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検索対象: 西郷隆盛 第9巻
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1. 西郷隆盛 第9巻

有馬新七はすぐに身仕度をして城下に出て、上の園の伊地知正治を誘い、向う岸の大久保市蔵の屋 敷を訪ねた。 タ風のうすら寒い時刻であった。この時刻なら役所もひけているから、留守をくわされる心配もな かろう。 「えつ、あなたが」 と、柴山は目をみはった。 「そう、われわれだけでいくら議論してみてもはじまらぬ。本人にあうのが一番早い。一緒に行こう」 「僕はいやです」 柴山は首をふった。「大久保は隙のない男です。あっても巧みに言いくるめられるのが目に見えて います」 「では、俺ひとりで行こう」 「伊地知さんをつれて行ってはどうだ」 田中謙助が言った。「二人は大久保にとって先輩だ。先輩二人を前においては、いくら大久保でも嘘 はつけまい」 「うん、それもよかろう」 と言って、有馬新七は立上った。

2. 西郷隆盛 第9巻

柴山愛次郎は言った。「だが、そんなことは驚くには及ばぬ。同志が出世したのだから、めでたいと 3 思っている。屈するばかりが能ではない。時到らば大いに延びて志を実行するのは男子の本望だ。し かし、われわれの敵の目から見れば、この政変は意外であり、堀や大久保の破格の出世は羨望に堪え ないらしい。城下では誠忠組の陰謀だという噂が立っている。しかし、有馬さん、誠忠組といえば、 この席にいるわれわれ三人も誠忠組だ。そのわれわれが、この政変については何事も知らされていな まったく寝耳に水だった。われわれの知らぬ誠忠組の陰謀というものがあり得るだろうか。いっ これは誰の陰謀なのだ」 じやすい 同志の行動については邪推は禁物である、物事は至誠をもって正面から解釈して初めて正しい解決 の道が開ける、と有馬新七は信じている。だが、この政変だけは、たしかに柴山のいうとおり正面か らでは解釈できない。まことに容易ならぬ陰謀が堀や大久保や有村を中心に行われたと推察せざるを 得ない。そうでなければ、誠忠組の元老の一人と自他ともに許している有馬新七が寝耳に水の報告に 驚かねばならぬはずはないのである。 「伊地知正治も知らぬというか」 と、新七は念をおした。 「夢にも知らぬと言っていたよ」 と、田中謙助が答えた。 「森山新蔵は ? 」 「政変のあるらしい気配はうすうす感じていたが、まさか、こんな顔ぶれになろうとは思っていなか

3. 西郷隆盛 第9巻

「しかし、それはわれわれにとってめでたい話ではないか」 島津左衛門一派は斉彬公直系の正義派といわれ、彼らが島津豊後一派にかわって藩政をにぎった時 には「誠忠組」一党は非常な期待をかけたのであるが、その後の実際の施政はまったくの保守退嬰主 義で、斉彬の大策を実行するどころか、自重方針をとって久光を牽制し、「誠忠組」を目の仇にして陰 に陽に圧迫を加え、若い有志の建白は一つとして採用せず、そのために有馬新七などは脱藩して京都 に上るよりほかはないとまで思いつめていたのである。彼らが総退陣したとあれば、めでたいという よりほかはない 「いや、それが : ぎいれせつつ 田中謙助が説明した。「その後がおかしいのだ。左衛門にかわった家老首座が喜入摂津」 たてわき 「側役小松帯刀、お小納戸役中山尚之介 : : : 」 「久光公側近だな」 「同じくお小納戸役堀次郎、大久保市蔵 : : : 」 おかちめつけ 「御徒目付吉井幸輔、有村俊斎 : : : 」 「ふうん」 有馬新七は唸った。 「わが藩としては前例のない異数の抜擢だ」 こなんど ばってき たいえい 93 第五章秘策

4. 西郷隆盛 第9巻

第五章秘策 文久元年十月はじめのある日、柴山愛次郎と田中謙助の二人が石谷村の有馬新七の寓居を訪ねて来 さば 二人は錦江湾の秋の鯖を手土産に持って来たが、酒の徳利は下げていなかった。酒の席では話せぬ 用件があると言いたげな重大な顔色であった。 「政変が起った。日置組が根こそぎに辞めさせられたのだ」 と、柴山愛次郎が言った。 「根こそぎというと : みのだ 「家老主座島津左衛門をはじめ、桂右衛門、簑田伝兵衛、椎漿与三次以下総退陣だ。日置組は一人も 残っていない」 「いつの話だ」 「いっ決定したことか知らぬが、発表されたのは昨日の午後だ。城下は鼎のわくような駈ぎだ。あん たはまだ御存じないと思ったから二人そろって相談に来たのだ」 新七はちょっと考えていたが、 しいよらよそうじ かなえ

5. 西郷隆盛 第9巻

大久保市蔵はあえて動かず、正座して正面を見つめたままである。 ( 俺を斬れ、斬れなければ従え ! ) と、彼の全身が叫んでいた。 一座はふたたびしんとなった。 堀の外で朗詠する声が聞えた。」 我が胸の 燃ゆる思いにくらぶれば 煙はうすし桜島山 いま出て行った連中の声である。村田新八の声のようでもあり、橋ロ壮介の声のようでもあった。 91 第四章煙は薄し

6. 西郷隆盛 第9巻

酒に酔いつぶれていぎたなく寝てしまったものもいたが、柴山愛次郎、橋ロ壮介、田中謙助、村田新 八をはじめ、西郷信吾、大山巌などの熱心組は膝をくずさず、俊斎の帰りを待ちかまえていて、口々 に叫び立てた。 とうだった」 「有寸、。 「返答はあったか」 「出兵する気か、しない気か」 出かける時の元気はどこへやら、俊斎の返事は自信がなかった。 「返答は大久保がする。俺は大久保と同意見だ」 「大久保さんも帰って来たのか」 と、柴山が尋ねた。 「そう、一緒に帰って来た。今ここへ来る。まず大久保の話を聞け」 俊斎はそう言って、部屋の隅に身を避けた。 大久保市蔵は風のように入って来た。冷酷な横顔であった。胸を張って、ずいと正座に坐り、 「報告する。ただいま、児玉雄一郎を通じて、君公御内々の御返事をいただいたが、上京は当分御延 期となった。児玉の力をもっても、われわれの力をもってしても、どうすることもできない」 たちまち一座にざわめきが起った。 「延期ではなかろう。中止であろう」 「児玉と中山の小細工にひっかかったのだ」

7. 西郷隆盛 第9巻

0 貴様が反対すれば刺し殺してしまうそ」 「あんたがそれほどまで言うのなら、確実に藩政 の実権をにぎる見込みがあるのだな」 「確実た。間違いはない」 「よし、そんなら俺は従う。忍耐もする。我慢も する。俺は日ごろから、あんたを本当の兄貴だと 思っているのだから」 「では、これからすぐ二人で森山の屋敷に行く。 俺が何を言っても、貴様は反対することはならぬ そ。わが覚の素志を貫くための廻り道だ。忍耐だ。 よし力」 「うん、なんだかまだ腑に落ちんところもあるが、 とにか ~ 、俺は ~ 倢うよ」 と、俊斎は答えた。 し 薄 章 森山新蔵の家では一同待ちかねていた。待ちく第 たびれて帰ってしまったものもあった。待っ間の

8. 西郷隆盛 第9巻

「て ) ) か」 「自分は御当主忠義公の家来だから、どこまでも忠義公を立てたいと思っている。だが、時の勢いで 実権はかならず久光公に移る。いやすでに移っている。久光公をかるく見ては、とんだ目にあうそ。 久光公も本気だ。君も本気で久光公と取組んで見ろ。西郷のことなど後まわしでいいではないか。御 久光公には久光公の御信念がある」 進発の期日も久光公におまかせしていい。 「わかった ! 」 しいことを言ってくれた。枝葉のことは何もかも後まわしでいい。俺は久光公 大久保は叫んだ。「、 と共に戦う。久光公を正面に押し立てて戦うのだ。大山、わかるか。俺の心は今夜決ったそ」 「うん、お前がその決心なら、俺も従おう」 と、大山格之助は答えた。 「島津左衛門一派の正体もよくわかった。西郷は何というかしらぬが、俺は彼らと戦うぞ。彼らは不 用物だ。俺たちの正面の邪魔者だ」 そこへ案内も乞わずに、ぬっと入って来た男がある。頭から、湯気の立ちそうに気負い立った有村し 俊斎であった。 章 四 第 「どうした、どうした。三人とも何を不景気な顔をつき合せているのだ」 俊斎は突ったったまま怒鳴り立てた。「みんな森山の家で待ちくたびれているのに、いつまで小田原

9. 西郷隆盛 第9巻

ちあけて御相談なされた。斉彬公は自分の志をつぐ者は肉親では久光公よりほかはないと信じて、重 要なことはすべて相談されて、久光公の将来の活動の素地を作られていたのだ。中央政界に変化のあ つづみがわ るごとに皷川の重富屋敷に密書を送り、密使を立てられて、家老達にかくれていろいろと内談をかさ ねられた。その密使の役にはたいてい僕自身が立っていたのだから、この話にまちがいはない」 「幕府への上書も、斉彬公はいちいち草案を久光公に示されて意見をお求めになった。安政年間の将 軍への上書には久光公の筆が加わっていると言われているくらいだ。それほど御両公の間には直接で 深い関係があるのに、まわりから西郷西郷といわれては、久光公が気をわるくするのも当然といわね ばならぬ」 「なるほどな」 「現に、斉彬公は御薨去の病床で久光公の手をとって申された。嘉永以来、幕府は外国に対する措置 を失い、内は尊王の実を挙げす、天下の人心は離反し、もしいま一歩をあやまれば、大動乱である。 きんけっ だみん 皇国の臣子たる者は、薩摩の如き辺城で惰眠をむさぼっている時ではない。余はかしこくも禁闕御守 護の内勅を蒙り、先年来、出でて四方に当り、皇室輔翼、幕政改革のことに微力をつくして来たが、 今はもう再起の望みはない。余の志をつぐ者はお前だ。お前がいてくれれば、余は死んでも生きてい るのと同様だ。 : と、そこまで申されたのだ。久光公も、この御遺言にそむかぬだけの覚悟と用意 さえもん をなされているのだ。西郷であろうと、島津左衛門であろうと、久光公を差し措いて、斉彬公の遣策 をつぐものは自分一人だというような顔をしたら、早晩、久光公との正面衝突はまぬがれぬそ」 8

10. 西郷隆盛 第9巻

然るところ、このごろ種々造言仕り候中にも、源吾お召帰しの儀、左衛門殿より何度も御相談に及 ばせ候えども、貴方様御合点これなきところより、今に召帰されすと申唱え候。 右様の雑評は取るにたらざる儀に御座候えども、それほど人心をとらえ候人物に御座候間、お召帰 し相成候わば、人心の動揺も相静まり、第一先公の御盛意荒み候やの疑惑も解散仕り、両党の邪直も 相定まり、小人の輩はロをつぐみ、造言も止み、また罪を引き、善に移り候よう相成るやも計りがた きことと恐察仕り候』 大久保は一読して、 「いちいちもっともじゃないか。何も変った意見ではない」 「そのもっともすぎるのがいけないのだ。西郷を俊傑の士というのよ、 ーしいが、斉彬公の御遺策を知っ ているのは西郷一人だというようなことを書いては、久光公が意地になるのが当然で、また事実にも 反する」 「中山尚之介が間に立って妨げているという噂があるが : 「そんな馬鹿なことはない。われわれ側近にいる者はとかくそんな噂を立てられがちだが、芝居や黄し 表紙に出る馬鹿殿様ならいざ知らず、ちゃんとした殿様は側近者の意見にはかえって動かぬものだ。 現に斉彬公にしても、西郷が動かしたのではない。西郷の方が動かされたのだ。久光公の場合も同じ煙 ことだ」 章 四 「ふうむ」 第 「僕は斉彬公のお小姓で記録を扱っていたからよく知っているが、斉彬公は久光公にどんな秘密も打行