「 : ・ : : : 僕もわざわざ東京から附けて來たんだ。今更引っ返さうと云っても電車はないし、今夜はここに 泊めて貰ふより仕方がないが、君のその、條件と云ふのを聞きたいもんだね。」 「條件と云ったって別にむづかしいことぢゃないわ。ただね、 ・一と月とか二た月とか、そのくらゐ の期間を極めて貰ひたいの。」 : ぢや、かう 一と月と云っても毎日會ふ譯には行かないんだから、 「それでも僕は差し支へないが、 したらどうかしらん、たとへば一週に二度なら二度として、何曜日と何曜日の何時から何時までと極める : その他の時間は云ふ迄もなく君の自由だ。その間に君が何をしようと、此方もそんなことまでは知 りたくもないし、知らうともしない・ 「それはさうだわ、約東の時間以外の時は完全にあたしのものだわ。そしてあなたは、あたしのことに就 いて一切祕密を守って下さる ? 」 「お互ひさまにね。」 「ええ、勿論。 日本の男は直ぐ方方へおしゃべりをする癖があるけれど、西洋ではさう云ふことは 絶對にないわ。どんな親しい友達にでも、女の關係なぞを無闇に話すものちゃないわ。だから容易なこと では世間に知れる気づかひがないの。」 「詰まり君と僕とは、會ってゐる時だけが戀人同士で、その他の時はあかの他人と云ふ譯なんだね。」 「ええ、さう思ってくれたらいいの。もし往來で會ふことがあっても、電車の中とか、人ごみの場所とか、 お互ひに連れがある時などは決して挨拶をしないこと。 244
四 それから十時迄の間に彼は二囘便所 ~ 立った。が、痳病の眞似も實行してみると容易でない。何しろ昨夜 からおちおち眠る暇がないので、だんだん睡氣がたまって來て、うつかりすると一時間以上寢過ごしてし まふ危險がある。十時の次ぎには、ついとろとろと淺い眠りを貪ってゐたのが、知らぬ間にぐっすり寢込 んで、はっと驚いて眼を覺ますと十一時半になってゐた。 「や、これはいかん、もう一時間半になるぞ。」 彼は慌てて便所へ行って、廊下で二三人の人に見られて來た。 ぜんたい一時間といふ時間を限ったのが、何から割り出した勘定なのだか、我ながら馬鹿げてゐた。犯罪 の場所が浦和だとすると、此の宿屋から浦和の間を往復するには、いかに切り詰めても二時間はかかる。 せめて二時間は績けて安眠が出來なかったら、此れから十日間に體がへとへと すると二時間まではい、、 になってしまふ。かんじんの二十五日になって、疲勞の結果寢過ごすやうな事があったら大變である。彼 はまたさう思ひ直して、一時間を二時間に伸ばした。そして十一時半の次ぎには、きっちり二時間目、一 時半まで兎も角も眠った。 二時には彼が朝飯兼帶の書飯を喰ふのが常で、さっきの下女が膳を持って這人って來た。 「水野さん、御病莱はいかがでございます ? 」 「おい、おい、さう病莱病莱って云ふなよ貴様。」 200
: 一時間 : 二時間ぐらゐ ? 「では何時間ぐらゐかかりませうか 「さう : 二時間でもどうかしらん、 いくら急いでも三時間ぐらゐは、 ひるまへ 「よござんす、三時間かかるとしても午前には出來る譯ですから、それ迄お待ちすることにしませう。」 「だけども君にさうしてゐられると困るんだがな。 : 僕は誰かが傍にゐられたら仕事をすることが出 來ないんだから。」 「え、きっとさうでせうと思ひましてね、 : それで、實はその部屋を別に取ってあるんですよ。」 「何處に ? 」 「此の下宿に。 先に亭主にきいてみたら、ちゃうど此の下の三十番と云ふ、梯子段を下りたところ にある部屋が室いてゐると云ふんです。それでそいつを半月ばかり借りることにしたんですよ。 まり、あなたの原稿がすっかり書き上がるまでですな。」 さう云って中澤は、水野が思はず憎憎しい眼で睨んだのを、平氣で見返してゐるのである。 「監視附きとは驚いたな。社長がさうしろと云ふのかね。」 「ええ、さうなんです。さうでもしなければ安心がならないから、當分僕はあなたの專門の係りと云ふこ とになったんです。殊に横濱と云ふものが出來てみると、又雲隱れをされると云ふ危險が殖えた譯ですか らな。」 「まさか、君、あれは一ペんこっきりだよ。二度と行くところちゃないからね。」 さっき 1 = ロ 268
と前の濱にゐますよって」と、夫が出かける時に斷っといて、ほんまに海水服着たゞけで海岸い出る。同 時にお梅どん光子さんの着物持って、濱で待って、、直きに着換へさす。着物は海水服の上からスッポリ 被れるやうなワンピースの洋服にして、帽子も成るだけ綠の下った顏の隱れるやうなのんがえ、。濱には 人がウョウョして、、却って莱イ付けへんやろけど、洋服やったら此の頃めったに着たことないのんで、 そ 尚更誰に見られても私や云ふこと分れへんやろ。待ち合はす時刻は朝の十時から十二時迄の間、 の時分やったら夫きっと大阪い行てる。日イは、雨さい降らなんだら今日から三日目、その日イいかなん だら四日目も五日目も、毎日來て、貰ふ。と、そんな相談してましたら、又え、智慧出て來て、光子さん の方は二日目の晩あたりに一と足先濱寺い行てる。そないすると夫から問ひ合せの電話か、ったとき、 きんの 「光子は昨日から別莊の方い行ってます」と、本宅の方でも云ふやろし、光子さんの方いか、って來ても、 「うち此方い來てること姉ちゃん知りやはれしませんさかい、來やはる筈あれしません」云うて、自身で 電話ロい出てやんなさったら、此れは遠い所い逃げたんやない、海で死んだのんかも分れへん思て、何よ り先に海の方捜索するやろ。そいでえ、加減たった頃に、「實は今さっき奥様お見えになりまして、うつ かりしてる間アにえらい事になりまして、 ・ : 」とお梅どんから知らしてやる、此の計略で時間計算し てみましたら、家の者等気イ付く迄に一時間半か二時間はか、る。そいから大阪い知らせ行って、問ひ合 かうろゑん はせの電話かけたりして、夫香櫨園い歸って來るのんざっと一時間、海捜したり近所尋ンねたりするのん 一二時間、お梅どんから知らして來て香櫨園から濱寺い駈け付ける迄が一時間二三十分、 都合五六 時間餘裕あるのんで、それやったらちゃんとその間アに支度出來る。たゞ気の毒やのんはお梅どんで、前 へり 548
時間は三十分であった。 それにしても晩には何處かへ女を抱きに行くのであるが、あいにく彼の財布には十圓札が一枚しかなかっ たところへ、今の藥を買ったので五六圓殘ってゐるだけであった。此れから十日間毎晩遊びに行くとする と、少くとも二三百圓懷になければ、い細い。おまけに近頃は八方塞がりで何處の家にも相當に拂ひが溜ま ってゐる。質屋にも利息が滯ってゐるのでちょっと行きにくいし、それに身の廻りを見渡したところ、こ れといふ金目な品物もない。 まあ持って行くなら、ナルダンの懷中時計だが、此の際時計は何よりも必要 である。 あ、さうさう、時計のぜんまいを卷くことを忘れてはならんぞ。うつかり時間を見違へて は大變だぞ。 すると民衆社へ泣きついて原稿料の前借りをするより仕方がないけれど、此處にも不 義理が重なってゐるうへに、今度の原稿も書けるかどうか分らないと來てゐる。 創作家として文壇に出てから十何年にもなり、四十近い年配に達してゐるのだから、本來ならばもう少し 信用があってもいい譯だのに、彼は何處でも金錢上のことに就いては評判の惡い男であった。それと云ふ のが、天才と云ふものは放縱な生活を送るべきものだと云ったふうな若い時からの己惚れが、未だに頭に こびりついてゐるからである。彼の惡魔主義なるものは、要するに茶屋や待合や雜誌社や友人の金を借り 倒すことがさうなのである。だから孤獨に暮らしてゐるのも、自分ではそれも天才作家、惡主義者の資 格のやうに考へて得意がってゐるものの、その實金錢問題がもとで友達をなくしたり、世間から爪彈きを されたりした結果の自衞策であるに過ぎない。彼がもう一つ自慢にしてゐるのは、決して濫作をしないと 云ふことだが、此れも格別藝術的良心がどうのかうのと云ふのではなく、ただ怠けもので、ぐうたらで、 202
一ペんで懲り懲りした。己のやうな人間は二度と女房や所帶などを持つものではないと、その時ふつふつ そして不斷はそれ イヤになった。だから女房を叩き出して、下宿住まひをしてゐるのであるのに、 が藝術家の天職に忠なる所以であると自負してゐるのに、どうして今夜はこんな弱気になったんだらう。 さう云 ~ ば今夜ばかりでなく、近頃ときどきこんなことがあるのは、矢張り歳のせゐかも知れない。若い 時分にはそんな女女しい気持ちなど起ったことがなく、たまに起っても酒色の樂しみに浸ってゐれば直 ぐに紛れてしまったものだが、今では反對に、それが折角の樂しみの妨げをしようとするのである。 十時半と云へば彼には宵のロである。こんな時に早くから旅館の布團にもぐって、寢られない夜を過すの は日取 , もいけ . よ、 0 「酒だ、酒だ、何と云っても酒に限る。」 さう思って彼は、兎も角も時間を消すために驛の近所のおでん屋の暖簾をくぐった。 鹽梅にぐっすり安眠はしたけれども、ゆうべあんまり飮み 眼が覺めたのは朝の十一時過ぎであった。いい 過ぎたせゐか、少し後頭部が鈍痛を感じてゐる。彼は寢臺から乘り出して、窓のブラインドを引き上げた。 の太い煙突 仰向けに眺めると、ガラス障子の外は隣りのビルディングの裏側になってゐて、コンクリ 1 ト が聳えてゐる室はカッキリと睛れ、白い雲が八階建ての屋根の上を靜かに流れて行くのが見える。その空 291
「はは、手段が目的になってしまったぞ。」 彼は大聲で獨り言を云ったが、その聲までが嬉しさにぞくぞくしてゐた。かう云ふ時には一としほ激しく 2 連想の絲がたぐり出されて、檢微鏡で見る微生物の活動のやうに種種雜多なものが組んづ解れっするのが 大石内藏之助が遊んだのだ 常で、彼はその時はどう云ふ譯か大石内蔵之助のことを考へてゐた。さうだ、 : ちゃうど今の己のやうにそはそはして山科から繰り出したんだらうな、そして 「大石内藏之助、大石内藏之助。」 と、ロ走りながら歩いて行った。 四十に近い歳でありながら遊びとなると未だに斯うも胸が跳るのが奇妙である。考へてみると二十前後に 放蕩の味を覺えた頃の心持ちも今とちっとも變りはない。獨身者のせゐかとも思ふが、嘗て女房を持って ゐた時代にも、その女房があるために一としほ隱れて出かけるのが愴快であった。此の鹽梅では大方五十 六十になっても斯うなのであらう。そのくせいよいよ目的地へ着いてしろものを眼の前に据ゑてしまふと、 決して期待してゐたほどの歡樂があった例しはなく、「なんだ此れか、こんな女にあこがれてゐたのか」 と、さう思ふのに極まってゐて、たいがいいやアな、胸糞の惡い気分になって歸って來るのでありながら、 それでゐて又懲りずまに、再び出かける時分には相變らずわくわくするのである。だから懷に金を抱いて、 つい一時間か二時間先の未來をいろいろに夢想しながらかうして歩いてゐる時間が、彼には最も幸疆であ った。「荒ててはいかんぞ、慌ててはいかんぞ」と、彼はしきりに勇み立っ心をおさへた。そして百六十 圓の金を一番有効に使ふために、彼れか此れかと考へあぐん / 、 ) 0
では今日からその日まで、まる十日間と云ふものを如何にして過ごさう ? その日の運勢が決するまでは 績篇を書くことも無意味であり、それより何より、最早全く感興が失はれてしまってゐる。もともと今度 の作品は自己防衞の手段として考へ付いた仕事であった。さうして今やその手段では防衞の目的が達せら れさうもなくなって來た。ほかに何か手段はないか ? ℃ただその場合、 兒島が殺されることは最早防ぎゃうがない。その日にそれが起ることは確實と見て、 彼に疑ひがかからないやうにすることである。 さうか、今日から十日間成るべくひとりぼっちでゐることを避けるやうにする。殊にその日、二十五日の 此れが最上の方 午後八時以後明くる日の朝まで、どこに誰と一緖にゐたかが分るやうにして置く。 法である。晝間は下宿の二階からは一歩も出ないやうにして、ときどき下女を部屋へ呼び人れて用を云ひ 付けることにすればそれで大體證明されるやうなものの、困難なのは夜から朝迄の間である。かう云ふ時 に女房がゐてくれたらいいのだけれど、女房はおろか交友さへもないのであるから都合が悪い。、 っそ遠 くへ旅行に出るか。 それも一策ではあるが、差し當って旅費がないので、金の工面に廻って歩いた 數時間も汽車へ乘ったりする間が心配である。おまけに生來の旅行ぎらひである彼は、旅先に懇意な 宿屋もなく、顏を知ってゐる者もないので、どんな場合に、ひとりばっちで長い間放り出されるやうなハ メにならぬとも限らぬ。やつばりここの下宿にゐるのが安全である。今直ぐ、この瞬間から彼の居所がハ ッキリ極まってゐる譯である。ただこの部屋に誰かもう一人ゐてくれたらば申し分がないのである。兎に 角絶えずは不可能であるが、ひとりほっちでゐる時間を出來るだけ切り詰める。少くとも一時間以上誰に 198
の日イから光子さんに附いて濱寺い行って、、彼處から十時迄にわざ / \ 香櫨園い出て來て、暑い盛りこ 一時間も二時間も海岸に待ってんならん。それもひょッとしたら待ちばけ喰はされて、二日も三日も來ん なりません。けど「あの兒やったらきっとしてくれるわ、そんなことするのん好きゃねんし」云ひなさっ て、何から何まで洩れのないやうに手筈きめて、お互に「巧いことやって頂戴」云うて光子さん歸って行 きなさったのん一時頃でしたけど、それと殆ど入れ違ひみたいに夫戻って來ましたのんで、ほんまに此れ やったら今日でなうてよかった思ひましてん。 その三十 はあ、 : 逃げたのんはそいからやつばり三日目のことで、日和の都合も時間のエ合もすっくり豫定の 計畫通り行きましたのんで、私は十時ちょっと過ぎに海水服着て海岸い出て、お梅どん見ると眼ェで合圖 さらさもやう しい / \ 默って濱七八丁走って、そこで更紗模様のヴォイルの服頭から被って、お金の十圓這人ってる手 提げ受け取って、。ハラソルで顏隱しながら、お梅どんとは別々に急ぎ足で國道い出ましたら、運よくタク シ 1 來ましたのんで、それに乘って一と息に難波まで行きましてん。そいですさかい十一時半前にはもう 別莊い着いてしもて、、お梅どんの方が三十分も後れてやって來て、「えらい早よおましたなあ。ほんま じにこない巧いエ合に行たことあれしません。さあ、さあ、今の間アにしやはらんと、ぐづぐづしてはった くずや ( ら電話か、、って來まっせ」云うて、母屋から大分離れた庭の中に建ってる「何とか庵」たら云ふ葛屋葺き 卍 の家の方い二人追ひ立てるやうにして、そこい這人ったらもうちゃんと枕許に藥やら水やら用意してある おや なんば ひょり かふ 549
くらゐ附き合へば先へ歸っても逃げたやうにはならないであらう。實はどうせかうなった以上、もっとい ろいろ話しかけて氣を引いてみたいやうな好奇心はある。「あれは面白かったですねえ、此の前のは。」 此の言葉はどう考へてもやはり気になる。しかし此の男と何時間一緖にゐても結局要領を得ない上に、 だんだん此方が薄氣味惡くなるばかりである。ここで禪經を變に不安にさせられると、又四五日は仕事が 出來なくなってしまふ。早く歸ってせっせと原稿を書き上げる方が得だ。 「やあ : : では失敬 : 彼は相手が繪の方へ熱心な眼を向けてゐる隙をねらって、突然さう云って席を立った。 「お歸り ? 」 「ああ : : 仕事をしかけてゐるもんだから、 : ちと遊びにやって來給へ。」 此の「遊びにやって來給へ」は先から折りを覗ってゐたところの、次ぎの質間を云はんがための伏 線であった。 : 君は此の頃は、先のところにゐるの ? 浦和の方に ? 」 「えああ」 ( 兒島の「ええ」でもなく「ああ」でもなく、その中間を行くやうな返辭は「えああ」と書く より方法がない。兎に角日本語にはない發音である。萬國音標文字を用ひて 8 と書くのが或ひは一番正し 白いであらう。 ) 「ああ、さう、ではさよなら。」 水野はちょっと頭を下げて出て行かうとした。ところが兒島は會釋を返す様子はなく、そろそろと腰を浮 さっき 187