順慶 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第14巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第14巻

時實在したことは他の文獻にも記載がある。その頃、順慶の小屋のあった場所、即ち三條河原には「秀次 惡逆塚文祿四年七月十四日」と刻した一箇の石塔が立ってゐたが、順慶はその側に草庵を結び、あさゆふ 秀次が一族の菩提を弔うてゐた者だと云ふ。右の石塔の下には豐臣秀次の首、及びその子女や妻妾等の遺 骸が葬られてゐたのであって、それは文祿四年の秋、秀次の遺族たち數十人が首を刎ねられた地點であっ すゐせんしえんぎ た。京都瑞泉寺縁起に依れば、順慶の歿後、此の石塔は洪水のために崩れてしまひ、跡を訪ふ者もなかっ たのを、慶長十六年角倉了以が高瀬川を開くに當ってその荒廢せるを哀れみ、新たに塚を營んで石塔の 「惡逆」の二字を削った。且角倉氏は誓願寺の中興教山上人を請じて導師とし、死者に各法號を授けて無 じゅら・、だい 縁塔に刻し、大佛殿建築の殘材、聚樂第の建物を譲り受けて一寺を創建し、幕府の許可を得て慈周山瑞泉 寺と號した。今の瑞泉寺が印ちその舊跡であって、往昔は加茂の河原がそんなにひろがってゐたのである。 ところで、順慶が何故に秀次一族の墓守となったかはこれから後に説くであらうが、「聞書」に依れば彼 は肓人であったのである。 當時、世間では惡逆塚のことを俗に「畜生塚」と呼んでゐたが、此の行者のことを「畜生塚の順慶」と稱 して、三條邊では誰知らぬ者もなかったのであった。順慶はよく、十四五になる小坊主に手引きをさせて かちきたう 京の町をさまよひ歩き、或は人家の軒に立って經を讀み、或は奥へ請ぜられて加持祈疇をし、日々僅かな 布施を得て糊口を凌いでゐたらしかったが、どうかすると、こんなエ合にたった一人で河原や橋のあたり へ來てうろついてゐたり、欄干にもたれながら見えない眼を伏せて水の流れを眺めたりしてゐた。さうし てそんな場合には、通行人が覺えず足をとゞめる程の聲で、ぶつ / \ ひとりごとを云ふ癖があった。行者 ふせ こう すみくられうい 182

2. 谷崎潤一郎全集 第14巻

白さは、二十ほどにしか見えぬくらゐでござりました」 と、さう云って、眼瞼の中にある幻を追ひかけるやうな風情をする。 此の話の中にある御臺様と云ふのは、關白秀次の正室であった一の臺の局のことで、後の法號は德法院誓 威大妨、瑞泉寺所藏の畫像には行年三十餘とあるが、太閤記に記す三十四歳が本當だとすれば、順慶の藪 はるすゑ 原瞼校が始めて伺候した頃には三十二歳だったであらう。父は太政大臣實兼十一世の孫菊亭右大臣睛季で、 今の菊亭侯爵家の祖先に當り、その邸が今出川にあるので「今出川殿」と號した。ところで、順慶も次に 語ってゐるやうに、 此の夫人には連れ子が一人あったのであるから、秀次に嫁したのが初婚でなかったこ とは明かである。連れ子は女の子で、おみや御前と云ひ、二年の後に河原で首を刎ねられた時が十三歳で あった。蓋し行者順慶が彼の草庵を訪れる娘の髪を撫でながらとき \ 物を考へ込んだり、涙をおとした りしたと云ふのは、ちゃうど年頃が似かよってゐたおみや御前の面影を追想した、めであったことが、後 になってから思ひ合はされるのであるが、それにしても此のおみや御前の父、一の臺の局の前の夫は何者 であったか。石田軍記には「父は尾張の何某」とあり、織田信長の旗下の士であったとか云ふが、察する ところ、右大臣など、云っても當時の公卿は大した財力も權力もあったわけではないから、身分の低い田 舍武士などに娘を遣はしたのかも知れない。 さうしてそれがたま / く、後家になってゐたか、或は無理じひ に夫婦の仲を割かれたかして、秀次に迎へられたのかも知れない。萬一さう云ふことであるなら、雲上の 書出であるからと云ってさまで別人あっかひをするには當らないが、しかし嵯峨の尼は、順慶が此の一の臺 の局のことを云ひ出す時にはいつも面上に一種の感激が溢れてゐたのを見たと云ふ。事實順慶は、三十人 はたち しこう あふ ふぜい 207

3. 谷崎潤一郎全集 第14巻

ら、順慶の住居もつまりさう云ふ乞食小屋の一種であったのに違ひあるまい。順慶はそこに小僧と二人で 住んでゐたのだが、娘と乳母が訪ねて行くと平素の暗い顏をや、明るくして、 「けふもお參りをして下されましたか、御奇特なことでござります」 と云ったり、 「御苦勞さまでござります、忝いことでござります」 と、我がことのやうに禮を云った。 娘の記憶するところに依れば、順慶はよく彼女を膝の上に抱き寄せ、その髪の毛や兩頬のあたりを愛撫し ひいさま ながら、「お可愛らしいお姫様ぢや」とか、「ようくり / ( 、とお肥えになっていらっしゃいますな」とか云 ったりしたが、娘はさう云ふ風にされるのが薄気味が惡かった。可愛がってくれるのは有難いけれども、 垢だらけな衣を着けた行者の體には嗅ぎ馴れない異臭があったし、その上行者は、皮の厚いざら / 、した てのひら 掌で、髪の毛を掻き分けたり顏を撫でたりするのである。さうして、何か物を云ってくれるときはまだ よいけれども、どうかすると長い間默って撫で廻してゐるのである。めくらであるからさう云ふ風にしな ければ娘の愛らしさが呑み込めないのも尤もであるが、事に依るとめくらであることを幸ひに、柔かい髪 や肌の感觸をひそかに樂しんでゐたのかも知れない。だがさうとばかりも思へないのは、そんな場合に何 かしら別なことを考へながら遠い所へ心を馳せてゐるやうな様子が見えて、とき / 0 、ぼたりと、肓ひた眼 から涙を落すことがあった。一度娘は、 「あれ」 194

4. 谷崎潤一郎全集 第14巻

その七 順慶の心理を知るためには、彼が自ら眼球を破って眞の肓人となるに至ったいきさつを明かにせねばなら ない。彼は云ふ、自分は舊主三成の意を迎へて罪なき關白を無理にも「謀叛人」にしてしまふべきか、舊 主の心に逆らっても關白を庇ひ、引いては御臺親子の幸輻を計るべきかと迷ひ拔いた末、前者を選ぶこと おもんばか は何としても自分の良心が承知せず、さればとて舊主を裏切っては武士の一分がすたれることを慮って、 ひっきゃう 、〉孰方 ~ も義理が立つやうに失明の手段を取ったのであると。畢竟、眼が見えるために夫人 ~ の同情がいよ 書 / \ 強くなり、舊主へ義理を缺いてもと云ふ心が湧くのであるから、眼を潰すのが己れを守る最良の手段 聞 である、眼さへ見えねば、 あの二人の婦入の姿さへ瞳に映らなくなれば、度を過ぎた同情も自らう の伸びて行く可憐な娘のみめかたちを、さも嬉しさうに眺めてゐることがあったと云ふ。が、人前でこそ 愼んでゐるもの、、絶對に人の眼に觸れぬ場所では親子がひしと抱き合って泣きくらす日もあったであら う。されば順慶は、自分の如き數ならぬ者にさう云ふ秘密が洩らされたことはなかったけれども、お側に 仕へてゐると、何となく親子の間に感傷的なもの、あるのが窺はれ、表面は朗かなやうであっても、一種 云ひやうのない陰鬱な気分を覺えた、さうして御臺の無心らしい微笑みや長閑かな笑ひごゑの底にも、じ っと感情を押し殺してゐる跡が見え、心の苦しみが推察されたと云ってゐる。しかし、それはそれとして、 順慶が此の不仕合はせな親子に對して感じてゐたものは、果して彼の釋明する如く、純粹な同情に過ぎな かったであらうか。 235

5. 谷崎潤一郎全集 第14巻

の夫人、秀次の正室であった一の臺の局の不幸が、やがて順慶の不幸の因となったことを思へば、これこ そ此の物語中の主要な部分であるべきだけれども、而も「聞書」はその肝腎な事實について餘り多くを語 2 ってゐない。 と云ふのは、誰よりもその間の消息に通じてゐる筈の順慶自身が、何故かそれに觸れること しき を避けるやうにしてゐるのである。彼は頻りに一の臺の局の不遇と逆境とを口にする。しかしながらそれ あいまい は大概抽象的な説明に止まってゐて、具體的な事柄になると、努めて曖味な云ひ方をしてゐるやうに見え 私はこ、で讀者諸君の注意を喚起したいのであるが、此の一の臺の局には「おみや御前」と云ふ連れ子が あって、既に ( その四 ) に於いて述べた如く、此の子は後に母と諸共河原の露と消えたのである。ところ で、順慶はそのことをはっきり語らうとしないけれども、彼がとき \ 洩らしてゐる御臺様の不仕合はせ なるものは、彼女とその連れ子、印ち母北の方とおみや御前との間に存する或る不自然な事情を指してゐ るのであらう。右について聚樂物語卷之下「若君並三十餘入の女房達洛中 ' 渡さる、附最後の事」の條の 一節に云ふ、 十七番はおみや御前云々、是は一の臺殿の御娘なりしを聞召し及び、わりなく仰せられて、召迎へ給ひ きこしめ しとなり、されば此由太閤相國聞食し、あるまじき事の振舞かな ( 中略 ) とて、愈よ御憤り深く思召し おんさま ければ、様々に賴りて、御様變へ、命計りをと申させ給へども、御許なきとぞ聞えし 又石田軍記「秀次公之君達被」誅事附卅餘人嬪妾の事」に云ふ、 きんたち つけたり ならびに つけたり

6. 谷崎潤一郎全集 第14巻

に些少の庇護や作爲が加へられたらうけれども、しかし親子の間柄が案外うるはしかったであらうことは、 ほゞ想像出來なくはない。なぜかと云ふに、恐らく當時のお宮御前はたゞ身を人形のやうにしてゐたに過 ぎなかったであらうから、母親としてさう云ふ我が兒にひとしほ不便を覺えこそすれ、何しに憎しみを感 じようぞ。否、娘の上に降りか、った傷ましい運命は、却って一層二人を結び着けたであらうと思へるの である。 少女と雖も一つの局をあてがはれて、母親とは別の伏戸に寢起きしてゐたと考へられるが、實際は殆ど母 の部屋で暮してゐる日が多かったと見え、 いつも順慶が御機嫌伺ひに行くときは、親子が一つ御簾のうち に仲好く寄り添うてゐたのであった。さうして朝夕の食事はもとより、折に觸れてのさま、、な遊戯や催 しなども、必ず樂しみを共にしてゐた。察するところ、三十人もの嬖妾が互にアラ捜しをし合ってゐる奧 うしろゅび 御殿のことであるから、親子は人に後指をさ、れないやうに、殊更睦じい様子を見せもしたのであらう。 又母親としては、己れの孤獨を悲しむよりも我が兒の不運を憫み、少しでも彼女に自責の念を起させたり、 肩身の狹い思ひをさせたりしないやうに、寧ろ娘を慰める側へ廻ったのであらう。親子の間がしつくり行 ってゐることについては、いろノ ( 、の場合にいちらしい情景を見せられてゐる順慶であるが、分けても娘 が關白の御前へ祗候するために常よりは濃い化粧をして身じまひをと、のヘる時、母親が示す細やかな注 意と、行き屆いた親切とには、ほと / \ 感激したのであった。順慶に取って御臺と云ふ人が訷のやうな存 在に見えたのは、實にさう云ふ時であって、どうかすると、彼女は一つ鏡の中に我が兄と顏を並べながら、 くしけづ 手づから髪を梳ってやり、襟や袖口を揃へてやり、立たせてみたり、坐らせてみたりして、日增しに背丈 ふびん 234

7. 谷崎潤一郎全集 第14巻

の方が行ひは、旁よ以て不審に存ずる、斯程の道理を辨へぬ其方とも思はなんだが、と、苦々しさうに仰 っしやりますのを伺ひまして、背中より冷汗を流しまして、たヾもう恐れ入ったのでござりました。それ にしましても治部殿は、愚僧の苦しい中譯がその場限りの出まかせであることを、觀破なされたのであら うかと考へましたら、疊にひれ伏してをりながら、殿の鏡いお眼の光に射拔かれてゐるやうに感ぜられ、 體が竦んでしまひまして、 いっかな頭を擧げることも、物を云ふことも出來ませなんだ。すると重ねて、 ざま その方の如き態になって、武士の扱ひを受けようなど、は笑止の至り、左様な者に大事な役目を云ひ付け たのは某が不覺であった、思へば憎き奴なれども、手討ちにするさへ汚れであるから、永の暇を取らせる ぞ、とくノ ( \ 此處を出て失せよと仰っしやって、そのま、奥へお這人りになったのでござりました」 三成が順慶の一命を許してやったのは、何故であったらうか。今や秀次は謀叛入として高野山に送られ、 彼の畫策は大半成功したのであるから、もはや順慶の怠慢を咎める必要もなかったのであらうが、恐らく 下妻左衞門尉の過去の功績を商量し、殺すほどの罪でもないと考へて、放逐したのであらうか。 舊主に對する順慶が心持の變化を辿ってみると、大几そ三つの時期を割して推移したことが察せられる。 その第一は舊主の成敗を仰ぐべく三成の邸を訪ねて行った時であって、まだそれまでは、一の臺の局に同 してゐたと云っても、一方に武士の矜りを捨て、ゐなかったと云へる。第二は、舊主から、水の暇を賜は って、全くの座頭となり下った時である。此の時代の彼は既に武士ではなくなって、思びは日夜かの不仕 ざんき 合はせな上﨟母子の身の上に馳せながら、なほ内心に何故とも知れざる自責の念と慚愧の情とが往來して しゝがき ゐた。さて第三は、秀次の公達や妻妾共が三條河原で斬られた日、鹿垣の外でその有様を窺ひ、国鼻叫喚 じゃうらふ あびけうくわん 258

8. 谷崎潤一郎全集 第14巻

そ賤しい男が斯くも貴いお方のお側へ侍りはすれ、さもなかったら許される筈のものではないのだと気が つきましたら、自然と頭が下る道理でござります。それと申すのも、矢張それだけの品位がおありなされ たからでござりませうが、何より當惑いたしましたのは、だん / \ お相手をしてをりますうちに、此のお 方が行くすゑ長く御無事にお過し遊ばすやうにと、一途にさう祈る心のみが強くなって來ることでござり ました」 順慶はこ、で、 「あ、、もし」 と云って、何をうろたへたか二人の聞き手を抑へるやうに手を擧げながら、 「もし、 : ついふつ、かな言葉づかひをいたしましたが、假にも愚僧としたことが、武士たる者の嗜 みを忘れてみめよきお方の御器量に迷ひ、本心を失うた、など、申すのではござりませぬから、思ひちが ひをして下さりますな。あのお方はやんごとないお生れ、たとひどのやうにお美しういらっしゃいました とて、愚僧に何のか、はりがござりませうぞ。なれども宿世の因縁と申しませうか、始めてお目通りを許 ったな されました日から、拙い藝が不思議に御意に叶ひまして、たび / \ 召されますうちに、不仕合はせなお身 の上のことがだん / \ 分って參りますにつれて、不便と申し上げましては勿體なうござりますけれども、 あ、、 いかなる金殿玉樓の奧にも人の憂ひはあるものよと、心ひそかにおいとほしう存じてゐたのでござ 書りました」 聞 蓋し此 扨、今、順慶の言葉の中にある「不仕合はせなお身の上のことーとは何を意味するのであらうか。 ふびん けだ 231

9. 谷崎潤一郎全集 第14巻

おみや 十七番は於宮の前なり云々、太閤深く嫉み思はる、、とかや。最後の體、おとなしやかに念佛して、 秋といへばまだ色ならぬ裏葉まで 誘ひ行くらん死出のやまみち 又太閤記に載ってゐる辭世の和歌には、 うきはたヾ親子の別れと聞きしかど 同じ道にし行くぞうれしき とある。 思ふに當時悪逆塚のことを世人が畜生塚と呼んだのは、かう云ふ事實が民間に知れ渡ってゐたからであら いろど うか。殺生關白が殘虐の血を以て彩られた罪惡史のうちでも、分けて此の一事が太閤の嫉妬と憤激を買っ たと云ふのも道理であって、謀叛よりは寧ろ此の種の行爲が、その減亡を早める結果となったのかも知れ ない。それにしても彼の享樂の犧牲となった気の毒な親子は、互に如何なる感情を以て相對し、どう云ふ 風なその日 / \ を送りつ、あったか。尤も順慶は格別の事があったやうには語ってゐないのであって、御 臺樣はと云ふと、「いつも奥御殿にたれこめてのみおくらしなされましたので、とかく御気分の沈みがち な時が多かったやうでござりました」と云ひ、その淋しさを幾分でも忘れて、紛れてゐたのは、「お宮御 前と申すお方がいらしったからでござります」と云ふ。のみならず、「親一人子一人のたよりない方々で 抄 書ござりましたから、たがひに片時もお離れなさらず、何かにつけて慰め合うていらっしゃいました」とさ 聞 へ云ってゐる。蓋し順慶は此の二人を何處までも美しい親子として後世に傳へたかったに違ひなく、そこ そね 233

10. 谷崎潤一郎全集 第14巻

すらぐであらうし、さうすることが、 - 舊主に對する謝罪の意味にもなるのであると、彼はさう云ふ判斷の 下に決然たる行動を取ったのであった。 その兩眼を抉った時期は、はっきり語ってゐないけれども、多分三成の邸へ呼ばれて怠慢の咎めを蒙った 時、印ち文祿三年の秋を去ること餘り遠くない同じ年の冬か、四年の春頃であったらう。拙著「春琴抄」 の佐助は盲人になるために針を瞳孔に突き刺してよく目的を達したが、順慶は戦國の武士であるからもっ あられうち と野蠻な荒療治を行った。印ち豫め病と稱して宿に引き退り、小柄を以て眼球の組織を破壞した後、その 傷痕の癒えるのを待って始めて出仕したと云ふ。が、彼を前から肓人であると信じ切ってゐた城中の人々 は、誰もそのことに氣が付かなかった。にせのめくらが俄かに本當のめくらになり、急に勘が惡くなった ら、人の疑ひを招きさうなものだけれども、幸ひなことに城中に於いては、起っにも坐るにも常に手引き が教導をする慣例になってゐた、めに、大した失策を演ずることもなしに濟んだ。斯くて順慶は、見たと ころでは從來と何の變化もなく、一箇の藪原勾當として自らも振舞ひ、人からも遇されてゐた譯であり、 その限りに於いて彼の計畫は豫期の成果を收めたのであったが、一方彼は必然に起って來るであらう自己 の心中の推移について、大きな誤算をしたのであった。と云ふのは、視覺さへ失ったら精訷的の煩悶が減 って、ほっと重荷をおろした感じがするであらうと思ってゐたのが、反對の結果になった。彼が失明した 目的の一つは、「夫人を見ないため」であったが、少くとも此の點に於いてアテが外れた。見まいと心が けたものが、前よりもよく見える。その上、一脣悪いことには、それを肉眼で見てゐた間は、「見る」と 云ふことに良心の制裁が伴ってゐたのに、心の眼を以て見るやうになってからは、何等の拘東がないので こづか はづ とが 236