二階 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第1巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第1巻

、やかな小 路のあるのを見つけ出した時、私は直覺的に女の家が共の奧に潜んで居ることを知った。中へ 這入って行くと右側の二三軒目の、見事な洗ひ出しの板塀に圍まれた二階の欄干から、松の葉越しに女は 2 死人のやうな顏をして、じっと此方を見おろして居た。 そらとぼ 思はず嘲けるやうな瞳を擧げて、二階を仰ぎ視ると、寧ろ空惚けて別人を裝ふもの、如く、女はにこりと もせずに私の姿を眺めて居たが、別入を裝うても訝しまれぬくらゐ、其の容貌は夜の感じと異って居た。 あば たツた一度、男の乞ひを許して、眼かくしの布を弛めたばかりに、秘密を發かれた悔恨、失意の情が見る イ、色に表はれて、やがて靜かに障子の蔭へ隱れて了った。 女は芳野と云ふ共の界隈での物持の後家であった。あの印形屋の看板と同じゃうに、几べての謎は解かれ て了った。私は共れきり共の女を捨てた。 二三日過ぎてから、急に私は寺を引き拂って田端の方へ移轉した。私の心はだん / 、、「秘密」など、云ふ 手ぬるい淡い快感に滿足しなくなって、もッと色彩の濃い、血だらけな歡樂を求めるやうに傾いて行った。

2. 谷崎潤一郎全集 第1巻

天長節も過ぎて、十一月の晩秋の空が爽やかに冴え返り、上野の森の木々の稍の黄ばむだ色が、二階の窓 から眺められる時分まで、それでも彼はどうにかして生きて居た。相變らず學校は缺席だらけ、いつも座 かせ 敷の壁の腰張りに頭を擦り附けて、枷を篏められた罪人のやうに窮屈らしく臥轉びながら、ウヰスキ 1 を 飮んだり、煙草を吹かしたり、やッとこさと落ち着かぬ神經を麻痺させて、石塊のやうな頭を抱へて居る。 さうして、時々文藝倶樂部や講釋本の古いのを引き擦り出して、可なり熱心に讀み耽ったが、たま / \ 照 子でも二階へ上がって來ると、惶て、共れを蒲團の下へ押し隱した。 「兄さん、今何を讀んでいらしったの。 ・ : そんなに隱したって、妾ちゃあんと知って居るわ。」 かう云ひながら、照子は或る時二階の窓に腰を掛けて、長い兩脚を臥て居る佐伯の眼の前に放り出した。 さ、つして 「ふ、ん」 と鼻の先で輕く笑った。照子がこんな笑ひ方をするのは、母親や鈴木を對手にする時にのみ限られて居た ものだが、此の頃は佐伯に向かってもちょいちょい用ひるやうになった。 「そんなに見られるのが耻づかしくって ? 」 つむり、、、、 と、兩手を窓の鴨居に伸ばして、房々とした庇髮の頭をがつくり俯向かせ、足許の大をからかふやうに佐 うまみ 伯の姿を見下ろして居る。汚れッほい顏が今日は見事に澄んで透き徹って、旨味のある軟かい造作が、蠍 しんこのやうな物質を聯想させた。大方體の加減でも惡いのであらう、肉附きの好い鼻や頬ッペたまで西 うる きっかふがすり 洋菓子のマシマロ 1 のやうに白々と艶気を失ひ、唇ばかりが眞紅に嫌らしく濕んで居る。大島の龜甲絣の かもゐ よご いしころ はふ 564

3. 谷崎潤一郎全集 第1巻

充血して、心臓が面白いやうにドキドキ鳴って居る。 「頭痛がするからッて、あんなにどたばた暴れないでも好いぢゃないか。何かお前さん此の頃気が、りな 5 事でもあるんちゃないか。」 、え」 と云って、彼は叔母の追究を避けるが如く、こそこそと、二階へ上がって了ふ。 けんのん いざとなったら險難なものだ。 本鄕は地盤が堅固だと云ふけれど、叔母の家なんか坂道に建って居るから、 此處の二階に住んで居た日には、如何に考へても、大地震の場合に助かりゃうがない。割合にシッカリし た普請ではあるが、體の偉大な照子が上がって來てさへ、ばたりばたり地響きがする程だから、地震の偉 大な奴に出會したら一と耐りもないだらう。「あれェ」とか何とか、叔母が土藏の鉢卷に押し潰されて悲 鳴を擧げて居る間に、親不孝の照子はさッさと逃げ出す。のろまな鈴木は逃げ損って梁の下に挾まれるか とうしても自分一人が叔母と運命を共に も知れぬが、なか / \ 共れくらゐの事で死ぬゃうな男ではない。、 しさうである。 : さう思ふと、危險極まる二階の座敷が牢獄のやうに感じられる。 一體大地震と云ふものは、略何年目頃に起るのだらう。共れに就いてオーソリチーのある説明を聞いた上、 はひ 間違ひのない所を確かめたくなったので、或る時彼はめッたに入ったことのない大學の圖書館 ~ 駈け着け、 しがく あッちこッち カ 1 ド、キャタロ 1 グの抽き出しをガチガチと彼方此方引っ張り出した揚句、斯學に關する書籍を山のや うに借り受けて、一日讀み耽ったが遂に要領を得なかった。何でも大森博士の説に依ると、大地震はいっ 何處に生ずるか豫め知る事が出來ない。古來東京には數囘の大地震があったが、將來も必ずあるとは明言 でつこは からだ そこな

4. 谷崎潤一郎全集 第1巻

少年 斯う云ふ約東になった。 「よし、さうきまったら赦して上げます。さあお起きなさい」 と、仙吉は漸くの事で手を放した。 「あ、苦しかった。仙吉に腰をかけられたら、まるで息が出來ないんだもの。頭の下に大きな石があって 痛かったわ」 着物の埃を拂って起き上った光子は、體の節々を揉んで、上氣せたやうに頬や眼球を眞紅にして居る。 「だが一體二階にはどんな物があるんだい」 一旦家へ歸るとなって、別れる時私はかう尋ねた。 「榮ちゃん、吃驚しちゃいけないよ。其りや面白いものが澤山あるんだから」 かう云って、光子は笑ひながら奥へ駈け込んで了った。 戸外へ出ると、もうそろ / \ 人形町通りの露店にかんてらがともされて、撃劍の見せ物の法螺の貝がぶう / \ とタ暮れの空に鳴り渡り、有馬樣のお屋敷前は黒山のやうに人だかりがして、賣藥屋が女の胎内を見 せた人形を指しながら、何か頻りと整高に説明して居る。いつも樂しみにして居る七十五座のお訷樂も、 永井兵助の居合ひ拔きも今日は一向見る気にならず、急いで家へ歸ってお湯へ這入り、晩飯もそこノ—に、 「綠日に行って來るよ」 と、再び飛び出したのは大方七時近くであったらう。水のやうに濕んだ靑い夜の室に縁日のあかりが溶 きんせいろう け込んで、金淸樓の二階の座敷には亂舞の入影が手に取るやうに映って見え、米屋町の若い衆や二丁目の ーいる 175

5. 谷崎潤一郎全集 第1巻

・ : : : うむ、さうだ / \ 。佐々木に違ひない。而も此れがまた別嬪を連れて來て居るぜ。 の傍に居る若い男は、何だらう。一高の奴ちゃないやうだが。」 「あれは高等商業の淺川と云ふ男だよ。僕の友達で此の間佐々木に紹介したばかりなんだ。」 宗一も漸く見付け出して、二階を仰いだが、先では一向知らないらしい。佐々木と淺川が腕組をして坐っ て居る前に、姉のお靜は母親と並んで手すりに凭れ、平土間に波打っ群集の頭の上を、餘念もなく眺めて 居る。丁度一階と二階の境目の提灯に電燈がともってお靜の額を眞下からあり / \ と照らし、うっとりと 無心に一方を視詰めた儘入形のやうに靜止して居る目鼻立を、極めて鮮明に浮き出させて居る。殊に クリとも動かさぬ瞳の色の潤澤、魅力の強さ、宗一は今日程お靜の眼つきを美しいと思ったことはなかっ 、 ) 0 「彼の女は何者だい。まさか藝者ぢゃあるまいな。」 と、杉浦が訊く。 「あの男の姉さんなんだ。」 「へーえ、佐々木もナカ / \ 隅へ置けないね。紹介してくれた君を出し拔いて、芝居へ來るなんか、彼の 男に不似合な藝當をやったもんだ。」 「僕にもちっと意外だね。たしか七草の晩に淺川の内で骨牌會があって、其の時先生を連れて行ったんだ が、あれから二三度も僕と一赭に出かけたかな。何にしても、紹介してから、まだ十日位にしかならない ヾ、 ) 0 佐々木 532

6. 谷崎潤一郎全集 第1巻

かう云び捨て、、鈴木は大急ぎで下へ行った。 何でも十一時近くであらう、共れから一時間ばかり立って、皆寢靜まった頃に、 「謙さん、まだお休みでないか。」 と云ひながら、叔母がフランネルの寢間着の上へ羽織を引懸けて、上がって來た。 さっき 「先刻鈴木が二階へ來やしないかい。」 かう云って、佐伯の凭れて居る机の角へ頬杖を衝いて、片手で懷から煙草人を出した。多少氣が、りのや うな顏をして居る。 「え、來ましたよ。」 「さうだらう。何でも歸ってきた時に、ドャドヤと二階から下りて來た様子が變だったから、行って聞い て見ろッて、照子が云ふんだよ。めったにお前さんなんぞには、ろくすつばうロも利かないのに、可笑し いぢゃないか。 全體何だって云ふの。」 ひとり 「愚にも附かない事ばかり、獨で喋舌ってゐるんですよ。ほんとに彼は大馬鹿だ。」 珍らしく佐伯は、機嫌の好い聲で、すら / 、、と物を云った。 「又私の惡ロぢゃないのかい。方々 ~ 行って、好い加減な事を觸れて歩くんだから困っちまふよ。あれで、 こがたなざいく いづれお前さんと照子とどうだとか云ふ 彼の男は馬鹿の癖になかなか小刀細工をするんだからね。 んだらう。」 290

7. 谷崎潤一郎全集 第1巻

「さうですね、行っても好ござんすね。」 と、佐々木は同じく妙に笑ひながら、煮え切らない返答をした。 「そんなら、直ぐと飯を食って出掛けよう。一時迄に集まる約東なんだから。」 ちうさん 二人は淀見軒の安いまづい洋食で晝餐を濟ますと、三丁目の停留場へ急いだ。寒空のところみ、、にちぎれ すさ / \ の雲が散亂して、烈しい北風が、砂埃を捲き上げつ、荒ぶ日であった。乘手の少い電車の中に、びつ たり體を摺寄せ乍ら、二入とも澁い顏をして膝頭を顫はせた。 うゑぎだな 茅場町の四つ角で下りて、植木店の横町へ曲ると、杵屋の家元から二三軒先の小粹な二階建の前で宗一は 立止まった。 「あ、、此處ですか。」 と云って、佐々木は「淺川」と記した軒燈の球を仰いだ。大分來會者が集まったと見えて、家の内からな たけなは まめかしい女の囀りが、酣に聞えて居る。板塀の上の二階座敷にはきやしゃな中硝子の障子が締まって、 縁側の手すりの傍に籘椅子が一脚据ゑてある。格子を開けると、ちりん / \ とけた、ましく鈴が鳴った。 「今日は。 一人ぢや心細いから、友達に援兵を賴んで、とう / \ やって來ました。」 玄關に現はれた四十三四の、如才なささうな上さんに挨拶して、宗一は活漫に口を利いた 「おや、ようこそ、さっきからみなさんが宗ちゃんを待ち焦れて居るんですよ。」 上さんは佐々木の様子を盜み視てから、再び宗一を振り返った。 「お友達はお一入なの。もっと多勢さんで入らっしゃればい、ちゃありませんか。 かみ さあ、さあ何卒 518

8. 谷崎潤一郎全集 第1巻

少年 と、夢中でロ走って手を合はせた。 すっかり後悔して、歸る事にきめて立ち上ったが、ふと玄關の硝子障子の扉の向うに、ほっりと一點小さ な蠍燭の灯らしいものが見えた。 「おや、二人共先へ這入ったのかな」 かう思ふと、忽ち又好奇心の奴隷となって、殆ど前後の分別もなく把手へ手をかけ、グルッと廻すと造作 もなく開いて了った。 らせんかい 中へ這入ると、推測に違はず正面の螺旋階の上り端に、 大方光子が私の爲めに置いて行ったもので あらう。半ば燃え盡きて蠍がとろ / \ 流れ出して居る手燭が、三尺四方へ覺東ない光を投げて居たが、私 と一緖に外から室気が流れ込むと、炎がゆらノ \ と瞬いて、ワニス塗りの欄干の影がぶる / \ 動搖して居 固唾を呑んで拔き足さし足、盜賊のやうに螺旋階を上り切ったが、二階の廊下はます / \ 眞っ暗で、人の 居さうなけはひもなく、カタリとも音がしない。例の約東をした二つ目の右側の扉、 それへ手捜り そばだ で擦り寄ってじっと耳を欹て、見ても、矢張ひッそりと靜まり返って居る。半ば、恐布、半ば、好奇の情 に充たされて、ま、よと思ひながら私は上半身を靠せかけ、扉をグッと押して見た。 ばっと明るい光線が一時に瞳を刺したので、クラクラしながら眼をしばた、き、妖怪の正體を見定めるや うに注意深く四壁を見廻したが誰も居ない。中央に吊るされた大ランプの、五色のプリズムで飾られた蝦 色の傘の影が、部屋の上半部を薄暗くして、金銀を鏤めた椅子だの卓子だの鏡だのいろ / 、 \ の裝飾物が燦 とって 177

9. 谷崎潤一郎全集 第1巻

羹 とうくわしたしむべし となく「燈火可親」と云ふ言葉に、新しいれの心を寄せた。 自分の部屋と定められた朶寮一番の石階のほとりに俥を捨て、、そっと自修室の戸を開けると、二三人の 同室生が専念に讀書して居る最中であった。 「やあ來たな。」 かう云って、机の上の本箱の蔭から頭を擡げたのは、クラスの中でも、頭腦が好くて人が好くて、いつ見 ても快活な深切な野村と云ふ男であった。 「机は彼處に二つ室いとるぞ。孰方でも君の好い方にし給へ。」 と、廊下に近いデスクの方を、野村は頤でしやくッて見せた。外の二人ーー - ー淸水と中島は、ちょいと近 眼の顏を上げて、鐵縁の眼鏡を電燈にびかりとさせながら、默ってお辭儀をしたかと思ふと、再びおもむ ろに本を讀み績けた。 「誰か濟まないが、荷物を寢室まで手傳ってくれないか。」 「お、、さうか」 と、野村は気輕に立ち上って、宗一と一緒に行李や蒲團を二階の寢室へ運びながら、 君はたしか江戸っ兒だらう。」 「僕は君の來るのを待っとったんだぞ。 と、突然つかぬ事を訊いた。 何故。」 「江戸っ兒には違ひないが、あんまり江戸っ兒らしい人間ぢゃないよ 「僕は此れから君に就いて、大いに江戸趣味を研究するんちゃ。リファインされた都會の生活と云ふもの どっち 401

10. 谷崎潤一郎全集 第1巻

など、ゝ云った。 月くる日の晝間になっても、 共の晩は殊に戸締りを嚴重にし、便所の電燈をつけ放しにして寢て了ったが、日 叔母の不安は容易に治まらない。戸外の格子が開く度毎に、ギクリとして浮き足になり、襖の蔭からおづ おづ玄關を窺って居る。 「雪や、お前使ひに出る時には、よウく内の近所を気を付けておくれ。」 「はい、別段だアれも居りませんやうでございますよ。」 こんな問答が、ひそかに交換される。 日が暮れてタ飯が濟むと、宵のうちから雨戸を立て切って、叔母はつくねんと居間に据わって居る。長火 こぎ 鉢には炭火が。ハチ。ハチ鳴りながら眞赤に燃え上り、鐵瓶の湯が、さも心丈夫に、賴もしさうに沸って居 照子は相變らず二階へ行って下りて來ない。 「ちょツ。」 と、叔母は舌打ちをして、心の中で「ほんとに彼の娘は仕様がない。人の心配も知らないで、好い氣にな って佐伯にへたばり着いて居る。 : また佐伯にしたってさうだ。どのくらゐ私が苦勞をして居るか解 ったら、さッさと家を立ち退いて了ふのが當り前ちゃないか。もう一度二階へ行って、賴んで見ようか知 惡らん。」などと呟いて居る。 ハタリ、と、綠側の戸が風を孕んで内の方へめりこんだかと思ふと、今度は外の方へ吸ひつけられるやう おもて 601