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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第11巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第11巻

身を起してゐる女房がある。小聲で経文を誦してはゐるが、その女も矢張り睡いのであらう。ともすれば ささ 前のめりに、うつらうつらと倒れさうになるのを堪へてゐるらしく、柱に體を支へさせて、眼をことさら ひま に押し開きつつ、首を仰向けに擡げてゐる。ゃうやう二十五六かと思はれる歳頃の、格子の隙からほのば くわもんおもてぎきぬ くれなゐしげびしひと のとさし込む朝の光りに、顏は雪のやうに白く輝やかしい。、 月さい集文の表着に衣を重ね、紅の繁菱の單 かち 衣を着て、男の指貫を穿いてゐるのは、馬か徒歩かで來たものと見える。着物が少し色褪せて、ところど ころみすばらしく萎えてゐるけれど、それは入ごみに揉まれたり、埃をあびたりしたからであらう。文殊 丸は此れも夢のつづきではないかと疑ひながら、暫くうっとりとその麗はしい面を眺めた。 その二 此の女房がその女の兒の母であるのか、遠い先の世から生れ變り死に變り、自分に附きまとふ惡匱とやら は、斯うらうたけた人を親に持つのか。 「おかあさま、あれ、あそこにこそ觀音さまのお告げの人が」 ゅびさ と、指さうとする手を母がおさへて、 「此れ文殊丸や、」 と、たしなめるやうにそっと耳もとで打ち囁いだ。 「そなたはあの顏を見るではない。親だと云へば子に似てゐよう。恐ろしいことぢゃ。さ、さ、そんなこ たいせつ みほとけ とより觀音さまへ御禮を申すのが大切ですよ。世にも有りがたい御佛の御慈悲をないがしろにしてはなり あさ さしぬき こら ほこり うる おもて

2. 谷崎潤一郎全集 第11巻

兎も角も、内輪では何ぞ外に呼びやうあるやろ、「孝太郎さん」とか、「孝ちゃん」とか、云うて欲し、夫 にしたかて私のこと「園子」やの「お前」やの云はんと、「園子さん」云ふか、「姉さん」云ふかせないか ん、それぐらゐはまだえ、として、睡眠劑と葡萄酒持って來なさって、「二人とも此れ飮んで寢なさい あてあんた等の寢ついたん見てから行ぬ」云うて聽きなされしません。初めは冗談か思てましたら、なか / \ そゃないのんで、「特別によう利く藥調合してもろて來た」云ひなさって、粉藥の包二つ出して、夫 と私の前い置いて、「二人ともあてに對して忠實誓ふねんやったら、その證據に此れ飮みなさい」云ひな さるやあれしませんか。けど此の藥に毒でも這入って、、自分だけ永久に眠らされるのんやないか知ら と、はっとそんな気イ起りましたら、「飮め / ( 、」云ひなさる程なほのこと疑はしいになって 來て、じ 1 っと光子さんの顏視詰めてますと、夫もやつばり同じ恐怖に襲はれたらしう、白い粉藥手工の 上に載せたま、、私の手工にある藥の色と見比べるみたいにして、光子さんの顏と私の顏とジロジロうか ゞうてるのんです。すると光子さんは「なんで飮めへんのん ? なんで飮めへんのん ? 」云うてヤキモキ しなさって、「あ、分ってる、あんた等あて欺して、んなあ」と、身イふるはして泣きなさいますし、も うしョうない、殺される覺悟で飮んでやろ思て、藥の包ロイ持って行きましたら、私の様子默って眺めて た夫が「園子 ! 」云うていきなり手工掴んで、「まあ、待ってくれ ! こないなったら孰方がどうなるか 運試しゃ。その藥換へことして飮もやないか」云ひますのんで、「ふん、さうせう、そんで二人とも一二 の三で一赭に飮も」と、とうどそないして飮みましてん。 うちわ 560

3. 谷崎潤一郎全集 第11巻

「はは」 と兄島が笑ふのと同時であった。 上野の方へてくてく歩いて行く姿が夜の雜沓の中に紛れる、とたんに車は左へ曲って切り通しの坂を上っ て行く。しかし水野は今一度銀座へ引き返さうかしらんと思った。今から歸って机に向ってもとても仕事 が手につかないのは明かである。うつかり散歩に出たお蔭で飛んだものに打つかった。そして完全に邪 されてしまった。今日だけならばいいけれども恐らく當分、少くとも四五日は何も出來ない・ 彼が下らない取り越し苦勞として馬鹿にしながらもその實危惧してゐたことが、一つ一つ事實となって行 くのである。兒島は今も浦和に住んでゐると云った。年齡は三十五であると云った。此の一事が既に恐ろ しい暗合であるのに、彼の家から浦和の驛までに淋しい田圃路があって、距離が約十丁であると云ふ、そ の數字までが兒玉の方と同じなのである。ただここに一つ、兒島は水野を脅やかすために、わざと小説に 似せた事柄を並べたのではないか、と云ふことが想像出來る。今日のあの男の様子では、モデルの一件を 感付いてゐることはほば確かである。歸りが遲いと家族の者が恐がると云ってゐたから、或ひはあの男の 女房なり子供なりが、あの小説が出て以來兄島の身の上を心配し出して、作者を恨んでもゐるであらう。 いくらか怒ってはゐるのだらう。とすると、それを根に持って、 あの男にしても一寸の蟲にも五分の魂で、 正面から問ひ詰める莱力もなく、腹癒せにいたづらをしてみたのではないか。あの男にそんなしゃれッ氣 がありさうにもないが、どうもさう取るのが一番自然だ。さもなかったらああまで暗合すると云ふのが餘 りをかしい 194

4. 谷崎潤一郎全集 第11巻

「さうだよ、あれは女も惡いんだよ。好きな人なら手鍋を提げても構はないって云ふ主義だからね。」 「あたしだったら、月に千圓お小遣ひをくれなければいや。」 「くれたら結婚する気があるかね。」 「そりやしないとは限らないけれど、日本人は眞っ平よ。」 「日本人だって例外はあるさ。僕なんぞは贅澤な女の方が好きだな。」 「さう ? だけどフラウに持って見ると後悔するわよ。我が儘で、おてんばで手が附けられないから。」 いっぺんさう云ふのを女房に持って 「さう云ふ女がいいんだよ、可愛がるのに張り合ひがあって。 みたいもんだな。そして思ひきり贅澤をさして、欲しいものは買ひ放題、うまいものは喰べ放題、何でも 僕は昔から、さう云ふ女をフラウに持っこと したいと云ふことをさせて勝手氣儘に振る舞はせて、 を始終夢に見てゐたんだが、日本の女には今迄それに値するやうなのが一人もないんだ。あるかも知れな 、僕は一度もぶつかったことがないんだ。それで今でも獨りばっちでゐるんだがね。」 「さう ? あなた獨身なの ? 」 それからずつ 「持ってゐたことはあるんだけれど、馬鹿なんで叩き出しちゃったよ、二三年前 と獨身なんだ。夢が實現される迄は、いつまでも待っ積りなんだ。」 テ 1 ブルの下で女の靴の先がさはった。テ 1 ブルの上には手のひらと腕とが彼の觸覺をそそるやうに伸び てゐる。胃の腑がみちると彼には別な食慾が湧いた。彼は體ちゅうがうづうづして來た。直徑三四尺のテ 1 ブルがたまらなく邪厥になった : 304

5. 谷崎潤一郎全集 第11巻

卍 ( まんじ ) ましてんけど、和服の時はいつでも着流しでしてん。此の寫眞では髪のせえで私より三つぐらゐ若うに見 えてますけど、ほんまは一つ歳下の二十三、 生きてをられたら今年二十四ですねん。しかし光子さ んの方が一二寸せえ高いでしたし、それに綺麗な人云ふもんは、自分では器量鼻にかけへんつもりでも、 やつばり何となう自信のある様子態度に現れるもんですやろか、それとも此方に引け目ありますとそない 見えますのんですやろか、その後親しいになりましてからでも、歳から云ふとわたしの方が姉さんであり ながら、いつでも妹みたいな気イしてましてん。 で、その時分、 と云ひますのんは、話前に戻りまして、まだお互にものも云はんといてました時分、 前に云ひましたやうなけったいな噂立ちましたことは光子さんの耳いも這人ってえへん筈あれしませんの んに、光子さんの様子はちょっとも前と變れしませんねん。わたしの方では疾うから綺麗な人や思て、噂 立ちません時分には、光子さんが通りなさると、それとなう傍い寄って行ったりしましてんけど、光子さ んの方ではてんと私やかい眼中にないやうな鹽梅で、すうッと通ってしまひはりますが、その通られた跡 の空気までが綺麗なやうな気イするのんです。もしも光子さんが例の噂聞いてなさるとしたら、なんば何 でも私云ふもんに注意しなされへん譯あれしませんやろ。イヤな奴ッちや思はれるか、氣の毒や思ひなさ そぶり るか、何とか素振に見えさうなもんですのんに、さつばりさう云ふ風しなされへんもんですから、私の方 も段々づう / ( 、しいになりまして、また傍い寄って顏のぞき込むやうになりましてん。すると或る日、お 午の休みに休憩所でばったり出遭ふと、いつでもすうッと澄まして通り過ぎてしまひなさるのんに、どう 云ふ譯やにツこりしなさって、眼ェで笑ひなさるのんです。そいで私思はずお時儀してしまひましたら、 ねえ うはさ 405

6. 谷崎潤一郎全集 第11巻

かいまあ / \ もうちょっと辛抱して、、 さしましてんと。 光子さんのその頃の気持、「ほんまのとこ自分にも分らん」云うてなさるのんですが、初めのうちはそな い云うて宥めといて、どないぞして切れてしまひたい思てなさったのんは確かですねん。會うたあとでは いつでも後悔しなさって、あ、、あ、、自分は仰山の女の中でも入に羨ましがられる器量持ってながら、 あんな男に見込まれるやなんて何ちふ情ない身の上やろ、もう / 、止めてしまひたい思ひなさるのんです けど、そら不思議と、又二三日も立つうちに自分の方から跡追ひ廻すやうになってしまふ。さうか云うて、 それほど綿貫戀しいのんか云うたら、精訷的にはえ、思ふとこ一つもない、顏見るのんさいムカムカする ゃうな気イして、卑しい奴ッちゃ、見下げ果てた奴ッちゃ、云ふ風に、お腹の中では常時激しいに輕蔑し てる。そいで毎日のやうに會うてることは會うてるけど、二人の気持シックリすることめったになうて、 いつでも喧嘩ばっかりして、、その喧嘩云ふのんが、自分の秘密人にしゃべったやろとか、いつまで待た す気イやとか、例のキマリ文句で、愚にもっかんやうなこと取り上げては疑ひ深いにちゃにちゃした口調 で云ひますのんで、 : 光子さんかて、そない厭がること用もないのんに人に話したら綿貫だけの耻や あれしませんし、そんなくらゐなこと云はれいでも分ってましてんけど、さうかてお梅どんだけには云は んちふ譯に行かんので云ひなさったのんを、「何で女子衆みたいなもんにしゃべった」云うて、その時ば つかりはえらい喧嘩になって、光子さんもちょっとも負けてんと、「あんたは僞善者や、云ふこと、爲る こと、まるきり違てるうそっきや。あて等のしてる事にほんまの戀愛らしいとこ此んだけもあれへん」と、 なだ なっとく : そゃなかったら死ぬより外に道ない云うて、やう / 、納得 510

7. 谷崎潤一郎全集 第11巻

したから是非とも何枚貰って來いと云ふのぢゃあ、まるで家賃の取り立てにでも行くやうだって、機會が ある毎に云ふんですけれど、頑冥で更に聞き人れないんです。社長は、、ゝ 力も知れませんが、僕等のやう な下ッ葉の役目は辛いもんですよ。つくづく雜誌の編輯員なんてイヤになりますなあ。」 「イヤなら止したらいいぢゃないか。」 「喰へさへすれば誰がやるもんですか。僕が社長なら、なあにあなた、二十枚のところを十枚頂いてゐる んですから、一日か二日おくれたって安心して待ってゐるんですがね。」 さも さう云って置いて中澤は、此の男の癖の猥談をする時の卑しい眼つきをした。 「ところでゆうべは、全體どちらへいらしったんです ? 」 「いや、別にそんな譯ではないさ。」 「どうですかなあ、 なんだかひどくめかし込んでそはそはしながら出て行かれたと云ふぢゃないで すか。」 「なあに、君の方から金が屆いたんで、そいつを例の高利貸のところへ持って行かうと思ってね、散歩が てら出かけたんだが、歸りにその高利貸と一緖に銀座の方をぶらついたんだよ。」 「へえ、で ? と云って中澤はつばきを呑んオ いつも女の話になると、雜誌の用はそっち除けにムキになって膝を乘り出す男ではあるのだが、うつかり 油をかけられてゆうべの出來事をしゃべってしまふと、後で急所を攘まれてギュウの音も出ないことにな 260

8. 谷崎潤一郎全集 第11巻

ら恐らく今朝早く此れを切り拔いて、どこかこの近所から投函したのに違ひない。消印の文字がハッキリ しないが、 本鄕區内か、下谷か、小石川か、神田邊にゐる奴の仕事だ。矢っ張り中澤ではないのかな。わ ざと西洋封筒などを使ったところが少少臭いぞ。さうでなければ兒島を殺した蔭の男の仕業かも知れな 障子が開いて、下女が十能に炭火を持って這人って來た。いつもなら冷やかすところだのに、今朝は無愛 さうに、乙に澄ました顏をしてゐる。 「おい、この手紙はいっ來たんだ。」 「今朝まゐりました。」 「今朝のいつごろ ? 」 さっき 「つい先でしたわ。持って這入ったらお休みになっていらしったから、そこへ置いておきましたの。」 「ふうん、ちゃ、己が歸って來てからだな。」 「ええ」 「留守ちゅうに中澤が來ただらうね。」 「いらっしゃいましたわ。」 「何度ぐらゐ來た ? 」 「一度。」 「一度 ? 」 318

9. 谷崎潤一郎全集 第11巻

ずゐぶん今日は心配したりわくわくしたり、手の内の玉を拾ったと思ふと落したり、いろいろに運命が變 った日だが、何もかも此れが最後の努力だ。あの車が驛へ着いて、女が電車へ乘り移るまでに首尾よく此 方が行き着けるかどうかで一切が極まる。此れが今日の總決算オ : さう思ひながら水野は一生懸命 に駈けた。痩せてひょろひょろしてゐるので、駈けるには都合がいいのだけれど、和服に二重廻しだし、 それにいつでも室内にばかり閉ぢ籠って運動したことがないものだから、たまに走ると忽ち息が彈んで來 る。ものの二三丁も走った時分には、女の車はとうに見えないで、反對に彼の足の方がだんだんのろくな り始めた。彼はせいせい云ひながら、ときどき立ち止まって、今にも破裂しさうにドキンドキン響いてゐ る心臓の上をおさへた。それにもう一つ困ることは、彼の特別の體質なのか、息切れがするほど駈け出す と必ず吐き気を催すのである。室腹の時でもさうであるのに、 今夜は胃の腑へたくさん物が詰まってゐる のでなほさらたまらない。彼は走りながら、さっきのビタスが苦いおくびになって出るのを何度となく呑 み下したが、呼吸が迫って來るにつれ、しまひにはげえげえ喉を鳴らして、至るところの往來へたった今 喰べた酒や洋食をべつ。へっと吐いて行った。それがまた滑稽にも、吐いた物が一つ一つ、あ、ビフテキの 切れッ端が出た、ジンが出た、サラダが出たと云ふ風に、吐きながらちゃんと分るのであった。彼は銀座 の裏通りから有樂町の驛に至る何丁かの區間の鋪道の上に、ずうッと自分の通った所だけ五六間おきに痕 が殘るさまを想像した。實は夜の作戰上、大いに精力を養ふつもりでせいぜい脂っこい物を喰べて置いた ・ : 大方あの女は のが、お蔭でみんなフィになりはしないかと思ふと、それもなかなか心配であった。 ・ : 夜は書間ほど頻繁 横濱らしいが、櫻木町行きは何分置きに出るんだらう。五分置き ? 十分置き ? ・ 227

10. 谷崎潤一郎全集 第11巻

「その酒は日本に來ないのかね。」 「來たって、日本にあるのは駄目なの。ラインへ行ってほんたうの生のを飮まなければうまくないの。」 女は酒の講釋から始まって、ライン地方の想ひ出をなっかしさうに語るのである。水野は自分も附き合ひ にその酒を飮んでみたけれども、一向どこがうまいのか分らなかった。が、すき腹に強いアルコールが這 入るので、非常に早く醉ひが廻る。「早く醉へ、早く醉へ」と、彼はおまじなひのやうに念じながら飮ん だ。醉ってさへしまへばだんだん女が美しく見えて來る。此の女の姿が此の間のロンドンバアの時のやう に、あれ以來頭にでっち上げてゐた幻影のやうに、或ひは大使館の令嬢や夫人と劣らぬくらゐに、其れほ ど立派に、共れほど素敵に、 : それ、それ、もうそろそろ見えて來たぢゃないか。だから醉ふに限る と云ふんだ。な ? どうだ ? こんなところを一と眼中澤に見せてやりたい。「へつ、水野さん、うまく やってますなあ ! とうとうまへたんですね。 「あなた、約東のものはどうして ? 」 女は水野の眼の中にある室想を讀んだかのやうに、突然云った。 : ああ、 いつでもい 此處に持ってゐるんだ。」 「ぢや、今頂戴。 ペイメントはアドヴァンスよ。」 水野は女の手とケースとがテ 1 ブルの下へ這入ったのを見ると、懷から札の東を拔いて、同じゃうにテ 1 ブルの下へ手を差し入れた。 「いいかね、十六枚ある。」 302