」 伊地知正治が膝をたたいて、 「よく言った、大久保 ! 」 殺気に似た緊張が氷のように一座をとざした。その緊張を叩き破るかのように、有村俊斎がばたば た駆けこんで来て、 「おいツ、わかったそ。下手人がわかった。畜生、新納駿河の奴め、たたき殺してくれる ! 」 ・「騒がしいぞ、俊斎」 伊地知正治が苦々しげに、「なにをひとりであわてているのだ」 当下手人だ。西郷を殺した下手人がわかったのだ」 「西郷は生きているじゃないか」 「うん。生きてはいるが : : : 一度は死んだじゃないか。西郷を死なせたのは、新納駿河だ。今日、そ れがはっきりわかった。動かぬ証拠を握ったのだ」 べたりと坐って、畳の上の灰に気がっき、「ペッ、ひでえ灰だ、ふうん、喧嘩か。誰と誰がやったの ・ : 子供みたいなことはよせ。仲間喧嘩はこの際禁物だそ。仲間喧嘩の暇があったら、新納駿 河をかたづけることを考えろ」と、もっともらしい顔をした。 この上は同志を結東して、脱藩突出し、井伊の手兵と一戦して倒れる
「伊地知と吉井、君たちもいかんそ」 堀は開きなおって、「俺も有馬新七も京都か大阪でかならず君たちにあえるものと信して、江戸を出 発したのだ。にもかかわらず、君たちはいなかった。いつの間にか逃げ出していた。おかげで、俺と 有馬がどんなに苦労したか。 ・ : 逃げ出すのは易い。海に飛びこむのはなお易い この重大なる時期 「堀、大きな口をきくな」 伊地知正治は隻眼を光らせて、膝をゆすぶり、「今が重大な時期だと知っておればこそ、俺たちは京 都を逃け出し、西郷は海に飛びこんだのだ」 きべん 「詭弁だ ! 」 「詭弁だというか、お前は。 : よし、言わせておこう。 : そう言われても仕方がない。俺たちは 敗軍の将 : : : いや、敗軍の兵だ。井伊の赤鬼に追いつめられて、京都を逃げ、大阪を逃げた一寸法師 だ。せつばつまった西郷はとうとう海に飛びこんでしまった。 : だが、幸か不幸か、俺も吉井も西 郷も、とにかくこうして命だけは生きながらえている。 : そこでどうしろというのだ。、 とうすれば いいのだ ! 」 「どうもこうもない。さっきから俺は何度もくり返した。舌にたこができるほどくり返した。 : 薩 摩が天下の魁けとなるのだ。海に飛びこむかわりに、火の中に飛びこむのだ」 「何もむずかしい話ではない。俺と有馬が江戸において決定し、京都において準備した大策を、君た さが
重臣が権力を弄ぶようになるのは、多く幼君を戴いた場合に起る。権力が一たび下に移ると、ふた たびこれを回復することはむずかしい。君主が年長になっても、なお虚器を擁して実権を有せす、そ れが習慣となれば、禍いは後々まで残る。ただ、重臣にその人を得れば、そんな心配はないわけであ るーーーというほどの意味であろう。 薩藩の現状を諷されたような気がして、胸が騒ぎ、熱い血が頭にのぼる思いがしたが、待て待てと 自分を制して空を振り仰いだ。突風が帆綱をゆすぶると、やはり首筋が寒かった。早く南の島に行き かすかな櫓の音が山川村の方から近づいて来た。役人が帰って来たのであろう。 首をあげて眺 める気にもなれなかった。 伝馬船が舷側に着いて、人が上って来る気配がした。 「西郷 : : : 西郷」 誰かが自分の名を呼んでいる。役人なら、菊池源吾と変名の方を呼ぶはずである。同志にちがいな 。思わず腰を浮かせ、米俵の山を駆けのぼって、甲板に出た。 「おお ! 」 伊地知正治であった、藩庁の役人に左右を護られ、一つしかない目をキラキラと光らせて、風の中 に立ちはだかっていた。 「伊地知、お前も : : : お前も島送りか ! 」 79 第五章潮がかり