ナオミちゃん - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第10巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第10巻

「つまりお前のやうにかれ」 ナオミは「ふん」と鼻を高くして、得意のせ、ら笑ひをしながら、 あひのこ 「さうさ、まだあたしの方が混血兒のやうに見えるわよ」 「熊谷君」 と、濱田は私に気がねするらしく、もち / \ してゐる様子でしたが、その名でまアちゃんを呼びかけまし 「さう云へば君は、河合さんとは始めてなんちゃなかったかしら ? 」 「あ、、お顏はたび / \ 見たことがあるがね、 「熊谷」と呼ばれたまアちゃんは矢張ナオミの背中越しに、椅子のうしろに衝っ立ったま、、私の方へジ ロリと厭味な視線を投げました。 自己紹介をして置きます、どうか何分ー・ーーー」 「僕は熊谷政太郎と云ふもんです。 「本名を熊谷政太郎、一名をまアちゃんと申します。 ナオミは下から熊谷の顏を見上げて、 「ねえ、まアちゃん、ついでにも少し自己紹介をしたらどうなの ? 」 委しいことはナオミさんから御聞きを願び 「い、や、いけねえ、あんまり云ふとボロが出るから。 ます」 「アラ、いやだ、委しい事なんかあたしが何を知ってゐるのよ」 こ 0 110

2. 谷崎潤一郎全集 第10巻

の、いろイ、な樂器が窮屈な場所に列んでゐて、もう二階ではダンスが始まってゐるらしく、騒々しい足 取りと蓄音器の音が聞えました。ちゃうど梯子段の上り口のところに、慶應の學生らしいのが五六人うち ゃうちゃしてゐて、それがジロジロ私とナオミの樣子を見るのが、あまり好い気持はしませんでしたが、 「ナオミさん」 と、その時馴れ / \ しい大きな整で、彼女を呼んだ者がありました。見ると今の學生の一人で、フラッ マンドリン と云ふものでせうか、平べったい、ちょっと日本の月琴のやうな形の樂器を小脇に か、へて、それの調子を合はせながら針金の絃をチリチリ鳴らしてゐるのです。 「今日はア」 と、ナオミも女らしくない、書生ッぼのやうな口調で應じて、 「どうしたのまアちゃんは ? あんたダンスをやらないの ? 」 「やあだア、己あ」 と、そのまアちゃんと呼ばれた男は、ニャニヤ笑ってマンドリンを棚の上に置きながら、 めへ 「あんなもなあ己あ眞っ平御免だ。第一お前、月謝を二十圓も取るなんて、まるでたけえや」 「だって始めて習ふんなら仕方がないわよ」 「なあに、、。 つれそのうちみんなが覺えるだらうから、さうしたら奴等を取っまへて習ってやるのよ。 ダンスなんざあそれで澤山よ。どうでえ、要領がい、だらう」 「ずるいわまアちゃんは ! あんまり要領がよ過ぎるわよ。 ところで『濱さん』は二階にゐる ? 」

3. 谷崎潤一郎全集 第10巻

さう云はれると、ナオミははたと返辭に窮したやうでした。彼女は急に下を向いて、默って、唇を噛みな がら、上眼づかひに穴のあくほど私の顏を睨んでゐました。 「でもまアちゃんが一番疑ぐられてゐるんだもの、 まだ關さんにして置いた方がいくらかい、と田い ったのよ」 「まアちゃんなんて云ふのはお止し ! 熊谷と云ふ名があるんだから ! 」 我慢に我慢をしてゐた私は、そこでとう / 、、爆發しました。私は彼女が「まアちゃん」と呼ぶのを聞くと、 むしずが走るほどイヤだったのです。 お前は熊谷と關係があったんだらう ? 正直のことを云っておしまひ ! 」 「關係なんかありやしないわよ、そんなにあたしを疑ぐるなら、證據でもあるの ? 」 「證據がなくっても己にはちゃんと分ってるんだ」 「どうして ? どうして分るの ? 」 ナオミの態度は凄いほど落ち着いたものでした。そのロ邊には小憎らしい薄笑ひさへ浮かんでゐました。 「昨夜のあのざまは、あれは何だ ? お前はあんなざまをしながらそれでも潔白だと云へる積りか ? 」 「あれはみんながあたしを無理に醉っ拂はして、あんななりをさせたんだもの。 たゞあ、やって表 を歩いたゞけちゃないの」 「よし ! それぢや飽く迄潔白だと云ふんだな ? 」 「え、、潔白だわ」 188

4. 谷崎潤一郎全集 第10巻

「讓治さん、きっとあたしを捨てないでね」 と云ひました。 「捨てるなんて、 そんなことは決してないから安心おしよ。ナオミちゃんには僕の心がよく分って ゐるだらうが 「え、、そりや分ってゐるけれど、 「ぢや、いっから分ってゐた ? 」 「さあ、いっからだか、 「僕がお前を引き取って世話すると云った時に、ナオミちゃんは僕をどう云ふ風に思った ? 立派な者にして、行く / 、お前と結婚するつもりちゃないかと、さう云ふ風には思はなかった ? 」 「そりや、さう云ふ積りなのかしらと思ったけれど、 「ちやナオミちゃんも僕の奥さんになってもい、気で來てくれたんだね」 そして私は彼女の返辭を待つまでもなく、カ一杯彼女を強く抱きしめながらっヾけました。 「ありがとよ、ナオミちゃん、ほんとにありがと、よく分ってゐてくれた。 : 僕は今こそ正直なこと を云ふけれど、お前がこんなに、 こんなにまで僕の理想にかなった女になってくれようとは思はな : お前ばかりを。 ・ : 世間 かった。僕は運がよかったんだ。僕は一生お前を可愛がって上げるよ。 によくある夫婦のやうにお前を決して粗末にはしないよ。ほんとに僕はお前のために生きてゐるんだと思 っておくれ。お前の望みは何でもきっと聽いて上げるから、お前ももっと學問をして立派な人になってお お前を

5. 谷崎潤一郎全集 第10巻

「ちゃ、どう云ふ譯で主義を變へたの ? 」 「お前がさっき泣いたのを見たら可哀さうになっちゃったからさ」 「さう ? 」 と云って、波が寄せて來るやうなエ合に胸をうねらせて、羞かしさうなほ、笑みを浮べながら、 「あたし、ほんとに泣いたかしら ? 」 「もうどッこへも行かないッて、眼に一杯涙をためてゐたぢゃないか。いつまで立ってもお前はまるでだ だッ兒だね、大きなベビちゃん : 「私のパ。ハちゃん ! 可愛いパ。ハちゃん ! 」 なついん ナオミはいきなり私の頸にしがみつき、その唇の朱の捺印を繁忙な郵便局のスタンプ掛りが捺すやうに、 額や、鼻や、眼瞼の上や、耳朶の裏や、私の顏のあらゆる部分へ、寸分の隙間もなく。へた / \ と捺しまし た。それは私に、何か、椿の花のやうな、どっしりと重い、そして露けく軟かい無數の花びらが降って來 るやうな快さを感じさせ、その花びらの薫りの中に、自分の首がすっかり埋まってしまったやうな夢見心 地を覺えさせました。 「どうしたの、ナオミちゃん、お前はまるで気違ひのやうだね」 : あたし今夜は気違ひになるほど譲治さんが可愛いんだもの。 愛「あ、、違ひょ。 の 人るさい ? 」 「うるさいことなんかあるものか、僕も嬉しいよ、気違ひになるほど嬉しいよ、お前のためならどんな犧 み、たぶ : それともう

6. 谷崎潤一郎全集 第10巻

「どうだれ、ナオミちゃん、ほんたうにお前、學間をしたい氣があるかれ。あるなら僕が習はせて上げて もい、けれど」 それでも彼女が默ってゐますから、私は今度は慰めるやうな口調で云ひました。 「え ? ナオミちゃん、默ってゐないで何とかお云ひょ。お前は何をやりたいんだい。何が習って見たい んだい ? 」 「あたし、英語が習ひたいわ」 それだけ ? 」 「ふん、英語と、 「それから音樂もやってみたいの」 「ちゃ、僕が月謝を出してやるから、習ひに行ったらい、ぢゃないか」 「だって女學校へ上るのには遲過ぎるわ。もう十五なんですもの」 「なあに、男と違って女は十五でも遲くはないさ。それとも英語と音樂だけなら、女學校へ行かないだっ て、別に敎師を賴んだらい、さ。どうだい、お前眞面目にやる気があるかい ? 」 「あるにはあるけれど、 ぢや、ほんたうにやらしてくれる ? 」 さう云ってナオミは、私の眼の中を俄かにハッキリ見据ゑました。 愛「あ、、ほんたうとも。だがナオミちゃん、もしさうなれば此處に奉公してゐる譯には行かなくなるカ 人お前の方はそれで差支へないのかね。お前が奉公を止めてい、なら、供はお前を引取って世話をしてみて もい、んだけれど。 : さうして何處までも責任を以て、立派な女に仕立て、やりたいと思ふんだけれ

7. 谷崎潤一郎全集 第10巻

者もなく、うはべは矢張友達のやうにしてゐましたが、もう私たちは誰に憚るところもない法律上の夫婦 だったのです。 「ねえ、ナオミちゃん」 と、私は或る時彼女に云ひました。 「僕とお前は此れから先も友達みたいに暮らさうぢゃないか、いつまで立っても。 「ぢや、いっ迄立ってもあたしのことを『ナオミちゃん』と呼んでくれる ? 」 「そりやさうさ、それとも『奥さん』と呼んであげようか ? 」 「いやだわ、あたし、 「さうでなけりや『ナオミさん』にしようか ? 」 「さんはいやだわ、やつばりちゃんの方がい、わ、あたしがさんにして頂戴って云ふまでは」 「さうすると僕も永久に『讓治さん』だね」 「そりやさうだわ、外に呼び方はありやしないもの」 ナオミはソオフアへ仰向けにねころんで、薔薇の花を持ちながら、それを頻りに唇へあて、いぢくってゐ たかと思ふと、そのとき不意に、 「ねえ、讓治さん ? 」と、さう云って、兩手をひろげて、その花の代りに私の首を抱きしめました。 「僕の可愛いナオミちゃん」と私は息が塞がるくらゐシッカリと抱かれたま、、袂の蔭の暗い中から聲を 出しながら、 4

8. 谷崎潤一郎全集 第10巻

ルの方がい、わ」 「フル 1 ツ・カクテル ? 」 私は聞いたこともないそんな飮み物を、どうしてナオミが知ってゐるのか不思議でした。 「カクテルならばお酒ちゃないか」 「うそよ、譲治さんは知らないのよ、 まあ、濱ちゃんもまアちゃんも聞いて頂戴、此の人は此の通 り野暮なんだから」 ナオミは「此の人」と云ふ時に人差指で私の肩を輕く叩いて、 「だからほんとに、ダンスに來たって此の入と二人ぢや間が拔けてゐて仕様がないわ。ばんやりしてゐる もんだから、さっきも滑って轉びさうになったのよ」 「床がつる / ( 、してますからね」 と、濱田は私を辯護するやうに、 「初めのうちは誰でも間が拔けるもんですよ、馴れると追ひ / く、板につくやうになりますけれど、 「ぢや、あたしはどう ? あたしもやつばり板につかない ? 」 ・ : まあ社交術の天才だね」 「いや、君は別さ、ナオミ君は度胸がい、から、 「濱さんだって天才でない方でもないわ」 「へえ、僕が ? 」 112

9. 谷崎潤一郎全集 第10巻

「だってお前、衝きあたったら惡いぢゃないか」 : ほら、御覽なさい、あの入だって彼處を突ッ切って行っ 「衝きあたらないやうに行けばいゝのよ、 たぢゃないの。だからい、のよ、行って見ませうよ」 私はナオミのあとに附いて廣場の群衆を横切って行きましたが、足が顫 ~ てゐる上に床がつる / 、、滑りさ うなので、無事に向うへ渡り着く迄が一と苦勞でした。そして一遍ガタンと轉びさうになり、 「チョッ」 と、ナオミに睨みつけられ、しかめッ面をされたことを覺えてゐます。 「あ、あすこが一つ空いてゐるやうだわ、あのテ 1 ブルにしようちゃないの」 と、ナオミはそれでも私よりは臆面がなく、ジロジロ見られてゐる中をすうッと濟まして通り越して、と あるテ 1 ブルへ就きました。が、あれ程ダンスを樂しみにしてゐたくせに、すぐ踊らうとは云ひ出さない 手提げ袋から鏡を出してこっそり顏を直したりして、 で、何だか斯う、ちょっとの間落ち着かないやうに、 「ネクタイが左へ曲ってゐるわよ」 と、内證で私に注意しながら、廣場の方を見守ってゐるのでした。 「ナオミちゃん、濱田君が來てゐるちゃないか」 愛「ナオミちゃんなんて云ふもんぢゃないわよ、さんて仰っしゃいよ」 の 人さう云ってナオミは、又むづかしいしかめッ面をして、 痴 「濱さんも來てるし、まアちゃんも來てゐるのよ」 103

10. 谷崎潤一郎全集 第10巻

「あ、、まあさうだな」 「ぢや、まアちゃんは ? 」 「己ア平気さ、お前なんか女の數に入れちゃあゐねえさ」 「女でなけりや何なのよ ? 」 あざらし 「うむ、まあお前は海豹だな」 どっち 「あはゝゝ、 、海豹と猿と孰方がい、 ? 」 「孰方も己あ御免だよ」 と、熊谷はわざと眠さうな聲を出しました。私は熊谷の左側に寢ころびながら、三人がしきりにべちゃく ちゃ云ふのを默って聞いてゐましたが、ナオミが此處 ~ 這入って來ると、濱田の方か、私の方か、いづれ 孰方か ~ 頭を向けなければならないのだが、と、内々それを気にしてゐました。と云ふのは、ナオミの枕 が孰方つかずに、曖味な位置に放り出してあったからです。何でもさっき布團を敷く時に、彼女はわざと さう云ふ風に、あとでどうでもなるやうに置いたのちゃないかと思はれました。と、ナオミは桃色の縮み のガウンに着換へてしまふと、やがて這入って來て衝っ立ちながら、 「電気を消す ? 」 と、さう云ひました。 「あ、、消して貰ひてえ、 さう云ふ熊谷の聲がしました。 136