める第一歩となる。もと / \ 撮影所の道具方と云ふものは劇場の道具方とは全然違ふ筈のものだけれども、 矢張實演の舞臺の道具と同じに考 ~ る傾きがあって、板でも柱でもその形さ ~ してゐたら木目の味などは どうでもよいと思ふのではあるまいか。もしさうならば飛んだ誤りで、映畫では物の地質が可なりよく分 る。たとへば洋服の地質でも、ホ 1 ムス。 ( ンなどは殊に持ち味が分るのであるが、その外セルやフランネ ルなども區別が出來、和服に於いても気を付けて見れば絹物と木綿物とは勿論、お召と縮緬の見分けだっ ところが此れが木材になると織物よりも一層明瞭に分るのであって、斜めに光線 て出來なくはあるまい を受けた場合、柾目はさうでもないけれども板目は相當はっきりと見え、檜、杉、栂、松、欅、桐など、 それみ \ の肌の特長があり / \ と現れるし、米材と日本材との持ち味の相違だって分らない筈はない。今 こ、に田舍生れの一人の靑年があって、成人の後都會に出てからも鄕土のことを忘れず、自分が幼い日を 過した百姓家の、黒光りに光る欅の大黒柱の記憶を今も猶持ちっゞけてゐるとして、その靑年が、ふと或 る映畫の中で幼時の我が家に髣髴たる農家の場面に出遇ったとし、その場面の中央の大黒柱の黒光りの底 に紛ふ方なき欅の木目を辿ることが出來たとしたら、どんなに懷しさを感じるであらう。これに反してそ の大黒柱がえたいの知れない ~ ギの張りばてで出來てをり、その白ッちやけた表面をイケぞんざいに墨で 汚したゞけのものであると分ったら、どんなに幻滅を感じ、どんなにその映畫を輕蔑するであらう。なぜ ならさう云ふ靑年の頭の中では、鄕土や我が家の思ひ出が大黒柱の木目の記憶と一つになって印象されて のゐるからである。尤もかう云ったからとて、必ずしもセットに丸物を使ふには及ばないと思ふけれども、 少くとも木材の肌だけは、本物を使はないことには感じが出ない。だから丸物が持ち運びに不便で餘り不 495
出す。此の詩は餘白に、乙丑除夕、書シテ谷崎潤一郎先生ニ應ズとあるのでも明かな通り、大正の末年一一 度目に上海に遊んだ折、舊暦の大晦日の晩に歐陽予倩氏の家でもてなしにあづかったことがあって、その 時主人の予倩氏が書いてくれたのである。歐陽予倩と云へば、靑年時代早稻田の文科に學び、歸國の後彼 の地の新劇運動を指導しつ、自らも舞臺に立った人で、恰も小山内薫と上山草人とを兼ねた如き仕事をし た人のやうに私は承知してゐるが、兎に角彼の地で有名なことは勿論、我が國に於いても夙に知る人は知 ってゐる筈である。私は氏が彼の國の舊い劍術の型を演じたのを見たことがあったが、左様に氏は支那の 舊劇の素養もあり、又女形をも勤めるさうで、見たところも色の白い、輪郭の正しい、何處か俳優らしい 感じのする人柄であった。除夜の晩に私を氏の家へ誘って行ったのは、その頃細君に死に別れて此れと云 ふ仕事もなく呑気に暮してゐたらしい劇作家の田漢氏で、支那の家庭の大晦日の情調も見ておき給へと、 ふしつけ あまり無躾のやうで躊躇する私を否應なしに引張って行ったのであった。その晩のことは嘗て上海交遊記 と云ふものに委しく書いたことがあるので、こゝには略すが、それにしても私は、あれから此方、 亞細亞の大陸に戦雲が捲き起ってからと云ふもの、毎年初夏が來て、此の軸を壁間に打ち眺める毎に、あ の時の歐陽氏や田漢氏など今頃は何處にどうしてゐることやらと、そゞろに感慨を催すのである。あの時 田漢氏は、歐陽君の奧さんは女流詩人で、書も巧みであるから、是非何か書いて貰ひ給へと云ふことだっ ふたので、奥さんにも乞うてみたけれども、殘念ながら奥さんは日本語を解しないので、私の熱意が通ぜず、 の笑って辭退してしまはれたのが、却って古い東洋型の婦人らしくて床しく感じられたが、今になれはあの 時無理にも書いて置いて貰ったら好箇の記念になったのにと思ふ。なほもう一幅、歐陽氏の書と同じ表裝 447
ところは、物を書く速力が非常に速いこと、及び、里見氏とは違った意味でゞあるが、此の人の文章にも 一種の熱と氣魄カ 何か気合と云ったやうなものが籠ってゐることである。私は實は氏の近頃の創 作は多く讀んでゐないのであるが、ときる、雜誌に散見する隨筆や感想文の類は、眼に觸れさ ~ すれば逃 したことはない。就中氏が歐米の繪行脚から歸って來た當座よく方々に書いてゐた彼の地の畫廊や博物館 の繪畫の批評、これは實に無上の興味を以て讀んだ。私は繪のことはよく分らず、殊に洋畫の鑑識につい ては全く自信がないのだが、さう云ふ者が讀んでも氏の繪の批泙は甚だ面白い。それで思ひ出すのは、佐 藤春夫は全くの音痴であるが、彼が昔こんなことを云ったことがあった。 自分は音樂のことは何も 分らないけれども、演奏會に行って、指揮者が指揮棒を振る恰好、ピアノ彈きがピアノを彈く様子を見る のは好きだ。と云ふのは、指揮者やピアノ彈きの體の律動、佳境に人るに從って次第に激しく首を振り手 を擧げ肩を搖がし、又は指頭に力を籠めて鍵盤を叩きつけるところを見てゐると、知らず識らずその興奮 が此方にも傳はって來て、音樂と云ふもの、持っ魅力をおばろげに感得することが出來るからであると。 私は武者氏の繪の批評を讀んでゐると、ちゃうど音樂演奏者の律動に似たものが行文の間に躍ってゐるの を感じるのである。そして泰西の名畫の前で感動し、興奮してゐる武者氏の気持が、そのま、此方に傳は って來るので、すぐれた藝術品を鑑賞する者の幸疆感を、武者氏と同じゃうに、 同じ程度にとは行 ナカないかも知れないが、 味得することが出來る。印ち武者氏は繪を知らない者の心境をも、知って のゐる者のそれと同等の高さに引き上げてくれる。氏はその批評の對象物たる作品について、技巧上の細か 5 い説明や鑑賞上の注意などは餘りしないで、多くの場合たヾ素睛らしいとか恐ろしいとか云ふ如き形容詞
ないのだけれども、事に依ったら、塚本が報告を怠ってゐるのも品子のさしがねではないのか、彼奴はさ う云ふ風にしてわざと己に気を揉ませて、おびき寄せようと云ふ腹ではないのかと、そんな邪推もされる ので、 リ、 1 の安否を確かめたいと願ふ一方、見す / \ 彼奴の罠に篏まって溜るものかと云ふ反感が、そ 1 には會ひたいが、品子にまることはイヤで れと同じくらゐ強かったのであった。彼は何とかしてリ、 溜らなかった。「とう / ( \ やって來ましたね」と、彼奴がへんに利ロぶって、得意の鼻をうごめかすかと する 思ふと、もうその顏つきを浮かべたゞけでムシヅが走った。元來庄造には彼一流の狡さがあって、いかに も氣の弱い、他人の云ふなり次第になる人間のやうに見られてゐるのを、巧みに利用するのであるが、品 子を追ひ出したのが矢張その手で、表面はおりんや輻子に操られた形であるけれども、その實誰よりも彼 い、ことをした、い、気味だったと が一番彼女を嫌ってゐたかも知れない。そして庄造は、今考へても、 思ふばかりで、不憫と云ふ感じは少しも起らないのであった。 現に品子は、電燈のともってゐる二階のガラス窓の中にゐるのに違ひないのだが、雜草のかげにつくばひ ながらじっとその灯を見上げてゐると、又してもあの、人を小馬鹿にしたやうな、賢女振った顏が眼先に をちらついて、胸糞が惡くなって來る。折角こ、まで來たのであるから、せめて「ニヤア」と云ふなっかし よそ 人い聲を餘所ながらでも聞いて歸りたい、無事に飼はれてゐることが分りさへしたら、それだけでも安心で : アハよく あるし、こ、ヘ來た念が屆くのであるから、いっそのことそうっと裏口を覗いてみたら、 かしわ 庄 行ったら、初子をこっそり呼び出して、おみやげの鷄の肉を渡して、近状を聞かして貰ったら、 さう思ふのであるが、あの窓の灯を見て、あの顏を心に描くと、足がすくんでしまふのである。うつかり ふびん 353
のだけれども、さうと知りつ、、その度毎に猫の眼か知らんとはっと胸を躍らせた。 な、やれ嬉しゃ ! さう思った途端に動悸が搏ち出して、鳩尾の邊がヒャリとして、次の瞬間に直ぐ又が つかりさせられる。かう云ふと可笑しな話だけれども、まだ庄造はこんなヤキモキした心持を人間に對し ん \ カフェ工の女を相手に遊んだぐらゐが關の山で、戀愛らし てさへ感じたことはないのであった。せ、 かす い經驗と云へば、前の女房の眼を掠めて疆子と逢引してゐた時代の、樂しいやうな、懊れったいやうな、 まああれぐらゐなものなのだが、それでもあれは兩方の親 變にわく / \ した、落ち着かない気分、 が内々で手引をしてくれ、品子の手前を巧く胡麻化してくれたので、無理な首尾をする必要もなく、夜露 に打たれてアン。 ( ンを咬るやうな苦勞をしないでもよかったのだから、それだけ眞劍味に乏しく、逢ひた さ見たさもこんなに一途ではなかったのであった。 庄造は、母親からも女房からも自分が子供扱ひにされ、一本立ちの出來ない低能兄のやうに見做されるの が、非常に不服なのであるが、さればと云ってその不服を聽いてくれる友達もなく、悶々の情を胸の中に 納めてゐると、何となく獨りぼっちな、賴りない感じが湧いて來るので、そのために尚リ、ーを愛してゐ をたのである。實際、品子にも、子にも、母親にも分って貰へない淋しい気持を、あの哀愁に充ちたリ、 人ーの眼だけがほんたうに見拔いて、慰めてくれるやうに思ひ、又あの猫が心の奥に持ってゐながら、人間 に向って云ひ現はす術を知らない畜生の悲しみと云ふやうなものを、自分だけは讀み取ることが出來る気 / \ にされてしまって四十餘日になるのである。そして一 とがしてゐたのであったが、それがお互ひに別れ 猫 時は、もうそのことを考へないやうに、なるべく早くあきらめるやうに努めたことも事實だけれども、母 いちづ みぞおち 351
初 たものでないことが、明かであるからかも知れない。此の孝子は一日一無期徒刑に處せられたのが恩赦に依 って二十年に減刑され、服役後四年目とかに、二十分間瀕死の母の病床に侍することを許されたのである が、冩眞の中のその人は、頭を靑々と、見るから寒さうに刈って、折目正しい背廣服を着てゐるのである。 多分橘氏は特に當日のために用意をして、前日あたりに髪を刈り、鬚を剃り、服を調へたのでもあらうか。 私はそれを見てゐるうちに、もう二十年も前に亡くなった自分の母親のことなどが胸に浮かんで來、體ち ゅうが引き締まるやうな感じがしたが、いっか涙が湧いて來たので松女に悟られないやうに眼の縁を拭い 〇 備忘録に依ると、矢張同じ年の秋 , ーーー彦根行きの後二十日あまり過ぎた十一月九日の晩に、私は或る人 と大阪戎橋南詰の松亭と云ふ家で會食し、そこを出てから獨りになって心齋橋筋を散歩した。その晩は相 手の人も行けるロだったので、河豚の刺身で大分いつもより量を過し、ほろ醉機嫌の頬を冷かな夜風に吹 かせながら心齋橋の上まで來たが、急に思ひついて文樂座へ這人ってみる気になった。と、宵の八時頃で あったが、 相當の人りで、今しも駒太夫が堀川の與次郎内の段を語ってゐる。私は數年前人形淨瑠璃に凝 った時代があって、その嘗時は隨分文樂へも通ったものだけれども、あれから何年になるであらうか。そ して、今夜久し振に這人って見ると先づ駒太夫の年を取ったのに驚かされた。私は、人形芝居を見る時は なるべく舞臺から遠く離れた後の席を選ぶことにきめてゐると云ふのは、さうする方がアラが見えないで、 401
でかう云ふ時雨模様の日が多いのではなからうか。春であったら、此の古典的な庭の景色などもどんなに のどか か長閑な感じがすることであらうと思ふ。岩の上の鍋鶴は依然として片脚で立ったま、折々頸を動かして 3 ゐたが、 やがて雨の睛れ間に室を切って飛んで行った 女中に、彦根は人口どのくらゐかと尋ねると、三萬餘りであると云ふ。そして、今に市になるのどすえ、 彦根の人は縣廳を大津から此處へ移したい云うて運動しとおいやすと云ふ。普通旅館の女中と云ふものは、 その土地の地理とか、交通とか、小學校の子供でも知ってゐさうな簡單な事柄を尋ねても、滿足に答へら れるものが不思議にゐないものなので、此の女中のやうにかう云ふ話が出來るのは珍しい。昨夜此處へ着 いた時から何となく懷しみがあって莱が利いてゐるやうに感じてゐたのであったが、一つには此の女の京 都辯のせゐかも知れない。昔、二十六七歳で始めて京都へ遊びに來、長田幹彦君と先斗町通ひをした頃の 私は、此のったるい京都辯が大嫌ひで、しば / \ 幹彦君と衝突し、幹彦君が土地の人の眞似をして京言 葉で物を云ふと、此方はわざと鐵火な江戸言葉を使って對抗したものであったが、どうも年を取ると、だ ん / \ 此の京言葉の嘗りの柔いところに惹き着けられて來るのは奇妙である。男が使ふのはさうでもない が、女の人ーーー、殊に旅館の女中などに使はれると、變にやさしさが身に沁みる。老いぬれば京の女の如 くちずさ こしをれ 才なき客あしらひも忘れかねつ、とは、或る時ロ號んだ腰折であるが、若い時分には宿屋の女中の親切不 親切など、云ふことをさう問題にもしてゐなかったものだけれども、老年に及んで旅に出ては、ほんの行 ぼんとちゃう
ることがあった。尤もそれも、その時分にはなまめかしさの感じの方が強かったのだが、年を取るに從っ めやに て、ばっちりしてゐた瞳も曇り、眼のふちには眼脂が溜って、見るもトゲ / \ しい、露はな哀傷を示すや うになったのである。で、これは事に依ると、彼女の本來の眼つきではなくて、その生ひ立ちや環境の空 氣が感化を與へたのかも知れない、人間だって苦勞をすると顏や性質が變るのだから、猫でもそのくらゐ なことがないとは云へぬ、 と、さう考へると、尚更庄造はリ、 ーに濟まない氣がするのである。そ れと云ふのは、今迄十年の間と云ふもの、成る程隨分可愛がってはやったけれども、いつでもたった二人 ぎりの、淋しい心細い生活ばかり味はせて來たのであった。何しろ彼女が連れて來られたのは、母親と庄 造と、親一人子一人の時代だったから、とても神港軒のコック場のやうに賑やかではなかった。そこへ持 って來て母親が彼女をうるさがるので、忰と猫とは二階でしんみり暮らさなければならなかった。さう云 ふ風にして六年の歳月を送った後に品子が嫁に來たのであるが、それは結局、此の新しい侵人者から邪 魔者扱ひされることになって、一脣リ、ーを肩身の狹い者にしてしまった。 いや、もっと / \ 濟まないことをしたと思ふのは、せめて仔猫を置いてやって、養育させればよかったのに、 を仔が生れると成るべく早く貰ひ手を捜して分けてしまひ、一匹も家へ殘さない方針を取ったのであった。 の 人そのくせ彼女は實によく生んだ。外の猫が二度お産をする間に、三度お産をした。相手は何處の猫か分ら あひのこ なかったが、生れた仔猫たちは混血兄で、鼈甲猫の俤を幾分か備へてゐるものだから、割合に希望者が多 とかったけれども、時にはそうっと海岸へ持って行ったり、蘆屋川の堤防の松の木蔭などへ捨て、ゝ來たりし た。これは母親への莱がねのためであることは云ふ迄もないが、庄造自身も、リ、 1 が早く老衰するのは、 おもかげ・ あら 307
すらぐであらうし、さうすることが、 - 舊主に對する謝罪の意味にもなるのであると、彼はさう云ふ判斷の 下に決然たる行動を取ったのであった。 その兩眼を抉った時期は、はっきり語ってゐないけれども、多分三成の邸へ呼ばれて怠慢の咎めを蒙った 時、印ち文祿三年の秋を去ること餘り遠くない同じ年の冬か、四年の春頃であったらう。拙著「春琴抄」 の佐助は盲人になるために針を瞳孔に突き刺してよく目的を達したが、順慶は戦國の武士であるからもっ あられうち と野蠻な荒療治を行った。印ち豫め病と稱して宿に引き退り、小柄を以て眼球の組織を破壞した後、その 傷痕の癒えるのを待って始めて出仕したと云ふ。が、彼を前から肓人であると信じ切ってゐた城中の人々 は、誰もそのことに氣が付かなかった。にせのめくらが俄かに本當のめくらになり、急に勘が惡くなった ら、人の疑ひを招きさうなものだけれども、幸ひなことに城中に於いては、起っにも坐るにも常に手引き が教導をする慣例になってゐた、めに、大した失策を演ずることもなしに濟んだ。斯くて順慶は、見たと ころでは從來と何の變化もなく、一箇の藪原勾當として自らも振舞ひ、人からも遇されてゐた譯であり、 その限りに於いて彼の計畫は豫期の成果を收めたのであったが、一方彼は必然に起って來るであらう自己 の心中の推移について、大きな誤算をしたのであった。と云ふのは、視覺さへ失ったら精訷的の煩悶が減 って、ほっと重荷をおろした感じがするであらうと思ってゐたのが、反對の結果になった。彼が失明した 目的の一つは、「夫人を見ないため」であったが、少くとも此の點に於いてアテが外れた。見まいと心が けたものが、前よりもよく見える。その上、一脣悪いことには、それを肉眼で見てゐた間は、「見る」と 云ふことに良心の制裁が伴ってゐたのに、心の眼を以て見るやうになってからは、何等の拘東がないので こづか はづ とが 236
〇 私にこれらの支那の作家や俳優を紹介してくれたのは内山完造氏であった。私が始めて支那に遊んだのは 第一次歐洲大戰が終末を告げた年、印ち大正七年のことで、その時分はまだ日本の近代文學のことなど餘 り彼の國の文壇には知られてゐなかったらしく、私は何等さう云ふ方面の人達と交渉を持っ機會もなく歸 って來たが、それより七八年を經て第二囘目に上海に渡った時は、既に武者小路氏や菊池寬氏の作品など の飜譯があると云ふ時代になってゐたので、内山氏は一タ特に私のために内山書店の樓上に席を設けて、 在滬の文藝家達と顏つなぎの宴を催してくれたのである。その時集った人々の中で後年一番有名になった のは郭沫若氏であるが、私と最も親密な關係を結んだのは第一に田漢氏、第二に歐陽予倩氏である。田氏 は湖南の人で、風貌が甚だ日本人に近く、何處やら佐藤春夫に似た面影があって、支那入と云ふ感じがし ない。前にも云ふ通り氏はその當時獨身生活の気樂な境涯にあったし、それに恐らくこれと云ふ仕事もし てゐなかったらしいので、殆ど毎日暇つぶしに私の宿へ遊びに來、そして必ず何處かへ私を引っ張り出す か、私の方から氏を誘ひ出すかしたものだが、たま / ( \ 私の來滬時代に氏がさう云ふ境涯にあったことは、 私のためには此の上もなく好都合であった。なぜと云って、約一箇月に亙る滯在期間を通じ、終始氏が行 動を共にしてくれたお蔭で、私は最も有能な、且最も安心な通辯兼案内人を雇ったと同じ結果になったか ーびんしゃん のらである。當時の私の宿は、現在もあるかどうか、一品香と云ふ支那人の經營するホテルであったが、 氏 は寢坊の私の起床する時刻を心得てしまって、よくその時分にやって來た。そして或る時はまだ明るい午 449