百姓のことを島豚と言い ハ・フ根性と罵りながら、豚よりも毒蛇よりも悪質な詐欺を平然と行う若 い役人の狐面を見ているうちに、吉之助は身体がふるえて来た。 人垣を押しわけて、進み出て、 「お役人、ちょっと待った」 「なにツ、待ったとは何だ。人間なみのロをきく奴はどこのどいつだ」 「この村に住な菊池源吾と申す」 小山のようにゆるぎ出た吉之助の姿に、相手はちょっとたじろいだようであったが、役人の虚勢だ けは忘れなかった。 「そんな名前は知らん。島役人には菊池などという名前はない。役人でない限り、砂糖買上げに口を 出すことを許されぬそ。お前はどこの役人だ」 「役人ではない」 : ・さあ、次は : : : お次は種子油か : : 油が欲しいのだな。油をな 「じゃあ、黙っていてもらおう。 める化猫か。化猫百姓め、早く樽を持って来い」 「お役人、いそがぬ方がよかろう。いまのその樽をわしの目の前で、もう一ペん量ってみていただこ新 「ふふん」 と笑って、役人は横を向き、百姓たちをにらみつけて、「さあ、何をぐずぐずしている。子油はい らぬか。いらなけりや、次た。次は米か。米が食いたいとな、贅沢な百姓はどいつだ」
「さようでござったかな。私は遠島人とばかり思っていた。 ・ : 聞けば、あなたは今朝も竜郷の村で 砂糖方の書役に乱暴をなされたとか。たとえ遠島人でなくとも、役人に手をかけるようなことをなさ ったら、即刻藩庁に上申して、遠島人同様の扱いをする手続きをとらねばならぬ。これも私の権限だ。 おわかりかな。わかったら今日のところはお帰りを願う。これ以上申すことはない」 にわかに藩主の成光を笠に着た権柄ずくの傲然たる態度。最初の慇懃さは、役人らしい老獪な擬態 であったことがわかると、吉之助はもう遠慮はいらぬと思った。 「遠島人であろうがなかろうが、腐れ役人の非道は見逃すわけにはゆかぬ。君が藩庁の命令を受けて いると言われるなら、私は天の命令を受けている。島人が薩摩藩の政治を恨むのは、君のようなわけ のわからぬ役人がいるからだ。殿様には罪はない。役人どもが殿様の代理だ代理だといって悪事をす るから、島人は殿様を恨むようになる。これほど大きな不忠がほかにあるか」 「ここをどこと心得ている。君は僕に対しても乱暴するつもりだな」 「するかもしれぬ。君はさっき、私が砂糖方の書役をたたきつけたことを、藩庁に上申すると言った が、よろしい、上申してみるがいし 。私も殿様の禄を受けている身であるから、役人どもの悪政を殿 様に上申する義務がある。事の顛末を委しく申上げて、殿様に不徳の罪をきせかける腐れ役人どもを たたき出してしまわねばならぬ。これがまことの忠義の道だ」 「そりゃあ、君の勝手だ。そんなおどし文句に驚く相良角兵衛ではない」 「よし、その一言に間違いないな。お前の首は俺がもらった。あとで泣くな」 席を蹴って立上り、さすがにあわてはじめた相良を尻目にかけて、吉之助は代官所を出た。 てんまっ ろう・かい 141 第八章新居
「う - ぬッ ! 」 吉之助が唸ると同時に、役人はその場にへたばりこんだ。握りかためた右手の拳が、役人の横面を たたいたのである。 「な、なにをするツ」 起き上ろうとするのを、 役人の身体は斜めに吹っ飛んで砂糖樽にぶつかり、蛙のように平たくなった。 「中村、貴様、俺の顔を忘れたか。 : : : 鹿児島の冷水町、田丸の家に居候して、便所の手水鉢がえを していた昔のことを忘れたか ! 」 一「あっ、あなたは西郷さん」 「島の百姓の難儀がわからんか。百姓の汗と血の砂糖の目方をごまくらかして、わが懐を肥やす貴様 ・ : 起き来い。たたき殺してくれるそ」 みたいな虫けらには、理屈を聞かしてもわかるまい 「わっ ! 」 中村と呼ばれた役人は、叫び声をあげ、正体を見破られた化田のように横っ飛びに逃げて行った。 後を見送りながら、島人たちは声を立てるのも忘れていた。ロ之助の怒りの激しさに、彼らまで足 がすくんでしまったのである。 136
竜郷の村にさしかかると、道ばたの百姓家のまわりに人垣が出来ており、その中から威丈高などな り声が聞えた。 はかり 群集の肩越しにのそいてみると、砂糖買上げの小役人であった。砂糖の樽を秤にかけ、目方に応じ て物品をはらいさげる。砂糖一斤につき、玄米三合六勺。極子汕一升には砂糖三十斤、酒一升には砂 糖二十五斤というふうに定められてある。筆一対欲しいと思えば砂糖が五斤いる。小刀は十斤、猪ロ 一つが二斤半、美濃紙一東、六十斤。もしも緋縮緬を一反だけほしいと思う娘がいたとしたら、実に 六百斤の砂糖を出さなければならぬ。 それだけなら、まあ仕方がない。藩の規則で定められていることであり、何十年来の習慣であるか ら、諦めもっく。島人は従順であるから、べつに役人が威丈高にならなくとも買上げは順調に行われ 新 るのであるが、ただ一つ困ることは、役人が職権を笠に、貫目をごまかすのである。一樽から二斤、 章 三斤と差引いてゆけば、相当な余禄が役人の懐にころげこむ。もしも豊作の年なら、それもやむを得 第 ない仕来りとして、島人はあきらめているのであるが、今年のような不作になると、島人も必死にな 3 り、役人も血眼になる。検査のたびごとに、必ずごたごたが起り、それだけ役人の声も威丈高になっ 驚いて、竜佐民がたすねた。 「ちょいと、村役場まで行って来ます」 引きとめていいのか悪いのか、佐民はとっさには判断がっかず、茫然と吉之助の後姿を見送った。
何者かが警護役人と激しく言い争っているのが聞えた。 大久保市蔵であった。彼としては珍しく、着物も乱れ、髪も乱れ、昻奮に青ざめた顔を唐獅子のよ うに振り立て、役人と言い争っていた。 なだめているのは、横目役の谷村で、 「お前が、そのように無理をいう男だとは思わなかったぞ。 : ああ、ちょっと来い。こっちに来い」 と、市蔵の腕をかかえこむようにして、浜番所の方に引っぱって行ったが、そばに吉次郎がいるの を認めると、 「おお、ちょうどよかった。お前も来い。二人に話さねばならぬことがある」 番所の板塀のかげに風を避けて、二人を並ばせると、谷村はほかに聞く人もないのに声をひそめて 言い出した。 「どうもお前らは、役人というと目の仇にして、まともな言葉にも耳を貸さず、目に角を立てて突き 、刀 かかって来るが、そりやいかん、間違っとる。役人には役目の苦しさというものがある。 ・ : 西郷をが 無事に船に乗せるまでのわしの苦労が、わからんかな。わいわい屋の有村俊斎や向う見ずの奈良原や 章 野津は仕方がないとしても、少くとも伊地知や吉井やここにいるお前たち二人はわかってくれている五 第 ものと信じていた。 ・ : 西郷吉之助は死んでしまったと幕府にはとどけてある。幕府がこれをそのま ま信ずるはずのないことは当然で、現に数名の隠密らしい者が城下に忍びこんでいるという噂さえあ
代官の言葉のとおり、竜郷の拘留者は、その日のうちに釈放された。 勇気老人はさっそく吉之助の家にやって来た。 「佐民さんから聞いたのじゃが、わしらが許されたのは、あんたのお蔭じゃそうだが、そりや本当か ね」 「さあ、わしのお蔭かどうかは知らんが、無実の罪の者を長く牢屋に入れておくのは道理にそむく。 早く出て来れて何よりだ」 「あんたは役人を打ちたたいたそうじゃが、そんなにあんたは偉いのかね」 「偉くはない。だが、あまり非道なことをする奴は打ちたたくよりほかはなかろう。何も役人にかぎ らぬ」 「ふうん。しかし、わしらは逆立ちしても役人をたたくわけにはゆかん。いつもたたかれ通しじゃ。 あんたは名瀬の代官にあいに行ったそうじゃが、代官も打ちたたいたのかね」 「たたかなかったね。だが、。 とうしても話のわからぬ代官なら、首をもらって来るつもりだった」 「ふうん、不思議な人じゃね、あんたは。 : そんなことをして、後のたたりはないものかね」 「まあ、その心配はなかろう」 「わしらは心配じゃ。無事に出て来たのは嬉しいが、あとでもっと難題が降りかかって来るのではな いかと皆びくびくしておる」 144
重臣が権力を弄ぶようになるのは、多く幼君を戴いた場合に起る。権力が一たび下に移ると、ふた たびこれを回復することはむずかしい。君主が年長になっても、なお虚器を擁して実権を有せす、そ れが習慣となれば、禍いは後々まで残る。ただ、重臣にその人を得れば、そんな心配はないわけであ るーーーというほどの意味であろう。 薩藩の現状を諷されたような気がして、胸が騒ぎ、熱い血が頭にのぼる思いがしたが、待て待てと 自分を制して空を振り仰いだ。突風が帆綱をゆすぶると、やはり首筋が寒かった。早く南の島に行き かすかな櫓の音が山川村の方から近づいて来た。役人が帰って来たのであろう。 首をあげて眺 める気にもなれなかった。 伝馬船が舷側に着いて、人が上って来る気配がした。 「西郷 : : : 西郷」 誰かが自分の名を呼んでいる。役人なら、菊池源吾と変名の方を呼ぶはずである。同志にちがいな 。思わず腰を浮かせ、米俵の山を駆けのぼって、甲板に出た。 「おお ! 」 伊地知正治であった、藩庁の役人に左右を護られ、一つしかない目をキラキラと光らせて、風の中 に立ちはだかっていた。 「伊地知、お前も : : : お前も島送りか ! 」 79 第五章潮がかり
したまま、一言も発しなかった。吹きつける潮煙が、二人の髪に白く小さな水玉をつけた。 「さあ、乗るのだ」 うしろから役人がせき立てた。 「やつばり出ますか」 吉之助が念を押すようにたずねた。 「出るから、早く乗れと申しているのだ」 吉之助は無言のまま、吉次郎の手から荷物を受取り、両手にさげて、きしみ声をあげている渡り板 を渡って行った。渡り終えてからはじめて振りかえり、ニコリと笑って、 「では、行って来る。あとを頼む」 そのまま積荷の間をくぐって、船底の方に入ってしまった。 あっ気ない別れであった。 渡り板が取りはらわれた。 吉次郎は兄に似た大きな身体をゆすり、役人に頭をさげ、黙って波止場の石伝いに浜の方に引きか えして行った。兄の気質はよくわかっていた。一度船底に入った以上は決してふたたび舟の上に姿を 現わさないだろう。役人は一刻も早く兄を城下から引き離そうとっとめているが、兄自身もまた一刻 も早くこの町を去りたいのだ。自分も早くここを立ち去った方が、兄はかえって良い見送りだと喜ぶ 、 / 、刀しュなし うなだれて、吉次郎が荷役人足の群れている砂浜に近づいたとき、急に目の前が騒がしくなった。
の方だ」 「そ、そんな : 「そんな馬鹿なことがあるか、と俺も言いたいところだが、実に馬鹿なことが行われているのだ。そ ら、さっきも木場伝内がひとりで憤慨していたが、ここの島役人どもと来たら、まったくなっちゃお こうもり らん。鳥なき里の蝙蝠で : : : 蝙蝠も甲羅が生えると、人の血を吸うというが、島役人の顔を見ると俺 : 内を固めることが目下の急務だと、お前は言ったが、これじや内が固まるど は蝙蝠を思い出す。 ころじゃない。琉球大島をはじめ、南方諸島の住民たちは、薩摩の領地になった現在よりも、支那に 服属していた時代の方がずっとよかったと本気で思っている。支那風の風俗や習慣がなかなか抜けき らないのも、そのせいかもしれぬのだ」 「それほどだとは知らなかった」 田 5 、つこ、 この悪政の原因は、必ずしも島役人が 「知ったら、お前などは、真っ先に怒り出すぞ。 どんよく 馬鹿で、傲慢で、貪欲だという点だけに存するのではないね。薩摩藩政府の政策が悪いのだ。そもそ ものはじめからよろしくない。 ・ : 民百姓は生かさず殺さず、上手に搾れと言ったのは、徳川家康だ そうだが、その家康すら、薩摩にくらべれば、南島人をずっと鄭重に扱っている」 「ふうむ」 「薩摩が琉球を征伐したのは慶長十四年、樺山美濃守久高を総大将として総勢一千五百人、五反帆の 119 第七章民
ですが : : : 夜来ると言って、やって来ません」 「勇気親爺は、昨日の午後、村の番所に引かれて行きました」 「それはまた、どうしたわけで : : : 」 「砂糖の一件です」 「御存じのとおり、今年は砂糖がひどく不作です。とてもお役人の見込み通り納入することはできま せん。私の見るところでは、平年の三分の二も出せたら、 いい方でしよう。お役人もそれを知らぬわ けはないはずですが、少ければ少いほど、なお搾り出したいというのでしようか、今年は砂糖買上げ がかりの責め方が特別にきびしい。出し方の少い家には草鞋ばきのままふみこんで、床の下、土間の 隅、病人の寝間にまで押しこむほどの検査ぶりです。 いくら探してもない物はないのですから、 結局、百姓を役所に引立てるほかありません。この村からも、もう三人ほど引っぱられました。勇気 親爺は働き者だが、御存じのとおり釣や狩が好きで、役人の目には遊び好きの怠け者に見え、おまけ に偏屈者と来ている。砂糖の納入高は今年も少い方ではなかったのですが、検査に来た若い書役にち よっと逆らったのがもとで、そのまま連れられて行ってしまったのです。 : 一度捕まると、ちょっ とやそっとでは出て来れません。悪くすると拷問に合って、身体をこわすか、片輪になるか。勇気親 爺も、ここ当分は猪狩どころではありますまい」 吉之助は立上って、袴をつけはじめた。 「どこへ行かれます」 132