「共の後、美代ちゃんから手紙でも寄越したのかい。」 いんしん 「あれきり音信不通になって居ます。 何も彼もお父さんにお任せした以上、當入同士は直接に往來 しないと云ふ約東をしたんですから。」 「何卒此れからもさうしておくれ。本來ならかうなる前に、私の耳へ入れてくれ、ばよかったんだよ。そ れをお前が蔭へ隱れて、内々美代ちゃんと相談なんかしたものだから、向うでも少しは気持を惡くしたん だらう。今となって、其れを云っても仕様がないがね。 たヾ私が心配するのは、お前が待っと云っ たところで、此れから先何年か、るものか判らない。美代ちゃんだって、だん / \ 月日が立つうちには、 どう變らないとも限らないから、一途に其れをあてにすると、飛んだ間違ひが起ると思ふ。」 「しかし、私は美代ちゃんの性質から考へて、其の點だけは疑はないんです。」 い、え。此ればかりはナカ / ( \ 當人の思ひ通りに行かないものなんだから、 いくら美代ちゃんが其の積 りで、堅い約東をしたからッて、先の事は判りやしないよ。當人同士は勿論、親と親とが立派に取り極め た許嫁でさへ、五年十年と立つうちには隨分破談になるぢゃないか。お互に明日が日貧乏するかも知れな そんな事があ いし、いっ何時病気にか、って、死なない迄も片輪になるとか、一生直らないとか、 ってくれちや大變だけれど、人の身の上はどうなるか判らないんだから、共の時になって、以前の約東を 楯に取る譯にも行かなくならあね。それに女は気が弱いから、親に手を合はされて、拜まれでもして御覽、 こと いっ迄強い言も云って居られないから。」 「私だけは、どんなに境遇が變ったって決して違約しない積りです。けれども先がそんな薄情な眞似をす 498
羹 かう云って、宗一は。ハタリと母の傍へ腰を落した。 「さうも云へないが、美代ちゃんのおッ母さんが不承知らしいから、私やむづかしからうと思ふ。お父さ んも心配なすって、今月になってから、二三度小田原へいらしったんだよ。いろ / \ 手を換へ、品を換へ てお賴みなすったらしいけれど、何しろお綱さんは、若い時分から剛情な人でね。自分が斯うと云ひ出し たからは、後へ引くやうな性分ぢゃないんだもの。」 聞いて居るうちに宗一は、身が沈んで行くやうな、果敢なさ、便りなさを覺えて、悲しみが胸一杯に充瞞 「わたしも美代ちゃんなら差支ないと思ふし、殊にお前がさう云ふ考へだから、成る可く纒めるやうにし たいと思ったんだけれど、先方が許さない以上は、仕方がないぢゃないか。お前、何とか考へ直して見る 氣にはならないかい。」 「ほんとに駄目となったら、考へ直すも直さないもありません。 しかし、それでも、もう一遍賴ん で下さる譯には行きませんか知ら。」 「そりや、春にでもなって、又折があったら話しても見よう。今のところ、お父さんだってお忙しいから、 さう / \ 小田原へもいらっしゃれやしないよ。」 「私は決して急ぎませんから、兎に角もう一度お話しなすって下さも 、。小田原の方だって、美代ちゃんが 飽く迄聟を貰ふのを拒めば、いっか折れる時が來るでせう。 いよ / 、、、駄目だったら、私は其の時まで待っ てもい、ゝ積りなんです。」 497
あやま だから、是非お目に懸って、譯を話して詫らなければならないと思って居たの。ほんとに濟まなかったわ ね。あたし、つくる \ 自分を馬鹿だと思ってよ。」 いざ喋舌り出すと、女は又雄辯であった。宗一は敏捷な言ひ廻しに眩惑されないやうに、要所々々に心を 留めて聞き終った後、 : 口に出すのは初めてだが、僕は美代ちゃんを戀して居る。 「そんな事は、怒るも怒らないもないよ。 かう云って、自分の唇が洩らした大膽な言葉に、自ら戦きながら語り續けた。 : 僕は出來る事なら、君と結婚をしたいと思ふ。 「そりや美代ちゃんだって、気が付いて居るだらう。 君の家でも、僕の家でも承知してくれなかったら、已むを得ないけれど、若し兩方の親が許したら : 僕の所へ來るなり、他へ嫁に行くなり、美代ちゃんに撰擇の自由が與へられたら、君は僕と結婚をしてく れまいか。」 「宗ちゃん、そりや本當のこと ? 」 美代子は、低い、熱心の籠った聲で、力強く念を押した。 「うむ。 くらでも立派な 「あたしのやうな者を、そんなに思って下さるのは勿體ないけれど、宗ちゃんなんか、い ・ : 宗ちゃんはまだ、家の事情を詳しく御存知ないんでせう。あ お嫁さんを貰へるぢゃありませんか。 たしはほんとに不仕合せな入間なのよ。此の間から、いっそ死んで了はうかと思った事が度々あるの。先 をのゝ せん 450
こそ、普通ならば嫁にやるところを、わざわざ養子を貰って分家させて、一生君に懸らうと云ふ考へなん だらう。美代ちゃんの一身に間違ひがあれば、おッ母さんがどの位失望するか、僕よりも君の方がよく解 って居なければならない。 え、さうぢゃないか。かう云ふと失禮だが、君とおッ母さんが居なかったら、 小田原の家は闇になるんだぜ。」 宗一はかう云って、相手の返辭を待ったが、美代子は突伏して聞いて居るばかりであった。 ・若し獨身で通すとか、死ぬとか云ふのが僕に對する義理だてなら、止めてくれ給へ。僕は美代ち ゃんやおッ母さんの不仕合せを見せられて、決して好い心持はしないから。其れよりか立派な人を婿に貰 って、夫婦でおッ母さんに孝行を盡してくれた方が、僕に取ってはどんなに嬉しいか知れやしない。 ー君はさう考へないかい。美代ちゃんが共れを納得してくれ、ば、僕だって立派に思ひ切る。」 しやく 最後の言葉を吐くと同時に、男も危く歔欷り上げさうになって、濕んだ聲が鼻につまった。 「宗ちゃん、そんならあたし、あなたにお願ひがあるわ。」 美代子は何か決心したらしく、すっかり泣き止んで、 ハンケチで面を拭いて、紅く張れた眼を男の顏に注 いろ / \ 勝手な事ばかり云って、濟みませんけれど、そんなら兎に角、今宗ちゃんの仰しやった 通りにして下さる譯には行かなくって。」 「僕の云った通りッて、どうするのさ。」 「駄目かも知れませんが、宗ちゃんのお父さんから、小田原の方へ相談をして見て下さるやうに。 おもて 452
「私はお父さんにいろ / 、、御詫をしなければならない事と、お願ひをしなければならない事があるんです。 實は私は、お父さんにもおッ母さんにも内證で、美代ちゃんと結婚の約東をして了ひました。今迄餘計な 4 御心配をかけては濟まないと思って、隱して居りましたが、今日はお叱りを受けるのは覺悟の上で、何も 彼もお話する決心で參りました。」 此れだけ喋舌るのが、宗一には容易な業ではなかった。すら / \ と續けて行かうにも、自分の舌が言葉の くき 重味に堪へられないで、苦しい息を吐いたり、文句を劃ったりした。話の中途から、父はつひぞ見た事の きんくち ない眞顏を作って、煙管の金口を右の頬にあてがひ、疊の面へ瞳を注いで默って聞き耳を立て、居た。屹 度商賣上の相談などを持ち掛けられた時、宗兵衞はいつもこんな態度を取るのであらう。相手の言葉が、 いかにも明瞭に靜かに聞き取れさうな身構へをして居るだけ、其れだけ宗一は一脣話づらさを感じた。 「勿論、結婚の約東をしたと云っても、二人の間に何か間違ひを仕出來したと云ふ譯ではないんですから、 共れだけは御安心を願ひます。私は唯どうせ將來結婚しなければならないものなら、美代ちゃんを貰って 頂きたいと思ふんです。さう云ふ考へから、先方の意向を確める爲めに、今迄度々内證で手紙のやり取り をしました。また小田原から美代ちゃんを呼び寄せて會っても見ました。親の眼を忍んで、二人で勝手に 約東なんかした事に就いては、一言の申譯もありませんけれど、忌まはしい關係のなかった事だけは、何 處までもお父さんに信じて頂きたいんです。」 「一體いっ頃からそんな事をして居たんだ。」 宗兵衞は、いつものやうに穩かな、打ち解けた聲で云った。
からな。君にしても、僕等の臀押しがあれば、意を強うするに足るぜ。非常に重大な利害問題だぜ。」 「野村は、何でも君の事だから、相手はいなせな藝者に違ひないッて、頻りに想像を逞しくして居るから なあ。」 かう云ったのは、淸水である。 「若し美代ちゃんなる者が藝者だとすると、野村の江戸趣味先生は喜ぶかも知れないが、淸水ビューリタ ひんせき ンは之を擯斥するさうだ。成るべく美代ちゃんが良家の令孃で、英語がべらイ、で、洋服が似合って、理 こひねが 想の高い淑女である事を希ふのださうだ。」 「僕はさう云ったんぢゃないよ、藝者だって眞面目な戀ならばい、さ。」 「成る程、そんなら猶の事安心だ。君、君、云ひ給へ。」 共の時、からん、からん、と授業の知らせの鐘が鳴った。 「何れ機會があったら、きッと話すよ。」 「うん、今夜あたり、飮みながらゆっくり聞かう。 杉浦は淸水の手からラッケットを奪って、 「返辭をして置いてくれ給へ。」 かう云ひ捨て、コ 1 ト の方へ駈けて行った。彼は學課が氣に入らないと、いつでも教場へ出なかった。而 して、敎師が出席簿を讀み上げる時だけ、友人に賴んで、代って返辭をして貰ふのが常であった。 今度の時間は倫理だな、おい、ラッケットを借 さう 420
ちゃんと結婚したいのは僕自身の希望なんたから、何も君が入れ智慧をしたやうに話す筈はない。」 「ほんとに濟みません。今日はあたし、嬉しくって胸が一杯だわ。」 美代子は莱も心もせいせいしたやうな調子で云ったが、眼には又涙が濕んで來て、 「どうも、有難うございました。」と叮嚀にお辭儀をしながら、そっとハンケチを顏にあてた。 よびりん 二人は大そう長い間會話を續けて居たやうに感ぜられた。呼鈴を押して飯を運ばせたのは、さし向ひにな ってから二時間ばかり後であった。 「もうお話がお濟みでございますか。何卒御ゆっくりなすっていらッしゃいまし。」 かう云って入って來ると、女中は立ち上って電燈を拈った。座敷の中にはほの暗いタ闇の光と、赤い灯の いきねじめ 光とが溶け合って、庭績きの隣座敷に粹な音締が洩れ始め、向う河岸の本所の方から、黄昏の色が次第々 々に川面へ這ひか、ゝった。 「美代ちゃん、あの三味線は何だか分るかい。」 宗一は飯を喰ひながら、女中を前に置いてこんな事を喋舌り出した。 、よもと やすな 「え、ゝ、淸元ぢゃなくって、保名でせう。」 君、此の先生は淸元の名人なんだよ。」 「それぢや、美代ちゃんのお得意だね。 と、宗一は女中に目くばせをした。 「おや、左様でございますか、是非伺ひたいもんでございますね。三味線を持って參りませうか。」 「あら、嘘よ、嘘よ、淸元なんか出來やしないわ。」 ひね ともしび 455
羹 たに就いて、重々不都合だと仰しゃれば據んどころありませんけれど、私としてはかうするより外、世の 中に生きて行く望みがありませんでした。結婚が出來れば、二人は勿論、お父さんやおッ母さんのお爲め にも、決して惡い結果にはならないやうに存じます。」 困ったことだ、と云はんばかりに、父は腕組をしながら煙草を吸って、考へ込んで居る。湯上りの血色の 、顏へ、電燈の明りが照って、顏や鼻柱がつや / \ と輝いて居る。宗兵衞がまだ若旦那と云はれた時代、 ふくろ 毎夜毎夜親父やお母の眼を盜んで、帳場を拔け出した二三十年も前の自分の姿が、ふと彼の頭に泛んで來 た。其の時分は、彼とても淺ましい戀の奴であった。互に命までもと惚れ合った經驗は、芳町にも柳橋に も二三度あった。宗一が生れたお蔭で自分の性根が人れ變った事を忘れず、せめて子供を立派に仕立てよ うと努めたかひもなく、放蕩の血が其の子の胸に傳はって居て、今になって自分に反逆を企てようとは。 自分が親に心配をかけたやうに、自分も子供に心配をさせられなければならないのか、さう思って、宗兵 衞は胸を痛めた。 「昨日の美代ちゃんの話では、おッ母さんが養子を貰って分家させる積りで居るから、なか / 、此方へは 寄越すまいと云ふんです。しかし、あかの他人へ嫁くのではなし、何とか話のしゃうに依ったら、解決の 道があるだらう。要するに美代ちゃんのおッ母さんさへ將來安樂に過せる保證が附いたらば、纒まらない ことはないだらうと思ふんです。勝手な上にも勝手なお願ひですが、御參考までに一應此の事を申し上げ て置きます。」 「ま、其の話は二三日待って貰はう。今度の日曜迄に考へとくから。」 おやち かたづ 467
宗一は思った。昔の人は男女の關係になると、案外疑り深いものである。つまり、今日の靑年の抱いて居 るやうな、性慾を放れた戀愛の存在を合點する事が出來ないから、惚れたと云へば、直ぐに肉體の方面を 考へる。何事に依らず早解りのする父の言葉として、證據がないから否認する譯には行かないとは實際殘 、くら辯明したところで、到底了解されないに極まって居る。 念であるが、 「仰しやったことはよウく解りました。自分でも決して善い事とは思って居なかったのですから、此れか ら必ず気を着けます。」 「うん、お前も教育のない人間ではなし、こんな理窟は己よりもよく知って居る筈だから、解りさへすれ ば何も云ひたかあない。」 かう云ったぎり、父は再び默って了った。肝腎な結婚問題の腰が折れたので、逆戻りに話の筋を立て直す 可く、宗一は又新たな努力をしなければならなかった。 「それから、さッきお話しました結婚の事ですが、此れも學生の身分として、まだ共の時機でないことは 存じて居ります。美代ちゃんが私の大學を卒業する迄、一人で居られる年頃なら今から斯う云ふお願ひを する必要はないんですけれど、いづれ小田原の方ではお嫁の話が出るでせうし、何とか此の問題が極らな かたづ いうちは、私も落ち着いて勉強する事が出來ません。美代ちゃんは望みがかなはないで、外へ嫁くやうだ : 一生結婚しまいと、覺悟をして ったら、死ぬと云って居ります。私も、若し一緖になれなかったら : 居ります。かう云ふと何ですが、私は今までお父さんに御無理をお願ひした事はない積りです。一生に一 度の我儘と思って、何卒今度だけ、お聞き屆けなすって下さい。二人が自分勝手にこ、迄話を進めて了っ 466
時計を見るとまだ漸く四時頃である。何にしても、二人は一旦此處を引き揚げて、夜を幸ひに街を歩きな がら、殘る時間を樂しみたかった。七圓程の勘定書を取り寄せて、 「其れでは、此れで・ と、宗一は蟇口から、四つに疊んだ皺くちゃの十圓札を出した。 「宗ちゃん、あたし持って居てよ。」 美代子も慌て、紙入を抽き拔いたが 「まあ僕が拂って置く。」 かう云って、宗一は美代子の手先を押し除けながら、共の手に握って居る二三枚の五圓札にちらりと眼を 着けて、 「へーえ、美代ちゃん大分お金持ちだね。」 と云った。 「え、、さ、つよ 。いくらでも奢って上げてよ。」 「いづれ今日の返禮に、うんと御馳走して貰ふさ。」 結局男が全部を負擔して、鈞りの中から一圓の祝儀を女中に取らせて、二入はそこに立ち上った。長 い廊下をばたばたと玄關まで送って出て、 「御機嫌宜しう。 どうぞお近いうちに是非、ほんとにお待ち申しますよ。きっとでございます 456