世 師直侍從殿、あれは、あれは。 侍從あれ。あれと仰っしゃいますのは。 師直あれ、あれでござる。 侍從あれでは分りませぬ。何のことか仰っしやって下さりませ。 師直今某が見たあれでござる。あのお姿は、よもや狐の仕業では。 、え い、え、あれこそ紛れもない顏世の前でござります。 侍從 師直あ、、あれが人間。あれが顏世殿。 侍從もし、お気を確かに 師直顏世殿、顏世殿、顏世殿。 侍從もし、まあ、お情ない、高武藏守さまともあらうお方が。しつかりなされませ、しつかり。 師直あゝ、死、死なして下され。此處で死んだら本望でござる。 侍從どうなされました、もし。しつかり、しつかりなされませ。 師直顏世殿、顏世殿。せめて今生の思ひ出に、今一度お姿を拜ませて下され。 、え い、え、それではお約束が違ひます。一と眼見たらあきらめる、決してそれ以上は望まぬ 侍從 と仰っしやったでは、 師直顏世殿、顏世殿、顏世殿。 侍從今となってそのやうなことを。武士に二言はない筈ではござりませぬか。
顏世が湯から上ったらしく、女童が亂れ筥を置いて跪き、二人の腰元と三人が、りで、湯帷子を脱がせたり月ネ 裲襠を着せてゐるのが、戸口に隱見するけれども、顏世の姿は觀客には殆んど分らない。たヾ、袂に手を通すのや、 丈なす黒髮の波打つのや、長く曳いた裾などがちらと戸口に見え、さやさやと衣擦れの音がして、湯気が一脣豐かに 舞ひ昇る。 師直と侍從とは、板敷につくばって息を凝らし、戸の中を覗いてゐる。二人の位置からは顏世の姿態が見えるので ある。師直は全く恍惚となって、陶醉状態に陷ってゐる。月の光が下手裏庭の方から舞臺一杯に、斜めにさして來 る。 や、長い間。衣ずれの音。立ちのばる湯気。女童と腰元が彼方へ動き、此方へ動きする影。 やがて、女童が燈火を持って先に立っと、顏世が二入の腰元を從へ、しづしづと戸口の内側を上手へ通り過ぎ、ホの 帷の向うに再び現はれて、そのま、上手奥へ這入って行く。ゆるやかな衣ずれの音が徐々に遠ざかり、聞えなくなる。 同時にホ及びリの内部は眞っ暗になってしまふ。顏世の歩み方がゆっくりしてゐるので、此の間の時間は割りに長い しかし此の場合も、顏世が戸口を下手から上手へ通り過ぎる時、すべらかしの髪の毛や花やかな衣裳が見える程度で、 顏だちなどは見物席に分らない方がよい。たヾ湯上りの艶冶な匂ひが、それとなく感ぜられゝば足りる。 顏世が通り過ぎてしまふと、師直は魂が拔けたやうに板敷に打っ俯したきり身動きもしない。 侍從もし、御前、もし。 と、整をかける。師直依然として返辭もせず、顏も上げない。 侍從もし、どうなされました、もし。 と云ひつつ、手をかけて搖す振る。師直死んだやうになって搖す振られてゐる。 侍從もし、お熱でもお出になったのではござりませぬか。もし。 師直あゝ ゆかたびら 4
山名伊豆守時氏、同右衞門佐師氏、下手より馬に乘って出る。 時氏桃井殿、 師氏大平殿、 時氏鹽冶判官高貞、並びに舍弟六郎が首、我等が手にて討ち取り中した。 桃井さてさて、あつばれなるお働き、お羨ましうござる。 大平御武運めでたき山名殿、祝着至極に存じ中すが、それに引き換 ~ 、我等は面目がござらぬわい 時氏ふむ、さては顏世の前には、 桃井御覽の通りの仕儀でござる。 山名父子、馬より下りて綠へ上る。 時氏 ( 母子の屍骸を打ち眺めて愁然たる様子 ) 是非なき次第とは申しながら、此のやうないたいけな者共まで、 不便なことをしてしまうたわ。 ( 云びながら、ふと顏世の死顏に見入り、その前に立ち止まって恍惚となる ) 成る程な う、此れが顏世の前でござったか。 てぎりつ 師氏 ( 同じく死顏の前に彳立して ) いかさま、執事殿の御執着もお道理ぢゃ。 桃井それにつけても、此のお人を死なしては、何と言譯を申さうやら。 大平われらが不首尾、御推量下されい と、兩人再び萎れ返る。 時氏いや / \ 、そのお歎きはさることながら、ても気の毒なは鹽冶判官。役目の表さ ~ 相濟めば、死な
初 乞うてゐる頃に出たのは、寫眞が小さ過ぎるのと全身像であるのとで顏がはっきり分らないのが殘念であ 、見たところ未亡人らしい地味な洋裝をした一人の佛蘭西の老婦人で、日本入らしい俤はとゞめて ゐないやうに思へた。が、靖國丸がだん / \ 日本へ近づいて來た頃、殆ど顏だけを引き伸ばした寫眞が思 ひきり大きく出たのを見ると、頭髪には古風なボンネットが載ってをり、高い襟の附いた上衣が細い頸を 締めつけてゐて、いかにも洋裝はしてゐるけれども、嬉しゃ容貌は紛れもない我々の同胞、 日本人 のお婆さんなのであった。而もその眼鼻だちには一と眼で分る京女の特長が、今も歴然と殘ってゐるでは ないか。いや、京女も京女、その顏だちは誰の眼にも、脂粉の香のなまめかしい祇園か島原育ちの人のそ れであることは否みやうもなかった。當時彼女は五十八歳と云ふことであったから、定めし頭髮には霜を 置いてゐたでもあらうが、寫眞ではそんなことまで分りゃうはなく、流石にまだ何處やらに爭へない色香 をとゞめてゐたので、私はその、昔を偲ばせるすゞしい眼元や可憐な口元の線な・どを、さう云ってもなっ かしく、亡くなった母の寫眞などに對するやうな情緖を以て見守ったりした。事實その顏には京女の特色 が出てゐると同時に、私の母とか伯母とか云ふ人の顏にあるものと共通なもの、 明治時代の女の匂 が濃く漂ってゐるのであったが、恐らく若きモルガンの心を惹き着けたのも、此の人形のやうな、近代味 の全くない靜寂な顏の美しさだったのであらう。私はその純粹に日本的な婦人の顏を眺めてゐるうちに、 三十五年ぶりで歸って來る彼女の喜びがほんたうに分るやうな莱がし、しまひには自分が彼女になったや うな気さへして來た。そして、毎朝云ひ知れぬ期待を以て新聞紙をひろげ、もう今日は何處まで來たか、 明日は何處へ着くであらうか、如何なる身寄の者が迎へに出るか、折角迎へに出ても彼女はその人達と日 おもかけ 405
師直顏世殿、顏世殿、顏世殿。 ようござります、此處へ御前を置き去りにして參りますぞえ。 侍從えゝ、仕様のない、 師直そ、それは殺生、殺生でござる。 侍從私こそ、こんな難儀な目に遭うたことはござりませぬ。 師直殺生でござる、殺生でござる。 侍從え、、もうもう私は、係り合ひになってはをられませぬ。 ( 自分だけ立ちかける ) 御前、よろしうござ りますか、もはやお暇を戴きますぞえ。 師直あのやうな所を拜ませて置いて、殺生でござる、殺生でござる。 侍從 ( 二三歩上手 ~ 行きかけたが、師直が動かないので、又戻って來る ) え、、困った、どうなさるのでござります。 師直侍、侍從殿、一生のお願ひでござる、顏世殿へ此の胸の中を。 侍從何と仰っしやります。 師直此の胸の中を、傳へて下され。なう侍從殿、お願ひでござる。 師直の様子には、狂言をしてゐるらしい狡猾さうなところもあるが、案外一生懸命に思ひつめてもゐるやうに見える。 侍從は呆れて溜息をつきながら見守ってゐる。 師直あのやうなお方が世にあらうとは、生れて始めて。たった今、此の眼で見るまで存じも寄らぬ。侍、 侍從殿、とてものことに媒をして下され。 ( 間。侍從は溜息をつくばかり ) 御不承知とあらば、某は此處を一 すん 寸も退かぬ。 ( 侍從、泣きさうな顏をして、特別に大きな溜息をつく ) 聽き屆けて下さらば、きっと、きっと、御
訴 ~ るやうな眼つきで女房を見ますと、女房の方も心配で溜らなかったらしく、さっきから私の顏色を横 眼でチラチラ窺ってをりましたが、偶然眼と眼が合ひました途端に、 「ちょっと、それ一體何なんでせう。」 と、とうとうロを切ったのであります。 「うむ」 と云って、私は唾吐をゴクリと一つ呑み込みましたが、頤の塊がそれと一緖にもくもく動くのでありまし 「ねえ、何なんでせう。をかしいちゃありませんか。」 女房は私の禪經を脅やかさぬゃうに注意に注意致しまして、いくらか笑顏を作りながら云ふのでございま すけれども、内心甚だ無気味に感じてをりますことは明かなのであります。ところで私も此の時ばかりは 「何だか己にも分らんのだがね」 と、ほっとしながら云ひますと、 「でもほんたうに變だわねえ」 と、娘がぶっと吹き出しました。 「笑ひ事ちゃあないわ、全く」 と、自分で笑って置きながら、今度はひどく眞顏になって、 「餘計なことを云ふな、馬鹿ツ」と叱り飛ばす勇気もなく、却って女房の一言で急に重荷を卸した形で、 こ 0 おろ
が年に幾度か訪れてさへ、その度毎に何となく生れ故鄕へ歸ったやうな親しみを感じる土地であるから、 まして彼女は、春霞に打ち煙る東山や、八坂淸水の塔や、鴨の流れ等をどんな持で眺めたであらうか。 私は又その晩も、骨肉の人々と積る話に夜を更かしてゐるであらう彼女の姿を思ひやった。私の眼にはあ の京女の寫眞の顏がはっきり見え、その顏を取り卷く兄や姉や嫂たちの顏までも見えるやうな気がした。 それにしても、彼女がさしあたり身を寄せた宿は旅館などではなくて、床屋をしてゐる兄の家ではなかっ まちなか たであらうか。私は勝手にさう云ふ風に想像し、京の町中のとある理髮店の、六疊ぐらゐのさ、やかな奥 たんらん の間に、家族が膝をつき合せてしんみりと春の一夜を語りつヾけてゐるであらう團欒の光景を胸に描いた。 だが、何とあの冩眞の京女の顏が、さう云ふ佗びしい日本間の雰圍気に調和したであらうことよ。恐らく あの靜寂な顏は、南佛のモルガン別邸の豪華な一室にあるよりも、何脣倍か所を得てゐたに相違あるまい そして、その唇から、遠慮がちに、しめやかに、少しづ、、おづ / \ と繰り出されるであらう日本語。定 めし三十年前の祇園の廓一一「ロ葉が、ところみ、、に生きて殘ってゐるであらう京訛りの日本語。 私はそ の夜眠に就きながら、寢室の闇に耳を澄まして一心にその聲を聽かうと努めたりしたが、明ければ廿六日、 大毎の朝刊に、「疊の上の夢圓か、故鄕第一夜のお雪さん」と見出しが出たのを見て、思はず肩の荷が下 あんど りたやうにほっとして、心から彼女のために喜び、まあよかったと、安堵の胸を撫でおろした。新聞の傳 へるところに依れば、彼女自身はかう云ふ風に自分の一擧一動が世間の好奇心の的になり、行く先々で新 聞記者に付け狙はれるのを不快に感じてゐたさうであるが、しかしお雪よ、安心するがよい、内地の人々 はさういっ迄もそなたを苦しめはしないであらう。これを最後に世間はやがてそなたのことなんか忘れて 408
顏世 少女お父様いなう。 てゝ いくさ 高貞お、、父は戦をして參る。只今も申し聞かせた通り、見苦しい振舞びを致すなよ。よいか。覺悟は 阻來てゐるであらうな。 少女と童と、涙を怺へつ、頷く 高貞さ、賢い子達ぢや、そこを放せ。 ( と、靜かに手を拂ひ除ける ) お母様の傍へ參ってをれ。 少女も、童も、侍女達も、皆泣き伏してしまひ、一度に歔欷の聲が起る。 郎黨共が乘馬を縁先へ引いて來る。 むやく 宗村殿、とてもかくても勝てぬ戦に、無益でござる。名もなき者に討たれ給ふより、此の所にて、御臺、 公達と、ゆるゆる御生害を。 高貞 、や、元弘の昔より敵に後れを取りしことなき鹽冶高貞、眼前に弟を討たせながら、妻子共に心 を惹かれて最期を急いだと云はれては、末代迄の耻辱ちゃ。 ( と、綠より馬に打ち跨がる ) 山城。 宗村はゝつ、 高貞顏世のことはそちに賴む、必ず不覺を取らすまいぞ。 宗村シカと心得てをり申す。 高貞 ( 馬上ながら振り返り、顏世の方へまで聞えるやうに ) さらばちゃ。 云ひ捨て、ゝ、下手松林の方へ馬を馳せ去る。 八幡我等もお供仕る。 つまこ 0 ノ
世 その男の名が知りたくば、顏世に聞いても分ることぢやが、わしは聞かうとは思はぬぞ。さ、早う赦し てやれ。 六郎ぢやと申して、此の儘には。 高貞え、、赦してやれと申すに。 ( 近習に向ひ ) その方共、その女を彼方へ連れて參れ。 近習二人長まりました。 高貞よく勞はって取らせるのだぞ。 近習二人は、つ、 侍從、痛む節々を怺へながら、高貞に目禮をし、二人に附き添はれてすごすごと下手へ退場する。 高貞 ( 侍從の後姿を見送りながら ) 可哀さうに、あの女も愚かな奴ぢゃ。 ( 浮かぬ顏をして溜息をつき、手にある文殻 を足元へ投げる ) 六郎、それを燒き捨て、くれい 六郎仕儀に依っては斬って捨てようと存じたが、さてさて命冥加な奴。 不平さうに、澁々文を拾ひ上げて懷ろに入れる。 高貞、上手の席へ來て坐る。六郎、宗村、八幡三郎、下手に居並んで長まる。 高貞時に山城、申し付けておいた歸國の用意は、整うたかの。 宗村仰せに從ひ、支度を急がせてをり申すが、して、いっ頃お立ちなされるのぢゃ。 高貞支度が出來たら、明日にでも打っ立たう。 六郎 ( 心配さうに顏を上げる ) 何、明日にでも。 -0
世 が殖え、鹽冶方の兵を或は斬り伏せ、或は下手奥へ追ひ込む。遂に雜兵の一が縁へ駈け上り、正面の簾を引きちぎ る。 室内、疊を積み重ねて一段高くした上に、顏世が白い裝東を着け、右手に懷劍を握った儘、打っ俯しになってゐる。 此の劇を通じて、此の時始めて彼女の姿が舞臺に現はれるのであるが、既に冷めたき屍骸になり、横向きに、上手を 向いて俯した顏は黑髮に蔽はれてゐる。その顏とさしむかひの所に經机を据ゑて、彼女の持佛十一面觀世音の厨子が 安置してある。二人の公達は彼女より下手に、別に疊を積み重ねて、その上に骸を並べてゐる。それより更に下手に、 宗村が切腹して死んでゐる。 雜兵の一やや、 ( と叫んで、覺えず縁に立ち竦み ) し、しまったことを致したわい。 と、齒みしながら、やがて其處へしづかに坐し、その場の光景に打たれた如くうなだれてしまふ。他の雜兵共も皆 それに倣ひ、縁先の地上に手をつかへる。 短き間。合戦の物音止む。 桃井播磨守、大平出雲守、上手より近習等を從へて出て來る。 雜兵の一 ( 縁より下りて桃井の前に長まる ) 殿、顏世の前には既に御生害でござります。 桃井何と申すぞ。 驚いて大平と眼を見合はせ、ツカッカと縁へ上る。大平も績いて上り、屍骸の様子をしみみ、と眺める。 桃井見事な最期ぢゃ。 大平 ( 打ちしをれて ) さりながら、執事殿のおん歎き、いかばかりでござらうやら。 桃井屹度生け捕り致すやうにと、堅き仰せを受けて參った我等、難儀なことになり申したわい。 屍骸の上手、裾の方に、近習が兩人の床儿を据ゑる。兩人それに腰かけて、失望と困惑の溜息をつく。