母親の起し方はいさ、か親父のと趣を異にする。 始めは唯階段の上り口で、 「祿造、祿造。」 と、名ばかり呼んで居る。返辭がないといつまでも「ロクゾ 1 」「ロクゾー」を繰り返して果てしがない から、「フン」と鼻で答へると、矢張「ロクゾー」を續ける。かうして五六遍相呼應するが、母親も默ら かんだか なければ私も起きない。すると今度は一段甲高い調子で、 「さっさと起きないかッたら、何してるんだい。ふんとにもう何時だと思ふんだ。九時過ぎぢゃないか。 片附かないで仕様がありやしない。おみよっけも何もさめちまはア。ふんとにまああらうかしら、働き盛 りの奴が書過ぎ迄ッつも寢てるなんテ、能くそれで大學生でございッて云はれたもんだ。」 こさこと 此の長々しい叱言が、母親の口から出て階段を駈け上り、寢けた私の耳ヘロ惜しさうに喰ひ付くだけな ら料簡も出來るが、壁一重のお隣に住んで居るお琴さんにまで聞えるかと思ふと、ちっとやそっとの恨み がっぺき ではない。何の事はない、母親は自分のロの粗暴な事と、墮落書生の忰を持った事を、近所合壁へ出來る ぎゃうさん だけ仰山に、出來るだけ廣く、あらん限りの聲を絞って吹聽するに止まる。それでも母親は二階へは上っ て來ない。實はこの前一一三度例の如く母親が「ロクゾ 1 ロクゾー」とやってる間に、「フム、フム」と わざ ねぼけごゑ 故意と寢惚聲の生返辭をしながら大急ぎで起き上って蒲團を疊み、着物を着換へ、澄まし込んで机に向っ て居ると、共れと知らず母親は「よし、よし、蒲團をまくってやるから。」とか何とか、急き込んで上っ て來たが、案に相違の體たらくに間拍子惡く退却した事があるので、又しても此の手を喰ふのを恐れて居 おもむき
町家の隱居これから一としきり世間が象で持ち切りますな。 此の時、上手遙かに、三味線、笛、太鼓、拍子木の音きこゅ。 湯女の一おや、そろ / \ 行列がやって來るよ。 子供を背負ひたる小僧さあ、坊ちゃん。もう直きですよ。 皆子供が居るんだから、さう押さない でお呉んなさい。 わっちそこ 男の聲 ( 後の方にて ) え、、眞っ平御免ねえ。私を其處へ割り込ましておくんなせえ。 仲間風の男 ( 後をふりかへり ) 誰だ、誰だ、無暗に押して來ちゃあ危えぢゃねえか。 同心こら / \ 騒いではならん。 鳶の者 ( 兩手にて見物人を後へ押しながら ) お前はいくら云っても、前へ出て來るのだな。皆もっと後へ退った、 退った。 多勢の聲 ( 後の方にて ) さう押して來ちゃあ、お湟へ落ちるちゃねえか。 與力あ、町人々々。土手の上へ上っては相成らんぞ。 町家の隱居 ( 群衆にもまれてよろど、しながら ) 象を見るのも死ぬゃうな苦しみですな。 娘の聲 ( 後の方にて ) あれ工、苦しいツ、皆押さないで下さいよう ! 遊び人おや N--- 、何處かで女が苦しがって泣いてるぜ。あんな色氣のない聲を出す位なら、見物に來な 湯女の二あら、亂暴だねえ、此の人は。結ひたての髪が滅茶々々になっちまふちゃないか。 ほりおっこ みんな
枕許の疊がもくもく持ち上がるやうな氣持がした。疑ひもなく、照子が彼の眞正面へ來て、どっかと据わ り直したらしい 兄さんは、、 もくらあたしを馬鹿にしたって、あたしの方から蔽蓋せて出れ 「解ってよ、解ってよ、 ば、どうする事も出來ないんでせう。」 じゅもん 女は呪文を唱へるやうにくどくどと云って、片手で佐伯の手頸をみ、片手で顏へあてがった十本の指を たなご、ろ 解き始める。痩せた手頸を樂に一と廻りした掌は、柔かく冷え冷えとして、指先などは金屬製の腕輸の ゃうに、痛い程凍え切って居る。指を解いて居る手は、今迄懷にあったせゐか、いやににちゃにちゃ脂が 湧いて生暖かく粘って居る。 男の指には、可なりカが入って居ながら、強ひて抵抗するやうな様子もなく、針線を撓めるやうにして、 一本一本解かれて了った。 「惡魔 ! 惡魔 ! 」 と、彼は物狂ほしく連呼したが、やがてばっちり眼を開くと、女の顏は思ったよりも、もっと間近く、自 あか 分の顏の直ぐ前に殺到して居る。彼は明るみで、人間の面をこんなにまざまざ見たことはない。唯でさへ はひ ひろる \ と餘裕のある顏が、瞳へ入り切れない程擴大されて、白っほく、壁のやうに塞がって居る。共の あら 壁のおもては一體に靑ざめて、肌理が非常に粗く、一と通りの気味惡さではないが、不思議に妙な誘惑カ を藏して居るらしい。殊に怪物のやうな眼の球が、ぎろり、ぎろり光って、佐伯の魂を追ひ駈ける。 ー動物電氣と云ふのは、大方かう云ふ作用を云ふのだらう。彼は共の場で印座に気死にするやうな訷心の ほど らく ほど はりがねたわ おツかぶ 574
え立つやうな紅い半襟の隙から、淺黒い坊主頭の愛嬌たつぶりの顏を始めて現はしました。 河岸を換 ~ て又一と遊びと、其處でも再び酒宴が始まり、旦那を始め大勢の男女は芝生の上を入り亂れて、 踊り廻り跳ね廻り、眼隱しやら、鬼ごッこやら、きやッきやッと云ふ騷ぎです。 あかはなを 例の男は振袖姿のま、、白足袋に紅緖の麻裏をつツかけ、しどろもどろの千鳥足で、藝者のあとを追ひか けたり、追ひかけられたりして居ます。殊に其の男が鬼になった時の騒々しさ賑やかさは一入で、もう眼 隱しの手拭ひを顏へあてられる時分から、旦那も藝者も腹を抱へて手を叩き、肩をゆす振って躍り上りま す。紅い蹴出しの蔭から毛脛を露はに、 「菊ちゃん / \ 。さあっかまへた。」 さび など、、何處かに錆を含んだ、藝人らしい甲聲を絞って、女の袂を掠めたり、立ち木に頭を打ちつけたり、 無茶苦茶に彼方此方へ駈け廻るのですが、擧動の激しく迅速なのにも似ず、何處かにおどけた頓間な處が あって、容易に人を掴まへることが出來ません。 皆は可笑しがって、くす / と息を殺しながら、忍び足に男の背後へ近づき、 「ほら、此處に居てよ。」 と、急に耳元でなまめかしい聲を立て、背中をほんと打って逃げ出します。 「そら、どうだ / \ みゝたぶ と、旦那が耳朶を引っ張って、こづき廻すと、 「あいた、あいた。」 みんな かんごゑ ひとしほ とんま 192
少年 かきがら もう彼れ此れ二十年ばかりも前にならう。漸く私が十ぐらゐで、蠣殼町二丁目の家から水天宮裏の有馬學 あきうどやこんのれん カ / \ と日があたって、取 校へ通って居た時分ーー - 」人形町通りの空が霞んで、軒並の商家の紺暖簾にぼゝ り止めのない夢のやうな幼心にも何となく春が感じられる陽気な時候の頃であった。 そろばん 或るうら / \ と睛れた日の事、眠くなるやうな午後の授業が濟んで墨だらけの手に算盤を抱へながら學校 の門を出ようとすると、 「萩原の榮ちゃん」 うしろ と、私の名を呼んで後からばた / 、、と追ひかけて來た者がある。其の子は同級の塙信一と云って人學した 當時から尋常四年の今日まで附添人の女中を片時も側から離した事のない評判の意氣地なし、誰も彼も弱 虫だの泣き虫だのと惡口をきいて遊び相手になる者のない坊ちゃんであった。 「何か用かい」 珍らしくも信一から聲をかけられたのを不思議に思って私は共の子と附添の女中の顏をしげ / \ と見守っ こ 0 「今日あたしの家へ來て一緖にお遊びな。家のお庭でお稻荷様のお祭があるんだから」 緋の打ち紐で括ったやうな口から、優しい、おづ / \ した聲で云って、信一は訴へるやうな眼差をした。 いつも一人ばっちでいぢけて居る子が、何でこんな意外な事を云ふのやら、私は少しうろたへて、相手の うち まなざし 145
羹 てぐん / \ と手を引張って行って貰ひたかった。 「橘さん、君は何を食ふんちゃ。私はがんもどきと燒豆腐にしよう。それから其の月見芋を取ってくれ ぐっ / \ 湯莱の立った煮込みの鍋を前にしなが ・氣が付いて見ると、橘はおでん屋の暖簾を潜って、 ら、山口と肩を並べて居た。 大いに景氣をつけてこれからい、處へ繰り込む 「それから姐さん、正宗一本、お墹を熱くしてな。 んぢゃ。だが何ぢゃな、この姐さんのやうな別嬪が云ふ事を聽いてくれゝば、私は何處へも行きたうない 山口は一二杯飮んだかと思ふと、直ぐに眞赤な顏になって他愛もなく女中にからかって居る。もう先のや うな勿體ぶった素振りや仔細らしい態度は、疾うに飛んで行ってしまったらしい。 くど 「君は女さへ見れば誰を掴まへても口説くんだな。あの女が何處がい、んだい。」 おでんやの店を出ると、橘は苦々しさうに云った。 「い、女ぢゃないか君、色が白くってぼっちやりとして居て、私ゃあ、云ふ愛嬌のある女が好きぢや、君 は全體標準が高過ぎていかんわい。淺草へ女を買ひに來るのに、新橋の一流の待合へ行くやうな了見で居 るからいかんのちゃ。あのおでん屋の姐さんのやうなのが惡かったら、吉原でも千東町でもとても滿足で きやせん。だから先も斷って置いたんぢゃ。ほんたうに君、案内するのもえ、が、後になって、恨んだり しちゃ困るぜ工。そのくらゐなら私は御免を蒙りたいもんちゃ。」 ねえ さっき つか わし さっき 549
まうとう 破らうと云ふ氣は毛頭なかった。生れてから始めて、唯一人の最愛の女にのみ許した貴い肌を、旅先の見 知らぬ女に左右なく汚されるのは、自分に對しても戀人に對しても、濟まないやうな氣がした。行く先々 ざれごと の宿屋や料理屋で、愛嬌のある女中と見れば彼は殊更其れに近附いて戲談を戰にせ、自分が如何程誘惑に 堪へ得るかを試すやうな事もして見た。さうして、東京の戀人が、どのくらゐ自分の心の上に威力を加へ ほのほ、、 て居るかを測って見ては、體の中に焔々と渦を卷いて燃え上る煩惱の炎をちッと抑へて、云ひ知れぬ痛快 を感じるのであった。 然し十日二十日と立つうちに、やがて彼は desire の發作を痛快がってばかりは居られなくなった。此の 様な生理上の不可抗力と惡戰苦鬪しながら、二た月も三月も旅行を績けて行く忍耐、又その間に幾度も出 おぼっか 會はなければならぬ諸種の誘惑を考へて見ると、先々の辛抱が覺東ない様にさへ思はれて來た。第一、頭 かんじん が始終共の爲めに煩はされて、肝心の職業たる藝術の方は、全く棄てられて了って居た。今更彼は自分の 意志を呪ひ、自分の體質を呪はない譯には行かなかった。 「あ、、己は仕樣のない男だ」 びとりごと かう獨語を云って、あきらめたやうに書きかけた寫生帖をポッケットへ突込むこともあった。 或る日、彼は黒澤尻から盛岡へ行く汽車の中で、三人の癩病患者と乘り合はせた。共の中の三十五六にな る一人の男は、びゝ / \ 光る縞銘仙の衣類の上に、古い茶色のインバネスを纒ひ、病毒の爲めにところ かほだち 崩れか、った凄じい容貌を持ってゐた。他の二人は顏立の似てゐる所から見れば、共の妹であらう。 まだ病毒は肌をこそ犯さね、此の患者に特有な deadwhite の皮膚の色と云ひ、墨を引いて胡麻化した薄 さう 219
醫者の許に通って、こっそりと服藥しなければなるまい。事によると、自分は此のま、だんだん頭が腐っ て行って、癈人になるか、死んでしまふか、いづれ近いうちにきまりが着くのたらう。 「ねえあなた、どうせ長生きが出來ない位なら、わたしがうんと可愛がって上げるから、いっそ二三年 も落第して此處にいらっしゃいよ。わざ / \ 東京へ野たれ死にをしに行かなくてもい、ちゃありません ひか 岡山で馴染みになった藝者の蔦子が、眞顏で別れ際に説きす、めた言葉を思ひ出すと、潤ひのない、乾涸 らびた悲しみが、胸に充ち滿ちて、やる瀬ない惱ましさを覺える。あの色の靑褪めた、感じの鏡い、妖婦 じみた蔦子が、時々狂人のやうに興奮する佐伯の顏をまちまぢと眺めながら、よく將來を見透すやうな事 を云ったが、殘酷な都會の刺戟に、肉を啄かれ、骨をさいなまれ、いたいたしく傷けられて斃れて居る自 分の屍骸を、彼は實際見るやうな気がした。さうして十本の指の間から、臆病らしい眼つきをして、市街 の様子を垣間見た。 俥はいっか本鄕の赤門前を走って居る。二三年前に來た時とは大分變って、新らしく取り擴げた左側の人 うるし みちぶしん 道へ、五六人の工夫が、どろ / \ に煮えた黒い漆のやうなものを流しながら、コンクリート の路普請をし かげろふ て居る。大道に据ゑてある大きな鐵の桶の中から、赤熱されたコークスが炎天にいきりを上げて、陽炎の ゃうに燃えて居る。新調の角帽を冠って、意気揚々と通って行く若い學生達の風采には、佐伯のやうな悲 慘な影は少しも見えない。 ライヴァル 「彼奴等は皆己の競爭者だ。見ろ、色つやのい、頬。へたをして如何にも希望に充ちたやうに往來を濶歩し ったこ ほっ たふ 276
心を惹かされた。彼は共れから雨が降っても、槍が降っても、會場へ出かけて半日を立ち暮らし、毎日々 々共の彫刻の前に涙を濺いだ。 しかし展覽會が終りを告げて、もう再び「秋」を眺める事が出來なくなった日の悲しみは、どんなであっ たらう。彼は又も戀人に死なれたやうな遣る瀨ない思ひがした。いろ / ( 、「秋」の行くへを調べて見ると、 今は見知らぬ人手に渡って、江州彦根に持って行かれたさうである。彼は遂に溜らなくなって、意中の悶 々を兩親に打ち明け、共の承諾を得て自ら彦根に赴いた末、彫刻の持ち主に面會して、涙ながらに懇望の 次第を語った。 いちもん 共の結果、持ち主も可憐な靑年の衷情を思ひ遣って大に同情を寄せ、一文も取らずに「秋」を贈與してく れたから、彼は此再生の恩人の好意をあまた、び感謝し、大切に彫刻を抱へて東京に戻って來た。 其の學生の年級は判らないが、何でも一部の法科に違ひないと云ふ噂。 そいっ あにはから 「共奴は素敵だ。何しろさう云ふ感情家の事だから、定めし文科にでも居るのかと思ふと、豈圖んや、我 が法科に居ると云ふのは、素敵ぢゃないか。」 と、先づ第一に感嘆の聲を放って、ゾクゾク嬉しがったのは、杉浦だった。 やさをとこ 「一體其奴は何年級の男だらう。どうも吾々の知ってる範圍に、そんな優男は居さうもないぜ。」 さま 「己達の仲間でないことだけは確かだよ。かう見渡したところ孰れも様が熊見たやうな連中ばかりだから えんぶくか すこぶをんたう まさかとは思ふが、若しゃ吾が黨のうちにソンナ艶家が存在するとなると、頗る穩當を缺くやうだから、 クラス そゝ ちゅうじゃう 310
宮の大夫齊信、母屋の御簾を排して現れ、庇間の群衆を分けつ、、、倉皇として道長の許に馳せ來る。 齊信大殿へ聞え上げまする。 道長おう何事ちゃ。 と云ひっ、、子供の手を振りほどきて、心配さうに齊信を見る。 さ 齊信もはや程なく御誕生あるべきなれど、何樣おん物怪に遮へられて、いみじき御惱みの御様子故、萬 おんいたゞきおぐし 々一の事ありてはと、觀音院の僧正がす、めに從はせられ、御頂の御髮落させたまひ、御受戒遊はす 所にござりまする。 おんいむごと 道長なに、御戒言を受けさせらる、か。 ことば 齊信は、ツ。唯今僧正が受戒の詞を讀み上げられまする。 な 列み居る僧俗一同、讀經をやめて謹聽する時、母屋の中にて僧正整高らかに受戒の詞を朗讀す。 ほうれき ひた ぎよい 僧正の聲あはれ鳳暦は霜幾くならず、玉顏も浪未だ浸さずおはしますを、替撼の御意の發し給ひけるこ もとゞりみづか しったたいし だんどく そは、貴きものから、悲しくぞ覺えける。髻を自ら落し給ひし悉達太子の昔を思ひやれば、檀特の山は 跡暗うして、見て、悲しむ人少くこそありけれ。戒を人に受け給へる、國母の今を見奉れば、日本の國 こぞ は擧りて恩を惜む繁かりけり。いでや今日こそは五戒を悉く持ちおはしませ。苔を穿たぬ輕きおん歩み、 はちす せんえふくわだい ひやくおくれんえふしやくそん 蓮にうけて傾かずぞ候ふ可かりける。千葉花臺の舍那、百億蓮葉の釋奪、諸共に百年の戒を守り給ひて、 くぼんれん おんくどく しゅじゃうあまね 九品蓮に昇り給へ、聞き給へ。御功德限あらず。法界の衆生迄普く及ばむ。 道長大夫、あの僧正の詞を聞かれい。まだうら若い御身室で、長くも、いみじうも思し立たれたりな。 じゅかい ほっかい しゃな い」じゅかい