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一座が沈黙したのを見ると、大久保はごろりと横になり、片手をのばして盆の上の干菓子をつまん ではぼりぼりと噛んだ。子供つぼい議論は聞きたくないと言いたけな不敵な態度であった。 まったく大久保は激派と自称する連中の議論には聞きあきている。無責任な悲憤慷慨か、然らずん ば紋切型の抽象論で、そんなものに従っていては、実際の問題は何一つ解決しない。酒の肴の快気燼 として聞き流すことにも今はあき果ててしまった。 彼の頭の中には、もっと切実で、もっと重大な問題が燃えている。いかにして藩政の実権をにぎる か、しかも、それはすでに夢でもなく、机上の計画でもない。一歩一歩実現の可能性が見えはじめて いるのだ。藩政を掌中におさめさえすれば、し 、つさいの枝葉の問題は解決する。激派をもって自任す る連中は根本を忘れて、枝葉の問題について昻奮しているのにすぎない。彼らの慷慨と抽象論によっ ては何事も解決されぬ。真の激派は彼らによって「自重派」だと攻撃されているこの自分なのた。 「大久保さん」 村田新八が我慢しきれなくなって叫んだ。「あんたはわれわれをいつまで待たせるつもりか。殿様 し はいったいいっ御進発なされるのです。御返事はいついただけるのです」 大久保はものうげに身体を起した。 「御返事ならいつでもいただける。ただし、かならずしも即時御進発というお返事ではないから、俺煙 も苦労しているのだ」 四 新八が何か言おうとしたとき、大久保のところへ取次ぎの者が手紙らしいものを持って来た。 第 大久保は開いて見て、有村俊斎を目で招き、
る君が、どうしてその態度を学ぶことができないのだ」 税所篤の切言は一座の感動を呼び起した。森山新蔵も奈良原繁もかたずをのむ。大久保派と目され ている有村俊斎さえも、大声で、 「そうだ、そこだ ! 」 と叫んだ。 だが、大久保は顔色も動かさなかった。 「そんなわかりきったことは今さら聞くまでもない。平野氏のことについては諸君は何も知らぬはず じっこん だ。平野氏と自分とは西郷入水の頃から怩懇にしている。諸君は平野氏が薩摩の同志と語り合う暇も なく追いかえされたようにいうが、現に自分と堀次郎と有馬新七があっている。ただあっただけでは ない。伊集院から市来の港、さらに米津まで行って、三日三晩、寝る暇もなく語り合っている。平野 、や、有馬新七に聞いても 氏は喜んで別れた。何を語り合ったか、平野氏自身に聞いてみるがよい。し 、、 0 有馬さん、有馬さんはいないか」 返事はなかった。有馬新七は日暮前にちょっと顔を出したが、議論が錯雑して来ると、不愉快な顔 いつものようにふらりと中座してしまったのである。証人がいなければ、話のつづけよ つきになり、 うがない。大久保の自信ありげな口調におされて、税所も柴山も村田新八も黙りこむよりほかはなか
喜んで帰って行ったにちがいない」 「そうだ、薩摩人には、昔から自藩中心の我利我利なところがある」 叫んだのは田中謙助であった。彼は桜田の一挙に参加するつもりであったのが、事前に発覚して堀 次郎のはからいで国許に送りかえされ、そのまま足止めを食っている。「高山彦九郎先生も薩摩人の首 鼠両端ぶりをいているし、頼山陽でさえ、薩摩人の堕落ぶりを嘲笑しているではないか。その我利 我利根性が水戸の同志を見殺しにし、有村兄弟を見殺しにし、今また平野国臣を追放したのだ」 大久保は横を向いたまま何も言わなかった。 「久光公が浪士嫌いであることは、われわれも知っている。だが、われわれが浪士を嫌う理由はない。 われわれも精神においてすべて浪士だ」 税所篤がつづけた。「しかし、他国人を庇護しては、月照和尚の先例にも見るとおり、自藩の者に思 わぬ犠牲も出る。現に月照の場合には西郷という大犠牲を出した。だから、平野氏にはこの際我慢し てもらって、一応藩外に退去してもらうというのが、大久保、お前の理窟であろうが、その理窟は大 事をあやまるぞ。他藩の者であろうが、同志は同志だ。家老であろうが、浪士であろうが、大義の道し を同じくすれば同志、然らずんば仇敵だ。西郷は最後の藩命が下った時にも、月照和尚に藩外にただ薄 一人で退去してくれとは言わなかった。ともに薩摩潟の波に身を投じたではないか。この誠意、この煙 信義が、天下の信をつなぐのだ。自分は京都、大阪から九州各地を歩いて来たが、有志たちは薩摩に章 非常な信頼をつないでいる。久光公につないでいる希望でもなければ、誠忠組にかけている信頼でも第 ない。西郷の命をかけた信義の行動が薩摩をして天下に重からしめているのだ。西郷の弟ともいわれ
桜田事変に薩摩の有志が深い関係をもっていたことが暴露し、京都では西郷吉之助の妹婿大山彦八 と新八の親戚にあたる徳田嘉兵衛が捕えられて六角の獄舎に投ぜられていた。この際、しいて入京す ることは危険であることがわかったので、新八は大阪に二日滞在しただけで下関に引きかえした。白 石の屋敷に行ってみると、平野国臣はもういなかった。筑前藩の盗賊方に追われて、肥後の松村大成 を頼って亡命したと白石正一郎が教えてくれた。新八はただちに海峡を越えて国臣の後を追った。途 中、久留米に立ち寄り、高山彦九郎の墓に玉垣を寄進した。ちょうどその頃、国臣は真木和泉守を訪 ねて久留米にいたが、行きちがってめぐりあえず、二人は肥後高瀬の松村大成の家でやっと再会する ことができた。 平野国臣は村田新八に薩摩入りの世話を頼んだ。筑前の盗賊方の追求がはげしく、今は薩摩の同志 の庇護をたのむほかはない、 と言った。もちろん、盗賊方の手を逃れるのは第二であって、薩摩の同 志と共に回天の大策を議するのが真の目的であった。新八は国臣の入薩には大賛成であったが、旅の さいしょあっし 経験に乏しいので、関所を越える方法を思いっかず、弱っているところへ、同志の税所篤が京都から の帰り途だといって立ち寄った。 し 薄 税所篤は北条右門、工藤左門と同じ平田門下であったので、彼らの弟子にあたる平野のことはよく 知っていた。こんどの上京も、表向きは藩用であったが、北条、工藤とはかり、筑前藩主を動かし、煙 白石正一郎を筑前藩御用達にし、同時に平野国臣の赦免を願おうといろいろと努力していたのである。章 だが、筑前の藩状が急変して、勤皇覚は公然と迫害されはじめ、平野赦免の望みも絶えたので、税所第 も平野がしばらく薩摩に身を避けて、同志と共に再起をはかることに賛成した。 しやめん
くにおみ 第四章煙は薄し 森山屋敷の会合の席で、若い村田新八がはげしい勢いで大久保市蔵に食ってかかった。問題は平野 国臣のことであった。 大義のために命をかけ、奸吏の 「平野氏は薩摩の同志の冷遇を怒り、失望のあまり卒倒したという。 追求をのがれて、われわれを頼って来た同志を、藩状が安定しないからといって追いかえしてしまう。 こんなことで天下に対して顔向けができますか」 村田新八は二十二歳、まだ少年といいたい齢頃であるが、頭の鋭さと気魄の激しさには先輩も一目 おいている。 彼は桜田事変の直後、中央の形勢をうかがうために京都に行く途中、下関の白石正一郎の屋敷で平 野国臣にあった。初対面であったが、新八は国臣の論に動かされた。二条城を焼き、彦根城を抜き、 錦旗を箱根の山にひるがえして関東勢と雌雄を決するという平野の回天策は、国許で聞いた西郷吉之 助や有馬新七の議論よりもさらに徹底したもののように新八には思えた。帰りにぜひもう一度あおう と約東して、新八は大阪まで行ったが、藩邸の留守居役は彼の京都行を禁し、即刻帰藩せよと厳命し
涙がたまった。 「身死して後に荒魂振い起し : : : 荒魂振い起し : : : 国賊を減しなむ」 若い信吾と巌の耳には、この一句が遠寺の鐘のように余韻を引いて消え残った・ 67 第三章荒魂
「酒も京都、鰻も京都、男の死場所も京都だ」 といったのを思い出す。 だが、幕府の逆襲ははげしく、同志は続々と捕えられ、事はついに破れた。橋本左内も死に、日下部伊 三次も死に、月照和尚も死んだ。桜任蔵と平野国臣は行衛不明となり、西郷は島に流されたままである。 あれからもう足かけ四年もたったのだ。 ひな みやこ 『速かに京に参上り、荒びなす醜臣を討ちて朝廷に死なまく欲し侍れど、京遠き避遠の微臣の身にし おごそか こころざしあるともがら このえどの て、しかも所々に関守も厳重なれば、せんすべなく、今度京の有志等に計り、陽明殿より召上せ たまわむことを申し奉りき。このこと成らば、諸藩の有志の面々を語らい、勤皇の兵起して、宸襟や すめ奉らんものそと思い起し侍りき。朝なタなにいや嘆き、いや憤り、天地にたらわして、ひたぶる つみとが いくさのわざ に朝廷思い奉れる真心を神もあわれと聞召し、過ちけむ罪咎は見直し、聞直したまいて、武事に功 お 業ありて武士の本意をとげ、朝廷をやすめ奉らしめ給えと祈り申すことの漏れ落ちむを幸いたまえと かしこみかしこみ申す。 ことわ ながらえ いそしみ 辞別けて祈り申す。朝廷辺に忠勤奉り、志を遂ぐる幸なくば、 かくて世に存命て空しく月日を送り あらみたま なむは本意なき事にし侍れば、速かに身死なむ。あわれ、神の御恩頼によりて、死して後に荒魂振い 起し、国賊を減しななとかしこみかしこみ申す。 有馬新七平正義』 文久元年辛酉九月四日 読みながら、有馬新七の声はふるえ、涙は両眼にあふれてしたたり落ちる。伊地知正治の隻眼にも まいのぼ みまかり
わかるかとも聞かず、有馬新七は一息に読みつづける。 いくさ みこころ くにぐにくにかみきのぬし 『かく宸襟なやましたまえるを、諸国の国守城主ら一人も勤皇の兵を起し、大御国鎮め奉り、清め奉 おおみたから もののふ れる武臣もなく、 一日一日に大御国はいやに疲れ、天の下、万姓はいやに苦しみ、憂れたく口惜し き有様になむ。 わざわい かく災難の有様を神の大御稜成もて荒ぶる醜臣等を誅い、夷狄を攘い除けて、大御国清め鎮めて、 すめら命の宸襟やすめ奉りたまえと祈り奉る』 伊地知正治がそばからロを入れようとしたが、新七の横顔を見て、はっとして口をつぐんだ。新七 は朗読しているのではない。祈っているのである。神となった大楠公の魂に切々と訴えているのであ る。 うちうちのみことのり ひな やつがれ 『正義賤しき避遠の微臣なれど、安政五年、戊午の年秋九月に内勅命を護り奉りて関東に下り、 くさぐさ ーカり・こと そが後にも種々謀りて醜臣等を誅い、夷狄を攘い除けの策に心力をつくし侍りしかど、その事むな しく成らず、かく宸襟苦しく思召すこといかで何時までもよそ見奉るべき』 そのとおりであった。安政五年の御内勅のことには伊地地正治も新七と一緒に働いた。舞台は京都魂 そうじ くさかべ で、その頃は、西郷吉之助もいた、橋本左内もいた。日下部伊三次も桜任蔵も平野国臣も月照和尚も 荒 し一丁していた。梁川星巌が死に、梅田雲浜と頼三樹三郎が捕えられる切迫章 京都の町にはコロリ病が流彳 した空気の中で、一同は大老斬除と水薩同盟による禁裡守護の計画を練っていたのだ。四条の橋際の第 鰻屋で、有馬新七が鰻を三人前ペロリと食べて、 ひとひ おおみいっ つみな あずま
「そこへ行くと西郷吉之助は真の豪傑だ。まっすぐな魂と同時に実行の大力量をそなえている。時に のそんで爆発する疳癪玉にも不足はない。三国志なら、諸葛孔明とはいえぬが、魯粛のような至誠純 忠の豪傑だ」 「ふうん、西郷が魯粛なら、諸葛孔明はお前自身か。まあ、そんなことはどうでもいいが、西郷には ぜひとも帰らてもらわねばならぬ。今帰らねば帰る時はないそ」 「ぜひ帰ってもらわねばならぬ。俺もいろいろと手をつくしている。高崎猪太郎が近習お目通りを許 されているので、彼を通じて久光公に説かせたが、なかなか御承知にはならぬ。なぜか久光公は西郷 をお嫌いのようだ」 「久光公と斉彬公では兄弟でも器がちがう 。比較にはならぬ。 : とにかく、信吾も巌も吉之助に手 紙を書け。早く帰って来ないと、有馬新七は一人でとび出してしまうそと言ってやれ」 「僕だってとび出します」 「僕もです」 信吾と巌は同時に答えた。二人とも一昨年の突出組に名をつらねている。二人の若い血は最近の藩魂 内の沈滞した空気に堪えられない。大久保の自重論よりも有馬の純粋論の方にどうしても心をひかれ るのである。 荒 「柴山愛次郎さんも村田新八さんも何時でもとび出すといっています。僕らも決して後れはとりませ章 ん。二人でいつもそう話し合っています」 第 と、信吾が繰り返した。