クラフト・エビングに依って「マゾヒスト」と名づけられた一種の變態性慾者は、云ふ迄もなく異性に虐 待されることに快感を覺える人々である。從ってさう云ふ男は、 假りにそれが男であるとして、 女に殺されることを望まうとも、女を殺すことはなさ、うに思へる。しかしながら、一見奇異ではあ るけれども、マゾヒストにして彼の細君又は情婦を、殺した實例がないことはない。たとへば英國に於い をつと 1 ヴィ て一千九百十年の二月一日に、マゾヒストの夫ホ 1 レ 1 印の的であ クリップンは、彼が渇ー」 ったところの、女優で彼の細君なるコ 1 ラを殺した。コ 1 ラは舞臺名をベル・エルモ 1 アと呼ばれ、總べ てのマゾヒストが理想とする、浮気で、我が儘で、非常なる贅澤屋で、常に多數の崇拜者を左右に近づけ、 女王の如く夫を頤使し、彼に奴隷的奉仕を強ひる女であった。その犯罪が行はれた正確な時刻は今日もな ほ明かでないが、前記一千九百十年の二月一日午前一時以後、コ 1 ラは所在不明になり、誰も彼女を見た 件 事者がない。夫クリップンは人に聞かれると、妻は轉地先で病死した旨を答へてゐた。が、五箇月を經てか らスコットランド・ ャ 1 ドの嗅ぎつける所となり、リ 幵事が彼に説明を求めると、彼は極めて淡白に、「死 うそ クんだと云ったのは謔なんです。實は一月三十一日の晩に夫婦喧嘩をしましてね、それをキッカケに妻は怒 る って家出をしちまったんですが、多分亞米利加へ行ったんだらうと思ふんです。亞米利加は妻の生國で、 本いい男があったらしいから、きっとその男の所へ行ったんでせう。アレが死んだと云ひ觸らしたのは、さ うでも云って置かないでは世間體が悪いものですからね」と、直ちに澱みなく陳述した。さうして刑事を をつと をつと
いったいどのくらゐかかるんです ? 」 「しかし安くないでせう、さう云ふ女は ? 「それが君、今も云ふやうに金はすっかり高利貸に拂ってしまったあとなんだらう ? 幾らもないんだ。」 「へえ、へえ」 と云ったが、何を云ふかと云ったやうに中澤は眼を。ハチクリさせた。 カうと知ったら拂はなけりゃあよかったと思って、地團太踏んだね。そんなことに使 ~ る金 「僕も實は、ゝ ちゃあないんだけれど、さうなるともう民衆社も糞もあるもんか、義理も人情も忘れちま ~ ッて云ふ莱に なるから恐ろしいよ。今考へると實にアブナイところだったね。」 、くらおやりになったんです ? 」 「ま、それはいいですがも 「ウィ 1 フィール ? って云ったら、フュンフツェーンと云ふんだ。」 「え ? 」 何しろ本場仕込みだからペラベラ流暢 「すべてさう云ふ談判はドイツ語を使ふんだよ、その女は。 、肝心なところは大概分るさ。」 にやられるんで、僕にも半分は聽き取れないんだが それでいくらなんですか、今のは ? 」 「ぢゃあ僕なんかはとても資格がないですなあ。 「フィフティーンヱン。」 「へえ、そんなら普通ぢゃないですか。」 「まさにリ , ーゾナブル・プライスだね。」 だから懷には 263
「此奴ほんとに醉ってゐるんぢゃないぜ。そんなに飮んちゃゐないんだからな。」 「構はず自動車へ乘つけちまはうよ。」 さう云ふ二人の男どもも大分まはってゐるらしい。三人ながら暗い横丁をもつれ合って五六間よろよろと 歩いて行ったが 「待て、待て」 と云って、茶色が電車通りの方へ自動車を見つけに走って行った。 さあ困った、今の間に此方も自動車を捜して置かなけりやと思ってゐるうちに、間もなくタキシーが女の 前に止まって、中から茶色が飛んで降りた。 「おい、おい、此のお荷物を有樂町の驛まで運んでくれ給へ。」 と、紺色が運轉手にさう云ってゐる。 「へえ、お一人だけですか。」 「うん、己たちは乘らない。」 「料金は頂けるんですか。」 「どうしようか、拂っといてやらうか。」 「そのくらゐなものは持ってるだらう。」 もう正體もなくなってゐる女の體は、二人がかりで脚を疊むやうにされて、車の中へ押し込まれた。水野 はそれが走り出したあとから、全速力で有樂町まで驅けて行った。 226
「ほんのわづかよ。」 さうい加減に胡軅化してしまって、 「だけどあたし、ほんたうにタイピストか何かのやうに見えるでせう ? 」 「兎に角ドイツ人を旦那に持ってゐたことだけは君の好みを見ると分るね。派手なハイカラは誰にも眞似 が出來るけれども、君のやうな地味なハイカラは、さう云ふ人に仕込まれないぢゃなかなかかうは行かん からね。それに白粉を塗らないのはえらいよ。」 「あたし色が黒いのに顏にも何處にも白粉をつけてゐないでせう、だから誰でも女事務員と間違へるの 「それで僕も先は大いに躊躇したのさ。ところで君、 と云って、水野はぐっとつばきを呑んオ 「女事務員らしく、事務的に相談しようぢゃないか。」 「ええ、どうぞ、 「君の要求を云ってくれ給へ。」 「まだその前に條件があるわ。 その時ちゃうど車が停まった。 話に夢中になってゐたので、先の原ッばを通り越したのも知らなかったが、停まった所はそこから路が細 くなってゐて、兩側にはごみごみした小さな家が並んでゐる。あとに附いて行くと、暗い、しめつほい路 240
そんなこんなで櫻木町へ着いた時は彼れ此れ七時になってゐたらう。彼は兎も角も腹をこしらへるために 驛の食堂へ上がった。 「いらっしゃいまし、今日はおひとりで ? 」 と、ポーイが云ふのをキッカケに、女の家を尋ねてみたが、 「さあ、あの婦人は方方に家があるやうでしてね。」 と、至極曖味なことしか云はない。 「いや、本牧の方に一軒あるだらう。それがどの邊だか知りたいんだが。」 「へえ、旦那はいらしったことがないんですか。」 「行ったことはあるんだけれど、横濱は不案内なところへ持って來て、 いつも夜遲くだもんだから、どの 邊なんだか分らないんだよ。自動車を降りてから又歩くんだが、その降りる所が ( ッキリしないんだ。」 「運轉手にきいて御覽になったら ? 驛前のタキシ 1 なんでせう ? 」 「それが違ふんだ。タキシ 1 は嫌ひだと云って、何處だか外のガレ 1 ヂから呼ぶんだ。」 「そんならそのガレ 1 ヂでおききになったら譯ありませんや。」 「そのガレ 1 ヂを知らないんだよ。あの女が自働電話をかけると、それから五分ばかりして、何でも向う の橋の方からやって來るんだ。」 「ふうん、 と云って、ポーイは首をかしげながら、 333
った頬によい気持ちであった。と、一時間ばかり立った時分、十一時頃になって女はときどきずり落ちさ うになる臀のゐずまひを直し始めた。もうそろそろ眼が覺めるなと思ってゐると、やはりだらしなく凭り かかったままちょっと帽子へ手をあてて、半ばは眠ってゐるらしくふらふらと立ち上ったが、ちゃうど共 處へ來合はせた櫻木町行きの二等室へよろよろしながら這入って行った。水野は彼女の背中とすれすれに、 文字通り寸分の隙もなく跡について、彼女がばたんと腰を下す直ぐその左へ、一見亭主か何ぞのやうにび ったり寄り添って席を取った。車臺の中はいい鹽梅に適當な程度に雜沓してゐた。と云ふのは、今しも二 人が陣取ってしまふと、それで椅子は滿員になって、同時に三四人乘り込んだのが、向う側の視線を遮る ゃうに二人の前にかたまって立ってゐる。女はと見ると、車掌臺に近い隅の席に掛けたのが、再び凭れに 片肘を乘せて頬杖をついたままぐったりとなってゐるのであった。 それにしても女は何處までを意識してゐるのだらうか、醉ってゐたはずのものがひとりで立って、自分の 乘るべき電車へ乘って、逸早く室いた席を見付けた。それが全然夢中であるのか或ひはばんやりと分って ゐるのか。ウイスキ 1 は日本酒と違って身體は利かなくなるけれども、氣は確かなものであるから何も彼 も承知の上かも知れない。 とすると水野にも気が付きながら、わざと素振りに出さないのであらうか。も う先からずゐぶん長いこと傍にゐるのに、一度も顏を水野の方へ向けないと云ふのが、さう云へば怪しく ないこともない。水野は電車へ乘り込んだ時に、確かに彼女の後ろから少し手荒くぐいと肩を押し上げて やったのを覺えてゐる。しかしあの時は咄嗟の場合で振り返る餘裕はなかったとしても、今は互ひに外套 を隔てて腕と腕と、臀と臀との肉同士がグリグリ揉み合ってゐるのである。それも水野はいくらか故意に 230
ずゐぶん今日は心配したりわくわくしたり、手の内の玉を拾ったと思ふと落したり、いろいろに運命が變 った日だが、何もかも此れが最後の努力だ。あの車が驛へ着いて、女が電車へ乘り移るまでに首尾よく此 方が行き着けるかどうかで一切が極まる。此れが今日の總決算オ : さう思ひながら水野は一生懸命 に駈けた。痩せてひょろひょろしてゐるので、駈けるには都合がいいのだけれど、和服に二重廻しだし、 それにいつでも室内にばかり閉ぢ籠って運動したことがないものだから、たまに走ると忽ち息が彈んで來 る。ものの二三丁も走った時分には、女の車はとうに見えないで、反對に彼の足の方がだんだんのろくな り始めた。彼はせいせい云ひながら、ときどき立ち止まって、今にも破裂しさうにドキンドキン響いてゐ る心臓の上をおさへた。それにもう一つ困ることは、彼の特別の體質なのか、息切れがするほど駈け出す と必ず吐き気を催すのである。室腹の時でもさうであるのに、 今夜は胃の腑へたくさん物が詰まってゐる のでなほさらたまらない。彼は走りながら、さっきのビタスが苦いおくびになって出るのを何度となく呑 み下したが、呼吸が迫って來るにつれ、しまひにはげえげえ喉を鳴らして、至るところの往來へたった今 喰べた酒や洋食をべつ。へっと吐いて行った。それがまた滑稽にも、吐いた物が一つ一つ、あ、ビフテキの 切れッ端が出た、ジンが出た、サラダが出たと云ふ風に、吐きながらちゃんと分るのであった。彼は銀座 の裏通りから有樂町の驛に至る何丁かの區間の鋪道の上に、ずうッと自分の通った所だけ五六間おきに痕 が殘るさまを想像した。實は夜の作戰上、大いに精力を養ふつもりでせいぜい脂っこい物を喰べて置いた ・ : 大方あの女は のが、お蔭でみんなフィになりはしないかと思ふと、それもなかなか心配であった。 ・ : 夜は書間ほど頻繁 横濱らしいが、櫻木町行きは何分置きに出るんだらう。五分置き ? 十分置き ? ・ 227
ませぬ。」 文殊丸は云はれるままに、母と一赭にもう一度額をついて掌を合はせた。たった今しがた夢の中ではあれ かんや ほどきはやかに、けぢかく拜めたおん姿の、寒夜に冴える笛の音のやうなおん聲までもまだありありと耳 のち に殘ってゐるやうでありながら、さめての後に仰ぎ見れば、矢張りほのぐらい内陣の奥に、觀音さまはじ まぶた っと靜かにおん眼瞼を俯せておいでになる。此れで何も彼も知っていらっしやるのであらうか。生きとし さき 生ける人間はもとより畜類までもの、ありとあらゆる苦しみも歡びも、前の世のことも後の世のことも、 さう思ふと文殊丸は、あの女房の顏よりも、此のお姿を面と見 みんな見透していらっしやるのか。 るのがいっそ恐ろしい気持ちがした。 みだうまか その時女房は柱のほとりを起ち上って、御堂を退るけはひであった。親子が跡をつけてゐるとは知る由も きざはしもと ないその女は、階の下で表着の褄を端折って、笠を戴き、杖をつきながら、むしの垂れ衣に顏を隱して、 ただひとり南の方へとばとばと歩みを運ぶのである。文殊丸はそのうしろから、母に手を引かれて忍び忍 びに出かけて行ったが、此れも観音さまの御加護か、女はあとを振り返るやうな様子もない。肩のあたり ほこり ぎぬ さしぬき ・まで下ってゐるむしの垂れ衣がゆらゆらとして、指貫の裾に、折々ほうっと埃の白く舞ひ上るのが分るば かり。都に生れて都に育った文殊丸ではあるけれども、嵯蛾のほとりを遠く離れたことはないので、此處 らあたりは何と云ふ所か、女は何地をさして行くのか、少しも見當はつかないながら、右手の方の霞んだ ひさ 空に東寺の塔が見え初めて、それがだんだん後ろへ退って行くエ合では、大分南へ來たのであらう。おお、 さう云へば淀とか伏見とか云ふところは、此の路を眞っ直ぐに行くのではないか。昔おかあさまが難波津 ぬか ぎぬ めん
「もし間違へたら大變だと思って。」 「あなたずゐぶん人がいいのね。」 「さう見えるかな。 しかしあの二人よりは僕の方がまだ氣が利いてゐるんだがな。彼奴等はとうと う、あなたが何だかと云ふことに気が付かないでしまったんだから。」 「あなたはそれにいっ氣が付いたの ? 」 「僕はテ 1 ブルの向う側に腰かけると直ぐ気が付いたんだ。君は ( と、そこから彼は「君」を使った。 ) 僕を眞正面からじっと強く見詰めただらう ? ああ云ふ眼つきは普通の女がするはずはないと思ったん 「あなた洋行したことがあるの ? 」 「ないけれども聞いてゐるさ、西洋ではああ云ふ眼つきをするんだってね。」 「ふふん」 と云って、女は惡びれた様子もなく、ただ鼻の先でかすかな笑ひを洩らしたのにいくらか自嘲の響きがあ った。 本牧と云ふのはどっちにあるのかまるで方角は分らないのだが、車の走ってゐる左側は海岸で、右側には ところどころバラック建ての安普請の、齒の拔けたやうに斷續してゐるのが見える。さうして至る所の空 き地にばろばろに崩れた煉瓦の柱や壁の一部が廢墟の如く連なってゐるのが、ヘッド・ライトに照らされ てときどきほうッと闇に浮かんオ 、 ) 0 237
白 「おい、君、勘定 ! 」 と、茶色が勢ひょく叫んオ 「まあ、そんなに急がないだっていいことよ、あたしもう一杯ウイスキ 1 を飮むの。」 : ねえ、フロイライン・ヒンデンブルグ。」 「しかし此處は出ませうよ、兎に角 : 「もう『ヒンブル』にしようちゃないか、『ヒンデンブルグ』はあんまり長いや。」 「それよりあなた方は何と云ふお名前 ? 名刺を頂戴。」 「あ、これは失禮失禮、僕はかう云ふ人間です。 「僕も此の男と同じ會社に出てゐます、どうか今後は是非御交際を 茶色と紺色とが同じゃうに紙入れから名刺を出して女の前に捧げた。 「ああ、さう、保險會社の社員なの ? 」 「ところで一つ、あなたの名刺を頂きたいもんですな。」 「名刺は持ってゐないけれど、あたし獨逸の領事館のタイビストをしてゐたのよ。だけど今は遊んでゐる 「どうです、僕の會社へ這人りませんか。」 「何處でも、 いから這人りたいわ。お酒飮みでも構はなければお世話して頂戴。」 止のサラリー・ メンたちは馬鹿な奴等だ。彼等は未だに此のフロイラインがどう云ふ種類の婦人であるか 7 気が付かずにゐるのである。そして女の方からはチョイチョイ謎を持ちかけてゐるのに、それが彼等には