肓人 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第10巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第10巻

盲人己が始めてお前に此の曲を聽かせた時分、 を。 妻え、、そればかりを考へますわ。 肓人再び曲を彈奏する。妻は密かに讀み績ける。や、長き間。 肓人 ( 中途でぶつりと彈奏を止める ) おい 妻なあに ? 肓人お前、聽いてゐるのかね ? 妻聽いてゐますわ。 肓人、樂器を置いて立ち、手探りしつ、妻の傍へ行く。その間に妻は書物を閉ぢ、毛布の下に隱す。肓人は妻の體に 觸って見、手を伸ばしてソオフアの上を調べ、遂に書物を探り嘗てる。 肓人 ( 書物を手の中にいちくりながら ) 此の本は何だね ? 妻それ ? 男肓人あ、、此の本は ? 弾妻それは毛糸の編み方の本。 を ン 肓人それにしては贅澤な本だね、隨分い、紙が使ってあるね。 ン 妻 マ めくら 盲人浮子、己は肓目になってからもう三年も立つんだよ。かうして手で以て觸って見れば大概な物は分 あの時分のことを考へるんだよ、たゞそればかり 307

2. 谷崎潤一郎全集 第10巻

から。 妻いつになったら死ねるのでせうか ? 肓人五年も、十年も、事に依ったら二十年も先のことだよ。己の命のある間は、いっ迄もお前を生かし て置くのだ。 肓人、藥を紙片に盛り終り、壜を持って本箱の前に行き、棚に收めて鍵をかける。次ぎに下手の戸口 ~ 行き、鍵を出 してドーアを開け、外から再び鍵をかけて出て行く。短き間。妻はじっと動かずにゐる。 肓入、水の這人ったコップを持って戻って來る。 ーアに鍵をかけ、妻の側に進み、コップを卓上に置き、掌の上に 紙片を載せてもう一度藥の分量を測り、その臭を嗅いで見る。 肓人さあ、お立ち。 妻、立ち上り、肓人と向ひ合って口を開ける。肓人、片手で妻の頤を捕 ~ 、片手に紙片を持ち、藥を彼女のロ ~ 入れ にが る。妻、苦さうに顏をしかめる。肓入、幾度も / 、紙を振って藥を入れてしまってから、「ツブの水を一滴も殘さな いやうに飮ませる。 肓人此れでい、、横におなり。 樂にすや / 、と寢られるよ。 妻あ、、 いっそいっ迄も眼が覺めなければ。 肓人明日の朝の八時迄はね。 妻、兩手で顏を掩ひっ、、よろノ \ とソオフアにかけ、上手の方を頭にして仰向きに身を横 ~ る。肓人、クションを重 ねて彼女の頭をその上に載せてやり、毛布を取って襟のところまで一杯に被せてやる。妻は靜かに眼を閉ちる。 肓入ゆっくりとお休み、今あの曲を彈いて上げるから。 312

3. 谷崎潤一郎全集 第10巻

るんだよ。此の本の表紙は桃色をしてゐる。 妻桃色をしてゐてはをかしいのでせうか ? 肓人此れは詩集だ。お前は今、己に内證で讀んでゐたのだ。 妻 い、え、違ひます、それを讀んだのはさっきでした。 肓入己は此の本を貰って置くよ。 さう云ひながら本箱の前へ行き、ヅボンのポッケットから鍵を出して抽出しを開け、本を收って又鍵をかける。やが た、す て電燈の前へ來て彳み、スタンドの位置と妻との距離を測るものゝ如くである。 肓人浮子、お前の影がそのカ 1 テンに映ってゐやしないか ? 妻窓のところは笠の蔭で暗くなってゐますわ。 肓人暗いにしても、ばんやり影が射してゐやしないか ? 妻 ( 窓を振り返って ) い、え、ちっとも。 肓人窓かけはみんな、一寸の隙もなく垂れてゐるだらうね ? 皺が寄ったりよぢれたりしてはゐないだ 、ら、つね ? 妻 ( 恨めしさうに肓人を見る ) ・ 肓人え、おい、なぜ默ってゐる ? 妻あなたはそれほど、あたしをお信じにならないの ? 肓人お前を信じないと云ふのではない。己は外の奴を恐れてゐるのだ。窓からそっと、此の部屋を覗く いっすん しま 308

4. 谷崎潤一郎全集 第10巻

ことはないのだ。此の厚い壁を執念深く、外から切ってゐるやうな音を、 妻でも、此の壁が切れるでせうか。此の、土藏のやうな厚い壁が、 肓人毎晩々々、一年もか、って、少しづ、切れば切れるかも知れない。あれは鼠の音ではないよ。何か 刀物で、壁を削ってゐる音だよ。 妻それはあなたの気の迷ひだわ。 肓人お前はそれが、己の気の迷ひでないことを祈ってゐやしないかね ? 妻あ、、又あなたはそんなことを、 妻、ソオフアの腕に兩手を重ね、その上に打ち俯す。肓人は安樂椅子に腰かける。 めくら 肓人己がこんな事を考へるのを、お前は根のない妄想だと云ふのかね ? 肓目の僻みだと云ふのかね ? 妻えゝ、さうですわ、それに違ひないんですもの。 肓人お前はあの男の執念深いのを知らないのかね ? 妻あなたは自分の影に怯えていらっしやるんだわ。 肓人己の此の眼が潰れたのは、あの男の仕業なのだ。己はやう / 、此の頃になってそれが分った。あの 男は第一の復讐をした。さうして今では、第二の復讐にか、ってゐるのだ。 妻うそです、うそです、みんなあなたの作り事です。 妻、打ち俯したま、、密かに泣いてゐるやうに見える。間。 肓人お前、 ・ : もう何時かね ? 時計をお見。 しわざ 310

5. 谷崎潤一郎全集 第10巻

マンドリンを彈く男 事は、 0 泣いてゐたことを悟られぬゃうに、はっきりと答へる。そして物憂げに身を起し、本箱の上の置時計を見る。 妻十二時二十五分前。 肓人ではもうお寢、いつもよりも五分遲れた。 妻、溜息をつき、ソオフアの背にぐったりと靠れる。肓人は本箱の前に行き、鍵で箱の扉を開け、中から白い散藥の 這入った壜を取り出す。それからデスクの所へ行ってその上にある西洋紙の紙片を取り、小卓の方 ~ 戻って來る。そ の間、妻は盲人の方を見ないで、恰も刑を待つ人のやうに項垂れてゐる。肓人の動作は念入りで、注意深く、可なり 手間取れる。 肓人、紙片を小卓の上に擴げ、壜の栓を拔き、散藥を少し紙の中へ振りかける。その時妻が顏を上げる。 妻あなた、もうそのくらゐで澤山よ。 : もう少しお飮み。 肓人いや、もう少し、 妻そんなに飮まないでも寢られますわ。 肓人いや、まだやうノ ( \ 二グラムだ。藥と云ふものはだんノ ( 、利かなくなるものだよ、少しづ、分量を 殖やさないでは。 きっ 妻でも、あまり澤山睡眠劑を飮むせゐなんだわ、毎日々々體がだるくって仕様がないのは。 と中毒を起してゐるのよ。 肓人此の藥は大丈夫だよ。中毒を起しても死にはしないよ。己はお前を、まだ / 、、死なせはしないのだ ・ ( 云ひながら分量を殖やす ) 311

6. 谷崎潤一郎全集 第10巻

突然電燈を消す。月の光が窓を透して鮮やかに射し込み、鐵格子の影をくつきりと窓かけに印する。同時に一個の人 影が、正面の向って右の窓の向うに照らし出される。影は恰もやもりのやうに格子にべったり喰っ着いて見える。肓 人は尚も一心に物音を聽く。音の性質がだん / \ 變って來て、メリ / と軋むやうな響を發する。と、右の窓に接す る壁の一部が、細かい土砂になってバラ / \ と落ちる。 肓人お、 ! あの男だー 鋧い叫び聲を發し、轉ぶが如くソオフアの前へ來、救ひを求めるやうに妻の寢姿に縋り着き、彼女の體を激しく搖す 振る。 とうノ ( \ あの男が 肓人浮子 ! 浮子 ! 土砂が崩れ落ちると共にその窓の枠全體が動き出し、次第に壁の面からずり出で、鐵格子が附着したま、遂にすつぼ りと室内へ落ち込む。格子には綱が結んであり、それが外へ績いてゐる。 窓の脱けた四角な穴から、影の男が、身輕に音もなく這人って來る。肓人、ソオフアから飛び退き、安樂椅子の蔭に 身を屈める。影の男、飛鳥の如く肓入に躍りか、り、矢庭に頸を緊扼する。 肓人あ、浮子 ! 浮子 ! 助けてくれ ! 影の男、肓人を後へ / 、と押して行き、落ちてゐる窓枠の上へ壓し倒し、馬乘りになり、ポッケットから紐を出して 肓人の頸を絞める。肓人は纔かに抵抗したゞけで息が絶える。その死骸の周圍に、穴から射し込む月の光が青白い圈 を描く。 影の男、息の絶えたのを見定めてから立ち上り、安樂椅子の前を通って、寢てゐる女の方へ進む。床に捨てられたマ ンドリンがその足に引っ懸り、絃が鳴る。男、腹立たしげにマンドリンを取り上げ、棹をポッキリと折り、床に叩き つけ、ふと気が付いて又死骸の方へ戻り、窓枠に結んである綱を解き、それを引っ張って來て左の窓の鐵格子に結び 着け、寢てゐる女を肩に擔ぎ、再び綱を傳はって前の穴から降り去る。 314

7. 谷崎潤一郎全集 第10巻

男があるのを、 妻でも、此の部屋は湖水の縁にあるのよ、さうして險しい崖の上に。 肓人しかしあの男は、湖水の縁まで船でやって來るだらう、さうして此の崖を攀ぢ登るだらう。 妻まあ、どうして攀ち登って來られるでせう、こんなお城の櫓のやうな高い所へ。 肓人己はあの男に備へる爲めに、此の窓の外へ鐵格子を篏めたが、あれはよくない考へだったよ。此の 格子から綱を垂らすと、それを傳はって上って來られる。己は毎晩、よくそんな夢を見るんだ。 妻それではあなた、綱が結んであるかどうか、格子を調べて御覽になったらよくはなくって ? 肓人お前は己が、此の窓を開ける勇莱はないと見縊ってゐるのだ。だからさう云ふことを云ふのだ。 妻窓の外まで登って來たにしたところで、どうすることが出來るでせう。あんな巖丈な、牢屋のやうな 格子があっては。 肓人己はどうするかよく知ってゐる。それだから己は、窓かけへ影が映らないやうに注意するのだ。己 は折り / 、 \ 夢の中で、ピストルの音を聞くことがある。 男妻さうです、それはみんな夢なのですわ。 彈肓人だが、夢でない音を聞くこともあるのだ。それ、その壁のところだよ、 ( 正面の窓と窓の間を指す ) 毎晩 を 々々、あのガリノ ( \ と云ふ音がするのは。 ン妻あれは鼠の音だと云ふのに。 マ 肓人己はあの音を、もう一年も聞いてゐるのだ。夜が更けてから、たとひ一と晩でもあの音を聞かない 309

8. 谷崎潤一郎全集 第10巻

マンドリンを彈く男 毛布の上から妻の體をさすって見、安樂椅子に戻って來てマンドリンを取り上げる。 外のものを見たり聞いたりするんではないよ。 肓人さあ、此れをお聞き、夢の中で此れをお聞き。 云ひっ、彈奏し始める。そして、時々手を休めて妻の寢息に耳を澄ます。や、長き間。 肓人、そっとマンドリンを置き、忍び足でソオフアに近寄り、再びしみみ \ と寢息を窺ふ。最初は恐る / 、次ぎに はや、荒々しく、妻の體を搖すって見る。妻は身動きもしない。肓人、跪いて兩手で彼女の顏を挾み、頬擦りする。 ・ : 己はお前が、あの男の所へ 盲人浮子、堪忍しておくれよ、己はお前を苦しめたくはないんだよ。 逃げて行くのが恐ろしいんオ 更に頬擦りをし、クションを一脣工合よく頭の下へ當て、やり、今度は裾の方へ行き、彼女の脚を抱きか、へ、毛布 の下部を少しまくって兩足の足袋を脱がせ、足の甲に頬擦りをし、暫くして立ち上る。 お前、ほんたうに寢てゐるんだらうね ? 盲人あ、、よく寢てゐる。 脱がせた足袋を取り上げ、一方の足袋をもう一つの足袋の中へ押し込み、それをヅポンのポッケットへ人れ、毛布を もとの通りにかける。 盲人待っておいでよ、お前が寢たら己ももう寢る。今直き向うへ運んでやるよ。 安樂椅子の所へ戻り、マンドリンの絃を弛め、鍵で下手のドーアを開け、開け放しにして出て行く。 長き間。正面の壁と壁との間にガリ / \ と云ふ音が聞え出す。一旦途絶えては又聞える。そして次第にはっきりと響 く。妻の寢姿は死んだやうに靜かである。 壁の物音が途絶えた時に、肓人が寢間着を着て這人って來る。寢間着は白い。ハジャマである。矢張ドーアを開け放し にしたま、、妻の側へ進み、毛布を剥ぎ、彼女を抱き上げようとする。とたんに壁が鳴り始める。肓人、彼女の頭を 再びそっと枕に載せ、壁の方へ忍び寄って耳をそばだてる。音はます / \ 高くなる。肓人、小卓の方へ後ずさりをし、 313

9. 谷崎潤一郎全集 第10巻

うきこ 盲人え、浮子、お前はさう云ふ莱がしないかね ? 此のマンドリンが湖水の方まで聞えてゐると思ふの 妻 ( ちょっと本から眼を離して ) 聞える筈はありませんわ。 肓人お前、ほんたうにさう思ふかね ? 妻だって、あなた、 肓入 い、や、聞える、 お前も多分聞えると思ってゐやしないか ? ね、窓はすっかり締まってゐるから大丈 妻もうそんな事は云はないで下さい、お願ひですから。 夫よ、だから安心してもう一度聽かして。 盲人お前、じっとして聽いてゐるだらうね ? 外の事は考へないで。 妻聽いてゐますとも、外の事なんか考へやしないわ。 短き間。 肓人 ( 曲を彈き終る ) 今夜はいつもより好い音が出る、己の氣のせゐかも知れないけれど。 妻、だまって本を讀んでゐる。そしてそうッと、音のしないやうにページをまくる。 肓人 : ねえ、己はさう思ふよ、今夜は月がい、筈だがかう云ふ晩には誰かゞ外で此のマンドリン を聞いてゐるだらう。きっと誰かゞ、湖水の上に船を出して、此の部屋の窓を見上げてゐるだらう。 306

10. 谷崎潤一郎全集 第10巻

マンドリンを彈く男 土藏のやうな感じのする、上手に一つ正面に二つ窓のある、厚い白壁の洋風の室内。窓には几べて綠の窓かけが垂れ てゐる。下手に扉。上手の窓際にデスクと椅子。正面の窓と窓との間に小型の本箱。その上に置時計。中央に安樂椅 子。下手の方に小卓とソオフア。家具は孰れも古びた質素なもの。 或る物靜かなンドリンの小夜曲が聞えつ、幕開く。秋の夜の情景。小卓の上に綠の笠のあるスタンドが燈ってゐる。 その向って右に、安樂椅子の角に腰かけ、左の奥の妻の方を向き、肓人が今のマンドリンを彈き續ける。妻はソオフ アに靠れ、恰もその曲を聽き入るやうな姿勢を取りつ、、桃色の表紙の書物を讀んでゐる。肓人の服裝は黒のヅポン に鼠の毛糸のスヱーター、妻は地味な綿入に羽織。彼女の傍にクションが二つと白い毛布が置いてあり、毛布の一鏐 がソオフアから床へ摺り落ちてゐる。 人物 マンドリンを彈く男肓人 浮子その妻 影の男 第一場 305