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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第1巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第1巻

「けれども彼奴は、因縁なんぞなくったって、恨む時には恨むんだから抗はない。 れるやうな気がするんだ。」 「大丈夫よ、そんな事が出來る位な、ハキハキした人間ぢゃないんですもの。 ら、先づお母様だわ。私を殺す気にはとてもなれないらしい。」 「そいつは判らないな。可愛さ餘って憎さが百倍と云ふちゃないか。」 いゝえ、たしかに殺す筈はないの。 いっか家を追ひ出された時だって、お母様ばかり嚇かして居るんで よるひる すよ。私は夜晝平気で戸外へ出てやったけれど、てんで傍へも寄り付いて來なかったわ。 照子はこっそりと前の方へ、蓋さるやうに乘り出して來る。 「共れだのに兄さんが殺されるなんて、共んな事がありつこないわ。よしんば、二人の間にどんな事があ っても : 佐伯は急に、何か物に怖れるやうな眼つきをして、 「照ちゃん僕は頭が痛いんだから、又話に來てくれないか。」 けんどん いらいらした調子で、慳貪に云ひ放った。 間もなく照子と入れ代りに、女中のお雪が上がって來て、何か部屋の中を、こそこそと捜して居る。 「お嬢さんが手巾をお忘れになったさうですが、御存じございませんか知ら、何でも洟を擁んだ穢い物だ から、持って來てくれと仰っしゃいます力 おもて かふ 、、ゝ 0 唯譯もなく殺さ けれども殺すとした 296

2. 谷崎潤一郎全集 第1巻

羹 美代子は、こんな事をすら / \ と流暢に喋舌った。 「やけになったから、誰と結婚しようが構はないと云ふのかい。」 かう云ふ意味の反問をしようとしたが、適當な、圓滑な言び廻しが出來ないので、宗一は遠慮して了った。 いくらひいき目に考へても、自分に遠慮と云ふ気分を作らせるだけ、女は人形町時代から見ると、多少態 度が異なってゐた。 會はないうちは、手紙の文句から推量して女の身の上を憐れんで居たのに、今は自分が憐れまれるやうな 境遇に轉じた。女はどん / \ 思ひのま、を喋舌って行かうとするのに、男にはどうしてもそれが出來ない。 何とかして今日一日の間に、此の不自然な關係を打ち破って、昔の通りの親しみ易い間柄に復らなければ ならなかった。 「かうやって、歩きながら話をして居ても仕様がない。 湯島五丁目の停留場のところで、宗一はふと立ち止って、 「何時頃に歸ればい、の。」 と、優しく訊いた。 「八時ごろまでの積りで出て來たんだけれど、日一杯に歸ればい、わ。」 かう云って、美代子は今日の外出のロ實を話した。幼い折の乳母が東京から尋ねて來て一泊したのを幸び に、新橋まで送りがてら、ちょいと出て來たのだと云った。其れも父の不在を附け込んで、半ばは喧嘩腰 で母に泣き着き、 ばあや 441

3. 谷崎潤一郎全集 第1巻

子を配ったりする。其れを樂しみにやって來る連中が多いのだと云ふ。 いよ / 、正面の棧敷に通されて、間もなく舞臺の幕が上ると、兩花道から娘子軍の一隊が、踊りながら繰 り込んで來る、觀客席の兩側には囃しと地方がずらりと列んで「有職四季の眺め」とか云ふ新曲を賑やか に唄ふ。 去年迄は蠍燭を用ひたのに、今年はすっかり電燈になって、フット・ライトが燦爛と友禪の振り袖を燃や す。背景もなか / \ 大道具で、最初に子の日の松を描いた金襖が、サッと開くと紫宸殿になり、紫宸殿か さがの わたどの 次から ら一轉して嵯峨野の夏の夜景となり、再轉して宮中の渡廊となり、國技館の五段がヘしのやうに、 次へと几そ八度も變る。共の度毎に娘子軍は持ち物を取換へて、再び舞臺に繰り込んで來る。お白粉が濃 い上に、着附けがけば / ( 、しいので、何となく吉原の張見世を想ひ出す。 見て居るうちに馬鹿々々しくなって、私は大の字に寢ころんで了った。要するに、俗惡なものであるが、 來月から始まる先斗町の加茂川踊りには、多少昔の風趣が殘って居ると云ふ。 嵯蛾野 雨模様の空が鼠色に蕓って、蒸し / \ と脂汗の湧く襟頸へ妙に冷やかな風の吹き人るタぐれであった。金 子さんと河合さんが、私の宿屋へやって來て、此れから嵯峨野へ案内しようと云ふ。 ところへ、兼ねて申し合はせたものと見えて、此の間の祇園の老妓ーー , 。。・おこうさんが、若い藝子を今一 人伴れて駈け付けて來た。 ぼんと ちかた ししんでん 348

4. 谷崎潤一郎全集 第1巻

町家の隱居これから一としきり世間が象で持ち切りますな。 此の時、上手遙かに、三味線、笛、太鼓、拍子木の音きこゅ。 湯女の一おや、そろ / \ 行列がやって來るよ。 子供を背負ひたる小僧さあ、坊ちゃん。もう直きですよ。 皆子供が居るんだから、さう押さない でお呉んなさい。 わっちそこ 男の聲 ( 後の方にて ) え、、眞っ平御免ねえ。私を其處へ割り込ましておくんなせえ。 仲間風の男 ( 後をふりかへり ) 誰だ、誰だ、無暗に押して來ちゃあ危えぢゃねえか。 同心こら / \ 騒いではならん。 鳶の者 ( 兩手にて見物人を後へ押しながら ) お前はいくら云っても、前へ出て來るのだな。皆もっと後へ退った、 退った。 多勢の聲 ( 後の方にて ) さう押して來ちゃあ、お湟へ落ちるちゃねえか。 與力あ、町人々々。土手の上へ上っては相成らんぞ。 町家の隱居 ( 群衆にもまれてよろど、しながら ) 象を見るのも死ぬゃうな苦しみですな。 娘の聲 ( 後の方にて ) あれ工、苦しいツ、皆押さないで下さいよう ! 遊び人おや N--- 、何處かで女が苦しがって泣いてるぜ。あんな色氣のない聲を出す位なら、見物に來な 湯女の二あら、亂暴だねえ、此の人は。結ひたての髪が滅茶々々になっちまふちゃないか。 ほりおっこ みんな

5. 谷崎潤一郎全集 第1巻

矢場の女や、いろイ \ の男女が兩側をぞろ / \ 往來して、今が一番人の出さかる刻限である。中之橋を越 えて、暗い淋しい濱町の通りからうしろを振り返って見ると、薄曇りのした黑い室が、ぼんやりと赤く濁 染んでゐる。 いっか私は塙の家の前に立って、山のやうに黑く聳えた高い甍を見上げてゐた。大橋の方から肌寒い風が しめやかに闇を運んで吹いて來て、例の欅の大木の葉が何處やら知れぬ空の中途でばさら / \ と鳴って居 る。そうッと塀の中を覗いて見ると門番の部屋のあかりが戸の隙間から縱に細長い線を成して洩れて居る ばかり。母屋の方はすっかり雨戸がしまって、曇天の背景に魔者の如く森閑と眠って居る。表門の横にあ る通用ロの、冷めたい鐵格子へ兩手をかけて暗闇の中へ押し込むやうにすると、重い扉がキーと軋んで素 直に動く。私は雪駄がちゃらっかぬゃうに足音を忍ばせ、自分で自分の忙しい呼吸や高まった鼓動の響き を聞きながら、闇中に光って居る西洋館の爾子戸を見つめて歩いて行った。 かすがどうろう 次第々々に眼が見えるやうになった。八つ手の葉や、欅の枝や、春日燈籠や、いろノ \ と少年の心を法え さすやうな姿勢を取った黒い物が、小さい瞳の中へ暴れ込んで來るので、私は御影の石段に腰を下し、し ん / \ と夜気のしみ入る中に首をうなだれた儘、息を殺して待って居たが、いっかな二入はやって來ない。 頭上へ蓋さって來るやうな恐怖が體中をぶる / \ 顫はせて、齒の根ががく / 、、わな、いて居る。あ、、こ んな恐ろしい所へ來なければ好かった、と思ひながら、 「訷様、私は惡い事を致しました。もう決してお母様に謔をついたり、内證で人の家へ這人ったり致しま せん」 せは おび 176

6. 谷崎潤一郎全集 第1巻

と、杉は顏で憤慨したが、共の實足許は危かった。 インキとノ 1 ト 「いやさうでない。 の金位家へ行けば出來るから今一寸立て換へてくれ。早速教場へ出ら れんちゃ困る。大丈夫だよ。一寸買って來る。」 委細構はず原田が戸外へ駈出すと、何と思ったか杉が後から、 「おい、原田ア。」と呼び止めて、 「序に菓子を五錢買って來い。」 もう斯うなると百圓は金額が大きいだけそれだけ、遙か遠くへ隔たった感がある。 あまからせんべい 原田の買って來た辛煎餅をばり / \ やりながら、運動場の芝生に臥轉んで、杉が眞面目にこんな事を云 ひ出した。 「だが能く考へて見ると、此の計畫は明かに人に聞かれて好ましい事ぢゃない。何と云っても丸善とそれ から僕等から本を買ひ取った入を欺く事になるんだからな。たかが授業料三十圓の爲めにそんな不徳を働 かんでもすむぢゃないか。」 なじ 。如何にも他人の不都合を詰るやうな口調で、原田と私を睨めつけながら、自分の企てた計畫を堂々と攻撃 した揚句、とうとう滅茶苦茶にして了った。 「それよりは此の三圓で愉快に遊ばう。そして今夜は妙法寺へ來て泊るさ。面白いぜ、それも。」 妙法寺と云ふのは杉の間借りをして居る牛込原町のお寺オ 「止すなら止しても好えが、然し君等はいざとなると駄目な男ちゃ。私や屹度獨りでもやって見せるぜ くてう 、よ ) 0 ねころ

7. 谷崎潤一郎全集 第1巻

徨 彷 るだらうなあ。」 と、太田は酒を借りて自分の眞情を打ち明けると云ふ風に云った。 「酒を飮むのは結構な事ちゃないか。」 猪瀨の眼つきはもう醉って居た。彼の下腹からは熱い液體が沸騰して胸へつき上げて來た。「不思議なる 酒のカよ。」と彼は心の中で思った。 「太田さん、ちょいと。」 かう女中が障子の外で呼んオ と、太田は威勢よく廊下へ出て行って、暫くひそ / \ 話をして居たが、 「馬鹿を云へ。」 すてぜりふ と、捨臺辭を殘して座敷へ入って來た。 「君、今直きにお才が來るよ。」 「それはお樂しみだね。」 と、猪瀬は柄にない冗談を云った。 お才は間もなくやって來た。少し地味な縞の透綾に、白繻子へ、墨繪の鷺を描いた丸帶ー・ーー、それは彼の ひすゐ 女が下谷で商賣をして居る時分さる大家が醉筆を奮ったものであった。 銀杏返しに翡翠の根掛けを かけた樣子は、こて / ( \ と化粧した踊舞臺の姿よりはすっきりと見えた。 ミ」 0 すぎや しろじゅす 137

8. 谷崎潤一郎全集 第1巻

廊下へ出た。 久しく書籍に親しまなかった宗一は、學校のかへりに神田の中西屋から丸善へ廻って、早速語學の教科書 だけを取り揃へ、ついでにホ 1 ソンのツワイス、トールド、テ 1 ルスや、獨逸譯と英譯のダンテの禪曲な どを買ひ求めた。さうして、途々電車の中や往來を歩きながら、丁寧に包んでくれた覆ひの紙を解いて、 レクラム本のアンカットの頁を指で切り開いて、物珍らしさうに一枚一枚眼を通した。少しの手垢も着か ない、純白な紙の面には、獨逸の活字がこまかく鮮かに印刷されて、遠い洋の向うの、燦爛たる文華の國 を想はせるやうな、甘い匂が爽かに鼻をそ、った。名ばかり聞いて居て、まだ手に觸れた事のなかった一 卷のヱルテルを、これから日に二三節づ、習ひ覺えて、遲くも來年の春頃までに讀破することが出來ると 思ふと、新學期の希望も快樂も幸も、共のうちに潜んで居るやうな心地がした。 濱町の家へ歸って、彼は暫く二階の書齋の本箱にいろ / \ の本を出し入れした後、レクラムはレクラム、 キャッセルはキャッセルと云ふ工合に並べながら、遠くの方から眺めて見たり、また抽き拔いて拾ひ讀み をしたり、そんな風に午後の半日を潰して了った。早く獨逸のクラシックがすら / \ と理解されるやうに さらいねん なりたい。少くとも今の自分の英語の程度ぐらゐに、喋舌ったり書いたりするやうになりたい。再來年の せふれふ 夏、法科大學へ入るまでには、是非とも獨逸語で科學や哲學や文學の書類を、一とわたり渉獵してしまひ かう云ふ旺盛な知識慾の策勵を甘受しつ、、自分の光輝ある將來に就いて、彼はさまみ \ の 空想を描いた。 しかし、共の光輝ある將來も、美代子と云ふ者が居なかったら、何等の價値も興味もないのであった。美 397

9. 谷崎潤一郎全集 第1巻

かう云び捨て、、鈴木は大急ぎで下へ行った。 何でも十一時近くであらう、共れから一時間ばかり立って、皆寢靜まった頃に、 「謙さん、まだお休みでないか。」 と云ひながら、叔母がフランネルの寢間着の上へ羽織を引懸けて、上がって來た。 さっき 「先刻鈴木が二階へ來やしないかい。」 かう云って、佐伯の凭れて居る机の角へ頬杖を衝いて、片手で懷から煙草人を出した。多少氣が、りのや うな顏をして居る。 「え、來ましたよ。」 「さうだらう。何でも歸ってきた時に、ドャドヤと二階から下りて來た様子が變だったから、行って聞い て見ろッて、照子が云ふんだよ。めったにお前さんなんぞには、ろくすつばうロも利かないのに、可笑し いぢゃないか。 全體何だって云ふの。」 ひとり 「愚にも附かない事ばかり、獨で喋舌ってゐるんですよ。ほんとに彼は大馬鹿だ。」 珍らしく佐伯は、機嫌の好い聲で、すら / 、、と物を云った。 「又私の惡ロぢゃないのかい。方々 ~ 行って、好い加減な事を觸れて歩くんだから困っちまふよ。あれで、 こがたなざいく いづれお前さんと照子とどうだとか云ふ 彼の男は馬鹿の癖になかなか小刀細工をするんだからね。 んだらう。」 290

10. 谷崎潤一郎全集 第1巻

か ) ・もり おくくふ て閉めるのが億劫なのか、座敷の中央に洋傘をさして寢て居た。爾來三人は肝膽相照して毎日のやうに此 處に集っては Tabaks-C011egium に夜を更かした。几そ我々のスクール・ライフ中に生じた主な出來事は 大抵三人が共通であった。唯一つ勉強と云ふ事だけが共通でなかった。それは勉強なるものが決してスク 1 ル・ライフの中の主なる出來事ではなかったからだ。 一と先づ千駄木の原田の下宿に落ち付く事になって、駒込の方へ歩き出した。もう好い加減戸外を歩いて 居る事は忘れて、往來の端から端へ轉がりながら砂埃を蹴って笑って行く。其の度毎に杉は子供のやうに 意莱地なく鼻をす、り、袂からボロボロの紙屑を撰り出しては鼻をかんだ。私は下駄の鼻緖が今にも切れ さうなので、可なり其の方も心配になった。 まむろ 「間室は暗い顏をして居るなあ。もうちっと日當りの好い顏になれないもんかな。」 一町も先からやって來る友達の顏に狙ひをつけて、突然杉がこんな事を云ひ出した。 「ありや可かんぜ工君、ありや一生女に惚れられん顏ちゃ。あ、云ふ顏を持った男はもう浮ぶ瀨がな 顏の事になると、原田は他人より一倍眼が肥えてると云った風に批評するのが癖で、結局惚れるとか惚れ いろけ られないとか、話を色気の方へ持って行って決着を付ける。 「・ : : : : 時に山崎さん。君、若竹へ出て居る名古屋藝者を見たかな。」 山崎は私の名だ。 「うむ、見た。」 じらい