白 八 水野はそれから四日間を全く上の察で暮らした。それ迄の彼の生活の鎖がその日に至ってぼつりと切れて、 それから後は書物の中へ白紙のペ 1 ヂが這入ったやうに、察虚になってしまってゐる。その間に何をした 力いかにして、何處に過したか、二人で鎌倉迄自動車を驅った日から、彼は絶え間なく何かに乘って、 搖られ績け、走り續けてゐたのである。彼は若い時分にはずゐぶん諸處を漂泊したり、三日も四日も遊里 ゐつづけ に流連した覺えはある。が、三十五六になってからはさすがに少し落ち着いて、無茶をするにも大几そ締 9 めくくりを附けてゐたし、第一血気の時分のやうには體力が績かなかったのだが、それが今度と云ふ今度 「今時そんな、ほんたうの戀なんてありやしないわよ。みんな芝居をしてゐるのよ。 、芝居をするのが下手なんだわね。」 「さうかも知れない。しかし相手の女優にもよるんだ。」 「あたしは名優よ、安心していらっしゃい そしてあなたがいっ迄も興味を感じるやうな、變化の あるシナリオを書いて上げるわ。」 「變化のある、さうして色彩のある : 「テクニカラ 1 ね。」 水野は膝の上に女の手のひらを持って來て、藥指と中指とを、觀世よりのやうによちりながらもてあそん でゐた。 あなたは詰ま
・少し痛くても構ひません。 ドクトル承知しました。 短き間。傳達麻醉の準備。 ドクトルノホカイン。 看護婦、ノボカインの壜を持って來る。 ドクトル、ノボカインを患者の局部に注射する。手を洗って手術臺の丁稚の方へ行く。 會社員風の男はじっとしてゐる。 ドクトル含嗽をして。 丁稚含嗽をする。それから仰向けにさせられる。 ドクトル、メスを丁稚のロ腔へ入れ、張れた頬ッペたを内側より切る。 ドクトルもう一つ含嗽をして。 丁稚起き上って含嗽をする。血膿がだく / \ と口から流れる。 待合室の青年、はっとしたやうに右の手で顏を掩ふ。手先が微かにふるヘてゐる。 ドクトル、脱脂綿を丁稚に咬へさせる、手を洗って << 手術臺に行き、エキスプロアラーで會社員風の男の奥齒を押す。 ドクトル如何です、まだ幾らか感じますか。 會社員風の男感じません。 ドクトル、鉗子を以て迅速にテキ。ハキと二本の齒を拔く。ガリ、ガリ、と云ふ音がする。會社員風の男、や、、靑褪め た顏色になる。唇から紅い血のすぢが、糸を曳いて頤へ傳はる。 待合室の靑年、再び手を以て顏を掩ふ。
その一 母なる人はまだその時分はうら若かった。尼になったとは云ふものの、ほんの端の方を切ったばかりで、 うなじを掩ひ、耳を掩ひ、肩を掩うて後ろに垂れた黑髪には、つやつやしい色香があった。さうして朝と ゅふべ なくタとなく、持佛堂の御佛の前に長まって、難波江か、須磨の浦か、海のけしきの繪が畫いてある扇の もんじゅまる みだう 骨を數へながら、心靜かに念佛を唱へてゐた。文殊丸はよくさう云ふ折に、そうっと御堂へ這入って行っ て、母なる人の傍の板敷の上にうづくまってゐたことがあったが、やさしい母がそんな時には文殊丸には みやうがうず 眼もくれないで、 專念に名號を誦してゐるのを、横から見ると顏はゆたかな髪の毛のかげに隱れて、わづ をんなぐるま かに可愛い鼻のあたまと、ふつくらとした下ぶくれの頬の、袋のやうに張ったあたりとが、女車の出し衣 ふさふさ よりもあえかに白く匂ってゐた。母なる人のみどりの髮はそれほど房房としてゐたので、尼になる前はど んなにか見事だったであらう。うへに仕へてゐた頃には身の丈よりも長く餘って、摺り裳の上におどろお あと どろしく後を曳いたと云ふ話を、誰かから洩れ聞いた覺えもある。母なる人もさすがに得度を受ける時に は、うっせみの世は兎にも角にも、髪には名殘りが惜しまれて泣いた。「たらちねはかかれとてしもうば たまの我が黒髪は撫でずやありけん」と、ロのうちであの歌を繰り返したと云ふことであった。 あたら さうまで可惜しい髮を切って、さまを變へたのは、いったいどう云ふ譯だったらうか。亡き少將の菩提を かたはら みほとけ 、三ぎぬ
内内心配してゐたのだが今になって讀み返してみると、案外よく書けてゐるのに彼はわれながら感心した。 さうしてあの時だってあんなに書きなぐって此れほどの効果を得てゐるのなら、今日だってやりさへすれ ば出來ないはずはないと思ひながらも、さて一行も書き出せなかった。ただペンを持ってみたり、置いて みたり、ペン先のエ合を直してみたりなどばかりしてゐた。先日もこの一段落の着いたところで行き詰ま って考へあぐねてしまったのである。あせってみても仕方がないと自分をなだめながら、先からそれが気 になってゐたのだから、一應それを見たらば落ち着きが出るだらうと、ちょっと立ち上がったと思ふと、 ブランデスを三册とも本棚から取り出して來た。そして寢轉びながら、もう一ペん札の挾まってゐるべー ジを一一叮嚀にめくり返して、 「火曜日、火曜日。」 と、溜め息交りに獨り言を云った。 それから間もなく、ゆうべの電車の中の女の姿や、自分の醉態を想ひ出して、自分の體温であたたまった 疊をあだかも女の肌ででもあるかのやうに感じ出し、それが揉み合ひ押し合ひ、弾み返して最後には車が 搖れてゐる氣持ちまで感じたが、それきり彼は寢入ってしまってゐた。 呼び起された瞬間に、 「あ、さうだ、中澤がゐたんだっけ。」 と、直ぐ想ひ出すと、むつくり起き上がった。 みると、枕にしてゐたらしい三册の。フランデスは崩れてしまって、その一册の表紙にはよだれがねっとり 277
「はつ、お留守中に闖入しまして、どうも甚だ : 「いや、僕が惡かったです。詐欺だと云はれても仕方がないです。 「そ、そんなことはもう、 : ゅうべは全く血迷ってゐたんで、ついあんなことを書いてしまったんで 「しかしなかなか辛辣だね、 『それともあなたの惡魘主義は僕の如き薄給者に』かね。 「いやあ、いけません、いけません ! 」 水野は先から、相手のわざとらしい謹嚴な面つきを壞してやらうとかかってゐたのだが、とうとう中澤は さう云ひながら頭を掻いて、 いつもの狡猾な笑ひを洩らした。 : あれはその、 : ほんたうに血迷ってゐたんですから。」 「あはははは」 : それよりあなたのお手紙を拜見した時の方が、どんなにびつくりしたか知れませんよ。正直を云 ふと、僕はいつでもあなたのことを社長の前では褒めてゐるんです。水野さんはそんな不信用な人ではな それは作家のことだから、気分によっては約東したものが書けないこともあるけれども、そんなこと を云ったら水野氏一人に限ってはゐない。、 もったい社長は創作家と云ふものを何と心得てゐるんだ。資本 家が勞働者を搾取するやうな了見でゐるのは怪しからんことだ。もともと創作と云ふ仕事に對して原稿料 が安過ぎるのだから、値上げをすることが出來ないなら、せめて前貸しぐらゐには気持ちよく應じてくれ ないと、直接あなたがたにお願ひに出る僕の立ち場が非常に困る。それを一一やかましく云って、何圓貸 259
「どう ? あなた、おいしいわよ此のウルストは。」 女は黒パンの一とひらの上へ、うすく輪切りにした膓詰を載せてから、拇指と人さし指とで。ハンの角を摘 2 まみ上げながら、顏と直角に、手品使ひが刀を飮むやうにしてロの中へ持って行くのである。 「それとも睡かったら寢て頂戴。」 「有り難う それより話の方を先へ極めて貰びたいね。今日がいけなかったら、何曜日が都合がいい あたし金曜日と火曜日なら差し支へないんだけれど、でも今週は 「さうね、もう今日は木曜日ね。 ちょっと困るわ。來週の火曜日からにしてくれない ? 」 「どうしてさ ? 明日がちゃうど金曜日だから、明日來ても、 もだらう ? 」 「それがちょっと : : ちょっと困ることがあるの。」 さう云って女は、面の憎いほど落ち着いて膓詰を切ってゐるのである。 水野はそれを知りつつもだんだん相手の思ふ壷へ篏め こいつ、いよいよ足もとに附け込むんだな。 られて行くやうに感じた。いったい彼は貧乏なくせにたまに懷に金が這入ると、何かにそれを使ってしま ふまでは氣が濟まない性分なので、そんな時には無理にも何かしら買ひたいものを拵へる。そして「此れ を買はう」となると、今度は矢も楯もたまらなくなる。だからいつでも商人たちに足もとを見られて、高 く吹っかけられるのだが、さうなるとなほ遮二無二ほしくなって來て、ますます相手を附け上らせて、結 局馬鹿な値で買はされてしまふ。女は彼のその性質を見て取ったのかどうか分らぬが、かう云ふ風に驅け
し」「ほんまに何ちふ気イでゐやはりまんねんやろなあ ? よっぽど困りはりましたん違ひまッしやろ か ? 」「なんば困った云うたかって、好きな男と料理屋い行てるやのお風呂い這入ったやのと、そんなこ と云へた義理かいな、あんたまあ考へてみて欲し ! 」「それもさうでおまッけど、着物盗まれてしまひは ・ : 」「うちゃったら裸で歸る。あんな耻知ら ったんでは、裸で歸りはることも出來しめへんしなあ。 ずな電話かけるぐらゐやったら、裸で歸る」「こんな時に泥坊に遇ふなんぞ、惡いこと出來まへんもんだ んなあ」「やつばりッちゃ。それもお金だけと違て、二人とも素ッ裸にしられてしもて、腰帶から足袋 : 」「さうでおま、さうでおま、罰でおまッせ」「あ、、あ、、こんな までもないやうになるなんぞ、 : : : : うち何處まで馬鹿にしられてるねんやろか」 事に使お思て揃びの着物こしらへたん違ふのんに、 「とうちゃんは又、今日あの着物着て行きはった云ふのんはほんまに運が強おまんなあ。奧樣迎ひに行っ たげへん、どうなと勝手にせえお云やして構はんとお置きやしたら、どないなりましたやろか ? 」「うち かってよっほどそないしたげよ思てんけど、最初はさつばり何のこッちゃ様子分れへんし、電話ロで泣き 出してはあはあ云うてやよって、たヾもうびッくりしてしもてん。それになんば憎たらし思てもやつば り心から憎む気イになれへんさかい、裸でふるてやる姿眼工の前にチラついて、可哀さうで / \ 居ても立 ってもゐられへんやうになって、 : そらお梅どん、ハタから見たら阿呆らしやろけど、そんなもんや : 」「それにどうやろ、自分のもんばっかりか男のもんま し」「そらなあ、さうでおまッしやろとも。 で持って來い云うたり、電話ロでこそこそ相談し合うたり、まるで人に見せつけるやうな眞似シして、ど んな顏してそんなこと云へるのんやろか。人の前では『姉ちゃん姉ちゃん』云うて、『あて姉ちゃんより 448
四 それから十時迄の間に彼は二囘便所 ~ 立った。が、痳病の眞似も實行してみると容易でない。何しろ昨夜 からおちおち眠る暇がないので、だんだん睡氣がたまって來て、うつかりすると一時間以上寢過ごしてし まふ危險がある。十時の次ぎには、ついとろとろと淺い眠りを貪ってゐたのが、知らぬ間にぐっすり寢込 んで、はっと驚いて眼を覺ますと十一時半になってゐた。 「や、これはいかん、もう一時間半になるぞ。」 彼は慌てて便所へ行って、廊下で二三人の人に見られて來た。 ぜんたい一時間といふ時間を限ったのが、何から割り出した勘定なのだか、我ながら馬鹿げてゐた。犯罪 の場所が浦和だとすると、此の宿屋から浦和の間を往復するには、いかに切り詰めても二時間はかかる。 せめて二時間は績けて安眠が出來なかったら、此れから十日間に體がへとへと すると二時間まではい、、 になってしまふ。かんじんの二十五日になって、疲勞の結果寢過ごすやうな事があったら大變である。彼 はまたさう思ひ直して、一時間を二時間に伸ばした。そして十一時半の次ぎには、きっちり二時間目、一 時半まで兎も角も眠った。 二時には彼が朝飯兼帶の書飯を喰ふのが常で、さっきの下女が膳を持って這人って來た。 「水野さん、御病莱はいかがでございます ? 」 「おい、おい、さう病莱病莱って云ふなよ貴様。」 200
、學校であんな噂立てられ いな仲になってしもたのんか、それにはいろ / \ 夫に對して不滿あったとこい たのんが反動的に作用したこともありますやろが、私にそんな可能性あること見拔いて、知らん間アに暗 4 示かけてなさったのんかも分れしませんし、それ考へたらあの家との綠談の事にしたかて口實みたいに なんせ自分の仕掛けた罠い私おとしいれながら、うはべはいつでも私の方から手工 思はれますし、 出した形にさ、れてた云ふ気イしますねん。そら綿貫の云うたことかて一から十まで信用出來しませんし、 あの着物取られた晩でもたしかに綿貫が指圖したのんと違ふかしらん、病院から電話か、った時にし たかて、あの男の聲綿貫でなうたら外にそんな事賴まれる人あるかしらん云ふ工合に、疑ひ出したら腑に 落ちんこともあるのんですけど、 第一子供生れる云ふこと、なんで私に隱してなさるのんか、あん な心配さしときながら、そんな水臭いことするやなんて、やつばり私の方が侮られてること知れたある、 ひょッとしたらあないに秘密打ち明けて私と光子さんとの仲い水さそ云ふ莱ゃないのんか ? さうか今の そない うちは邪魔されんやうに味方につけといて、結婚したら放ってしまふつもりゃないのんか ? 思たら、だん / 、、疑ひも濃うなって來るのんですけど、そいから四五日たった或る日、又ろうじの外で待 ち受けて、、「ちょっと、ちょっと、 : 」云うて、「僕今日お姉さんに相談したいことあるのんですが、 『梅園』まで來てくれませんか」云ひますよって、一赭に附いて行きましたら、二階の座敷い上って行っ て、「たゞロでばっかりきゃうだいの約東する云うても、お姉さんかてなか / ( 、僕を信じる云ふ譯に行き ますまいし、僕かてやつばり何や心配ですさかい、お互に疑念殘らんやうに誓約書交さうやありませんか。 實はそのつもりで此んなもん書いて來たのんですけど」云ひながら、懷から二通の證文みたいなもん取り あなど
・ : 」そん てんけど、そないしてる間に俄かに光子さん苦しみ出しやはって、えらい騒ぎになってん。 な風に、しゃべってるうちに傍から / \ いろ / \ な作り事考へ出して、昨日の出來事をえ、エ合に織り交 ぜて、 光子さんはあの本の處方で昨夜の間にそうっと藥飮んだらしい、それがちゃうどその時利い と、そこは昨日見た通り委しいに話して、そないなって來る て來てだん / \ 痛みやうが強なって、 と自分にも責任あるよって歸るに歸られへん、そんでとう / \ 今迄傍についたげてたんやと、うまいこと 云ひ拔けしましたのんです。 その十六 「今日もちょっと見舞ひに行ってくるわ、放っといても気が、りやし、乘りかけた船やよってしゃうがな : 」云うて、そいから五六日のあひだと云ふもの毎日のやうに何處ぞで會うてましてんけど、「何 處ぞ人に見つけられへんとこで、毎日二三時間ぐらゐ會へるとこあったらえ、のになあ」思てますと、「そ ・靜かなとこより却って町中のゴタゴタしたとこの方が人 んなんやったら大阪の市中の方がえ、し、 あっこ 目に附けへんし」云ひなさって、「 : いつや姉ちゃんに着物持って來てもうた家なあ ? 彼處やった : 彼處にせえへんか ? 」云やはりますねん。あの笠屋町 ら気心もよう分ってるし、安心やねんけど、 の宿屋云うたら、私に取ったら忘れられへん口惜しい / 、思ひ出あるとこですのんに、まるで此方の感情 も何も蹈み付けにした話ですねんけど、そないに云はれても「ふん、そゃなあ、なんや極まり惡いけど、 行てもえ、なあ」云うて、腹立てることも出來んとをめをめ引っ着いて行ったぐらゐ、すっかり足元見ら つよ よんべ ひと 478