相良 - みる会図書館


検索対象: 西郷隆盛 第8巻
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1. 西郷隆盛 第8巻

吉之助は馬から降りて、 「あなたもここにおられたのか。こんどの代官はまったく以って馬鹿 : : : 馬鹿者ですな」 「はあ、だいたいの様子は次の部屋で聞きましたが、あなたは本当に上申なさるおつもりですか」 「上申するかせんか、相良の出方一つです。 : : : 虎の威をかる狐と申して、下に対して威張る奴は、 案外、上には弱いものでな、はつはつは」 笑い声を残して、吉之助は馬の手綱をとり、すたすたと村はずれの方に歩いて行った。 股ずれが気にかかって、馬には乗らず一里半ほど徒歩で行くと浦上の部落があった。昼飯の時刻で あることに気がっき、道端の百姓家に立ち寄り、水をもらって、竹の皮の弁当を開いた。 そこへ、あわただしい馬諦の音をひびかせて、相良角兵衛と木場伝内が姿を現わした。 民家の軒下で握り飯を頬ばっている吉之助をみとめると、相良は馬からとび降りて首筋の汗を拭き、 おそるおそる近づいて来て、 「さっきはまことに失礼致しました。お詫びに参上致しました」 打って変った鄭重な物腰であった。 馬にとび乗って鞭をあげた途端に、うしろから呼びかける者があった。 「西郷さん、ちょっと : : : ちょっと待って下さい」 振りかえると、木場伝内であった。 142

2. 西郷隆盛 第8巻

合には充分の手心を加えなければならぬ。私は郡方奉行の書役として、長い間農村をまわっていたか ら、その間の消息はいくらか心得ているつもりです。 : : : 本年はたしかに凶作です。百姓はとても砂 糖を隠匿するような余裕はありません。前代官の残した見積り高はただ参考の程度にとどめて、どう かあなたのお力によって、無実の罪に泣く百姓を一刻も早く釈放してやっていただきたい」 「お話はよくわかりました」 「わかっていただけば、まことにありがたい。また来年というものがあります。今年加えた暖かい手 心は、きっと来年立派な実をむすびます」 「よくわかりましたが、あなたのお言葉はつまり理屈です。立派な理屈ですが、政治の実際とは関係 ありません」 「何と申される」 吉之助は坐りなおした。 相良は灰吹きの角で銀の煙管をぼんと鳴らして、 「砂糖のことだけにかぎらず、大島の政治向きいっさいは、不肖相良角兵衛、藩庁から全権を委任さ れている。全権を委された以上、私のすることは殿様のお心であって、遠島人などからかれこれ差図 をうける理由は毛頭ござらぬ」 「遠島人とは私のことか。私は遠島人ではないはすだが : 140

3. 西郷隆盛 第8巻

股ずれの出来かけた脚をひきすりながら、名瀬の仮屋元を訪ねると、代官の相良は思ったよりも慇 懃に応待した。 「私は竜郷に住む菊池源吾と申す者で : : : お願いの筋があって参上いたしました」 「はあ、かねてお噂は木場伝内殿からうけたまわっております。わざわざ何の御用で ? 」 「実は砂糖の一件について、いささか意見があって、参上いたしました。どうかしばらく御静聴を願 「うけたまわりましよう」 すらすらした返答であった。これなら噂ほどのわからず屋でもなさそうだと、吉之助は相良の顔を 見なおした。齢の頃は四十前後、でっぷり肥った小柄な体格で、眉の薄い釣上った目には油断のなら ない剣気がただよっているが、ます一通りの修業のできた人物に思われた。 「本年は砂糖隠匿の百姓が非常に多いと聞きましたが、いったい何人ほど拘留なされましたか」 「多い方ではないでしよう。七カ村、十三部落で百人に達していません。厳重に検べたら、三百や五 百の犯人は挙がるでしようが、私はただ懲らしめのために、各部落から三、四人ずつ拘引させただけ です」 これもすらりとした返答であった。 「今年は近年にない砂糖の凶作だということは御存じでしような」 138

4. 西郷隆盛 第8巻

吉之助はその場からまっすぐに村役場にまわった。逃げた中村を追いかけるつもりではなかった。 拘引されたという勇気老人の様子を見たかったのである。 だが、役所には小使のほかには誰もいなかった。拘引された百姓を護送して、朝早く名瀬の方に出 かけたという。 吉之助は小浜まで引返し、竜佐民に馬を貸してくれと頼んだ。 「どこへ行かれます」 役人をなぐりつけた噂を聞いている佐民は気づかわしげにたずねた。 「名瀬に行って、代官の相良角兵衛にあって来ます」 「さあ、それは : 無駄ではないでしようか、と佐民の目の色であった。前任の吉田代官と交替したばかりの相良角兵 衛は、己れの権勢を示すためか、就任の手始めに手柄を樹てて藩の重役に認められたい了見からか、 凶作に乗して砂糖隠匿の嫌疑をかけ、百姓たちを拘引した張本人である。相手が代官ともなれば、小 役人を片づけるように簡単にはゆくまいと佐民は危ぶんでいるらしい 吉之助は構わず、 「ついでに握り飯を三つ四つ作っていただきたい。途中で腹がへっては、戦ができません」 肥った身体には五里の山道を馬で走るのはやさしい仕事ではなかった。二十四貫の身体を乗せて走 ることは、馬の方もつらかったにちがいない。だが、拘引された百姓たちの身の上を思うと、一刻も 猶予することができなかった。 137 第八章新居

5. 西郷隆盛 第8巻

「さようでござったかな。私は遠島人とばかり思っていた。 ・ : 聞けば、あなたは今朝も竜郷の村で 砂糖方の書役に乱暴をなされたとか。たとえ遠島人でなくとも、役人に手をかけるようなことをなさ ったら、即刻藩庁に上申して、遠島人同様の扱いをする手続きをとらねばならぬ。これも私の権限だ。 おわかりかな。わかったら今日のところはお帰りを願う。これ以上申すことはない」 にわかに藩主の成光を笠に着た権柄ずくの傲然たる態度。最初の慇懃さは、役人らしい老獪な擬態 であったことがわかると、吉之助はもう遠慮はいらぬと思った。 「遠島人であろうがなかろうが、腐れ役人の非道は見逃すわけにはゆかぬ。君が藩庁の命令を受けて いると言われるなら、私は天の命令を受けている。島人が薩摩藩の政治を恨むのは、君のようなわけ のわからぬ役人がいるからだ。殿様には罪はない。役人どもが殿様の代理だ代理だといって悪事をす るから、島人は殿様を恨むようになる。これほど大きな不忠がほかにあるか」 「ここをどこと心得ている。君は僕に対しても乱暴するつもりだな」 「するかもしれぬ。君はさっき、私が砂糖方の書役をたたきつけたことを、藩庁に上申すると言った が、よろしい、上申してみるがいし 。私も殿様の禄を受けている身であるから、役人どもの悪政を殿 様に上申する義務がある。事の顛末を委しく申上げて、殿様に不徳の罪をきせかける腐れ役人どもを たたき出してしまわねばならぬ。これがまことの忠義の道だ」 「そりゃあ、君の勝手だ。そんなおどし文句に驚く相良角兵衛ではない」 「よし、その一言に間違いないな。お前の首は俺がもらった。あとで泣くな」 席を蹴って立上り、さすがにあわてはじめた相良を尻目にかけて、吉之助は代官所を出た。 てんまっ ろう・かい 141 第八章新居

6. 西郷隆盛 第8巻

吉之助が黙っていると、おろおろと木場伝内を振りかえり、 「木場殿、あんたからも、よろしくお詫びを申上げて下さい」 木場は微笑しながら、 「西郷さん、あんたがお帰りになってから、われわれ両人相談の上、あなたの御意見に従うことに一 決しました。現在十三カ所の村役場に拘留してある島民は全部釈放することに手配致しました。 砂糖の徴集も実際の出来高を基として行うことに致しました。。 とうか上申だけは見合せていただきた いと代官は申しております」 吉之助も微笑して、 「まあ、おかけなさい。人の家の縁側だが、しばらく拝借して、話しましよう。 ・ : 拘留された島人 たちは、いっ釈放されますかな」 「飛脚をまわしてありますから、近いところは今夜中に、遠方の村でも明日の昼までには全部出され ることと思います」 と、相良は答えた。 「それは早い手廻し。私は百姓の無実の罪を許していただけばそれでいいので、公事訴訟は大きらい だ。上申は、喜んで取止めにします」 「ありがとうございます。やっと安心しました」 「わしも安心しました。お互いにこれからの島暮しは長いからな、仲良くやって行かんことには、芯 が疲れ申す」 143 第八章新居

7. 西郷隆盛 第8巻

第十一章紅花 明けて万延元年の春。 座敷の床の間に、自筆の「天照皇大神」の懸軸をかけ、その前で愛加那と二人、屠蘇をくみ、雑煮 を祝って、吉之助は三十四歳の元旦を迎えた。 年賀の客は引きもきらない有様であった。ほとんど村中の者が顔を出した。村役人も来、名瀬の代 官相良角兵衛も書役を代理に賀詞を送って来た。 流人船の舟底でたったひとりで迎えた去年の元旦にくらべると、なんという賑やかさであろう。老 祖母と弟妹は国許に残してあるが、かたわらには従順な若妻がいる。妻の縁者たちも、そろって新年 の挨拶を述べに来た。 村の長者を気取るつもりなら、何の不足もない新春である。差されるままに盃を受けて、わが世の 春をことほけば、それで天下は泰平である。 だが、なんという胸中の虚しさであろう。生れて三十四年間に送り迎えた新年のうち、もっとも空 虚な新年は今日のこの日かとさえ思われた。 橋本左内も斬られた。梅田雲浜も斬られた。頼三樹三郎も斬られた。長州の吉田松陰をはじめとす こう か 170