吉之助はその場からまっすぐに村役場にまわった。逃げた中村を追いかけるつもりではなかった。 拘引されたという勇気老人の様子を見たかったのである。 だが、役所には小使のほかには誰もいなかった。拘引された百姓を護送して、朝早く名瀬の方に出 かけたという。 吉之助は小浜まで引返し、竜佐民に馬を貸してくれと頼んだ。 「どこへ行かれます」 役人をなぐりつけた噂を聞いている佐民は気づかわしげにたずねた。 「名瀬に行って、代官の相良角兵衛にあって来ます」 「さあ、それは : 無駄ではないでしようか、と佐民の目の色であった。前任の吉田代官と交替したばかりの相良角兵 衛は、己れの権勢を示すためか、就任の手始めに手柄を樹てて藩の重役に認められたい了見からか、 凶作に乗して砂糖隠匿の嫌疑をかけ、百姓たちを拘引した張本人である。相手が代官ともなれば、小 役人を片づけるように簡単にはゆくまいと佐民は危ぶんでいるらしい 吉之助は構わず、 「ついでに握り飯を三つ四つ作っていただきたい。途中で腹がへっては、戦ができません」 肥った身体には五里の山道を馬で走るのはやさしい仕事ではなかった。二十四貫の身体を乗せて走 ることは、馬の方もつらかったにちがいない。だが、拘引された百姓たちの身の上を思うと、一刻も 猶予することができなかった。 137 第八章新居
三日目はまた朝から雨になった。吉之助は重野と一緒に刳り舟に乗って島巡りをしようかなどと計 画を立てていたのだが、それも駄目になった。飲みつづけた泡盛が胃袋にしみはじめ、盃をとる気に もなれず、ひどく気を腐らせているところへ、珍しい訪問客があった。木場伝内が竜佐運、佐民の兄 弟をつれて訪ねて来た。 「仕事に取りまぎれ、おまけに雨に妨げられて、挨拶にまかり出るのがおくれましたが、どうそ悪し からず」 木場伝内は律気な口調で謝まり、「重野さんはまだ御逗留だったのですな。ちょうどよかった」 と言って、竜兄弟を二人に引合せた。 佐運も佐民も村の長者らしい寛厚な人柄に見受けられた。二人とも郷士の家柄を示す銀の笄をつけ ていた。佐運は相当の年輩で、与人の役をつとめているだけに、世なれた物腰であったが、佐民の方 は吉之助や重野と同じ齢ごろで、まだ頬に青年らしい紅潮を残し、おどおどと羞んだような態度はい かにも好人物らしかった。 民・ 吉之助は二人に向って、到着以来の好意を謝し、 章 「お蔭で助かりました。島の勝手がまるでわからないので、もしもお二人の好意がなかったら、腹を七 すかして今ごろは人間の干物になっていたかもしれません」 「いえ、とんでもない。みんな木場様のお指図に従っただけのことです」
る。とんでもない。今、西郷に死なれてたまるものか。 ってもらおう」 「はい、今、勇気に言いつけて、たかせております」 「それはいい手廻しだ。実は俺も腹がへってたまらぬところだ。朝から何も食わぬのでな」 と、重野安繹は笑った。「まったく手間のかかる男だよ、竜郷村の先生も」 その晩は、例によって重野は吉之助の家に泊ることになった。 竜佐民は、重野が来た以上はもう安心だと思い、自分の家から米と野菜を運ばせ、炊事と接待は勇 気老人にまかせて、早目に引上げた。 すると、夜おそくなって、徴薫を帯びた重野安繹が勇気老人をつれて訪ねて来た。 「ひとつ、折入って御相談があるのだが」 「はあ、私に出来ることなら、うけたまわりましよう」 「実は、西郷に嫁を世話してもらいた、 「どうも近ごろの西郷は少し気狂いじみている : : : と、あんたは思わぬか」 「さあ、それは・ 佐民は返事に窮して、「西郷先生の御容態はいかがです。私にはその方が心配です」 ・ : 佐民さん、何でもいいから、早く飯を作 154
( そうですか、今後は気をつけましよう ) という返事であったから、自分の食べ料だけは残しておくつもりだろうと安心していたところへ ' この報告である。 「本当に一俵もないのか」 「ありませんな。先生は三日も前から寝たきりらしいが、旦那はそれに気がっかなかったのか」 「知らなかった。雨戸が閉まっているので、釣に行ったか、それとも名瀬の木場伝内様のところへで も遊びに出かけられたのかと思っていた」 「わしも、この三、四日、畑の仕事がいそがしくて、御無沙汰していたのじゃ」 くりや 「とにかく、先生のところへ行こう。このままにしてはおけぬ。 ・ : ああ、家の厨に米の洗ったのが あるから、それで粥をつくって、あとで持って来い」 「かしこまりました」 佐民が行ってみると、誰か先客があって、吉之助は寝床の上に起き上って、その人と対談していた。大 「おお、佐民さん、来てくれたか」 の 振りかえった顔は重野安繹であった。 島 「先生が御病気だと、勇気老人から聞きましたので、お見舞いにまいったところです」 と、佐民はその場をつくろった。 第 「病気どころか」 重野は首をふって、「西郷は死ぬつもりなのだ。月照和尚の後を追って、冥土に行くのだと言ってい
歌になっております。 、緋羅紗の胴着きて 二つ、不思議な異人が来て 三つ、御国の端島に 四つ、余計な石火矢を 五つ、いかっく打ち鳴らし 六つ、むむ : : : なんだったかな、佐民 ? 」 佐民がつづけて、 「六つ、無理な牛ねだり 七つ、なかなか乱暴して 八つ、やっとの心かな」 「そうそう。 九つ、小鳥のひと筒で、 十で、トトンと逃げて行った。 というのですがな。木場様の言われた歌も、その頃からはやって来たのかもしれませんな」 「兄さん、それはちがいます」 「ほう、ちがったかな」 113 第七章民謡
おき、両手を合せて、手紙を拝んだ。 やがて立上って、猟着を脱ぎはじめた。愛加那が着がえを持って来た。その方に見向きもせず、褌 一つの素っ裸になると、床の間の大刀をつかみ、はだしのまま庭にとび出して行った。 さっと抜き放って、松の幹を斬った。 「やツ、えいッ 松の皮が音を立ててとび散る。斬るというよりも、まるで踊りまわっているような姿であった。 人の腕ほどもある松の幹を七太刀目で斬り倒すと、吉之助は空を仰いで、大声で笑った。 刀をおさめ、足を洗い、座敷に上り、愛加那の差出す筒袖に腕を通しながら、 「おい、酒の用意をしろ、小鳥を焼いて : : : 何かほかにも肴を見つくろって。大急ぎた」 愛加那はおろおろしながら、 「あの、もし : : : 何か変ったこ・とでもございましたか」 「うん。お前にはわからぬことだ。心配せんでもいい。 と、縁側に出て、隣家の方に呼びかけた。 「佐民さん、佐民さん。早く来て下され」 常にない上ずったような大声であった。 「はあ、御用ですかな : : : また小鳥ですか。それとも、大猪でもとれましたかな」 佐民は笑いながら、草履をつつかけて、庭先をまわって入って来た。 「猪じゃ、大猪じゃ。国賊の大奸物が斬り殺され中した」 ・ : 早く酒を」 180
と、佐運は謙遜した。 「実は一度、お礼にまいろうと、お宅を探したのですが、道がわからす、失礼いたしました」 「お礼など、とんでもない」 佐運は恐縮して、「私はずっと留守をしておりますので、家のことは佐民に委せきりです。ごらんの 通り口不調法で気のきかない奴で、充分のお世話もできないと存じますが、まあ何でも私どもに出来 ることでしたら、遠慮なくお命じ下さい」 弟の佐民の方は、最初から一言も口をきかず、ひどくかしこまって膝を崩さす、泡盛の盃をすすめ ても、ただ唇を湿すだけの固苦しさであった。 木場伝内は従者に命じて酒肴を用意させ、何くれと吉之助と重野をもてなしながら、自分も大いに 飲んだ。なかなかの論客で、特に江戸や京都の政状に関しては、強い好奇心を持っている様子であっ 「同じ役人でも、島役人となれば、任期が終るまでは島を一歩も出ることができないのだから、まっ たく流人と異なるところはありません。刺激も進歩もない生活です。一日一日と中央の事情はわから なくなり、 一日一日と馬鹿になって行くような気がします。 : : : 役人の中には、自分から望んで島に 来た連中がありますが : : : そんな連中が大部分ですが、彼らはみな島の生活に満足しています。島の ・ : 佐運さん 王様になった気持で、威張り返って、せっせと金を蓄めればそれですむのですからね。 や佐民さんの前では言いにくいことだが、大島、喜界ヶ島、徳之島、沖永良部島の四島は、いわば薩 摩藩の金穴です。藩の財政をささえるために、搾れるだけ搾れというのが藩庁の方針です。 : : : 搾り 110
よか耳、 と、振りかえったが、老人はそんなことにはま るで気がっかず、 「これで先生も立派な島人だ。まったく落着かれ ましたな。わしも安心です。この次は一つ、本物 の猪をぜひ撃ちとめましよう。こんどは夜狩では なしに、村の勢子を集めて昼狩です。なに、わし が本気で差配したら、猪の二匹や三匹は造作もな いですわい」 相手に悪意がないとわかると怒るわけにもいか よ、つこ 0 オカナ 「佐民さん、私も一人前の島男になったそうです。 そう見えますかな」 祝 の と、苦笑にまぎらした。 「はつは、お祝い申していいことやら悪いことや 初 章 佐民はさすがに吉之助の胸のうちを察し顔であ十 「お祝いじゃ、お祝いじゃ。今日は初矢の祝の上 る。 しまびと
翌朝は雨の中を、同じ下男が炊事道具と炭薪の類をとどけてくれた。朝夕の炊事を手伝ってくれる つもりらしかったが、自炊の方が気楽な気がしたので、それは断った。 下男の片言まじりの説明によると、竜家というのは、苗字帯刀を許された郷士の家柄で、この村の まぎりよひと 旧家である。当主は竜佐運というが、彼は東間切の与人の役をつとめているので、この村にいな、 佐民は佐運の弟で、兄の息子の佐文の後見をしながら、留守を預かっている。兄弟ともに学問を好み、 木場伝内とは特に親交がある。 くわしいことは、いずれ主人の佐民が挨拶に来るから、その折に ゆっくり聞いてもらいたい。 それだけ話すと、下男はこそこそと逃げるように帰って行った。長く吉之助と話しているのが恐ろ しいと言いたげで、隣近所の目をはばかっている様子がありありと見えた。 午後になって雨が小降りになった隙間を見て、吉之助は竜佐民の家を探しに出かけた。これだけ親 切を受けた上に、先方から挨拶に来られたのでは、礼に反すると考えたからである。 だが、家はとうとう見つからなかった。教えてくれる人がなかったのである。道であう男も女も、 吉之助の姿を見ると、こそこそと道を避けた。大声で呼びとめても聞えないふりをして行きすぎる。 おいはぎ 追剥にでもあった時のように、手にした籠を投げ出し、叫び声をあげて逃げ出す老婆もあった。 明らかな敵意と恐怖が村中にみなぎっていることに気がっき、吉之助は竜家を探す熱意を失い、重 い気持で家に帰って来た。 島の子供が五、六人、こわれた石垣の隙間から、しきりに家の中をのぞいていた。遊びに来たのか、 これは可愛らしいと喜んで、吉之助が声をかけると、子供たちはわっと蜘蛛の子を散らすように逃げ
「そりや遠慮しますよ。島の仕来りがありますからな。人の娘をもらおうと思ったら、犬の子をもら うようにはゆきませんぜ。まして竜一族といえば、島では一番の家柄ですからな」 佐民は二人の気早な問答を、微笑しながら聞いていたが、 「本気なお話ならば栄志の方は私がお引受けしましよう。兄の佐運もかねがねそのことは心配してお りました。 : しかし、西郷先生の方はどうでしよう。余計なことをしたと、あとで叱られるような ことはありませんか」 「大丈夫だよ」 「でも、御自分から言い出したことじゃないのですからな」 と、佐民は大事をとる。 「西郷の方は僕と勇気が引受けるから、あんたは娘の方を頼む。相手が決まらない先に西郷に話して はかえって罪だろう」 そんな相談のあった十日後のことである。勇気老人が吉之助のところにやって来て、何気ない口調大 で切り出した。 の・ 「先生、近ごろわしも家の仕事がいそがしくなりましてな。今までのようには先生の身のまわりのお 島 世話をすることは出来ません。ひとつ、娘を雇ってくれませんか」 章 九 「ああ、下女を雇えというのか」 第 「下女ではありません。娘です」 「ほう、わしのところで働いてくれる娘があるか」