尚之介 - みる会図書館


検索対象: 西郷隆盛 第9巻
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1. 西郷隆盛 第9巻

小松帯刀とはまったくの初対面であったが、中山尚之介とは一、二度顔を合せたことがあった。尚 之介が斉彬の小姓をつとめていた頃、ときどき出会ったのである。といっても、話し合ったことはな 、意こ残っている程度にすぎない。その く、眉の迫った、才走った顔つきの美少年ぶりが、かす力に記ー冫 お小姓がいつの間にか久光側近の謀臣として二十七歳の若すぎるお小納戸役として、この席にあらわ れ、床柱を背負おうとしているのだから、ただ意外というよりほかはなかった。 若いといえば、みな若すぎた。大久保三十一歳、中山二十七歳、小松二十五歳、これが藩政府の中 枢である。喜ぶべきか悲しむべきか。いずれにせよ、めざましいかぎりである、と三十六歳の吉之助 は齢下の重役連のもっともらしい顔つきを見くらべた。 「さて、大島氏の意見をうかがう前にこれまでの経過の大体を報告しようと思う」 大久保がそう切り出すと、中山が、 「ああ、ちょっと。 : ・その報告は君から直接大島君に話してくれたのではなかったか。なるべく簡 単にして、早く問題の中心に入ろうではないか」 「さよう」 大久保はうなずいて、「僕は昨夜からずっと大島君と一緒にいたから、大体の報告はすんでいるが、 重大な機密にわたる点は、責任上お話してない」 吉之助はおやッと言いたげに大久保の顔を見た。大久保は顔色も動かさず、 「誠忠組の同志にも知らせてない機密を、僕の独断でしゃべるわけにはゆかなかったからだ」 お小納戸役ぶりが、すっかり身について来た切口上であった。 201 第十章直

2. 西郷隆盛 第9巻

「俺は : : : 俺はつまりその : : : 」 と、新七はどもった。 正治は笑って、 「つまり、有馬新七は武骨すぎる。外見は武骨なくせに、案外胸の中は涙や溜息で一杯なのだ。風流 家で、詩人で、つまり純粋家と潔癖家の弱点の方を身にそなえすぎている」 「貴様は俺を・ : ・ : 」 「一人で突出して、真っ先に斬死する男だが、好漢おしむらくは兵法を知らぬ。水戸の桜任蔵や筑前 の平野国臣とよく似ている」 「何とでも言え。批評は他人にまかせてある」 目を輝かせて大山巌が答えた。 「この頽勢を挽回するのには堀や大久保では間に合わぬ。いや、彼らこそ腐敗の張本人だ」 こうもり 有馬新七は声を大きくして、「堀は鳥獣合戦の蝙蝠のように、あっちにべたり、こっちにべたりじゃ。 大久保は悪党ではないらしいが、おのれの智恵をたのみすぎる。このままにしておくと、堀や中山尚 之介と同論して、とんだ権謀家になってしまうそ」 伊地知正治が横から、 「そういう御当人はどうだ。有馬新七では、この難局打開に間に合わぬのか」 たいせい

3. 西郷隆盛 第9巻

吾が君と おおすめらぎ 吾が大皇のためならば 身を粉にしてもなにいとうべき 骨を粉に くだきてのみか命さえ かねてそ君に委ねつる身は 文久元年の正月、田中河内介はいよいよ「臥竜窟」を出た。息子の瑳磨介と甥の千葉郁太郎の二少 だざいふ 年を左右に従えて、背長く、髻長く、刀長き雄姿を北九州にあらわした。まず筑前の太宰府から五十 里の雪の道を踏んで、豊後竹田の町に小河一敏を訪ねた。一敏と河内介は安政の初年から十年近く手 人 紙をとりかわしていたが、これが最初の会見であった。 とざま 小河一敏は岡藩の名家で、食禄五百石の上士であった。岡藩主中川家はもともと外様大名であるが、憂 同 当主は井伊家と並んで譜代大名の筆頭たる藤堂家からの養子で、全藩に佐冪の風が濃厚であった。小 河一敏はこの家中にあってただ一人皇学の正統を護り、青年を養い、四方の有志と声息を通じて、九章 第 州勤皇党のびそかなる牙城を、小京都と呼ばれる山紫水明の竹田の町に築きあげていた。 一敏の心からなる歓待を受けた河内介は、竹田から久留米に出て、真木和泉守を訪ねた。五年ぶり たけ

4. 西郷隆盛 第9巻

令旨をいただくことは不可能であるが、幸いに中山忠愛卿が宮の信愛を受けているから、宮の密旨を いただいたといつわって九州に下り、各地の有志を率いて上京し、忠愛卿に謁見させ、あらかしめ用 ささか詐謀冫 こすぎるようであるが、大 意した文書を示して、青蓮院宮の令旨だと思わせればよい。い かずのみや 義に即し、私心がなければ、術策を用うるも可なりである。今や和宮の御降嫁は決定し、幕府は廃帝 、。ド常の時には非常の手段 の先例を学者に調べさせているという噂があって、一刻の猶予もできなし夛 を必要とする。おそくとも来年の春には義兵を挙げ、幕府の機先を制して皇威回復の端緒を開かねば ならぬ、というのが清川の回天策であった。 田中河内介は清川の案に賛成した。豪放な青年公卿忠愛卿も、よかろう、決行しようと言った。京 都の空気は切迫していて、慎重な田中河内介も非常手段を採用せざるを得ない気持になっていたので ある。 清川ら三人は、薩摩の有志に対する忠愛卿の招介状と肥、筑、豊の諸有志に対する田中河内介の檄 文を携え、事成らすんば生きて帰らぬ決心で京都を出発した。 青蓮院宮の密旨を受けていると称し、中山忠愛卿の親書と田中河内介の檄文を携えているのを見人 て、平野国臣も松村大成もこの三人を信用しないわけにはゆかなかった。特に清川らが語る和宮御降憂 嫁の内状と、暮府が次郎なる学者に廃帝の故事を調べさせ、彦根城内に不敬きわまる特別の部屋を同 用意しているという話は二人を憤激させた。特に平野国臣としては、清川らにあわすとも、真木和泉章 守とはかってほぼ同様の義挙を計画していた際であるから、清川らの計画に自らすすんで乗って行っ第

5. 西郷隆盛 第9巻

そうもう の機会と存じ奉り、草莽の賤臣共、僣踰の罪過を恐れ奉らず、一同必死を以って懇願奉り候』 自分を草莽の微臣と意識すれば、心は一筋に上御一人につながる。 だが、不幸にして、この上奏案には反響がなかった。あるいは中途で消えてしまったのかもしれぬ。 河内介は上奏案を懐にしてただちに中山邸に伺候し、忠能卿に執奏のことを頼んだが、忠能卿はす でに和宮御降嫁の御供頭に任ぜられていたので、御降嫁取止めを願う上奏案の執奏を承知しなかっ 河内介は、この上は若い忠愛卿の手をわすらわすよりほかはないと考え、自宅に御徴行を乞うてさ かんな酒宴を開き、その席で是枝を引合せ、奏案執奏のことを頼んだ。忠愛卿はとくと読んだ上、何 分の返答をしようと答えて、奏案を懐に収めた。 数日後、是枝は河内介に伴われて中山邸に伺候した。忠愛卿はただちに両人に引見し、「奏案は熟 読した。さっそく、権典侍の手を経て御内覧に供え奉ることにしよう」と言った。 ただひろ 翌日、忠愛卿のとりなしによって、是枝は近衛忠烈公に内藹を許された。その後、忠愛卿とは二、 ざっしよう 三度酒席を共にして、大いに語り合った。数日後、唐橋大納言の雑掌がお使者として田中家に来て、 是枝に薄墨の宣旨を賜わった。 はやとのすけ 「従六位下に叙し、隼人介に任ず」 という思いがけない御沙汰であった。 128

6. 西郷隆盛 第9巻

田中河内介には「三長」という仇名があった。背丈が長い、髻が長い、刀も長いという意味である。 御所に近い丸太町橋詰に住んでいて、寓居を自ら「臥竜窟」と称していた。梁川星巌の「老竜窟」 とはつい一町たらずの近所であり、頼三樹一二郎の「山紫水明処」とは鴨川をへだてて向い合っていた が、星巌とも三樹三郎とも交際はしていなかった。安政の大獄のころには渦の外に超然としていて、 大獄に連座した三国大学、池内陶所、伊丹蔵人、高橋兵部などを「金持儒者」「馬鹿の間違い」「尋常 の愚人」「無学大欲」などと酷評し、頼三樹三郎の如きは「放逸酔狂、論ずるにたらざる人物、僕らこ れを避く」と白眼視していた。同じく回天の大志を抱きながら、自ら恃むこと高く、次に来る風雲を のそんで、べつに一派を立てていたのである。 中山忠能卿に仕えて、同家の財政整理のためによくつくしたが、やがて辞任して浪人となった。忠 能卿と意見を異にしたせいとも言われ、また回天の大策を実行せんとして、主家に累をおよぼすこと をおそれ、表面上の主従関係を絶ったのだとも言われている。浪人した後にも、忠能卿はあっく扶持 を加え、且っ長男の忠愛、次男の忠光両卿の教育を託したという。 それかあらぬか、河内介は浪人で ありながら、地方への旅行の際などには、「中山忠能卿家来」という肩書を平気で用いている。 さちのみや 孝明天皇の皇子祐宮 ( 明治天皇 ) は中山忠能卿の二の姫慶子の御胎で、中山家で御誕生あそばされ た。御産殿は田中河内介の奉仕によって建てられた。皇子御誕生のとき、河内介は同志の佐久良東雄 と島明也に、「歓涙禁じ難く恐悦の至りに御座候」と書き送った。その時の歌は、 もとどり たの ゃながわせいがん さくらあすまお

7. 西郷隆盛 第9巻

柳に琴をひかせて心尽しの歓待をした。 あっせん かたぎぬ 四月六日に、河内介の旋で中山忠能卿に藹見を許されることになり、是枝は肩衣袴をつけて参殿 した。忠能卿は衣冠東帯の姿であった。謁見が終ると奥殿に案内され、長男の忠愛卿も同席して酒肴 を賜わり、いろいろと御下問があった。是枝はうれしさに涙をこぼした。 是枝は河内介と意気ますます投合し、かたく将来を誓って、鹿児島に帰り、誠忠組の同志に情勢の 詳細を報告した。是枝の地位はこれより一党の間に重くなった。 彼は勢いに乗じて長崎焼討ちを計画した。同志は有馬新七、大山格之助、毛利元真、美玉三平など であった。この計画は前にも記したとおり、是枝の軽率から大久保市蔵の耳に入り、未発に喰いとめ られた形になって、彼はやや信用を落したが、なかなかやる奴じやわいという 印象を同志に与えたこ とは疑えない。 かすのみや やがて、和宮御降嫁の事が起って与論沸騰し、つづいてヒュースケン暗殺事件のために米英仏蘭の 公使が国旗を捲いて横浜に引揚げ、まさに戦争がはじまろうとしているという報が伝わった時、大久 保、税所、有馬、有村など誠忠組の領袖は是枝を密使として再び上京させることにした。田中河内介 との縁故もあり、是枝は町人出身であるから、商人の風で上京させれば、世間の目も避けられると思 ったからである。上京の費用は森山新蔵が出した。 大任であった。是枝柳右衛門は決死の覚悟で上京の途についた。途中幕吏の警戒が厳重で道がはか どらす、臥竜窟についたのは国を出て約一カ月の後、三月の二日であったと彼の日記に書いてある。 彼が持参して河内介に執奏を頼んだ密書は次のようなものであった。 126

8. 西郷隆盛 第9巻

知らせが、白石正一郎から届いていた。盗賊方は、国臣は長州竹崎の白石家にかくれているものと見 当をつけ、いろいろと嫌がらせをやっているが、いよいよいないとわかれば、松村家を狙いはじめる であろうから御用心肝要という密報であった。 松村大成は本職は医者であるが、肥後勤皇党の一方の頭目であり、熱心な保護者であって、肚の大 うちの食客になって気長に構えているがよい。な きな人物であるから、「なに、あわてることはない。 んなら薬局生にしてやろう」と言ってくれたので、国臣もその気になって、本気で薬研をまわして薬 作りの手伝いなどをした。だが、なにしろ人の出入りの多いところであるから、唖で聾の書家田中作 八清風と名乗り、知らぬ人と話す場合には筆談を用いた。 年があらたまって、文久元年正月の十五日に、熊本の藤崎神社で例年の流鏑馬の神事が行われた。 げんさい のっと 故実に則る古風な儀式であると聞いて、国臣はじっとしていることができす、河上彦斎に案内を頼ん でひそかに拝観に出かけた。 さまのすけ 拝観を終えて、熊本の町を歩いていると、京町の寿司屋という宿屋に、「田中河内介殿、同瑳磨介殿 御宿」と筆太に書いた立札が立っていて、金紋先箱挾箱の類が店先に堂々とならべたててあった。 国臣は河上彦斎をふりかえって言った。 「本物かな」 「本物ですよ。京都の田中河内介父子に相違ありません。私は二度ばかりあいました」 「本物ならあわずばなるまい。河上さん、お手数だが引合せて下さらぬか」 ゃぶさめ やげん おしつんば 143 第七章同憂人

9. 西郷隆盛 第9巻

0 こん 9 1 「江戸に着き次第、俺は脱走するつもりだ」 伊牟田は是枝に告げた。「江戸にはまだ師渡八 ますみつ 兵衛、神田橋直助、益満休之助など命知らずの骨 のある連中が残っているからな。思いきりあばれ まわってやるそ。幕府と藩庁の腐れ役人どもの目 を白黒させてやるから、今に見ておれ」 「面白そうだな。俺もそのうちに行くそ。やれ城 さまっ 下士だ、郷士だ、と蝸牛の角の上で瑣末な争いを つづけている鹿児島には未練はない。せいぜい江 戸の生きのいい連中を集めておいてくれ」 そう言って、是枝は伊牟田と別れ、叡山を越え社 て京都に入り、丸太橋東詰の臥竜窟に田中河内介 を訪ねた。万延元年三月三十日のことである。 河内介はかねて薩摩の有志と声息を通じたいと章 思っていたところなので、是枝の来訪を心から喜第 び、旅館は危険だといって自宅に泊らせ、妾のお かたつむり

10. 西郷隆盛 第9巻

大久保は苦しげに答えた。 「その点については、 ・ : たしかな見込みというほどのものはないが」 りんげん 「なくては困るのだ。水戸に下された密勅の先例もある。綸言は汗の如し。一度発して再び返るよう なことがあったら、朝威を損じ、国体の大本を危くする。勅書を奏請する以上は、幕府をして必ずこ れをお受けさせるだけの準備をしておかねばならぬ」 中山尚之介が勢いこんでロを入れた。 「大島氏はおかしなことを中される。勅諚とあれば、如何なる事情ありとも実行しなければならぬ。 承詔必謹、これがわが国体の大本ではないか」 「中山君 ! 」 吉之助は大きな目で尚之介の顔を見つめて、 「そういう有難い大御代であったなら、主上の御悩みもなく、われわれの苦労もいらぬ。鎌倉に幕府 が開かれて以来、歴代の将軍は勅諚を無視する極悪なる先例を一度ならずつくっている。幕府なるも のが真に天朝の御為の征夷の府であったなら、正成の孤忠も高山彦九郎の憤死も無用であったはずだ」言 「そのくらいなことは僕にもわかっているよ。だが、君は今の幕府がそれほど強力なものだと思って 直 いるのか」 ぎようど 「すでに強弩の末であることは僕も知っている。特に、桜田事変以来、幕閣ははなはだ弱腰になって章 いる。だから、公然と勅諚を拒絶することはなし得ないかもしれぬ。おそらく表面上はお受けするで第 あろう」