船底が岸辺の砂につくと同時に、坂口は部落の方にかけ出して行った。間もなく帰って来た時には ' まきたば 村の若者を三、四人引きつれていた。若者はそれぞれ雑木の枯れ枝と薪東をかついでいた。 盛んな焚火がはじまった。 むしろ 焚火の両側に蓆を敷き、二人の身体を横たえた。国臣と重助が月照の介抱につとめ、坂口が吉之助 の手当を引きうけた。 村の人たちは、二人の旅客が何かの間違いで足をふみすべらし、海中に落ちたのだと思いこんでい た。坂口が当座の気転でそのように言いつくろったのであるが、そう言われなくとも、吉之助の巨大 な体格と月照の清潔な姿を見ては、これがお上のお尋ね者であり、自殺をはかった水死人であるとは 想像できなかったのであろう。心から気の毒そうに、部落と浜辺の間を飛びまわって、藁を運び、薪 木を運び、しまいには水死人によく効くという灸の道具まで運んで来た。 焚火は小半刻あまり勢いよく燃えつづけた。火気に照らされた死体を見つめていると、生気が死体 の毛穴から吹き移って行って、今にも死人が動き出しそうに思われた。だが、期待はむなしかった。 あたたまったのは生きている人間の身体だけで、死人の方には何の反応も現れなかった。 え 平野国臣は重助に言いつけて、灸の用意をはじめさせた。効くか効かぬか知らぬが、最後の試みと見、 夜 して、灸に頼るほかは見込みはなさそうに思われた。 坂口吉兵衛ももうあきらめた様子であった。吉之助の死体のそばで、手まめに薪木をつぎたしてい一 たその手もいつの間にかしぶりがちになり、カなげに砂の上に坐りこんでしまった。 国臣が立上って、ありったけの枯木と枯葉を腕にかかえて投げ入れた。自棄な投げ入れ方だったの
: われにかえった時 坂口が叫びながら駆けつけて来る姿は見たが、それから後は夢中であった。 には、国臣は踊るような手つきで羽織をぬぎ、袷をぬいでいた。艫の間に横たえられた水浸しの二つ の死体に乾いた着物を着せるためであった。 水中から救い上げられたとき、月照は吉之助の背中に子供のように背負われ、両手は肩にかけ、両 脚は固く吉之助の腰にからませていたと、後になって聞かされたが、国臣の記憶にはなかった。 見ると、坂口吉兵衛も重助も半裸の姿であった。ぬいだ着物はみな月照と吉之助に着せかけた。船 頭も潮の匂いの強い刺子をぬいで差出した。 そくいん 人の命を救おうとする心には身分も職掌もなかった。惻隠の情と古えの賢者が言ったのはこの心か。 船中の五人はすべてを忘れて、応急の手当と介抱に心を尽した。 寒中の水に一時間以上も浸った二人の身体は、息もなく、脈もなく、氷のように冷えきっていた。 あるだけの夜具を着せかけ、五体をおしもみ、水も吐かせたが、息を火きかえす様子もなかった。 焚火が欲しかった。 坂口吉兵衛は岸辺を見晴らし、程遠くない浜辺に四、五軒の人家の見える入江が華倉の湊であるこ とを見きわめると、 「よし、あの浜に舟をつけるそ」 と、船頭に命じた。
第一章夜見がえり 帆綱を切られた舟がようやく逆行しはじめた時には、坂口吉兵衛の投げ入れた舟板はもう二、三町 も波に流されていた。 折りあしく月は落ちつくし、山の端の夜明けの色はまだかすかだった。波間に黒い点になって浮い ている舟板をたよりに潮流の方向を察しながら、船はいくどともなく大崎の鼻あたりを漕ぎめぐった。 えいごう 一刻が永劫のように長かった。平野国臣にとっても、坂口吉兵衛にとっても。 国臣は舟べりにしがみついたまま、ぶるぶるとふるえていた。何事そ、敬し愛し信する先達は、わ れにも告げず、二人ながら南海の寒流に身を投じたのである。あざむかれたとは思わぬ。だが、あざ なかれなかったとも思いきれぬ。一筋の道に命をかけた二人であることはよく知っている。だが、同 え じ道に命をかけた今一人がこの自分であることをなぜ信じてくれなかったのか。ただ一言でいし 見 のち死すべき理由を : いや、理由はいらぬ、死すべき覚悟を一言だけ、この自分にあかしてくれな夜 章 かったのか。聞いて後れをとる自分では決してなかったはすだ。 第 「坂口さん、人間の身体は沈むものですか」 「沈みますじゃ。水死人の身体は一たん海の底まで沈んで、二日か三日たたねば浮きあがらぬものし よみ せんだっ
その日の昼すぎ。 藩庁の横目役と医者と二つの新しい棺桶を乗せた小舟が前の浜の波止場を出て、岸壁の外にもやっ ている上荷船に漕ぎつけた。横目役は医者ならびに足軽肝煎坂口吉兵衛立会いのもとに、船中の二つ の死骸を検視し、これを二つの棺桶におさめて波止場に引きかえし、下町会所に運びこんだ。 手配は極めて素早く、また隠密に行われたのであるが、白昼新しい棺桶が二つも会所に運びこまれ たのであるから、噂はたちまち町のここかしこに煙のようにひろがって行った。 ( 公儀お尋ね者の僧と山伏が日向境で斬られ、その死骸が町会所に着いたのだ ) ( いや、斬られたのは、京都の坊主と勤皇組西郷吉之助で、山伏は無事で棺桶のそばに附添っていた ) ( いや、ちがう。西郷吉之助は藩庁の命令で坊主と山伏を召取りに行ったのだが、二人が手向いする ので、余儀なく船中で斬り捨てた。その際、西郷もあやまって水の中に落ちたが、生命には別条はな いらしい ) ( いや、三人とも死んでしまったのだ、棺はたしかに三つであった ) で、火勢が衰え、おびただしい煙が吹き出した。煙の中で咳の声が聞えた。陷が燃え上って煙が睛れ けいれん て気がつくと、吉之助の大きな身体がかすかな痙攣を起していた。 国臣と坂口が同時におうと叫ぶ。それに答えるかのように吉之助の口からどっと水が吹き出して来
坂口吉兵衛の気持は、ただ「不覚」の一語につきた。生れて五十幾歳、役を奉して三十年、まだ一 度も罪人の護送に不覚をとったおぼえはない。縄抜けも自殺も一味徒覚の奪還計画も未然に察して、 未然に防ぐ勘の鋭さは、わが天与の能力と修練のたまものであると自信していた。それがあまりにも 見事に裏切られた。かくも平然と、かくも悠々と、この上方坊主と薩摩男は、 いかなる心術によって、 わが目と耳をあざむき通し得たのか。二つの死骸が浮ばぬつもりなら、それもよし。この吉兵衛は、 たとえ錦江湾の水底にもぐり入っても、わが懐の捕縄を、二つの水ぶくれの死骸にかけ渡してみせる しののめ 空しい捜査はもう小半時もつづいている。東雲の茜の色が波を染めはじめた。ふなべりに取りつい たまま重助はまだすすり泣きをやめぬ。はじめの間は、足を上げて蹴りつけたいとまでいらだたしか じだんだ ったその泣声が、いつの間にか心に染み、身に伝わり、平野国臣も坂口吉兵衛も声をあげ、地団駄ふ んで泣き出したい思いであった。 暁の光が風に乗って海の面にひろがって行く。海は夜の衣をぬぎ始めた。 こんじよう 平野国臣は焦点の定まらぬ目で紫紺から紺青にかわる波の色を茫然と眺めていた。陽がのぼれば、 南の潮は底の底まで澄みわたって、魚介海草のたたずまいまで透けて見えるかもしれぬ。白刑瑚樹の げんそう 森の蔭、わだつみの宮の奥つきに、静かに眠る二つの裸身が見える。 : : : 愚かな幻想。
すでに万事は絶望と思われた。船の進みものろい。漕ぐ船頭の腕の力も抜けた。かくも空しい時間 がすぎ去っては、海の魚ならぬ二人の息は絶え果てたであろう。浮び上ったとしても、もう死骸であ る。 「もうあかん」 上方言葉が国臣の唇をもれた。野間原の関所で聞いた月照の言葉である。 「駄目じゃ」 舳先の方から坂口吉兵衛の声が応じた。「それほど速い潮の流れでもないのじゃが、浮いて来ないと ころを見ると、底の藻にで巻かれたか」 「重助、泣くな。女々しすぎるぞ ! 」 国臣はどなりながら、自分もぼたぼたと波の上に涙を落した。 いくすじ その涙が乾きかけた時、国臣は波の底に不思議なものを見た。暁の光が白い矢になって斜めに幾筋 ともなく射し入っている真っ青な水の底に、白い光の点のようなものが浮び、それが船の動きと同じ 方向に移動しながら、次第に大きくなり、次第に黒すんで来る。流れ藻か、暗礁の影か。期待をかけえ ずに瞳を遊ばせているうちに、不明瞭な黒点がだしぬけにぼつんとふくらんで、泡き合った人の形に見 夜 よっこ。 「おおッ ! 」 第 立上りざま、国臣は物に憑かれたかのような叫び声を上げた。「浮いた。浮き上ったそ」 「浮いたかッ
「かさねがさね、何事であるか」 「用向きの次第は、これなる書面にしたためてあると申しておりまする」 久光は中山の差出す白封の書状を受取ったが、開いて見ようとはせす、 「返事は今日でなくともよかろう。帰してしまえ」 「いっかな帰りそうにもございませぬ。何事かよほど決心の模様で : : : 」 「ふうむ、尚之介、お前も近ごろはすっかり大久保の一味になったな。帰せといっても、お前が帰す まし」 久光は苦笑して書状の封を切った。 『この節、関東表、大変の儀承知、お直に言上仕らずては叶わざる事件有之候間、なにとそお目通り 仰せつけ下され候よう願い奉り候。押して願い奉り候儀、不敬潜踰の罪、恐れ入り候えども、非常の 時節、大事の御場合と存じ奉り候間、重罪を恐れ奉らず、万願奉り候』 久光の予想した通りの文面であった。桜田事変の詳報はまだ久光の手許にとどいていない。有村雄 ぎもいり 助を護送して帰って来た足軽肝煎坂口吉兵衛のロ達書は読んだが、これは風聞の寄せ集めのようなも ので、大して要領を得なかった。だが、大久保の一党は最初から水戸藩士とふかい連携がある。彼ら の手許には特別な情報がとどいているかもしれぬ。一応聞いておくのは無駄でなかろう。 「あってやろう。よんでまいるがよい」 じき 8