の隨筆が集められてゐて、著者の博識を窺ふに足るが、私達には矢張日本關係のことが一番興味を惹く。 たゞ、著者はこれだけの日本通であるから、定めし日本に對する不平や注文等もあるべく、われ / \ 民族 の短所についても皮肉な觀察を下してゐること、察せられるのに、褒め言葉ばかり聞かされて惡ロの方を きたん 一向聞かして貰へないのは殘念である。尤も前述の如き著者の人柄であってみれば、忌憚なき批評を希望 するのは此方が無理であるかも知れない。それとも又、飜譯者たる松枝氏の心づかひが加はってゐて適當 に材料を取捨してあるのかも知れない 〇 林語堂氏のものは近年相當我が國に紹介され、中には幾通りもの飜譯書が出來てゐるものもあるらしいが、 此の人は專ら米英人を相手に、英文を以て著作してゐるのであるから、或は支那文學とは云へないかも知 れない。が、その創作に於いても隨筆に於いても常に支那を語ってゐることは事實であり、米英人の前で 幾分故意に支那人振らうとする様子が見えないでもないが、その半面には東洋の美點を彼等に説教してゐ る功も認めなければなるまい。尚又、新聞で見ると最近は少し怪しくなったらし、 が、此の人は蒋介石の たいせき 陣營に馳せ參じて専ら重慶政權の宜傳役を買ってをり、周作人氏とは對蹠的地位にある人としてわれ / \ の注意を惹く。私は日本文に飜譯された氏の著作には大概一通りは眼を通したつもりであるが、中で最も 感興を覺えたのは何と云ってもその創作北京の日 (Moment in Peking) である。私の讀んだのは今日の 問題社發行の鶴田知也氏譯のもので、上下兩卷を通じて九百三十三頁 ( 譯者の言葉に依れば原稿用紙で一一 480
支那の知名な人達との交際のことを書いたついでに、彼の國の現代作家の著作について聊か自分の思ふと ころを記すことにしよう。と云っても私は、さう云ふものをそんなに澤山は讀んでゐない。なぜなら私の 貧弱なる漢學のカでは支那現代のロ語で書かれた文章を讀みこなすことは不可能事に屬するので、是非と も飜譯に賴らなければならないのであるが、前にもちょっと書いたやうに、 從來は歐米物が全盛で、支那 の現代物の飜譯は至って寥々たるものであった。雜誌改造が支那號を出して彼の國の創作を紹介したこと くはだて は既に述べたが、 それも一時の試みに終ってしまったのを見ると、多分あの當時はさう云ふ企が時機尚早 だったのであらう。魯迅氏の阿 02 正傳が譯されたのはいつであったか、あれなどは比較的早い方であるカ それも實はロマンロ 1 ランがあれの佛語譯だかを讀んで推奬したと云ふことが知れて、われ / \ の注意を 呼んだからであった。近年俄に世界的になった林語堂なども、專らアメリカの讀者脣を相手に英文を以て 發表したからで、あれが支那の内地にゐて支那人を相手に書いてゐたのだったら、今程有名にはならなか ったに違ひなく、われ / \ も 。、ールバックのものは讀んでも彼の存在は見過してしまったかも知れない。 近頃はいくらか事情が變って來、われ / \ 東洋の同胞は歐米人の仲介を經ず直接に手を握り合ふべきだと 云ふことが分って來て、ぼっ / \ その要求に應ずるやうな飜譯書が現れて來てはゐるけれども、少くとも 近代文學に關する限り、まだわれ / 、、はお互に十分には理解も影響もし合ふやうになってゐない。矢張最 ナ初に歐米人が讀んで褒めたもの、方を信用すると云ふ傾向が、いまだに本當には脱けてゐない。今日の讀 の書階級の大部分を占めてゐる小説好きの夫人令嬢たちも、佛蘭西物と云へば飛びつくけれども、支那の現 代物に對しては甚だ冷淡である。これは一つには面白い面白くないの問題よりも、今迄に馴染がうすいと 461
ためのものならば西洋の新しい手法を用びると云ふこともあるが、歐米人に讀ませるためのものだとすれ ば、却って支那の傳統的手法に依った方が意義がある譯である。尚又、これは本來英文で書かれてゐるの だと云ふことも忘れてはならない。印ちこれを原文で讀んだならば、舊い支那の手法を以て英語の小説を 書いたところに必ず一種の新味があるに違ひなく、恐らく日本文で讀む程には紅樓夢的臭気を感じないで あらう。鶴田氏の譯文は流麗で、漢文臭いものではないが、何と云っても日本文には漢字が多く使はれる のであるから、支那文程ではないとしても、矢張漢字の魅惑から逃れ出ることが出來ず、そのために一層 内容が紅樓夢や金瓶梅に近いやうに見えるのであらう。從って、郁達夫氏の支那語譯と云ふものを讀んだ ら、尚更此の感を深くするのではあるまいか。以上、林語堂氏のものに限らず、胡適氏のものにしても、 豊子愷氏、周作人氏のものにしても、いったいに支那の現代文學の作品は、勿論多かれ少かれ西洋の影響 を受けてはゐるが、日本の明治末期より昭和初年度に亙る乍ロロこヒ イロ。上べると、多分に東洋的色彩が濃いやう に感ぜられる。日本の或る時期に於ける自然主義、藝術至上主義、耽美派、新感覺派等々の運動と云ふや うなものを、支那は經驗してゐないのではないかとも思はれる。もし果してさうだとすれば、こ、らあた りにも支那の大國性がある譯で、それは彼の國の強味であると同時に弱味でもある 文藝春秋七月號及び八月號に寄せたきのふけふの拙文は思ひの外諸方の反響を喚び、舊知の方や未知の方 々から、私の記憶違ひについての御注意や感想など、いろイ、の手紙を戴いたのを感謝してゐるが、左に 484
日支双方共同じ東洋の兄弟の國の文學よりも西洋の文學の方に餘計気を取られてゐたので、紹介や飜譯を するに當っても、さう云ふ遠い國々のもの、方を先にした。これは必ずしもわれイ、の過誤とは云へない かも知れない。 確に西洋はわれ / \ の先進國であるから、われ / \ に多く學ぶべきものを提供するに違ひ ない。しかし正直に云って、西洋文學はどうしてもわれ / \ にピッタリ來ないものがあるのだ。私は近頃、 自分とほゞ年齡を同じうする支那の現代作家のものを幾つか讀んでみて、何と云ってもお隣の國の文學は なじみ 古くからのお馴染であるせゐか、親しみもあり、分りもよく、ほんたうに自分の身につくやうな気がし、 なぜかう云ふものがもっと早く飜譯されてゐなかったかと、不思議に感じた次第であるが、此のことは作 品について云へるばかりでなく、人間についても云へると思ふ。私は西洋の文人とは交際したことがない わざはひ けれども、附き合ってみても、肌の色の違ひと云ふことがいろ / 、の方面に調して恐らくシックリ行かな いのではあるまいか。そこへ行くと隣國の人達は、生活の程度、物の考へ方等、大體われ / \ と同じであ るから容易に理解し合ふことが出來はしまいか。私が相識った彼の國の人達の中には、さまみ \ な思想傾 向の人々が交ってゐたことであらうけれども、人間的には皆親しみを持っことが出來るやうな気がする。 それはお互にいろ / \ 違ったところはあっても、要するに同じ血が通ふ兄弟だからである。そして、今こ そ餘儀なく交際を絶ってはゐるが、將來又もとの親密さに戻れるやうに思はれる 歐陽氏の安否はよく分らないけれども、郭沫若氏と田漢氏の行動は全く分らないと云ふ譯ではない。就中 458
ことは初耳で、左様な由緖のある品とは知らなかった。それからあの五言詩の作者唐林氏が、嘗て外交部 次長を動めた唐有壬氏その人であることも、今日始めて聞く次第で、さうなるとあの一軸にも一脣の價値 4 が生じた譯である。次に七月廿七日附岡成志氏の書簡の一節に日く、「私は先年胡適先生に上海でお目に か、り胡適文存二册と寫眞とを貰ひました通譯に支那語のうまい新聞聯合の龜谷君をつれて行ったため龜 谷君と胡先生との會話に多くの時間をとられましたが小生は不充分な英語で胡先生から源氏物語を英譯で 讀んで感心したことだの支那の白話詩はまだ形だけでほんとうの詩人による白話詩はまだ出ないことだの を聽く事が出來ましたおっとりした上品な學徒でお説の通り今日のやうな重慶政府の使節又は代表者とし てアメリカと折衝する人ではないと思ひますもちろん人柄も學問も林語堂などの比ではないと思ひます林 語堂は支那の知性文化を語るだけの資格がありません云々」又七月廿八日附吉川幸次郎氏の書簡の一節に 日く、「支那のものがあまりはやりませぬのは尊文に御指摘になったやうな諸理由のほかに一體に支那の もののもっ冷靜さ申しかへれば人間の希望を説くよりも人間の運命を説きたがる點が今の世の嗜好に適し かねる爲かとも存じますが又果して然らばもう少しはやらす必要がなほさらあると愚考しますが云々」此 の吉川氏の所謂「支那のもののもっ冷靜さ」は、私の云ふ支那小説の物靜かさ、悠久な感じ、なるものに 一脈相通ずるのではないかと思ふが如何 嘗て私は。ハ 1 ルバックの大地の批評を書いた時に、あれをアメリカで映畫にすると云ふ風説があるが、あ
讀書の中にはまだ此の外にも必ず共通なものが幾種類かあったこと、思はれる 綠綠堂隨筆の著者である豊子愷と云ふ人の名は、從來殆ど我が國に聞えてゐない。私も此の書を手にした 時が初耳であった。此の隨筆も同じ叢書中の一册であって、譯者は矢張吉川氏であるが、氏は「譯者の言 葉」の中で、「著者豐子愷氏を、私は現代支那における最も藝術家らしい藝術家だと思ふ。それは氏が多 たくみ 才多藝であって、ピアノをひき、漫畫を描き、隨筆にエだからではない。私は著者のいかにも藝術家らし い眞率さを、萬物に對する豐かな愛を、更にまたその気品を、気骨を、愛するからである。現代において 陶淵明的な、また王維的な人格を捜すならば、まづ著者であらう。がさつな、まやかしものの多い海派ー 上海派の文人の中で、著者の姿は、鷄群の一鶴のやうな氣がする」と云ってゐる。此の著者の經歴に ついては吉川氏も「多くを知らぬ」と云ってゐるが、杭州灣に近い浙江石門灣の生れであること、染物屋 の忰であること、嘗て東京に留學し、歸國後上海で音樂の敎師をしてゐたことがあること、今では故鄕石 門灣に隱栖してゐること、近頃は佛門に歸依して精進を食ってゐること、著書には隨筆集が四册と、音樂 理論、繪畫理論に關するものが數册あること、等が知られてゐる。なほ又吉川氏の「譯者の言葉」の中に は甚だ注意すべき一節がある。日く、「支那の現代文學のうち、最も見るべきものは隨筆である。小説、 戯曲は、隨筆に比していちじるしく劣る。これは支那文學の歴史と思ひ合せて、極めて興味ある事柄であ る。過去の支那文學において、散文文學の正統と考へられ、從ってまた最も發達したのは、隨筆である。 470
った年であった。先づ第一には、私の今迄にした仕事のうちで最も長い勞作であるところの、源氏物語の 現代語譯の第一稿が、漸く九月の上旬になって脱稿を見るに至ったこと、 顧れば私が桐壷の卷の飜 4 譯に筆をつけ始めたのが昭和十年の九月であったから、以來滿三年の日子を費して、兎も角も最初の原稿 一通り夢浮橋の卷まで出揃ったと云ふ譯なのである。もちろん山田博士の校閲を仰いで此れから第二 稿の作成にか、るのであって見れば、まだ本當の完成は二三年先になる筈ではあったけれども、若い時か らの遲筆に加へて近頃ます / \ 根が續かないやうになり、びそかに望洋の歎を感じつ、あった私として、 無事に此處まで漕ぎ着け得たといふことは、何だかとても叶ひさうもないことが叶ひか、って來たやうな、 夢のやうな嬉しさであった。松女は、私が手習の卷にか、ってゐた八月の中旬に、子をつれて一足先に 東京へ立って行ったと云ふのは、もうすぐ私の脱稿することが眼に見えてゐたし、脱稿すればその原稿を 携へて私も印日にも上京する手筈になってゐたからである。松女の姉になる人が夫の轉任で東京に移り住 むやうになったことは前に書いたが、 その姉の家と云ふのは松女の實家で、姉が家附の娘、夫が養子と云 ふ關係であったから、松女は姉が東京へ移轉してからは、よい泊り場所が出來たので、しば / ( 、上京する ゃうにはなってゐたけれども、たしかその時は子が子供には珍しい紳經衰弱症に罹ったので、專門の醫 師に診てもらふと云ふ用事があったのだと記憶する。それで、松女と、子と 、小間使のお春と云ふ女と、 三人が立って行ったあとの家の中が急に靜かになったのと、仕事がいよノ ( 、最後の目標に近づいて來たの とで、私もいつもよりはや、能率を上げて、八月の末日を以て首尾よく手習の卷を終り、月が變ると夢浮 橋の卷に這入ったが、これは原稿用紙で二三十枚の非常に短い卷であるから、おそくも九月十日以前に脱 につし
女はなほも泣き續けながら、恨みの言葉をとめどもなく繰り返した。そして、暫くたって少し気分が落ち 着いた時分に、又改めて涙を湛へて、こんなに苦しいものであるなら最初にそのやうに云って置いてくれ たら覺悟のしゃうもあったものを、お産よりは樂であるとか、ほんの少し痛いだけであるとか云ふので、 臺に上って、突然あ 齒の手術を受けるぐらゐのこと、考へて 何でもないことのやうに思って んな目に遇ったので、餘計びつくりさせられたと、さもくやしいらしく云ふのが、ちゃうど大入に欺され た子供のくやしがりゃうによく似てゐた。彼女は人の顏さへ見れば思ひ出してくやしくなるらしく、夕刻 妹の子が見舞ひに來た時にも、欺された、お産よりは苦しいと云ふことを執拗に云った。それに又、腑 に落ちないことは、既に原因が除去されたのであるから、悪阻の不快感も印座になくなる譯であるし、實 際そのやうに聞かされてもゐたのに、依然として嘔き莱も止まらないし、腹の突っ張るやうな感覺も直ら ないのであった。尤も明日の手術が濟む迄はまだ胎内に芽を摘まれたものが宿ってゐる譯であるし、それ を導き出すための裝置が施されたま、になってゐるので、そのせゐであらうかとも考へられたが、その 「明日」と云ふものがまだ殘ってゐることを思ふと、彼女はと胸を衝かれる気がした。今日のことは、な るほど不意打ではあったし、欺された形ではあるけれども、これですっかり濟んでしまって明日がないの いノ ( \ してゐる時分で であるならば、不意打の方が却って氣が樂であったかも知れないし、今頃はもうせ あるのに、今日のは豫備の手嘗に過ぎないで、明日こそほんたうの手術だと云ふのである。注射が二日っ ゞきますと衰弱なさるものですから今日はしなかったのでございますが、明日は注射をいたしますから、 : と 0 氏や老 ずっとお樂でございますよ、 : もう今日でお辛いことはおしまひでございますよ、 430
笑ひをした。 「今此處通りか、ったのんで、聲かけてみましたんや。」 「さうだっか。」 と そして塚本は、自分の眼の前に自轉車を停めて突っ立ってゐる人間になんか、構ってゐられないと云はん くら忙しいにしたところで ばかりに、直ぐ下を向いて作業を績けたが、庄造の身になってみれば、い 「近頃どうしてゐるか」とか、「リ、 1 のことはあきらめたか」とか、そのくらゐな挨拶はしてくれてもよ さ、うなものだのに、心外な氣がしてならなかった。それと云ふのが、疆子の前ではリ、 1 戀ひしさを一 リ、 1 の「リ」の字も口に出さないでゐるものだから、それだけ千萬無量の思ひが 生懸命に押し隱して、 胸に鬱積してゐる譯で、今らずも塚本に出遭ってみると、やれノ \ 此の男に少しは切ない心の中を聞い 塚本としても て貰はう、さうしたら幾らか気が睛れるだらうと、すっかり當て込んでゐたのであったが、 せめて慰めの言葉ぐらゐ、でなければ無沙汰の詑びぐらゐ、云はなければならない筈なのである。なぜか と云って、抑もリ、 1 を品子の方へ渡す時に、その後どう云ふ待遇を受けつ、あるか、ときる \ 塚本が庄 ん 造の代りに見舞ひに行って、樣子を見屆けて、報告をすると云ふ堅い約東があったのである。勿論それは を 人二人の間だけの申し合はせで、おりんや子には絶對秘密になってゐたのだが、しかしさう云ふ條件があ ったからこそ大事な猫を渡してやったのに、あれきり一度もその約東を實行してくれたことがなく、うま と / 、、人をベテンにかけて、知らん顏をしてゐるのであった。 猫 そらとぼ だが、塚本は、室愡けてゐる譯ではなくて、日頃の商賣の忙しさに取り紛れてしまったのであらうか。こ 343
いや、これ迄にも内々で知らして來たことはござりますが、よもや左様なことはと存じて、お耳へ人れず に置きました次第、されども斯くなりました上は、、 よノ ( \ 様子を探るやう申し付けるでござりませうと、 さう申し上げてその場を治めて置き申した。憚りながら、御一命をお助けしたと云ふのは決して某の過言 ではない、今申すやうな譯でござるが、しかし御邊は、實以て何も御存じないのでござるかと、息を凝ら し、膝を詰め寄せてのお話に、兵部殿は返す言葉もなく、暫く呆然としてをられましたが、 全く以て、存 とざまもの こ携はる暇 じもよらぬことを承る、何を中すも近頃は外様者のやうなお扱ひを受け、左様なことの御相談し はござりませねど、それを知らずに過したとあっては如何にも罪は免れられぬ、お上のお憎しみはお道理 でござる、此のお詑びにはこれから精々気を附けて御注進に及びませうと、お答へなされましたとやら。 治部殿はそれをお聞きなされて、一日一兵部殿を河内へお歸しなされましたが、堤の普請は餘人を以ても動 まるであらう、聚樂の方は殿下の御成を前にして手落ちがあってはならぬから、用意萬端、兵部が指圖を するやうにと、上意を傳へられまして、改めて都へお呼び寄せになったのでござりました。さう云ふ譯で 兵部殿は再びお城へ召し出だされ、それから後は毎日のやうに、今日はかう云ふことがござりました、今 日もこれ / \ でござりましたと、下らぬことを仔細ありげに取り立て、は、治部殿の許へ知らせてやる。 治部殿は又御前へ出て、兵部が斯う申して參りました、もはや隱れはござりませぬなど、、言上なされた のでござります」 書順慶は娘と乳母を前に置いて、 聞 「まあ、もう少し、 : もう少し聞いて下さりませ」 まぬか 225