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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第10巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第10巻

ぎゃうさう 淫婦の面魂を遺憾なく露はした形相でした。 「出て行け ! 」 と、私はもう一度叫ぶや否や、何とも知れない憎さと恐ろしさと美しさに駈り立てられつ、、夢中で彼女 の肩を搬んで、出口の方へ突き飛ばしました。 さあ ! 出て行けったら ! 」 「出て行けー : 讓治さん ! もう今度ツから、 「堪忍して、 ナオミの表情は俄かに變り、その聲の調子は哀訴にふるヘ、その眼の縁には涙をさめる、、と湛へながら、 べったりそこへ跪いて歎願するやうに私の顏を仰ぎ視ました。 : 堪忍して、堪忍して、 「讓治さん、惡かったから堪忍してッてば , こんなに脆く彼女が赦しを乞ふだらうとは豫期してゐなかったことなので、はっと不意打ちを喰った私は、 そのために尚憤激しました。私は兩手の拳を固めてつゞけさまに彼女を毆りました。 「畜生 ! 大 ! 人非人 ! もう貴樣には用はないんだ ! 出て行けったら出て行かんか ! 」 しくじ と、ナオミは咄嗟に、「此りや失策ったな」と莱がついたらしく、忽ち態度を改めてすうッと立ち上った かと思ふと、 愛「ちゃあ出て行くわ」 の 人と、まるで不斷の通りの口調でさう云ひました。 痴 「よし ! 直ぐに出て行け ! 」 219

2. 谷崎潤一郎全集 第10巻

二十三 「どうです河合さん、さう閉ち籠ってばかりゐないで、気睛らしに散歩して見ませんか」と、濱田に元気 をつけられて、「それではちょっと待って下さい」と、此の二日間ロも漱がず、髯も剃らずにゐた私は、 剃刀をあて、、顏を洗って、セイセイとした心持になり、濱田と一緒に戸外 ~ 出たのは彼れ此れ二時半頃 でした。 「かう云ふ時には、却って郊外を散歩しませう」と濱田が云ふので、私もそれに賛成しましたが、 「それちゃ、此方へ行きませうか」 と、池上の方へ歩き出したので、私はふいとイヤな気がして立ち止まりました。 「あ、共方はいけない、その方角は鬼門ですよ」 「へえ、どう云ふ譯で ? 」 「さっきの話の、曙樓と云ふ家がその方角にあるんですよ」 ぢゃあどうしませう ? 此れからずっと海岸へ出て、川崎の方へ行って見ま 「あ、そいつはいけよ、 せうか」 愛「えゝ、 ゝでせう、それなら一番安全です」 人すると濱田は、今度はグルリと反對を向いて、停車場の方 ~ 歩き出しましたが、考 ~ て見ると、その方角 も滿更危險でないことはない。ナオミが未だに曙樓 ~ 行くのだとすれば、ちゃうど今頃熊谷を連れて出て 247

3. 谷崎潤一郎全集 第10巻

「いやだわ、あたし」 と、ナオミはにべもなく云ひました。 「此の暑いのにダンスなんか禁物だわ、又そのうちに凉しくなったら出かけるわよ」 「それもさうだね、ダンスは夏のものちゃないね」 さう云って濱田は、つかぬ様子でモヂモヂしながら、 「おい、どうするいまアちゃん もう一遍泳いで來ようか ? 」 「やあだア、己あ、くたびれたからもう歸らうや。此れから行って一と休みして、東京へ歸ると日が暮れ るぜ」 「此れから行くって、何處へ行くのよ ? 」 と、ナオミは濱田に尋ねました。 「何か面白い事でもあるの ? 」 あふぎやっ 「なあに、扇が谷に關の叔父さんの別莊があるんだよ。今日はみんなでそこへ引っ張って來られたんで、 御馳走するって云ふんだけれど、窮屈だから飯を喰はずに逃げ出さうと思ってゐるのさ」 「さう ? そんなに窮屈なの ? 」 「窮屈も窮屈も、女中が出て來て三つ指を衝きやがるんで、ガッカリよ。あれちゃ御馳走になったって飯 が喉へ通りやしねえや。 なあ、濱田、もう歸らうや、歸って東京で何か喰はうや」 さう云ひながら、熊谷は直ぐに立たうとはしないで、脚を伸ばしてどっかり濱へ腰を据ゑたまゝ、砂を 168

4. 谷崎潤一郎全集 第10巻

「めったにない。」 「は、あ、 それから、あのう、お宅は何でございますか、お見受け中しましたところ、お掃除など どなた がよく行き屆いて居りますやうですが、かう云ふ事は誰方がおやりになりますので ? 」 「書生にやらせる。」 で、女中さんはお幾人 ? 」 「はあ、書生さんがお掃除を ? 「二人をる。」 「では、書生さんが一人に女中さんが二人、それに先生と、四人暮らしでいらっしゃいますので ? 」 「さう、四入暮らし、 や、かう云 「尤も何でございますな、先生お一人のことですから、それで十分でございますな。 ふところを拜見しますと、サツ。ハリしてゐて莱持がい、と仰っしゃいますのが、わたくし共にもよく分る ゃうな気がいたします。」 今度は先生は返事をしない。そして溜息をついたかと思ふと、鼻の孔を少しひろげて、生あくびをし こ 0 「うん。」 「はあ、成る程、 : それでも時々訪間者はございませうな、學生だとか、又は友人の方々であると 328

5. 谷崎潤一郎全集 第10巻

とがあるかも知れない。それでマッカネルの方でも、「此奴は己に氣がある」と見て、からかったことが あるんだらう。だから友達と云ふのでもなく、ほんのそれだけの縁故でもって押しかけて行ったに違びな 2 いんだ。そして訪ねて行って見ると、マッカネルの方ちゃ面白い鳥が飛び込んだと思って「あなた今晩私 の家へ泊りませんか」「え、、泊っても構はないわ」と云ふやうなことになったんだらう。 「何ぼ何でも、そいつは少し信じかねるな、始めての男の所へ行って、その晩すぐに泊るなんて。 「だけど河合さん、ナオミさんはさう云ふことは平莱でやると思ひますね、マッカネルもいくらか不思議 に感じたと見えて、『此のお嬢さんは一體何處の人ですか』ッて、昨夜熊谷に聞いたさうです」 「何處の人だか分らない女を、泊める方も泊める方だな」 「泊めるどころか洋服を着せてやったり、腕環や頸飾りを着けてやったりしてゐるんだから、なほ振って るちゃありませんか。さうしてあなた、たった一と晩ですっかり馴れ / \ しくなっちまって、ナオミさん ウィリー』ッて呼ぶんださうです」 は其奴のことを『ウィリ 1 、 「ぢや、洋服や頸飾りも、その男に買はせたんでせうか ? 」 「買はせたのもあるらしいし、西洋人のことだから、友達の女の衣裳か何かを借りて來て、そいつを一時 間に合はせたのもあるらしいッて云ふことですよ。ナオミさんが『あたし洋服が着てみたいわ』ッて、 ッたれたのが始まりで、とう / \ 男が御機嫌を取ることになっちまったんぢゃないでせうか。その洋服も 出來合ひのやうなものちゃなくって、體にびったり篏まってゐて、靴なんかもフレンチ・ヒールのきゅッ ふる

6. 谷崎潤一郎全集 第10巻

うすそれを嗅ぎつけない筈はありません。二入も負けない気になって、人を出し拔いては、彼女の耳に囁 き、訴へ、戀の爭ひは一層激しくなりましたが、それと同時に、だんだん彼女の恐るべき性質もムキ出し になって來たのでした。彼女は酒も飮みましたし、煙草も可なり吹かしましたし、言葉づかひや態度など も、狎れ親しむに從って、ひどくぞんざいにアバ擦れて來ました。そればかりでなく、彼女は僕に結婚し ても宜しいと云ふ内諾を與へ、僕の切なる願ひをきいて、思ひを遂げさせてはくれたものの、外の二人に もその同じことを許してゐないと、誰が云へませう。現に彼女の身の周りには、見たこともない指環や頸 飾りや夜會服などが毎日のやうに殖えて行くのに、その唇が僕の唇ばかりに觸れるものであることを、ど うして保證出來るでせう。此の已み難い不安と嫉妬とは、三人ながら感じてゐたに違ひなく、もうしまひ には途で遇っても默って顏を背けるくらゐ、互ひに反目し合びました。そして三人が三人とも、皆別々な 行動を取り、思ひ思ひに彼女の許へ忍んで行きました。」 「僕はかう云ふ状態の下に、オルロフ夫人と一年餘りもあひびきを績けてゐました。僕は父が社長をして ゐる山下町の。ä會社に勤めてゐたので、比較的自由がききましたから、東京の丸ビルに通ってゐるポ ツブや、時々神戸へ行かなければならない商用を持ったジャックよりも、一番繁く彼女に逢ってゐるもの 千九百二十三年の八月が暮 と信じてゐました。が、そのうちにあの、大地震のあった大正十二年、 一と通り彼女の住 れて、呪ふべき九月一日の朝が來たのです。ここにあの日の恐しい出來事を語る前に、 居の模様を知って頂かねばなりませんが、あなたも大几横濱の徇は御存知でせう、地震の際に殆ど瞬時に 崩壞して、最も早く火を發したのは山下町一圓ですが、その次ぎにひどくやられたのは西洋人の住宅地で 504

7. 谷崎潤一郎全集 第10巻

「新六三」や、「新月」や、ダンス場廻りや、却って碌でもないことを教 ~ てしまって誠に濟まない。「新 六三」で靴下の穴を気にした君よ、どうかもうあんな所や、「カフェ工 。ハレイ」や、「アルカザル」 などへ行かないやうにしてくれ給へ。勿論行きはしないだらうカ それから、君の次に親しくした唐震球君はどうしてゐますか。同君にも、同君の奥さんにも、くれ \ も 宜しく云って下さい。正月早々、君と二人で陳抱一君の所へ貰ひに行った廣東狗は、二匹とも無事に日本 へ連れて來ましたが、とう / ( 、 一匹は盜まれてしまって、あの眞っ黒な雌の方だけが、非常に達者に、大 きくなってゐることを、陳君御夫婦に傳へて下さい。あの江灣の廣い邸は、春は定めし美しかったことで あらうと、遙に想像してゐます。 終りに臨んで、今度の「改造」の支那號に君の「虎を獲る夜」が間に合はなかったことを、君のために惜 しく思ひます。「晝飯の前」は原稿で一讀しましたが、君の日本文の達者なことに驚いたゞけで、内容は 稚気を帶びてゐるやうに感じました。「虎を獲る夜」は言葉は分らなかったけれども、同文書院の學生劇 で見たところでは、恐らくい、物であったらうと思ひます。今後の君は事業家であり、敎授であり、創作 家であり、多忙を極めることでせうから、又上海へ出かけても、もう此の間のやうに案内しては貰へます まい。僕は偏へに君の奮鬪を祈りつ、、此の手紙を以て「交遊記」の筆を擱きます。 では田漢君、左様なら。 ( 大正丙寅六月三十日夜 ) 598

8. 谷崎潤一郎全集 第10巻

赤い屋根 呼ばれなければお美代も決して上って行かない。尤も酒は可なり行けるのに違ひなく、日本酒はめったに やらなかったが、食事中にはシャト ー・ラロースかシャブリ 1 を飮み、食後はチーズを摘まみながら、コ ニャックのクルヴォアジェか リキュウ酒を飮むことに極まってゐた。それでさう云ふ西洋酒の數々は、 小田切自身が特別に禪戸へ註文して、いつも此の家へ備へつけて置いたのである。 「三ちゃん、ちょいと ! 三ちゃんはゐないかい ? 」 二階で繭子の頓興な聲が聞えたのは、吉例の如く食後の酒になってから、又一時間も立ったと思ふ時分で ある。恩地は階下で、お餘りの鱧のすき焼の鍋を圍みながら、お美代やお元と突ッついてゐる最中だった 「おう ! 」 と云ひさま、箸を投げ捨て、、梯子段の下まで駈けて行った。 繭子は上から顏を出して、 「三ちゃん、あんた御飯は ? 」 「今たべてゐますが、もう濟みますよ、何の御用です。」 と、下では丁寧な言葉を使った。 「さう、ちゃ、たべちまったら二階へ來ない ? てるの。」 「そりや有りがてえな、御馳走になります。 さふ ハさんがあんたに、珍しいお酒を御馳走するツて云っ ぢゃあ大急ぎで、先へ一とッ風呂這人っちまひます。」 365

9. 谷崎潤一郎全集 第10巻

した。 「ナオミちゃん、歸って來たよ。角に自動車が待たしてあるから、此れから直ぐに大森へ行かう」 「さう、ぢや今直ぐ行くわ」 と云って、彼女は私を格子の外へ待たして置いて、やがて小さな風呂敷包を提げながら出て來ました。そ れは大そう蒸し暑い晩のことでしたが、ナオミは白っぽい、ふはノ \ した、薄紫の葡萄の模様のあるモス ときいろ 丿ンの單衣を纒って、幅のひろい、派手な鴇色のリボンで髮を結んでゐました。そのモスリンは先達のお 盆に買ってやったので、彼女はそれを留守の間に、自分の家で仕立て、貰って着てゐたのです。 「ナオミちゃん、毎日何をしてゐたんだい ? 」 車が賑やかな廣小路の方へ走り出すと、私は彼女と並んで腰かけ、こ、ろもち彼女の方へ顏をすり寄せる ゃうにしながら云ひました。 「あたし毎日活動寫眞を見に行ってたわ」 「ぢや、別に淋しくはなかったらうね」 「え、 、別に淋しいことなんかなかったけれど、 さう云って彼女はちょっと考へて、 愛「でも讓治さんは、思ったより早く歸って來たのね」 人「田舍にゐたって詰まらないから、豫定を切り上げて來ちまったんだよ。やつばり東京が一番だなア」 ほかげ 私はさう云ってほっと溜息をつきながら、窓の外にちら / \ してゐる都會の夜の花やかな灯影を、云ひや せんだって

10. 谷崎潤一郎全集 第10巻

ってゐる筈です。さう考へると、私が彼女に贅澤の味を覺えさせたのはい、事でした。 さうだ、さう云へばいっか英語の時間にナオミがノ 1 トを引き裂いた時、己が怒って「出て行け」と云っ たら、彼女は降參したぢゃないか。あの時彼女に出て行かれたらどんなに困ったか知れないのだが、己が 困るより彼女の方がもっと困るのだ。己があっての彼女であって、己の傍を離れたが最後、再び社會のど ん底へ落ちて此の世の下積になってしまふ。それが彼女には餘程恐ろしいに違ひないのだ。その恐ろしさ い。もはや彼女も今歳は十九だ。歳を取って、多少でも分別がついて來たゞ は今もあの時と變りはあるま け、一脣彼女はそれをハッキリと感じる筈だ。さうだとすれば萬一おどかしに「出て行く」と云ふことは あっても、よもや本気で實行することは出來なからう。そんな見え透いた威嚇で以て、己が驚くか驚かな いか、そのくらゐなことは分ってゐるだらう。 いくらか勇気を取り返しました。どんな事があってもナオミと私とは別れる 私は大森の驛へ着くまでに、 もうそれだけはきっと確かだと思へました。 ゃうな運命にはならない、 工の中は眞っ暗になって居り、 家の前までやって來ると、私の忌まはしい想像はすっかり外れて、アトリ 一人の客もないらしく、し 1 んと靜かで、たゞ屋根裏の四疊半に明りが燈ってゐるだけでした。 「あ、、一人で留守番をしてゐるんだな、 愛私はほっと胸を撫でました。「此れでよかった、ほんたうに仕合はせだった」と、そんな気がしないでは の 人居られませんでした。 あひかぎ 工の電氣をつけました。見ると、 締まりのしてある玄關の毎を合鍵で開け、中へ這人ると私は直ぐにアトリ 153