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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第10巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第10巻

盲人己が始めてお前に此の曲を聽かせた時分、 を。 妻え、、そればかりを考へますわ。 肓人再び曲を彈奏する。妻は密かに讀み績ける。や、長き間。 肓人 ( 中途でぶつりと彈奏を止める ) おい 妻なあに ? 肓人お前、聽いてゐるのかね ? 妻聽いてゐますわ。 肓人、樂器を置いて立ち、手探りしつ、妻の傍へ行く。その間に妻は書物を閉ぢ、毛布の下に隱す。肓人は妻の體に 觸って見、手を伸ばしてソオフアの上を調べ、遂に書物を探り嘗てる。 肓人 ( 書物を手の中にいちくりながら ) 此の本は何だね ? 妻それ ? 男肓人あ、、此の本は ? 弾妻それは毛糸の編み方の本。 を ン 肓人それにしては贅澤な本だね、隨分い、紙が使ってあるね。 ン 妻 マ めくら 盲人浮子、己は肓目になってからもう三年も立つんだよ。かうして手で以て觸って見れば大概な物は分 あの時分のことを考へるんだよ、たゞそればかり 307

2. 谷崎潤一郎全集 第10巻

「めったにない。」 「は、あ、 それから、あのう、お宅は何でございますか、お見受け中しましたところ、お掃除など どなた がよく行き屆いて居りますやうですが、かう云ふ事は誰方がおやりになりますので ? 」 「書生にやらせる。」 で、女中さんはお幾人 ? 」 「はあ、書生さんがお掃除を ? 「二人をる。」 「では、書生さんが一人に女中さんが二人、それに先生と、四人暮らしでいらっしゃいますので ? 」 「さう、四入暮らし、 や、かう云 「尤も何でございますな、先生お一人のことですから、それで十分でございますな。 ふところを拜見しますと、サツ。ハリしてゐて莱持がい、と仰っしゃいますのが、わたくし共にもよく分る ゃうな気がいたします。」 今度は先生は返事をしない。そして溜息をついたかと思ふと、鼻の孔を少しひろげて、生あくびをし こ 0 「うん。」 「はあ、成る程、 : それでも時々訪間者はございませうな、學生だとか、又は友人の方々であると 328

3. 谷崎潤一郎全集 第10巻

から。 妻いつになったら死ねるのでせうか ? 肓人五年も、十年も、事に依ったら二十年も先のことだよ。己の命のある間は、いっ迄もお前を生かし て置くのだ。 肓人、藥を紙片に盛り終り、壜を持って本箱の前に行き、棚に收めて鍵をかける。次ぎに下手の戸口 ~ 行き、鍵を出 してドーアを開け、外から再び鍵をかけて出て行く。短き間。妻はじっと動かずにゐる。 肓入、水の這人ったコップを持って戻って來る。 ーアに鍵をかけ、妻の側に進み、コップを卓上に置き、掌の上に 紙片を載せてもう一度藥の分量を測り、その臭を嗅いで見る。 肓人さあ、お立ち。 妻、立ち上り、肓人と向ひ合って口を開ける。肓人、片手で妻の頤を捕 ~ 、片手に紙片を持ち、藥を彼女のロ ~ 入れ にが る。妻、苦さうに顏をしかめる。肓入、幾度も / 、紙を振って藥を入れてしまってから、「ツブの水を一滴も殘さな いやうに飮ませる。 肓人此れでい、、横におなり。 樂にすや / 、と寢られるよ。 妻あ、、 いっそいっ迄も眼が覺めなければ。 肓人明日の朝の八時迄はね。 妻、兩手で顏を掩ひっ、、よろノ \ とソオフアにかけ、上手の方を頭にして仰向きに身を横 ~ る。肓人、クションを重 ねて彼女の頭をその上に載せてやり、毛布を取って襟のところまで一杯に被せてやる。妻は靜かに眼を閉ちる。 肓入ゆっくりとお休み、今あの曲を彈いて上げるから。 312

4. 谷崎潤一郎全集 第10巻

るんだよ。此の本の表紙は桃色をしてゐる。 妻桃色をしてゐてはをかしいのでせうか ? 肓人此れは詩集だ。お前は今、己に内證で讀んでゐたのだ。 妻 い、え、違ひます、それを讀んだのはさっきでした。 肓入己は此の本を貰って置くよ。 さう云ひながら本箱の前へ行き、ヅボンのポッケットから鍵を出して抽出しを開け、本を收って又鍵をかける。やが た、す て電燈の前へ來て彳み、スタンドの位置と妻との距離を測るものゝ如くである。 肓人浮子、お前の影がそのカ 1 テンに映ってゐやしないか ? 妻窓のところは笠の蔭で暗くなってゐますわ。 肓人暗いにしても、ばんやり影が射してゐやしないか ? 妻 ( 窓を振り返って ) い、え、ちっとも。 肓人窓かけはみんな、一寸の隙もなく垂れてゐるだらうね ? 皺が寄ったりよぢれたりしてはゐないだ 、ら、つね ? 妻 ( 恨めしさうに肓人を見る ) ・ 肓人え、おい、なぜ默ってゐる ? 妻あなたはそれほど、あたしをお信じにならないの ? 肓人お前を信じないと云ふのではない。己は外の奴を恐れてゐるのだ。窓からそっと、此の部屋を覗く いっすん しま 308

5. 谷崎潤一郎全集 第10巻

マンドリンを彈く男 事は、 0 泣いてゐたことを悟られぬゃうに、はっきりと答へる。そして物憂げに身を起し、本箱の上の置時計を見る。 妻十二時二十五分前。 肓人ではもうお寢、いつもよりも五分遲れた。 妻、溜息をつき、ソオフアの背にぐったりと靠れる。肓人は本箱の前に行き、鍵で箱の扉を開け、中から白い散藥の 這入った壜を取り出す。それからデスクの所へ行ってその上にある西洋紙の紙片を取り、小卓の方 ~ 戻って來る。そ の間、妻は盲人の方を見ないで、恰も刑を待つ人のやうに項垂れてゐる。肓人の動作は念入りで、注意深く、可なり 手間取れる。 肓人、紙片を小卓の上に擴げ、壜の栓を拔き、散藥を少し紙の中へ振りかける。その時妻が顏を上げる。 妻あなた、もうそのくらゐで澤山よ。 : もう少しお飮み。 肓人いや、もう少し、 妻そんなに飮まないでも寢られますわ。 肓人いや、まだやうノ ( \ 二グラムだ。藥と云ふものはだんノ ( 、利かなくなるものだよ、少しづ、分量を 殖やさないでは。 きっ 妻でも、あまり澤山睡眠劑を飮むせゐなんだわ、毎日々々體がだるくって仕様がないのは。 と中毒を起してゐるのよ。 肓人此の藥は大丈夫だよ。中毒を起しても死にはしないよ。己はお前を、まだ / 、、死なせはしないのだ ・ ( 云ひながら分量を殖やす ) 311

6. 谷崎潤一郎全集 第10巻

「ところで蚊帳はどうしようね」 と、私が云ふと、 「蚊帳は一つしかないんだから、みんな一緖に寢ればい、わよ。その方が面白いぢゃないの」 と、そんな事がひどくナオミには珍しいのか、修學旅行にでも行ったやうに、きやっ / 、と喜びながら云 ふのでした。 此れは私には意外でした。蚊帳は二人に提供して、私とナオミとは蚊やり線香でも焚きながら、ア のソオフアで夜を明かしても濟むことだと考へてゐたので、四人が一つ部屋の中へごろ / ( \ かたまって寢 ようなど、は、田 5 ひ設けても居ませんでした。が、ナオミがその気になってゐるし、二人に對してイヤな 顏をするでもないし、 : と、例の通り私がぐづ / ( 、してゐるうちに、彼女はさっさと極めてしまって、 「さあ、布團を敷くから三人とも手傳って頂戴」 と、先に立って號令しながら、屋根裏の四疊半へ上って行きました。 布團の順序はどう云ふ風にするのかと思ふと、何分蚊帳が小さいので、四人が一列に枕を並べる譯には行 一人がそれと直角になる。 かない。それで三人が並行になり、 「ね、かうしたらい、ちゃないの。男の入が三入そこへお並びなさいよ、あたし此方へ獨りで寢るわ」 と、ナオミが云ひます。 「やあ、えれえ事になっちゃったな」 蚊帳が吊れると、熊谷は中を透かして見ながらさう云ひました。 134

7. 谷崎潤一郎全集 第10巻

ことはないのだ。此の厚い壁を執念深く、外から切ってゐるやうな音を、 妻でも、此の壁が切れるでせうか。此の、土藏のやうな厚い壁が、 肓人毎晩々々、一年もか、って、少しづ、切れば切れるかも知れない。あれは鼠の音ではないよ。何か 刀物で、壁を削ってゐる音だよ。 妻それはあなたの気の迷ひだわ。 肓人お前はそれが、己の気の迷ひでないことを祈ってゐやしないかね ? 妻あ、、又あなたはそんなことを、 妻、ソオフアの腕に兩手を重ね、その上に打ち俯す。肓人は安樂椅子に腰かける。 めくら 肓人己がこんな事を考へるのを、お前は根のない妄想だと云ふのかね ? 肓目の僻みだと云ふのかね ? 妻えゝ、さうですわ、それに違ひないんですもの。 肓人お前はあの男の執念深いのを知らないのかね ? 妻あなたは自分の影に怯えていらっしやるんだわ。 肓人己の此の眼が潰れたのは、あの男の仕業なのだ。己はやう / 、此の頃になってそれが分った。あの 男は第一の復讐をした。さうして今では、第二の復讐にか、ってゐるのだ。 妻うそです、うそです、みんなあなたの作り事です。 妻、打ち俯したま、、密かに泣いてゐるやうに見える。間。 肓人お前、 ・ : もう何時かね ? 時計をお見。 しわざ 310

8. 谷崎潤一郎全集 第10巻

突然電燈を消す。月の光が窓を透して鮮やかに射し込み、鐵格子の影をくつきりと窓かけに印する。同時に一個の人 影が、正面の向って右の窓の向うに照らし出される。影は恰もやもりのやうに格子にべったり喰っ着いて見える。肓 人は尚も一心に物音を聽く。音の性質がだん / \ 變って來て、メリ / と軋むやうな響を發する。と、右の窓に接す る壁の一部が、細かい土砂になってバラ / \ と落ちる。 肓人お、 ! あの男だー 鋧い叫び聲を發し、轉ぶが如くソオフアの前へ來、救ひを求めるやうに妻の寢姿に縋り着き、彼女の體を激しく搖す 振る。 とうノ ( \ あの男が 肓人浮子 ! 浮子 ! 土砂が崩れ落ちると共にその窓の枠全體が動き出し、次第に壁の面からずり出で、鐵格子が附着したま、遂にすつぼ りと室内へ落ち込む。格子には綱が結んであり、それが外へ績いてゐる。 窓の脱けた四角な穴から、影の男が、身輕に音もなく這人って來る。肓人、ソオフアから飛び退き、安樂椅子の蔭に 身を屈める。影の男、飛鳥の如く肓入に躍りか、り、矢庭に頸を緊扼する。 肓人あ、浮子 ! 浮子 ! 助けてくれ ! 影の男、肓人を後へ / 、と押して行き、落ちてゐる窓枠の上へ壓し倒し、馬乘りになり、ポッケットから紐を出して 肓人の頸を絞める。肓人は纔かに抵抗したゞけで息が絶える。その死骸の周圍に、穴から射し込む月の光が青白い圈 を描く。 影の男、息の絶えたのを見定めてから立ち上り、安樂椅子の前を通って、寢てゐる女の方へ進む。床に捨てられたマ ンドリンがその足に引っ懸り、絃が鳴る。男、腹立たしげにマンドリンを取り上げ、棹をポッキリと折り、床に叩き つけ、ふと気が付いて又死骸の方へ戻り、窓枠に結んである綱を解き、それを引っ張って來て左の窓の鐵格子に結び 着け、寢てゐる女を肩に擔ぎ、再び綱を傳はって前の穴から降り去る。 314

9. 谷崎潤一郎全集 第10巻

ひじりざか 稽古場にあてられたのは三田の聖坂にある、吉村と云ふ西洋樂器店の二階で、夫人はそこ ~ 毎週二囘、月 曜日と金曜日に出張する。會員は午後の四時から七時迄の間に、都合のい、時を定めて行って、一囘に一 時間づ、教へて貰ひ、月謝は一人前二十圓、それを毎月前金で拂ふと云ふ規定でした。私とナオミと二人 で行けば月々四十圓もか、る譯で、いくら相手が西洋人でも馬鹿げてゐるとは思ひましたが、ナオミの云 ふにはダンスと云へば日本の踊りも同じことで、どうせ贅澤なものだからそのくらゐ取るのは當り前だ。 それにそんなに稽古しないでも、器用な人なら一と月ぐらゐ、不器用な者でも三月もやれば覺えられるか ら、高いと云っても知れたことだ。 「第一何だわ、そのシュレムスカヤって云ふ人を助けてやらないぢや気の毒だわ。昔は伯爵の夫人だった のがそんなに落ちぶれてしまふなんて、ほんとに可哀さうちゃないの。濱田さんに聞いたんだけれど、ダ ンスは非常に巧くって、ソシアル・ダンスばかりぢゃなく、希望者があればステ 1 ヂ・ダンスも教 ~ るん だって。ダンスばかりは藝人のダンスは下品で、駄目だわ、あゝ云ふ人に教はるのが一番い、のよ」 と、まだ見たこともないその夫人に、彼女は頻りと肩を持って、一ばしダンス通らしいことを云ふのでし さう云ふ譯で私とナオミとは、兎に角人會することになり、毎月曜日と金曜日に、ナオミは音樂の稽古を 愛濟ませ、私は會社の方が退けると、すぐその足で午後六時迄に聖坂の樂器店へ行くことにしました。始め の 人の日は午後五時に田町の驛でナオミが私を待ち合はせ、そこから連れだって出かけましたが、その樂器店 は坂の中途にある、間ロの狹いさ、やかな店でした。中へ這人るとビアノだの、オルガンだの、蓄音器だ

10. 谷崎潤一郎全集 第10巻

ナオミは。ヘッ。ヘッと唾を吐くやうな口つきをして、 「あれはチ 1 ク・ダンスって云って、眞面目な場所でやれるものぢゃないんだって。アメリカあたりであ きざ れをやったら、退場して下さいって云はれるんだって。濱さんもい、けれど、全く気障よ」 「だが女の方も女の方だね」 「そりやさうよ、どうせ女優なんて者はあんな者よ、全體此處へ女優を人れるのが惡いんだわ、そんなこ とをしたらほんたうのレディ 1 は來なくなるわ」 「男にしたって、お前はひどくやかましいことを云ったけれど、紺の背廣を着てゐる者は少いちゃないか。 濱田君だってあんななりをしてゐるし、 此れは私が最初から氣がついてゐた事でした。知ったか振りをしたがるナオミは、所謂エテイケットなる ものを聞きかじって來て、無理に私に紺の背廣を着せましたけれど、さて來て見ると、そんな服裝をして ゐる者は二三人ぐらゐで、タキシ 1 ドなどは一人もなく、あとは大概變り色の、擬ったス 1 ツを着てゐる のです。 「そりやさうだけれど、あれは濱さんが間違ってるのよ、紺を着るのが正式なのよ」 「さう云ったって : : ほら、あの西洋入を御覽、あれもホ 1 ムス。ハンちゃないか。だから何だってい 愛んだらう」 の 人「さうぢゃないわよ、人はどうでも自分だけは正式ななりをして來るもんよ。西洋人があ、、云ふなりをし て來るのは、日本人が悪いからなのよ。それに何だわ、濱さんのやうに場數を蹈んでゐて、踊りが巧い人 107