「私もとんと島馴れがして、後髪をひかれる心地もする」 「だが、何と申しても、めでたい、めでたい」 伝内は家の者を呼んで酒を命した。吉之助はこころよく飲んだ。 「重野さんはもう御存じですか」 「まだ知らせてない。あんたから使いの者を立てて下さい。発つ前に。せひあっておきたい」 「さびしがるでしような」 「しかし、重野も近いうちにきっと呼び還されます」 「ほ、 ) 」 「国許に政変があって、堀や大久保がだいぶ出世をしたらしい。つまり久光公が乗り出して来られて ' 島津左衛門殿の一派が退場したというのだが、そこのところの事情は、私にはまだよく納得はゆかぬ が、大久保や吉井や有村が要職についたとなれば、重野を召還することは造作もない。もともと罪の ない男だし : : : 」 船ー 「すると、つまり国許にお帰りになると、先生も何かお役につかれるということになるのですな」 「そうは行きますまい。私はまだ幕府のお尋ね者だ。西郷吉之助は死んだということになっていて、 今度の召還も、西郷を呼び返すのではなく、菊池源吾を、いや菊池源吾でもいけない、何か新しい名鰹 前をつくって、極密に帰って来いという内命です。藩外だけでなく、藩内に対しても秘密らしい。よ章 第 ほどこみいった事情がある模様だ」 「でも、お帰りになれば先生でなければ、できない仕事が待っていることでしよう」
ばずながら尺力したのだが、われわれが君にお願いしたいのは、この一点をほかにしてない。そのほ かの事の準備はすでに充分に出来上っている。この点は御心配御無用と申しておこう」 言い切って、中山は誇り顔に口を結んだ。 吉之助は中山の言葉には答えず、ほかのことを尋ねた。 「次郎は何のために江戸に行っているのか。まさか藩邸を焼くだけが仕事ではあるまい」 「もちろん ! 」 中山が誰よりも先に引取って、「久光公の御大策を幕閣に献言して、あらかじめ了解を得ておくこと が堀君の仕事だ」 「久光公の御大策というと ? 」 「一橋慶喜と松平春嶽の罪をといて重職に任じ、幕政の根本改革を行うこと。これは斉彬公の御遺策 であることは君も御存じのことと思う。第二には、黒田公、南部公など、わが藩と因縁のふかい諸侯 にはかり、久光公参府の際に相当の待遇を与える素地を作っておくこと。御承知の通り、久光公は藩 内では国父であるが、幕府の目から見れば無位無官の一陪臣にすぎず、公武周旋のためには位不足で、言 にらみがきかぬ」 直 吉之助はうなずいた。 章 「まさに、その通り ! 」 十 おかしなところで賛成されて、中山はおやッと言いたげに吉之助の顔を見なおした。吉之助は構わ第 ず、
「一緒でしよう。二人とも藩外に追放されるのですから」 「誰がいったいそんな処分に附したのだ ? 」 「それはお察しがつくでしよう」 「大久保か」 「まあ、そこらでしよう」 「大久保はしかし、平野と秘密にあって、いろいろと懇談していた模様だったが」 「何を懇談したか知らぬが、二人が大久保の手によって檻禁されていたことは事実です。私も美玉も 城下で伊牟田にあおうといろいろ苦労したが、絶対にあわせてもらえなかった。柴山愛次郎さんも平 野氏にあおうとしたが許されなかった。あなたはあえましたか」 「まだあわぬ。大久保は都合のつき次第あわせると言ったが : 「あわせると言っておいて、あなたにも知らせず、追放してしまうのはどうしたわけでしよう。平野 氏は非常にあなたにあいたがっていたそうではありませんか」 「よし」 と叫んで、新七は手に持った箒を息子の幹太郎の手に渡し、「先に帰っておれ。お父さんは後で行 二人きりになると、新七は言った。 「俺も伊集院に行こう。どうしても平野にあわねばならぬ。今から行こう」 「そうですな。美玉の手紙では、二人とも明日の朝か昼過ぎに伊集院に着くことになっています。わ 134
同じ村に住んでいた美玉三平の紹介による。齢はもう四十をだいぶ越えているが、慷慨の気を失わす、 学問も相当に深いので、次第に同志の間に重きをおかれるようになって来た。 万延元年のはじめ、井伊大老が大獄を起して志士を斬害したという報知を聞くと、町の鍛冶屋に短 ひょう懸ん 銃を作らせて行李におさめ、飄然と家を出た。たった一人で井伊大老に一発お見舞いする決心であっ ひうが た。日向の細島までたどりついた時、初めて桜田事変の報を聞いた。是枝は行李の短銃を取出して嘆 「おい、僧鉄砲、間に合わなかったぞ。江戸には俺より気の早い奴らがいたと見える」 井伊大老は是枝が鹿児島を出る三日前に、有村次左衛門の手で首をはねられていたのである。 だが、今さらのめのめと国に帰るわけにもゆかぬので、上国の形勢を探り、豪傑の士にあおうと思 い立ち、船で大阪まで行き、京都に入ろうとしたが、警戒厳重でどうにもならない。同藩の村田新八 なども追い帰されたという。 道を転じて伊勢に行き、大神宮に詣うで、山田大路親彦を訪ねた。 山田大路親彦は大神宮の御師職で、島津家とは縁故が深い。神宮の大麻と暦を薩摩に頒けるのは山 田大路家の受持であった。安政五年の夏、島津斉彬が三千の精兵を率いて上京という噂があったとき、社 せいれいいんのみや 親彦は鹿児島に姿をあらわした。表向は例の神事の用務ということになっていたが、実は青蓮院宮の公 かげゅ たびやす 密旨を受けていたのである。親彦の妻は勘解由小路家の出で、その母は中山忠能卿の妹である。その楠 かわちのすけ 縁故から親彦は中山家の家臣田中河内介と血盟を結び、青蓮院宮を中心にひそかに回天の大略をめぐ障 らしていた。親彦は神事の用務に托して斉彬に内謁を願い出て、すぐに許された。だが内謁を待って第 いる間に斉彬は痢病に襲われ、数日の後に急逝した。大事はここに挫折したが、親彦は斉彬の霊祭執 たいま
」くらく がさっさと先に死んで行く。 : ・西郷、お前にしろ、俺にしろ、極楽には縁の遠い、死にそこないの ・こう 業つく張りに生れついて来ているらしいな」 「ふうむ」 と唸ったが、吉之助はあらたまった調子で俊斎に向い、「雄助、次左衛門のことは、まったく : : : ま ことに有難いことであった」 そう言って、頭を下げた。 「いやあ、どうも。こっちは死におくれた兄貴で、おかげ様で、評判がわるくてならぬ」 俊斎は頭をかいて見せた。 「さて、まいりましようか」 吉次郎にうながされて一同は立上った。吉之助は編笠をかむりなおし、吉次郎と肩をならべて歩き ながら、 「留守中、まことに : : : 苦労をかけた」 「いや、兄さんがお元気なのが何よりです」 「お婆さんはお達者か」 父母のない家に、ただ一人生き残っている老祖母のことを言ったのである。 「お丈夫です。なにしろ老体のことで、この冬がどうかと心配しているのですが、兄さんが帰るとい う話を大久保さんが知らせてくれてから急に元気になって若返っています。あってあげて下さい。子 供のように喜びますよ」 192
を抜き、庭木を斬り倒したりしたことも一度ならずあったが、ただそれだけで後はからりと晴れ、そ れでもほぐしきれぬ心のしこりは釣りや狩りでほぐしてしまい、絶えす反省して心の乱れを整えるこ・ とに努力しているのが愛加那にもよくわかった。けれども、力士よりも肥った厚い胸の底にひそんで いる激しい悩みや怒りの正体が何であるかということは愛加那にはわからない。良人は何も話してく れないし、愛加那も一度もたずねたことはない。 ただ、ときどき来ては泊って行く酒好きの重野安繹先生や、生真面目な見聞役の木場伝内などと具 人が話すのを聞くともなしに聞いていると、良人の住んでいる世界はかぎりなく大きく、しかも愛加 那の知っている世間とはまるでべつの世界であることがわかる。たが、愛加那はそれをさびしいとは 思わなかった。女の分際というものを生れながらに知っていて、決してその分を越えようとしない。 子供のような素直な驚きと尊敬をもって良人を眺め、自分の小さな存在が良人の世界の内にあるか外 にあるか、そんな不平めいた疑問などは一度も起したことはない。 しつめた いつであったか、酔った重野安繹が月照という和尚のことについて、しつつこく良人に問、 ことがあった。その和尚の名が出ると、いつもきまって不機嫌になり、沈みこんでしまう良人であっ船一 たが、その日は自分の方から語り出すようにして、入水前後の模様をくわしく話し、その終りに、 「あの時のことばかりは実に死にまさる恥だと思っている。なぜ武士らしく刀を用いなかったかと残鰹 念でならぬ。相手が法体の上人であるから、刀を用いるのはいかがかと思い、入水という方法をえら章 んだのが不覚の基であった。水に身を投げるのは女のすることだ。そのために上人だけを殺してしま第 くりぶね いきはじ 、自分は死にもまさる生恥をかいた。天下に対しても申訳けない。できることなら、刳舟に乗って ほったい きまじめ
大墓石ではなく、名もない石工の彫 0 た、間に合せの墓石である。めでたくもなければ、楽しくもな しかし、そんなふうに大袈裟に考えることにも飽きた。正月のつづきのような軽い気持で、新居 の新しい木の香をたのしみ、芋焼酎を飲みながら、吉之助は村人たちの祝いの言葉を受けた。 愛加那はさすがによろこびの色を包みきれない様子であった。 彼女は内地人と結婚した島娘の悲しい宿命をよく知っている。いっかは良人と別れなければならな るにん いのである。一生島で暮してしまう流人もまれにはあるが、これはよほどの大罪人で、心立ても決し ていい良人とはいえない。優しい、物わかりのいい、身分の高い良人ほど、早く内地に召喚されてし まう。島の妻は内地に行くことができないのが昔からの仕来りである。島でも表向きは召使であって、 妻ではない。良人が去ってしまえば、残された子供を抱いて一生日蔭者である。特別に軽蔑されると いうことはないが、良人からの仕送りが絶えてしまった後の暮しはまったくみじめである。 吉之助は、どんなことがあっても、自分が生きている間は決して仕送りは絶やさないから安心せよ と言ってくれた。愛加那は良人の言葉を信じている。決して口先だけの人ではない。だが、いつまで 生きていてくれる良人であろうか。島中のどの相撲取りよりも大きくて強い身体たけを見れば、この 人がそんなに早く死のうとは考えられぬ。だが、二年間、一緒に暮している間におぼろげながらわか って来た良人の経歴にはいつも死の影がっきまとっている。というよりも、いつも裸身で死と対決し ているような人である。内地に帰ったら、いつどんな不慮のことが起るかわからぬ。 見かけよりも、すっとやさしい良人であった。ときどき、理山のわからぬ激しい癇癪を起すが、そ の毒気を愛加那に吹きつけるようなことはしない。茶碗を壁に叩きつけたり、たしぬけに立上って刀 かんしやく
が、忠光は放蕩無頼な不良公卿で、官位は奪われ、親族からは義絶されている公卿仲間の鼻つまみ者 だ。忠光とあいたければ、酒と女の席さえ設ければ、いつでもあえる。近衛公に謁見したというのも でたらめだろう。まして近衛公がお前ごときに衣冠を賜わるはすはない。お前の烏帽子直垂は古着屋 の店先にぶら下っていたのを買って来たんだろう」 めんば と、面罵した。 そこまで言われても、京都から何の沙汰もないのだから、是枝には弁解の方法がない。忠愛、忠光 の兄弟には放蕩無頼の噂はあるが、現在の京都では、多少とも気慨のある若公卿は常軌を逸した反抗 的な生活をしているのだと説明しても、わかってくれる者はほとんどない。近衛公のことにしても、 文書の上の証拠はないのだから、嘘だと言われればそれまでである。是枝は奥歯を噛んで黙りこむよ りほかはなかった。 大久保市蔵も次第に是枝をうとんじはじめた模様であった。この時あたりから、大久保は浪士的な 運動方法に見切りをつけ、ます藩の政権をにぎって、然る後に事を行うという実力政策に転換し、久 社 光に近づくことを決意したのかもしれぬ。 やがて、政変が起り、藩庁の要職についた大久保一派は、同じ誠忠組の中の浪士的意見の持主や、公 楠 是枝、美玉、伊牟田などの郷士出身者を無視する態度をますます明らかにしはじめた。 是枝は「腐れ小役人の真似をする奴どもに勤皇の大義がわかってたまるか」と豪語して、谷山に引障 きこんでしまい、ときどき有馬新七のところにやって来ては、「あんたが京都に行くなら、私も一緒に第 行く。薩摩などにぐずぐすしていると、知らぬ間に逆賊の手先になってしまう」と不平をもらしてい
戦に破れたら、皇国のためまったく取りかえしのつかぬことになる。主上の御悩みも近衛公の御心労 もここにある。元寇以上の大困難がまさにわが国をおびやかしつつあるという御自覚にあるのだ。 : 君達は真剣にそこまで考えているか。京都に駐兵すると同時に、大阪、兵庫の沿岸を夷狄の鋼鉄艦 から防護するための対策を持っているかどうか」 誰も答えなかった。大久保はますます青ざめ、中山は不機嫌に口をつぐみ、小松は事の重大さに初 めて気がついたと言いたげな憂い顔であった。重苦しい沈黙の後、大久保が口を切った。 しうことは、よくわかった。たしかに、われわれの計画には粗漏な点がある。あらためて万全 「君の、 ・だからこそ、われわれは君の帰国を待っていた。中山君にしろ、小松君 を期さなければならぬ。 にしろ、君の召還のためには、どんなに苦心してくれたかもしれぬ。もっと、君の意見を聞かせてく れ。みな、君の忠言を待っていたのだ」 と、中山の方をふりかえった。中山は苦々しげな表情をくずさず、仕方なげにうなすいたが、 : 残念ながら、今夜はもうおそい」 「いかにも、その通りだが、 : どうして ? 」 「おそい ? 「御殿に御用がある。明後日は久光公の二の丸御入城だ。今夜は僕に何か特別の御内談があるという 話であった。失礼する」 と、席をけるようにして立上った。明らかな口実であるとわかっているが、久光の名を出されては ' 引きとめる方法がない。 「大島君の意見はだいたいわかったつもりだ。後は両君に聞いておいてもらえばたくさんだ」 そろ ) てき 216
小松帯刀が中山を玄関の方に送って行く。その後姿の消えた方向をにらみつけて、 「馬鹿者が ! 」 吉之助はどなった。「大久保、お前はあんな者を本気で相手にしているのか。小憎だ。小憎っ子では ないか。少年国柄を弄すとはこの事だそ」 「そう言われると耳が痛い」 「だが、あれでも中山はなかなか役に立っ男だ。少々我意が強すぎるのには困 大久保は苦しそうに、 るが、物はよくわかる男だ。君とは肌は合わぬと思うが、久光公の御信頼が厚いし、しかも君の召還 のためにはよく働いてくれた」 「それとこれとは話がちがう」 「なにしろ若すぎて、 : : : 才を頼んで思い上っている節もないではないが : 「思い上っているのは中山だけではないぞ」 そこへ小松帯刀が浮かぬ顔つきで帰って来た。大久保はとりなし顔に、 「さあ、西郷、君の意見を聞かせてもらおう。小松君と僕が相手なら、君も腹は立つまい」 「今さら、意見でもないじゃないか」 すてりふ それを捨科白に、中山は出て行ってしまった。 7 第十章直