中村尚之介は、安心した顔つきで引きさがって行った。 久光は手にした書面をもう一度読みかえし、それと書架の上の「古史伝」を見くらべた。書面の内 さいしょ 容が篤胤の著書と関係があったわけではない。囲碁の相手の税所吉祥院の弟の税所篤というのは平田 門人で、近ごろ「古史伝」を手に入れたと聞いて、宣長の「古事記伝」と読みくらべてみるつもりで 借り上げたところ、初巻の表紙裏に分厚な建白書がはさみこんであった。井伊大老の施政に対して昻 きようげき 奮した、矯激な文辞をつらね、先公斉彬の遺策実行のため、直接献言致したきことあり、。せひ御内謁 を賜わりたいという願書で、署名は大久保市蔵と有村俊斎の連名であった。 久光が大久保の名前を直接に見たのは、これが最初であった。しかし、この種の願書や建白書は久 光にはもうめずらしくはなかった。兄斉彬と父斉興が相ついで逝去し、わが実子の忠義が藩主の位に ついてこの方、久光の藩政における地位はおのずから定まった。まず正式には布告されていないが、 事実上の国父であり、独裁者である。昔のお家騒動の関係から、何かにつけて久光を無視し、敵視す るような態度をとりつけて来た斉彬派の諸勢力も国父の礼をもって対するようになって来た。久光も以 っとめて彼らを藩政の要職に復活させ、自分の側近に採用して、自分こそ斉彬の遣策の継承者である富 という身ぶりを示した。 この行き方は成功した。特に昨年の秋、斉彬の公然の敵であり、その進取政策の破壊者と目されて章 ぶんご いた島津豊後一派を退場させ、斉彬派の島津左衛門を家老首座に任して以来、改革を願い、功名心に汁 燃ゆる若侍の間に人気が出はじめたようである。若侍たちは、噂や予想とは全然ちがう、公平で、進 取的で決断力もある指導者を久光の中に発見し、これこそ斉彬のまことの継承者であると信じはじめ
有志や浪士の無責任な言動に動かされては、どんな危険にまきこまれるかもしれないし、また大局を 見ない暴発に終って、かえって大策の遂行を妨げるおそれがある。 彼らに動かされてはならぬ。必要な場合に自分の方から適当に彼らを動かせばいいのだ。斉彬の大 策の継承者は彼らではない。あらゆる意味で、この久光をおいてほかにないのだ。兄斉彬の生前、最 も直接に、かっ最も信頼されて、江戸及び京都経営の相談にあすかったのはほかならぬ自分であった。 斉彬の信頼最も厚かったという西郷吉之助ごときも、自分にくらべれば、一使用人にすぎず、決して 根本の機密にはあすかっていない。斉彬と自分との間の、この秘密は家老たちも知らぬ。まして軽格 の少年輩のあすかり知るところではないという自信が、久光の頑固で不動な態度の原因であった。 久光は「誠忠組」一党の内謁をほとんど絶対に許さなかった。建白書の中の重要と思えるものに、 侍臣を通じて遠まわしの返答を与える程度にすぎなかった。最近、堀次郎と大久保市蔵に内謁を許し たが、これは江戸の形勢の切迫につれて、一応彼らの意見を聞く必要があったからで、何も彼らの建 白書に動かされたわけではない 、と久光は思っている。大久保の場合も、十数度の内謁願を出して、敷 謁見を許されたのはわすかにこれで二度目であった。 富 重 章 やがて、中山尚之介に導かれて、久光の前に平伏した大久保市蔵の両肩は緊張と昻奮のせいであろ十 こぎざ う、小刻みにふるえていた。許されて挙けた顔は青ざめ、頬骨がとがって、熱でもあるかのように薄 い汗をかいていた。
その歌を半紙に書きつけて、壁に貼りつけておいたら、ある日、木場伝内が来て、その意味をたず ねた。 吉之助は国許の新形勢をくわしく説明して、 「自分は久光公という人物をまるで知らなかったが、さすがは斉彬様と血を分けた御兄弟である。よ くもこれだけの大決心をなされた」 と一一一口った。 木場伝内も自分のことのように喜んで、 「では、いずれ近いうちに、斉彬様の御遣策のとおり、大兵を率いて京都へ御進発ということになる のですな」 「当然、その段取りになるであろう」 「あなたの御赦免もいよいよ、近づきましたな。おめでとう存じます」 吉之助は伝内の言葉をあえて否定せず、 「そうなるかもしれぬ」 と、率直に答えた。今、国許に帰ったら、思いきり働けるそと思った。久光公が三千の精兵を率い 射るてふ弦のひびきにて 消えぬる身をも呼びさましつつ 178
身辺の些事に腹ばかり立てている。小さなことに腹を立てると、人間はますます小さくなる。これま での修業はどこにおき忘れたのか。 りんう 霖雨に気を腐らせ、島人の不人情に怒っている。これも些事ではないか。雨はいずれ晴れるであろ うし、他人の好意のみを望むのは身勝手である。 山川港で、斉彬公最後の公子である哲丸君の訃報を聞いた。これは些事ではない。しかし、哲丸君 、が藩主の位につけないことは、斉彬公の生前に、公自身の意志によって決定されていた。公子の薄命 は傷ましいが、天命を恨むのは婦女子の業であろう。 しようちん また、同じ山川港で、大山格之助の手紙によって肥後藩の同志たちの意気鉑沈の実状と、越前の藩 状が橋本左内の逮捕によって次第に不利に傾きつつある事情を知った。これも些事ではない。しかし、 しふく それとても全然予想しなかったことではない。当分は諸藩の同志雌伏の時期だと直感したので、大久 保以下の同志に自重をすすめ、自分も島にこもる決心をつけたのである。 かんしやく : と思うそばから、また腹が立って来る。癇癪の 考えてみれば、何一つ腹を立てる理由はない。 虫が腹の皮を突き破りそうにあばれまわる。なんとしたことか。 ・ : 壊れた石垣塀の間から、島の百姓の着る簑笠をつけた見馴れぬ姿の男が入って来た。空つぼな 「座敷に独坐している吉之助を認めると、のそのそと庭先にまわって来て、間ののびた声で、 「よ ) つ」 と一一一一口った。 101 第七章民謡
率の標本のように言われる、いわゆる殿様顔では決してなかった。 兄斉彬が封をついだとき、久光は三十三歳であった。それ以来十年間、彼は重富家一万石の当主と して、無位無官のめだたぬ暮しをつづけて来た。やや誇張していえば、藩内のわずらわしい政争にま ちつきょ きこまれないために、自ら世をさけて蟄居十年、読書三味の隠遁生活の中で学識と徳性をやしなって 来たのである。お抱守役の上原拙庵は昌平黌の岡田寒泉の高弟で、山崎闇斎派の学者であった。書道 の師は児玉頑翁で米市流の書をよくした。「靖献遺言」は少年の頃からの愛読書であったが、同時にま らんべきか しげひで た、蘭癖家と呼ばれた祖父重豪、兄斉彬の風を学んで蘭書の解読に心を労することも忘れなかった。 父斉興の下で軍賦役名代をつとめていたころには、古今の兵書軍書にも目を通した。和歌の道も学び、 漢詩も作った。本居宣長の著書は早くから座右にそなえたが、乱世のきざしとともに次第に勢いを加 えて、ついに薩摩の若侍の間にも多数の心酔者を持つようになった平田篤胤の著述をも侍臣に命じて はんにん 集めさせた。今この部屋の書架にも篤胤の「古史伝」の板本が積みかさねてあるが、決してただの飾 敷 . り物ではなかった。 屋 中山尚之介が次の間に両手をついて、 「申上げます。お徒目付大久保市蔵、御内謁を願って玄関にまいっておりますゑいかが取りはから重 いましようか」 大久保という名前を聞くと、久光は眉をひそめた。 「大久保市蔵なら先日まいったばかりではないか」 「さようでございます」 せつあん いんとん
上げた余禄はおのすから島役人の懐に流れこんで 臂きて一 3 来ます。島役人を三年 0 とめれば、一生食えると いう言い伝えさえあって、どいつもこいつも、せ っせと蓄めこんでいますが、私には、とうてい彼 らの真似はできない。見るもの聞くもの、癪にさ わることばかりです」 青年官吏らしい慷慨の口調であった。 木場伝内は好奇心に満ちた学生のように、次か ら次へと質問を出す。幼稚ではあるが、熱意と誠 実のこもった質問である。それに釣られた形で、 吉之助も多弁になった。重野も巧みに調子を合せ て、久しぶりに談論風発の趣きになった。 「すると、先公斉彬様の御大策というのは、断乎 たる出撃説だったのですな。海を渡って、台湾、七 福州、マニラ、新オランダを占領する。 ん、なるほど」
武田耕雲斎 安島帯刀 橋本左内 中根雪江 田」 後 長岡監物 長 増田弾正 大久保要 尾張 田宮如雲 いずれも家老級の大人物のみである。年齢の点でも、橋本左内を除けば、諸藩の長老であり、大先 輩であゑ一国の正義を体現して青年を率い、数度の幽囚監禁の氷雪を凌いで老松の如く巍然たる人 物もいる。藩の枠の狭きに坐せず、常に天下の重責に任じて、大局の布石を達観し得る人物である。 もしその人が生きていたならば、藤田東湖が筆頭に挙げられたであろう。 いずれも東湖級の人物であ 、斉彬公をして世に在らしめたならば、必ずや同一の人選を行ったであろうと推察された。 大久保市蔵は今さらのように、青年西郷吉之助が立っていた舞台の広さと大きさを知った。単なる えんちょうひか 燕趙悲歌の士ではなかった。天下の大局は常に彼の胸中に存したのである。国許から眺めては謎とし五 第 か見えなかった彼の行動のかすかずを、はじめて理解し得た気がした。脱藩突出説に対する彼の慎重 さも、姑息に見える自重論も、すべてこの大見地から発していたのだ。
堀次郎の語勢の激しさに、一座はさっと緊張したが、吉井幸輔だけは、さつばり感じないと言いた げに、丸い顔をつるりと左手で撫で上げて、 ・ : 中でも、一番の大馬鹿者 「そうなると、俺たちは皆、馬鹿か卑怯者だということになるのかな。 で、大卑怯者は西郷吉之助か。あっはつは」 「何を笑う。笑いごとじゃないそ ! 」 「誰も笑っちゃおらん」 「お前が笑った ! 」 「ああ、そうか。こりや悪かった」 と、自分の頬っぺたを。ヒシャリとたたき、「お前がさっきから、あんまり大きな口をきくので、それ がおかしかったのだろうよ」 堀次郎はいきり立った。 「大きなロとは何事だ。いったい、京都出兵の大策は誰の発案た。おそれ多くも先公斉彬様の御遺 策ではないか。それを越前藩に先を越されて、お前は笑っておれるのか」 「先を越すとか、越されるとか、そんなことが気にかかるかな」 「気にかからん奴の方がどうかしている。先公の御遺策というものは、ちょっとやそっと情勢が変り、 : にもかかわらず、あ三 同志の二人や三人が逮捕されたからといって、変更できるものではないぞ。 れだけ固く約東しておきながら、俺と有馬が京都へ着いてみると、誰もいない。まっさきに西郷が逃 げ出し、有村俊斎が逃げ、貴様が逃け、伊地知が逃け : : : 」 ナりあきら
この上は最初の方針を貫ぬき通すほかはない、 と同盟一統決心を新たにし、九月の末ごろから突出 の手はずを決め、遺書も書き、捨て文も作り、船まで用意して、水戸の同志からの連絡のあり次第、 脱藩義挙の手順を進めた。 そこへ、思いがけなく、十一月はじめに、久光、忠義両公の署名のある御親論書が下ったというの である。 「方今、世上一統動揺、容易ならざる時節にて、万一事変到来の節は、順聖院 ( 斉彬 ) 様御深意を貫 き、国家を以って忠勤をぬきんずべき心得に候。 各有志の面々、深く相心得、国家の柱石に相立ち、われらの不肖を輔け、国名を汚さず、誠忠を尽し くだん くれ候よう、ひとえに頼み存じ候。よって件の如し。 安政六年十一月五日 久光 ( 花押 ) 忠義 ( 花押 ) 』 誠忠の士面々へ 藩公が平侍を「誠忠の士」と呼んで、自ら御手紙を賜わる。まことに未曽有のことであった。 花 藩公父子の親論書によって、同盟一同、脱藩のことを中止した、と大久保市蔵の手紙には書いてあ + 熟読の上、それも当然の処置と吉之助は認めた。
人の志を生かすことのみがわれらの任務。千騎が一騎になるまでも、わが覚の忠節を尽す。この一点 が肝要に候。 尾、水、越の三藩へ暴命が下った場合。 答三藩へこれ以上の暴命を発するとなれば、三藩公へ死を賜うよりほかはあるまい。そうなれば 万事破裂である。かならず先方より応援を頼んで来ることであろう。暮府の出方が早ければ、それも 間に合わぬかもしれぬが、いずれにしろわれら同盟の同志は三藩と生死を共にしたい。先君斉彬公が 共に天下の大事を語られ、朝廷の御為につくそうとなされた間柄であるから、三藩が蹶起したならば、 われらも共に蹶起しなければならぬ。 恐れ多くも堂上方へも難をかけたる場合。 答堂上方に手をかけたなら、全国勤皇の諸藩はかならすいっせいに奮起し、決して傍観はしない であろうから、われらも粗忽な行動を避け、諸藩と合体して、堂上の難を救わなければならぬ。憤激 のあまりに事をいそいでは、かえって堂上方の難をかさねる結果になるから、よくよく慎重に考慮を おっくし下さるべく候』 その他の二カ条、近衛公への添書のことと、藩庁への捨文のことは、伊地知正治へ口頭で伝えてあ ると書いてあった。そして、最後に、 「諸藩の有志の中で相談相手になる人々の名前を知らせてくれ」という質問に対する吉之助の返事は 少からず大久保を驚かせた。