「湯島迄」 彼は小型自動車 ~ 乘ると、さう云ったなり、狹い腰掛けの上へ突き倒されたやうに倒れて眠った。 それから何分ぐらゐ立ったのか、ときどきどかんと車が搖れて右 ~ 左 ~ 曲って行くのを、夢現のうちに覺 えてゐたが、 やがて或る所で止まったと思ふと 「もし、 : もしもし、 と云ひながら、運轉手が窓から顏を出した。 「もし、 どちらへ着けたらいいんです ? 」 「湯島へ行くんだ。」 「もう湯島ですよ。何處迄おいでになるんです ? 」 「何處だい、此處は ? 坂の中途へんか。 寢てゐた彼の眼には家並みの軒先が見えるばかりで何處だかさつばり分らなかった。眼の前を走る滿員の 電車の地響きががんがんと耳もとに鳴った。 「坂を登り切ったところにゐるんですよ。」 「ぢや、 : もう二三丁行ってくれ、左側に床屋があるだらう床屋カ 「へえ、 「床屋の角にポストがあって、手前の角に荒物屋がある、 : そこを左へ曲ってくれ。それから三軒目 の右側の下宿屋だ。」 ヾゝ、 ゅめうつつ 313
卍 ( まんじ ) と地獄の苦しみ重ねるやうになったのんです。それにはいろイ、理由あるのんで、前は笠屋町云ふ便利な とこありましたのんに、今ではそんなとこあれしませんし、あっても一人だけ放っといて二人が外い出る ことならん云ひますし、そしたら結局家にゐるよりしョうないのんですが、そないすると私か夫か孰方ぞ か邪魔にしられるやうになったり、さうでない迄も自分の方から莱イ利かさんならんやうになったり、そ こいさして光子さんが、いつでも出しなに「此いから香櫨園い行きます」云うて、今橋の方い知らしやは るよって、夫は直き歸って來る。それもお互に隱し立てせん約東やのんで、知らすのん仕方あれしません けど、そんならそいで、もうちょっと早う朝のうちからでも來てくれはったらえ、のんに、大概二時か三 時頃に來やはるさかい、二人ぎりでゐる時間云うたら、ほんの何ばもあれしません。夫にしたかて光子さ んから電話か、ったら用事放っといても飛んで歸って來るのんで、「そないせんかってよろしゃないか、 うちちょっとも話してる間アもあれ ~ ん」云ひますと、「もっとゆっくりしてよ思てんけど、事務所の方 暇やさかい歸って來た」とか、「離れて想像してる方が気が揉める。一つ家にいてたら安心やよって、邪 魔ゃねんやったら階下い行て、もえ、」とか、「お前は二人ぎりでいてる時間あるのんに、僕にはちょっ ともない云ふこと察してくれんと困る」とか、だん / \ 問ひ詰めると、「ほんまは光ちゃん『電話かけた のんに何で早よ歸って來え ~ んねん ? 姉ちゃんの方が餘っ程實意ある』云うて怒りやはるねん」云ひま てくだ すねん。いったい光子さんの燒餅ちふのんが、何處迄が本気で何處迄が手管か分れしませんねんけど、そ れが又いかにも気違ひじみて、、たと ~ ば私の夫のこと「あんた」云うたらもう眼 = に涙溜めはって、 「今では夫婦でもないのんに、あの人のこと『あんた』云うたらいかん」云ひなさって、人のゐる前では どっち 559
來へん」云ひなさいますし、自分は最後の手段として、わざと綿貫誘ひ出して駈け落しようか思てる、そ の時は何處い逃げる云ふこと前に私に教せとくさかい 新聞に出されたりしてえらいことになった時分に、 5 もうえ、頃や思たらまへに來てほし、そないしたらなんぼ綿貫かて二度と寄り附くこと出來んやろさか 、自分の名譽も傷けること覺悟の上でやってみせる。「此方で相談してることうす / \ 嗅ぎつけたらし いよって、やるのんなら早い方がえ、」云ひなさるのんで、「嗅ぎつけたらあの誓約書楯に取ってあてに ほんまに 何とか云うて來るやろ、まあ、まあ、そんな非常手段最後まで取っときなさい」云うて、 あの時分、よっほど思案に餘ってしもて、先生のとこい智慧貸してもらひに上ろか思たぐらゐですねんけ ど、そんな厚かましいことようせえしませんし、お梅どんに聞いてみてもえ、考ない云ひますし、いっそ のこと夫のカ借ろかしらん、うそっいてたこと或る程度迄は白状して、たゞ綿貫の迫害免れるやうな法律 的の手段ないもんか知らん、話しゃうに依ったら夫かて光子さんに同情寄せんこともないやろと、困った 揚句そんなことまで考へましてん。ところがその夫が、或る日突然、ちゃうど私が行ってる時に電話も何 もかけんといて笠屋町の宿屋い訪ンねて來たやありませんか。それが事務所の歸りしな、四時半ごろのこ とで、二階で光子さんと話してましたら、「奥さん / 、、」云うて慌て、仲居さんが駈け上って來て、「今奧 さんの旦那さんがお見えになって、お二人さんに會ひたい云うたはります。どないしまひょ」云ひますの んで、「何でやって來たんやろ」とぎよッとしながら顏見合はしましてんけど、「兎に角あて會うて來るわ、 光ちゃんそこにすッ込んでや」云うて、玄關い降りて行きましてん。 なかゐ まぬが
かいまあ / \ もうちょっと辛抱して、、 さしましてんと。 光子さんのその頃の気持、「ほんまのとこ自分にも分らん」云うてなさるのんですが、初めのうちはそな い云うて宥めといて、どないぞして切れてしまひたい思てなさったのんは確かですねん。會うたあとでは いつでも後悔しなさって、あ、、あ、、自分は仰山の女の中でも入に羨ましがられる器量持ってながら、 あんな男に見込まれるやなんて何ちふ情ない身の上やろ、もう / 、止めてしまひたい思ひなさるのんです けど、そら不思議と、又二三日も立つうちに自分の方から跡追ひ廻すやうになってしまふ。さうか云うて、 それほど綿貫戀しいのんか云うたら、精訷的にはえ、思ふとこ一つもない、顏見るのんさいムカムカする ゃうな気イして、卑しい奴ッちゃ、見下げ果てた奴ッちゃ、云ふ風に、お腹の中では常時激しいに輕蔑し てる。そいで毎日のやうに會うてることは會うてるけど、二人の気持シックリすることめったになうて、 いつでも喧嘩ばっかりして、、その喧嘩云ふのんが、自分の秘密人にしゃべったやろとか、いつまで待た す気イやとか、例のキマリ文句で、愚にもっかんやうなこと取り上げては疑ひ深いにちゃにちゃした口調 で云ひますのんで、 : 光子さんかて、そない厭がること用もないのんに人に話したら綿貫だけの耻や あれしませんし、そんなくらゐなこと云はれいでも分ってましてんけど、さうかてお梅どんだけには云は んちふ譯に行かんので云ひなさったのんを、「何で女子衆みたいなもんにしゃべった」云うて、その時ば つかりはえらい喧嘩になって、光子さんもちょっとも負けてんと、「あんたは僞善者や、云ふこと、爲る こと、まるきり違てるうそっきや。あて等のしてる事にほんまの戀愛らしいとこ此んだけもあれへん」と、 なだ なっとく : そゃなかったら死ぬより外に道ない云うて、やう / 、納得 510
ことねりわらは た小舍人童がついて來て、中門をあけた。今しも山の端をはなれた月は、居待ちの宵のことなのでそんな に明るくはなかったけれど、ばうとした鈍い光りが庭をひろびろと木深く見せて、枯れかかった前栽の草 のさやさやと風にざわめくのがすさまじいやうに感ぜられる。そのとき雁が又啼いて通った。鶴菊丸は空 を仰いで、東の方にあるこんもりとした一とむらの木立ちを指しながら、あれが鵺の森だよと云ふ。むか ししいでん しあの森の上の方から、夜になると眞黒な雲のかたまりがもくもくと湧いて、紫宸殿の棟の上にひろがっ みかどものけ て、そのたびごとに帝が物の怪におなやみなされたのを、源三位賴政が退治たので、それからあの森のこ とを鵺の森と云ふのだよと云ふ。そしてロのうちで、「燕子の樓にはよもすがら、もり來る月に袖ぬらし、 返らぬ人を戀ひしまに、 : 」と、何か今様めいた文句をつぶつぶとうたふのがきこえたのか、寢殿の 西の妻戸がぎいと一寸ばかり開いて、そこからひとすぢの明りがさした。 上人が這人ったので、つづいて中へ這人ってみると、大殿油のはためいてゐる庇の間には人気もなくて、 つきあたりの御簾のかげの暗い一と間に二三人の女房がうづくまってゐるらしく、姿かたちは分らないな すはう がら、くれなゐ、蘇芳、えびぞめなど、いろさまざまの上﨟の衣があでやかにこばれてゐるのである。と、 一つの衣の裾がかすかに搖れて、輕い身じろぎのけはひがして、 「月のいるさの山をお忘れになったのかと存じましたのに、 と、御簾のうちから女の聲がほのかに云ふ。上人は今日は思ひのほか道に手間取った云ひ譯をして、文殊 丸と云ふ可愛い稚兒を連れて來たことを話すのであった。 おほとなぶら げんざんみよりまさ きぬ こぶか 105
でも文殊丸は自分のためにいたいけな兒の命を絶ったと云ふことが、勿體ないやうな、空恐ろしいやうな 心地がした。あの情ぶかい物やさしいおかあさまに、どうしてさう云ふむごいことがお出來になったか、 誰に云ひつけて、どう云ふ風になされたのか、何だかほんたうにそんなことがあったやうな莱がしなかっ た。見てはならぬと仰っしやったので、自分はあの時うしろに隱れてしまったけれども、あの庭の様子は おばろげに知ってゐる。おかあさまの袂のかげから白い卯の花がちらちらして、そこの垣根からその兒は 甘えるやうに物を云ふ聲音ばかりははっきりと聞えた。 竹馬に乘って來たのだ。顏も姿も見えなかったが さうしてしまひに、「みんなおいで」と元気よく呼ばはりながら、又ばたばたと駈けて行った、その足音 も、その言葉も、いまだに耳についてゐるのに、もうその人が此の世にゐないとは、あの道ばたに飛んで ゐた蝶々よりも果敢ない命であったのか。それともあの朝の出來事は初めから夢ではなかったのだらうか。 觀音さまのお告げも、乾の柱にゐた女房も、柳のみどりも、卯の花の籬も、のどかな春の光りに浮かぶか げろふのやうなものだったらうか。 いつもは自分も友だちを集めてめんないちどりや隱れんばうをしてあそぶのに、 さう思ふと悲しくなって、 けふは唯ひとり遣り水のほとりに彳みながらばんやり考へ込んでゐると、そこの庭にも日はうららかに照 せんざい りわたりつつ、前栽の花の周りには矢張り蝶々がひらひらしてゐて、それが何だかその兒の魂のやうな気 がする。事に依ったら蝶々に化けてまで自分に附きまとふのかも知れない、ほんたうにその兒が惡魘であ るなら。 : だが禪さまにも佛さまにも見放されて、やうやう五つになったばかりの、まだ頑是ない蕾 の花を散らされてしまったとは、何と云ふ不運な兄であったらう。誰がおかあさまの旨を含んで、かよわ
「さあ、 「ま、何でも、 いから行ってみてくれ、行けば見嘗が附くかも知れない。」 彼が車から降りたところは多分違ってはゐないだらうと思はれたのだが、それから路次へ這入ってみると、 目的の家を捜し出すことの容易な業でないことが分った。第一彼はその家の標札すらも見たことがないの で、尋ねるにも尋ねゃうはなし、おまけにどの家も皆同じゃうな造り方だから、彼の記憶を呼び起す目じ るしがない。、 つも裏木戸から出入りをしたので、表の格子がどんなエ合であったかも覺えがなく、さう かと云って一一裏の方へ廻ってみたりしたら、空集ねらひと間違へられないものでもない。幾度も出たり 這入ったりした揚句、やっと一軒荒物屋の店を見付けて、かうかう云ふ風の女が二階借りをしてゐる家は ないだらうかときいてみると、 「へえ、斷髮の女ですかい ? 」 と、奧から主人らしいのが腑に落ちぬゃうな顏付きで云ふ。 「ええ、さうですよ、二十八九の、洋服を着た女事務員のやうなんですよ。」 「そんな女はつひぞ見たことがありません。此の邊にゐりゃあ直ぐに眼に付くはずですが。」 「さうですかねえ。確かにこの邊なんですが。 「何處ぞお間違へぢゃあないんですかい 。さう云ふ女の住む所ちゃあないんですから。」 こんな間答を行く先先で二三度も繰り返したが、何處できいても心當りがないと云ふのに一致してゐた。 路次が違ってゐたにもしろ、まるきり見當が外れてゐさうなはずはないから、大體あの家は此の一廓の近 335
みたいに主人誘て阪紳電車で歸りましたのんですが、その時主人が、「お前今日えらいそは / \ してるな あ、何ぞうれしい事でもあったのんか」云はれましたのんで、「やつばりいつもと様子違てるのかしらん、 光子さんと友達になったことそないに自分幸疆にさしたのんかしらん」と、ひとりで思ひました。「そん でもわたし、今日ほんまにえ、人と友達になったんやもん。 」「何んちふ人や」「何んちふ人やて、 そら綺麗な人やもん。 あんた、あのう、船場の德光云ふ羅紗問屋あること知らん ? そこのお嬢さ それが、あのう、わたしとその んやねんけど」「何處で友達になったんや ? 」「同じ學校の人やわ、 人と、こなひだからけったいな噂立ってなあ、 」わたし別に疚しいことやかいないもんですさかい 面白半分に校長先生と喧嘩したことから、一から十まで話してしまひますと、「ずゐぶんひどい學校やな あ。けどお前がそないに美人や云ふのんなら、僕も一遍會うてみたいもんやがなあ」と、冗談にそない云 うてました。「いまにきっと内いも遊びに來なさるやろ。わたし此の次の日曜日に、一赭に奈良い行く云 うて約東したんやけど、行ったらいかん ? 」「そら行ってもかめへん」主入はそない云ひまして「校長さ わろ ん怒るぜェ」云うて笑てましてん。 明くる日學校い行きますと、きんの一緖に御飯食べたことや映畫見に行ったこともういつの間にやら知れ 、、、だうとんぼり 渡って、、「柿内さん、あんたきんの道頓堀歩いてなさったなあ」「お樂しみやなあ」「あれ一體誰やった なあ」なんて、女の人云うたら、も、ほんまにうるさいのんです。そしたら光子さんは又それ面白がりな さって、知って傍い寄って來られて、此れ見よがしにしなさるのんです。さう云ふやうなあんばいで、そ いから二三日するうちに、えらい仲好うなってしまひました。校長さんは却って呆れてしまはれたのんか、 おこ さそ やま 410
白 きたいと思った。 「では今夜は、どっちへお泊りになるんです ? 」 「さあ、どっちにしませうか。 さう云ってやうやう立ち止まりながら、 あたしどっちへ泊ってもいいのよ、だけどこの近くの家の方は妹が二人ゐるもんだから、狹くっ てごぢやごぢやしてゐるの。」 「へえ、妹さんがいらっしやるんですか。」 水野はちょっとその妹と稱するものにも気が引かれて、そっちへ行くのも悪くないやうに思はれ出した。 と思ふわ : 「ええ、三人で一つ部屋に寢てゐるものだから、窮屈なのよ。やつばり本牧へ歸った方がいい 「本牧のお宅と云ふのは、あなた一人っきりですか ? 」 「ええ、二階が全部あたしの部屋で、下の入とはちっとも交渉がないやうになってゐるの。靜かで、海の 直ぐ近くで、そりやいい所なの。」 「ちや本牧へお送りしませう、その方がいいですよ。」 「あ、ちょいと、ちょいと、」 と、女はタキシ 1 のガレ 1 ヂの方へ驅けて行かうとする水野を呼んで、 「あたしタキシーは嫌ひなのよ。今いい車をさう云ふから、電話をかける間待っててくれない ? 233
ってゐて、誰が見ても分らないのが當りまへのやうに思へた。そしてその晩から翌翌日の朝になる迄、再 び丸の内のホテルの一室にぐったり眠り通したものの、眠りながらしつきりなしに幻想に襲はれ績けた。 赤や紫の女が何處迄も追って來た。關節と云ふ關節のうづくやうな感じがだんだん馬鹿になって來て、寢 たまま身體が腐ってしまひさうな氣がした。 疲れが非常に激しい時は、明くる日になってもそれがそれほど現はれないで、二日立ち三日立つうちに次 第に體へ及ばして來る。彼は三日目の朝になって、前前日の刺戟の結果を一層強く節節に感じた。にも拘 らず、何のためにその寢臺から起き上がって、再びあの女に會ひに行く気になったのか。體のどこにそん な力が殘ってゐたのか。その日も櫻木町で待ち合はせる筈の約東を重んじたのであるか。拂った金が無駄 彼は になるのが惜しかったのか。それとも二日二た晩襲はれ通した夢の世界の績きであったのか。 女が戀しいよりは恐ろしかった。遊びに行くと云ふよりはびしびし體ぢゅうを鞭打たれに行く感じであっ た。人は高い建て物のてつ。へんや、絶壁の綠に臨んだ時、身を躍らして我から脚下へ飛び降りたくなる。 彼は恰もそれと似た気持ちであった。恐ろしい遊びだと思ひながら、不思議にその方へ引っ張って行かれ た。そして半分は無意識のうちにポ 1 イを呼んで勘定を拂って、此の間忘れたブルドッグのステッキを受 け取って、ふらふらとホテルのエレベ 1 タ 1 の箱に這人った。伸び縮みする鐵製の扉が、びしゃんと彼を 箱の中へ封じ込めたとき、彼は咄嗟に未決監の監房を想った。こんな箱の中に女と二人きりでゐたらばと 云ふ気もした。とたんにエレベ 1 タ 1 が四階の床から沈下し出した。彼はぐらぐらと眩暈を感じて兩手で しつかり壁をおさへた。 311